1 クレアド国
その信じられない報せがもたらされたのは、何の変哲もない昼下がりのことだった。
朝か昼に、もしくはそのどちらもに、エドワルドがローゼリア国の緑の塔に入ってくるのはいつものことだったが、テレビ画面に映った彼の顔は、珍しく難しい表情をしていた。
アデルと同じ琥珀色の瞳を険しくして、何かに怒っているような顔をしている。
その隣にはアルベールも映っていたが、まだエドワルドから何も聞かされていないのか困惑した表情を浮かべていた。
テレビ前のソファに座ったアデルの前にティーカップを置いて、シャーリーが彼女の隣に座ったところで、エドワルドが艶やかで少し硬そうな黒髪をガシガシとかきながら口を開いた。
「近く、クレアド国が戦争を起こすそうです」
「なんだって!?」
アデルが声を裏返した。
前世でも今世でも平和な世の中で生きていたシャーリーは、戦争という聞きなれない単語に息を吞む。
アルベールが、空色の瞳を驚いたように見開いて彼へと向けた。
「その情報は確かなのか?」
まっすぐな銀髪をしきりに撫でつけながら、声だけは冷静にアデルが確認する。
ローゼリア国を含め各国には、他国の動向を探るための諜報員が存在し、日々王や宰相たちに報告をあげているらしいのだが、戦争準備という国にとってはトップシークレットである情報は、いかに訓練された諜報員と言えど、そう簡単に仕入れられないそうだ。
つまり、その機密情報は、いったいどこからもたらされたのか。そしてその情報の確度はどの程度なのか。アデルはそれが知りたいようである。
(クレアド国ってあれよね。ブロリア国と国境を背にしている東南部の国……)
地理に詳しくないシャーリーでも、ローゼリア国の近隣諸国ならば何となく位置関係がわかる。
ローゼリア国とブロリア国の国境にあるバドローナ湖のすぐ真下に位置する国だ。
クレアド国がどんな国なのかは知らないが、ローゼリア国と友好国ではなかったのは確かである。ローゼリア国やブロリア国が加盟している八か国同盟にも入っていない。
(戦争って、いったいどこの国と戦争しようとしているの……?)
国境は重なっていないが、クレアド国はローゼリア国とも近い。クレアド国が本当に戦争を起こした場合、巻き込まれたりしないのだろうか。
(お父様とかお兄様が戦争に駆り出されたりしないよね……?)
大切な人たちが巻き込まれたらどうしようと、シャーリーは膝の上で両手を握り締めた。
「情報筋は確かです。その情報をもたらしたのは、クレアド国の王女ですからね。昨日の昼に、一人でうちに来たんです」
「王女だって?」
アデルが驚くのも無理はない。王女と言えば、国のことを一番に考えなければならない存在だ。その王女が重要機密事項を他国に売り渡すとは、シャーリーでもにわかに信じられなかった。
「それはあれか? 脅しなのか? 戦争を起こされたくなければ要求を飲め的な……」
「その可能性も皆無とは言わないが、そうなれば王女が単身で来るメリットは何もないだろう。捕虜にすれば、こちらだって交渉材料ができるわけだからな」
アルベールがすかさずアデルの推理を否定した。
「クレアド国は軍事国家だ。ここ最近は戦争を起こしていなかったが、それでも軍事力には絶大な自信を持っている。それを使って脅すなら、私ならもっと効率的な手を取るよ」
アルベールによると、クレアド国の軍事力は近隣諸国で群を抜いているらしい。
「つまり、罠と考えるべき……ということですか?」
「それはまだなんとも。エドワルド殿、クレアド国の王女の様子はどうだったんですか?」
「ぼろぼろだった」
「……え?」
(ぼろぼろ? 王女が?)
シャーリーは耳を疑った。
「どういうことですか? ぼろぼろって、そのままの意味ですか?」
「ああ。着ているものもくたびれていて、本人も今にも倒れそうな状態だった。本当に、単身でローゼリアまで来たんだ。父上も判断に困っている様子ではあったが、俺には彼女が噓をついているようには見えなかった」
「その王女の名は?」
「サリタです。サリタ・ダニエラ・クレアド。サリタは、姉上を頼ってうちに来たようです。姉上はいないというと、ひどく狼狽えていました」
「サリタ……。ああ! わかった。ルビーのような綺麗な赤い瞳をした王女だろう? クレアド国に外交に行ったときに会ったことがあるよ。なんというか、人懐っこい小動物みたいな王女だった」
「なるほど、姉上が知っていると言うことはやはり王女は本物で間違いなさそうですね」
「実際顔を見ないと判断はつかないけど……。で、サリタ王女はわたしに会いに来たって?」
「そうです。……サリタ王女がローゼリア城に来たのは昨日の昼。衛兵が、身分を証明するクレアド国の王家の紋章を持って訪ねてきた娘がいると連絡をよこしたんです」

昨日の昼下がり、エドワルドはシャーリーからもらったクッキーをぽりぽり食べながら、自室の窓を伝って垂れ下がっている緑の蔦を見下ろした。
最初は一本だった緑の蔦は、いつの間にか枝分かれして、横にも伸びはじめている。
その成長速度に、エドワルドはさすがにちょっと不安を覚えはじめていた。このままだったら城の壁一面に緑の蔦が
(……このまま城の壁一面が蔦に覆われたら、さすがに外観的にまずいよなあ)
蔦の侵食があまりひどいようなら、城の庭のどこかに小さな離宮でも建てて、エドワルドは蔦ごとそちらに引っ越した方が賢明かもしれない。
そんなことを考えながら、もぐもぐとクッキーを食べていると、シャーリーにもらった包みの中身がすっかりからっぽになってしまった。
(明日にでも新しいものを頼んでおこう)
名残惜しそうに包みの中を確かめてからゴミ箱に捨てて、エドワルドはベルでメイドを呼んで紅茶を頼む。
あと三十分もすれば帝王学の授業の時間だ。
リアムが生死不明の状況である今、エドワルドは王になるための勉強もしなければならない。王位継承権が上位なので、もともと多少はかじってはいたが、リアムが学んだことはその比ではないらしい。
(俺は王には向かないんだが……早く戻ってこないかな、兄上)
エドワルドはリアムが死んだとは露ほどにも思っていない。リアムは有能な人だから、どんな難しい局面でも必ず活路を見出しているはずで、絶対に戻ってくると信じている。
とはいえ、いくらそんな主張をしたところで、リアムの生死がわからない以上、万が一を考えて準備をするしかないのも事実だ。新しく追加された勉強に、アデルが持っていた分の政務も乗っかって、エドワルドはかつてないほどに多忙だった。シャーリーのお菓子というご褒美がなければ、今頃イライラして誰かに当たり散らしたくなっていたかもしれない。
(まさか塔の中に閉じ込められているアルベール殿下を羨ましいと思う日が来るとはな……)
塔に入ることは王族の義務であるが、同時にエドワルドにとってあそこは忌むべき場所だった。
義務とはいえ、誰が好き好んで一人ぼっちで塔の中に閉じ込められることを望むだろう。
いつかあの中に入らなければならないのだと思うとずっと憂鬱だったし、ローゼリア国の塔を見るたびに、塔に閉じ込められているアルベール王子を可哀そうに思ったものだった。
それなのに、今やあの中にいるアルベールが羨ましくて仕方がない。
シャーリーといつでも話ができて、毎日シャーリーの作ったご飯が食べられて、塔の中もすっかり快適に改造されている。まるで天国だ。羨ましい。
(あのゲームとかいうのも面白かったしな。……姉上じゃなくて俺がシャーリーと一緒に塔に入ればよかった)
塔の中に二人きり。まるで新婚生活のようだ。悪くない。
メイドが紅茶を用意して去ると、エドワルドはソファに腰かけて、紅茶に角砂糖を一つ入れた。銀のスプーンでかき混ぜて、砂糖が溶けきったところで口をつける。
そして、わずかに眉を寄せた。
(まずくはないが……何か違う)
紅茶なんて、よほどへたくそでなければ誰が入れても同じような味になるはずなのに、シャーリーが入れた紅茶の方が何倍も美味しい気がした。
(会いたいときに会いに行ける距離感が懐かしいな……。俺は思っていた以上にシャーリーが好きらしい)
エドワルドがシャーリーに求婚したのは半ば思い付きと勢いだった。シャーリーの作る料理が食べたくて、彼女と一緒に生活するのは楽しそうだなと思っただけだった。
それなのに、今のエドワルドは、すぐ近くにシャーリーがいないのが淋しくて仕方がない。
まだ少し熱い紅茶をぐいっと飲み干して、エドワルドは雑念を払うように首を横に振った。
教師が来る前に、教科書として使っている本を用意しておかなければならない。
あの老人は偏屈で口うるさいから、教材が準備されていないだけで「やる気がない」だの「嘆かわしい」だの騒ぎ立てて面倒くさいのだ。
(父上にも教鞭をとったと言うが、いい加減耄碌してくる年だろう。ほかに人材はいないのか)
本棚から数冊の分厚い本を抜き取って、机の上に積み上げる。
そして老人の言うところの「やる気」を見せるために椅子に座って待っていたのだが──約束の時間になっても、教師のラッセル老は一向に姿を見せなかった。
(なんだ? とうとうぽっくり逝ったか?)
エドワルドは失礼なことを考えつつ席を立つ。
様子を見に行こうと廊下に出て、それから首を傾げる。なんだかいつもより騒がしい気がする。
「何かあったのか?」
扉の前で警護にあたっている衛兵に確認したけれど、彼も知らないらしい。
(気になるな)
わからないなら確認しに行けばいいだけだと声のする方へ進んで行くと、前方から息せき切って走って来る中年男を見つけて足を止める。
エドワルドの護衛官のデイブだった。エドワルドの勉強時間は、彼は休憩をとっているはずだがどうしたのだろう。
「そんなに急いでどうしたんだ?」
目の前で止まったデイブに訊ねると、彼は昔より少し後退した額の汗をぬぐいながら言った。
「大変です。し、至急陛下がいらっしゃるようにと」
「は?」
至急の呼び出しとは、いったい何事だろう。
(子供のころと違って悪戯なんてしてないぞ? 呼び出される心当たりはないんだが……)
緑の蔦の一件でもないはずだ。あれは定期的に報告しろと言われているので、国王に報告書をあげている。
緑の塔に出入りすることも、父王から許可を得ていた。
勉強もサボっていないし、国宝の皿とか壺とかを割った覚えはない。政務も真面目にやっているつもりだ。
(……あれか? 父上に黙って新しい仔馬を買った件? いやあれは事後報告だがきちんと購入報告書をあげたし……)
仔馬の件では勝手に動物を増やすなと、すでに怒られたあとだ。
兵士たちが管理している厩舎と王族専用の厩舎は異なるため、世話係は別に雇っている。そこへエドワルドが次々に馬を増やしていくから、馬に限らず動物全般の購入禁止の命令が出されていたのだが、どうしてもほしい馬を見つけて一頭増やしたのだ。あれはめちゃくちゃ怒られた。
なんだろうなと何度も首を傾げながら、エドワルドはデイブにラッセル老が来たら国王に呼び出されたと伝えておけと言って、父の執務室へ向かう。
「父上、入りますよ」
やや乱暴に扉を叩いて、返事もまだなのにエドワルドは扉を開けた。
勝手にずかずか入ってきたエドワルドを見て、国王はあきれ顔を浮かべたが、特に怒られることもなく、座りなさいとソファを指さされる。
エドワルドが座ると、国王も執務机から立ち上がって、彼の対面に座った。
「で、急用って?」
「クレアド国の王女を名乗る女性が来た」
「…………。……は?」
エドワルドの目が点になった。
「だから、クレアド国の王女を名乗る女性が来たのだ」
王はエドワルドが理解できていないと思ったのか再度同じことをくり返す。
同じことを二回言われて、エドワルドは眉間をもんだ。聞き間違いではなかったらしい。
「ええっと……なんで?」
クレアド国は八か国同盟にも入っていない、友好関係にない国だ。そこから王女が来た? いったい何の用で。いや、そもそも一国の王女が前触れもなく突然他国に押しかけてくるものだろうか。あり得ない。
「そんなこと、私が知るか」
国王も投げやりだ。
「ちなみにその王女は今どこに?」
「二階の空き部屋に寝かせている」
「寝かせている?」
また変なことを言われたと、エドワルドは眉をひそめた。
「私もよく知らんが、衛兵に身分証を見せたあとで倒れたんだそうだ」
「倒れた!?」
「報告によると、何と言えばいいか……その、ぼろぼろだったらしい」
「ぼろぼろ?」
「服も髪も、とにかく汚れていて、顔色も悪かったそうだ」
「……王女が?」
「そうだ」
なるほど、だから「王女を名乗る女性」と言ったのか。国王もまだその女性がクレアド国の王女であると信じ切れていないのだ。
(確かにこれは『至急』だな)
エドワルドは想定外の事態にこめかみをもんだ。
仮に、やってきた女性が本当にクレアド国の王女ならば、どうしてぼろぼろの格好をしていたのか。どうして前触れもなく単身でここへやって来たのか。
少なくとも、ただ事でないのは理解できる。
「クレアド国の情勢って、あんまり情報がないですよね」
「そうだな。最近の情報でわかっていることは、先般、国王が崩御されたことくらいか」
「あれでしょう? 第一王子が謀反を起こして
「うむ」
親を殺すとか、どういう神経をしているのかエドワルドにはさっぱりわからない。
そして親を殺した息子が平然と王位につくとか理解に苦しむ。
そう思うのは、ローゼリア国が平和な国だからだろうか。
「で、どうするんですか、その王女」
「それなんだがな。さすがに事情を聞かずに追い返すわけにもいかないだろう。かといって、クレアド国の王女をいつまでもこの国に滞在させていては、あちらからどんな言いがかりをつけられるかわかったものじゃない」
「一歩間違えると開戦ですね」
「やめろ、縁起でもない」
ローゼリア国も自国の防衛機能として軍を持っているが、クレアド国の軍事力はその比ではない。
血なまぐさい争いを好む人間の多いクレアド国民は、物心つけばペンより先に剣を握ると揶揄されるほどに好戦的だ。戦争を仕掛けられればひとたまりもない。
(うちだけじゃ、勝てないだろうなあ)
同盟国が味方してくれれば別だろうが、それでも甚大な被害が出るだろう。まったく、厄介な国から厄介なものが来たものだ。
「とりあえず、判断材料が何もないので、王女から話を聞いてみるしかないですね」
「ああ。頼む」
「頼む?」
「お前が聞いた方が、年も近いし、怯えさせないだろう」
(丸投げかよ!?)
エドワルドを呼び出した理由はそれらしい。
エドワルドはじろりと父を睨みつけたが、父はそんなことではちっとも怯まなかった。
「これで、仔馬のお咎めはなかったことにしてやる」
「まだ根に持っていたのか!」
エドワルドはあきれたが、あまり逆らって緑の塔への出入りを禁止されてはたまらない。
(父上め、覚えていろよ!)
いつか何かしらの弱みを握って仕返ししてやる、とエドワルドは内心で毒づきながら、国王の執務室をあとにしたのだった。
(しかし、よりにもよってクレアド国か……)
王女を名乗る女が寝かされている二階の部屋に様子を見に行ったがまだ目を覚ましていなかったので、エドワルドはいったん自室に帰ることにした。
ベッドで眠っている彼女の顔をちらりと見たが、なるほど、確かに薄汚れていたし、何より疲労の色が濃くて叩き起こすのは可哀そうだったからだ。
城の典医が診察を終えていたが、栄養失調による衰弱と、疲労の蓄積だと診断を下している。
(王女が栄養失調で衰弱ってどうなんだ?)
エドワルドは二人ほどメイドを呼びつけて、彼女が目を覚ましたら食事と湯を使わせるように指示を出した。彼女が食事を取って落ち着いたらエドワルドに報せをよこせとも告げている。
眠っているので彼女の目の色はわからなかったが、髪は収穫前の麦の穂のような色をしていた。薄汚れてはいたが肌も白い。浅黒い肌をした人間が多いクレアド国で、彼女の白い肌は少々異質に思えたが、逆を言えば、偽物を用意するなら「それらしい」人間にするだろう。わざわざ疑われる外見の女を準備するのは得策ではない。
(……本物、か?)
彼女が持っていたと言う王家の紋章も確認したが、本物のようだった。それどころか──
(俺も詳しくはないが……、あれは先王の指輪じゃないのか?)
クレアド国は王家の紋とは別に、王にも紋がある。即位したときにそれぞれが好きな紋を作るのだそうだ。それを、王家の紋とあわせて持ち物に刻印する。
国交があまりないクレアド国の紋なので自信はないが、先王の紋ならば諜報員がまとめた資料に載っていたのを見たことがあった。
(クレアド国の遣いならば、普通は弑逆された先王ではなく現王の紋を持ってくるはずだろう?)
嫌な予感しかしない。
「あのじじい、何か知らないかな」
エドワルドの帝王学の教鞭をとっているラッセル老は、父の教師でもあった。今でも父のよき相談役で、それゆえか国内外のことに妙に詳しい。宰相の血縁者で、五十を超えている宰相を「小坊主」と言ってやり込めるほど博識だ。
エドワルドは歩く速度を速めると、自室の扉を開けた。
部屋の中には、約束の時間に来なかったくせに、飄々とした顔で茶を飲んでいるじじい──ラッセル老の姿がある。
ラッセル老はエドワルドの顔を見るとにこりと笑った。外見は好々爺然としているが騙されてはいけない。この老人は偏屈で面倒くさいくそじじいだ。
「ずいぶん遅かったですな。時間がございませんぞ。さあさあ、机につきなされ」
遅刻してきた分際で、呼び出されて不在にしていたエドワルドをなじりやがる。エドワルドは舌打ちしそうになってやめた。ラッセル老は年寄りのくせにものすごく耳がいいのだ。
「悪いが、ちょっと勉強どころじゃないんだ」
エドワルドがそう言って机ではなくソファに座ると、ラッセル老の白くて眉尻の毛の長い眉毛が跳ね上がった。説教前の仕草だとわかっているエドワルドは、くどくどとしつこいラッセル老の説教がはじまるまえに先手を打つ。
「厄介な客人が来たんだ」
「ほほぅ、お客人ですか?」
ラッセル老の気を引くことに成功したらしい。ラッセル老はさっさと続きを話せとばかりに、わずかにも曲がっていない背筋をピンと伸ばした。
「ああ。何でも、クレアド国の王女らしい」
「なんと! それは確かに厄介ですな。それで、王女らしい、と言うのは?」
「本人がそう言ったのもあるが王家の紋章を持っていた。だが、その……着ていたものがずいぶんくたびれていて、顔も薄汚れて、どこからどう見ても王女には見えない。供も一人もいなかったし、疑うのが当然だろう?」
「ふむ」
「でも、俺の記憶違いでなければ、持って来た王家の紋章──紋章の入った指輪だったんだが、それはそう簡単に手に入るものではないと思うんだ。あれが本物なら、かなりの確率で面倒ごとだろうから、できれば偽物であってほしいと思うのだが」
「どんな紋章でした?」
「先王の紋だと思う。……例の、つい最近弑逆された王の」
ラッセル老が髭を撫でるのをピタリと止めた。
「なるほど。それは、厄介以外の何物でもございませんな」
「だろう? 父上からは王女が目を覚ましたら事情を聞き出せと言われているんだが、俺にはいったい何が起こっているのかわからなすぎて、彼女を信じていいのかも判断がつかない」
「そうですなあ……。わしの勘ですと、その王女は十中八九本物じゃと思いますぞ」
ラッセル老は白い髭を撫でながら言った。
「どうしてそう思うんだ?」
「弑逆された先王の紋など、持っていても何ら得がないからじゃよ。そんなものを持っておっても、謀反を疑われるだけじゃ。そして供を一人もつけず、くたびれた格好でここまで来たと言うことは、逃げてきたかそれに近い状況……クレアド国で何かあったと見るのがよいですな」
「何かってなんだ」
「それは本人の口から聞きなされ。しかし、あれですな。クレアド国では王の紋は、王が死んだ後すべて墓に収められるのが習わしのはず。すると、先王が生前にその指輪を王女に渡していたということになる。ふむ……もしかしたらその王女は、第三王女かもしれませんな」
「どうしてわかる?」
「クレアド国の先王は、一人だけ溺愛している娘がいたという噂を聞いたことがありましてな。身分の低い愛妾の産んだ娘で、その愛妾が生きていたころは、片時も離したがらないほどに執着していたとか。愛妾が死んだのちも、忘れ形見である第三王女をそれはそれは可愛がっていたと。その第三王女ならば、先王が生前、自分の紋の入った指輪を渡していても不思議はないでしょうな」
エドワルドは情報の少ないクレアド国のことをよくそこまで知っているものだなと感心した。
「何年か前にアデル様がクレアド国に招待されたことがありましたが、その時に第三王女と会っているはずですぞ。アデル様がいらっしゃったら顔で判断がついたかもしれませんな」
(そう言えば、そんなこともあったな)
招待状が届いた時、指定された日程には国王夫妻はすでに公務の予定が入っていた。リアムはブロリア国の塔に入っていたし、エドワルドは成人したばかりだったため、アデルが行くことになったのだ。
アデルに確認しようにもアデルはブロリア国の塔の中にいる。第三王女が魔力持ちであればローゼリア国の塔に入れてテレビ電話で確認をとることはできるだろうが、そのためにはシャーリーの魔力によって異質と化した塔の中を見せることになる。地下の魔法陣についても当面は秘密にしておくと言う国王の方針なので使うことはできない。打つ手がない。
「……やはり、目を覚まして話を聞いてから判断するしかないか」
「そうでしょうな。さて、お喋りはもういいですかな? 勉強の時間ですぞ」
エドワルドの頭の中は勉強どころではないと言うのに、ラッセル老は容赦なくエドワルドを急き立てる。
(……集中できそうにないんだが)
案の定、エドワルドはそののち四回も、集中していないとラッセル老から怒られる羽目になった。
クレアド国の王女が目を覚ましたとの知らせを受けたのは、ラッセル老の授業が終わって小一時間ほどたった、夕方のことだった。
エドワルドが王女のもとに向かえば、風呂を浴びてさっぱりした王女は、痩せて疲れ果ててはいたが、その表情は凜としていて、王女と言われても納得できる雰囲気だった。
収穫前の麦の色をした髪に、ルビーのような赤い瞳。肌は荒れてはいるが、汚れを落としさっぱりしたからか、先ほどよりもぼろぼろ感が幾分かましだった。
(こうしてみると王女に見えるな)
若干気弱そうに見えるけれど、人から世話をされることには慣れているようだ。
エドワルドが部屋に行くと、王女はベッドの上で上体を起こした姿で、ぺこりと頭を下げる。
エドワルドは部屋の中にいたメイドたちを下がらせると、ベッドの横の椅子に腰を下ろした。
「エドワルド・ステフ・ローゼリアだ」
名前に国名が入ることから、王女はすぐにエドワルドが王子だと気づいたらしい。
彼女は少しふらつきながら姿勢を正した。
「サリタ・ダニエラ・クレアドです。クレアド国の第三王女でした」
「でした?」
「……兄が王になってから、身分が剝奪されましたので」
「剝奪!?」
王の代替わりでかつての王女の身分が剝奪されるなど聞いたことがない。
エドワルドが啞然としていると、サリタはきゅっとシーツを握りしめた。
「王女の身分を剝奪されたわたくしが押しかけるのはご迷惑だと、重々承知しております。ですが、どうしても聞いてほしいことがあるのです。その……失礼ですが、アデル王女殿下はいらっしゃいますか?」
「姉上? サリタ王女は姉上に会いに来たのか」
「はい。……身勝手ながら、アデル王女を頼ってまいりました」
サリタによると、アデルがクレアド国に行ったとき、とても仲良くしてもらったのだそうだ。
アデルは基本的に無自覚な人たらしなので、そこでサリタに気に入られたというのは充分にあり得ることである。
「まるでわたくしを妹のように可愛がってくださって……」
そう言いながらうっすらと頰を染める様子から、いかにアデルが罪作りかが知れて、エドワルドは頭が痛くなってくる。
(姉上、国内のみならず国外の人間までたらしこんでいるのか……)
ローゼリア国内にもアデルの熱狂的なファンが多い。しかも、男性よりも圧倒的に女性比率が高いのだ。そのうち女神よろしく祀り上げられはじめるのではなかろうか。
エドワルドはこめかみを押さえた。
「すまないが、姉上はつい最近、ブロリア国の緑の塔に入ったばかりなんだ。この城にはいない」
すると、サリタはこの世の終わりを見たかのように絶望した。
「そんな……」
うるうると、ルビー色の瞳が潤みはじめたのを知って、エドワルドは慌てる。女の涙は苦手なのだ、頼むから泣かないでほしい。
「その、姉上ほど役には立たないかもしれないが、事情を教えてくれないだろうか。何か事情があってこちらへ来たのだろう?」
「それは……はい」
サリタがこくんと小さく頷く。まるで小動物のように気弱な王女だと思った。扱いに気をつけなくてはすぐに泣かれそうだ。言えば言い返してくるシャーリーが懐かしい。
(シャーリーは外見だけは儚い美少女なんだが、中身はあれで結構図太いからな)
サリタは目尻に浮かんだ涙をぬぐいつつ、ちらりとエドワルドを見上げて、それから不安そうに瞳を揺らした。
「……信じてもらえないかもしれませんが」
「それは聞いたあとに判断する。遠慮なく言ってくれ」
「わかりました」
サリタは緊張しているのか、深呼吸を一度して、固い表情で言った。
「兄が……クレアド国王が、戦争の準備をしています。近く、どこかの国へ進軍するはずです」
「……え?」
想定外のことを言われて、エドワルドはきょとんとした後で、ギョッと目を剝いた。
「はあっ!? 戦争!?」
大声で叫んでしまったせいで、部屋の外で待機させていた護衛官のデイブが血相を変えて部屋へ飛び込んできた。
「殿下! どうしました!?」
子供のころからそばにいるデイブは、エドワルドが十八歳になった今でも少々過保護気味だ。エドワルドと年の近い子供がいるからか、どうも自分の子供と重ねて見ている節がある。
「いや、大丈夫だ。ちょっと驚いただけだ。何でもないから」
「でも今、すごい大声が。戦争とか聞こえたような」
「本当に大丈夫だ。……あとからちゃんと説明するから!」
下がっていてくれと言うと、デイブはエドワルドとサリタを交互に見てから、渋々と言った様子で部屋の外へ出ていく。
エドワルドは誤魔化すようにコホンと咳ばらいをして、サリタに続きを促した。
「すまなかった。続けてくれ。戦争と言ったが、クレアド国王はどこの国に進軍するつもりなんだ?」
「それは……わかりません」
「わからない?」
「はい。たぶん……どこの国でもいいんでしょうから、攻めやすいところを攻めるのかと」
「は? どこの国でもいい?」
なんだ、その無差別攻撃的な戦争のはじめかたは。
エドワルドは啞然としかけて、ハッとした。どこでもいいということは、ローゼリア国が狙われる可能性もあるのだ。
「いったいどういうことなんだ。詳しく説明してくれ」
こうしてはいられない。早く情報を仕入れて、国王に相談に向かわなくては。
エドワルドが無意識に膝を揺らしはじめると、急かされていると感じたのか、サリタが焦ったようだった。
「あ、兄は、国が亡びる前に、他国に進軍し、そこを乗っ取るつもりなのです。だから、進軍先は決めていないのだろうと、そう思って……」
「ちょっと待ってくれ」
聞き捨てならない単語を聞いた気がして、エドワルドはサリタを慌てて遮った。
「国が亡びる? 亡びると言ったか?」
「は、はい。ええっと……」
サリタもどのように説明すればいいのかわかっていないのか、おろおろしながら言った。
「その……緑の塔が枯れはじめたんです。だから、近いうちに、クレアド国は滅亡します」

「緑の塔が枯れはじめた? いったいどうして」
エドワルドの説明を聞いていたアデルが愕然と目を見開いた。
シャーリーもここまでのエドワルドの説明だけでは、クレアド国に何が起こっているのかがわからず、困ったようにテレビ画面のアルベールを見る。
緑の塔が枯れるということは、クレアド国の緑の塔の中には誰も入っていないのだろうか。
完全に塔が枯れてしまう前に、魔力保持者を塔の中に入れれば、戦争など起こさなくても事なきを得るのではないか。
いろいろな考えがぐるぐると頭の中を回る。
「クレアド国には、もう、魔力保持者はいないそうです」
「そんな馬鹿な。少なくとも、サリタ王女は魔力保持者のはずだ。以前、そう言っていた」
「それが……、なくなったそうなんです」
「なくなった? 魔力が?」
「はい」
エドワルドが首肯すると、さすがに想定していなかった答えだったようで、アデルが沈黙した。
(魔力って、なくなるものなの?)
シャーリーは思わず自分の手のひらを見つめる。シャーリーはアデルやアルベールの快適生活のためにガンガン魔力を使っているが、調子に乗っているとなくなってしまうのだろうか。
指パッチン魔法の乱用には気を付けた方がいいだろうかとシャーリーが不安になっていると、アルベールが首を横に振った。
「魔力がなくなると言うのは聞いたことがない。一度塔に入れられた魔力保持者でも、魔力が消えることはないし、やむを得ない事情で再び塔に入ったという王族も知っているが、魔力がなくなったりはしなかったはずだ」
「そうですね。わたしも聞いたことがありません」
アデルも神妙な顔で頷いた。
では一体何が原因でそのような事態になったのだと、唯一事情を知るエドワルドに全員の視線が集まる。
エドワルドは困ったように頰をかいた。
「俺もにわかには信じられないんですが……幽霊の仕業だそうです」
「は?」
「幽霊?」
「エドワルド、ふざけないでくれ」
三人が三様にエドワルドを睨むと、彼は不貞腐れた。
「ふざけていません。サリタ王女がそう言ったんです。塔の中に幽霊が出て、その幽霊のせいで魔力がなくなったんだと。ちなみに、サリタ王女は実際にその幽霊を目撃して、魔力を失って、気がついたら塔の外へ放り出されていたそうです。サリタ王女のあとにも彼女の姉王女が入ったそうですが、それも僅か数日で、同じように魔力を失ったそうです。そのあとも、過去に塔に入ったことのある王族を次々と塔の中へ入れたそうですが、全員が魔力を失って外へはじき出されたのだと言っていました。残る魔力保持者は乳飲み子が一人いるそうですが、乳飲み子を一人きりで塔の中に押し込めたらどうなるかわかりきったことなので、入れていないのだそうです」
「それはそうだろう。数日持たずに死んでしまう」
「はい。そのため、クレアド国には現在、塔に入れる魔力保持者が一人もおらず、塔が枯れはじめたのだそうですよ」
「それで、進軍して他国を奪う、と」
「ええ。他国から魔力保持者を拉致してくるという方法も考えたらしいですが、何度も魔力を奪われて外へ放り出されているので、また同じことになるだろうと諦め、国を捨てて他国を奪うことにしたんだそうです」
「身勝手な!」
アデルが眉を寄せる。
アルベールも険しい顔で腕を組んだ。
「確かに身勝手だが、クレアド国が戦争を起こそうとしていることについては信憑性が増したな」
「ええ。問題はどこの国に狙いを定めているか、ですが……」
「単純に考えれば、攻めやすいところだろう。クレアド国から近く、軍事力もさほどない国。間違いなく、彼らの候補の中にブロリア国とローゼリア国は含まれているはずだ」
エドワルドが大きなため息を吐きだした。
「そうなんですよね。今、父上がてんやわんやです。慌てて軍を招集して対策を練っているみたいですが……」
「練ったところで、うちだけでは戦力が足りないだろうな」
アデルがばっさりと一刀両断した。
「サリタ王女が身分を剝奪されたと言うのが本当ならば、彼女を人質にして脅しをかけても無駄だろう。彼女に人質としての価値はない。むしろ難癖をつけられて攻め入られるのがおちだ」
「クレアド国がどこまで準備を進めているのかわからないが、同盟国にも相談して守りを固めるしかないだろう。……時間がたりればいいが」
アルベールが顎を撫でながら考え込む。
シャーリーは難しい顔をして唸る三人を順番に見て、おずおずと言った。
「あの……、塔の幽霊って、本当なんでしょうか?」
戦争のことで頭がいっぱいのようだが、塔の幽霊だってかなり重要事項だと思うのだ。もしもほかの国の塔にも同じように幽霊が現れたりしたら──
(うう……想像したら怖くなってきた。この塔、いかにも出そうなんだもん……)
ゾッとしたシャーリーはうっすらと鳥肌の立った二の腕をこする。
「そのことはまだ何とも言えない。サリタ王女が見たと言うのは金髪の男だったらしい。だが、ほかの王族たちはその姿を見たわけではなく、眠っている間に気がつけば塔の外に放り出されていたらしい。証言者はサリタ王女一人だが、ほかに理由が思いつかないから、クレアド国では塔の幽霊の仕業だと信じているのだそうだ。ちなみに、サリタ王女は男の幽霊を見たと言ったが、クレアド国では男の幽霊ではなく、塔の中で自殺した第一王女の霊ではないかと噂されているらしい」
自殺と聞いてシャーリーはもっと怖くなった。
シャーリーが塔を改造し、現在みんなで和気あいあいとすごしているから忘れそうになるが、大半の各国の塔には王族が一人ぼっちで閉じ込められているのだ。精神を病んでしまってもおかしくない状況なのである。自殺者が出ても不思議ではない。
「それだけだと、やはり真偽のほどはわからないな。だが、塔に入った人間が次々に魔力を失っていくのだから、クレアド国の緑の塔に何かあると見ていいのかもしれないが。その件はひとまず置いておいた方がいいだろう。問題は、クレアド国の進軍だ」
アルベールが顔をあげた。
「守りを固めるなら急いだほうがいいだろう。まずはクレアド国と国境を背にしている部分の防衛強化から着手した方がいい」
エドワルドが大きく頷いた。
「父上がクレアド国の周辺国に遣いをやるそうです。緑の塔がすでに枯れはじめているのなら……おそらく、開戦まで時間があまりなさそうですね」
アデルとリアム不在の今、エドワルドも軍の会議に参加し、対策に備えるらしい。クレアド国がローゼリア国を標的とした場合、軍を率いて戦うことになると言う。
シャーリーは胸の前で両手を握りしめた。
「エドワルド様……大丈夫、ですよね……?」
エドワルドは小さく笑った。
「大丈夫かどうかはまだ判断つかないが、大丈夫にするのが王族の務めだ」
エドワルドが言い、隣に座っているアデルがシャーリーを安心させるようにポンと肩を叩く。
「ここからは出られないが、できることがあったら言ってくれと父上に伝えてほしい」
アデルが言うと、エドワルドは頷いて立ち上がった。
──ブロリア国の国境の町ガラドリアが陥落したという報せが入ったのは、それから三日後のことだった。