「え、今食べちゃダメなの?」

「……じゃあ、1つだけよ」

 ニナさんの渋々といった様子のその言葉に、ポールさんは満面の笑みでクッキーに手を伸ばした。ポールさんって本当に美味しそうに食べるよね……見てるだけで笑顔になれる。

 ジャックさんはイケメンすぎる絶対の推しだけど、最近はポールさんも可愛い癒され枠で私の推しになりつつある。というかポールさんって、仕事ができて計算能力はかなり高くて、料理もできて癒しオーラ出てて、意外とモテるんじゃないのかな。

「じゃあ、私は行きますね。お仕事頑張ってください」

「ええ、レーナちゃん、本当にありがとう」

「レーナ、ありがとな。これ大切に使う」

「レーナちゃん、クッキー美味しいよ」

 ニナさんとジャックさんの言葉に笑顔で頷いて、ポールさんの言葉で少しだけ苦笑混じりの笑みになり、最後に皆に手を振って裏口からお店をあとにした。

 これで今日の予定1つ目は終了だ。

 次の行き先であるダスティンさんの工房に向かいながら、この前の休日に話した魔道具はどうなってるのかなと考えていると、すぐ工房に着いた。

「ダスティンさん、レーナです」

 玄関のドアをノックすると、今日はちょうど手が空いていたのか、ダスティンさんが中からドアを開けてくれる。

「やっと来たか」

「おはようございます。ちょっと買い物とロペス商会に寄っていて遅くなりました。これ、よかったら食べてください。いつも良くしていただいてるお礼です」

 中に入ってさっそくとクッキーを手渡すと、中身を確認したダスティンさんは僅かに頰を緩ませた。それをしっかりと目撃した私は、自然と笑顔になる。

 やっぱりダスティンさんは甘いものが好きなんだね。これからの手土産は甘いもので決定だ。

「あとでいただこう」

「ぜひ」

「ではレーナ、こっちに来てくれ。実はちょうど魔道具の改良が終わり、成功しているのか試してみるところなのだ」

「おおっ、もう終わったんですか?」

「成功するかは分からないがな。数日前には失敗した」

 そうなんだ……やっぱり難しいんだね。確かに少し話を聞いた限りでも、魔石や魔法を組み合わせると思わぬ効果を発揮し、どうなるのか分からなそうだった。

「どっちの魔道具ですか?」

「洗浄の方だ」

 工房の中に入ると、中央に置かれた台の上にコンパクトな箱が置かれていた。見た目はあまり変わってなさそうだけど、これで成功してるのかな。

「とりあえず、青色と白色の魔石だけで作ってある。ただ服を綺麗にするにはいくつもの工程が必要なので、魔法を何個か組み込んである。それがどう影響するかだな」

 ダスティンさんはそう説明しながら、箱の中に汚してあるシャツを入れて洗剤を投入した。そして洗浄開始のボタンを押し込む。

 すると箱がガタガタと動き始めて──数十秒後には、ちょっと怪しい音を立て始めた。ギギギギ……と金属同士が擦れ合うみたいな音に加えて、沼みたいな重い泥水に足を突っ込んだ時のような、変な水音も聞こえてくる。

「ダ、ダスティンさん、これは、成功なのでしょうか?」

 恐る恐るダスティンさんの顔を見上げると、その表情はかなり厳しかった。そして何を思ったのか私のお腹に腕を回してぐいっと抱き上げると、工房の壁際まで駆け足で下がる。

 突然の動きになされるがままになっていると、よく分からない透明な板の後ろにダスティンさんがしゃがみ込んだ。当然抱き上げられている私もそこに座り込むことになり、何をするんだと抗議するため、ダスティンさんの顔を見上げようとした瞬間──

 ボンッッと何かが爆発するような音が、工房内に響いた。

 それに反射で首をすくめていると、ぼたぼたっと重い液体が工房に降り注ぐ音が聞こえる。

「な、何が……」

 突然の出来事に混乱しながら工房内を見回すと、そこには緑色のドロッとした液体が、まるで爆発で飛び散ったかのように、工房中にぶちまけられている光景があった。

 あんまりな惨状に衝撃を受けつつ、隣にいるダスティンさんを見上げる。

 するとそこには……緑色の液体を頭から滴らせたダスティンさんがいた。

「ふふっ……っ」

 私は思わず吹き出しそうになってしまい、慌てて口を閉じる。ダスティンさんには液体が真上から直撃したらしい。

「……魔法を書き込みすぎたか。何かが作用し合って水が変質して膨張したな」

 液体をぬぐいもせず、冷静に失敗の原因を分析しているダスティンさんが面白く、また笑いが込み上げてきてしまう。

「ダ、ダスティンッ、さん……っ」

「なんだ?」

「は、早く頭を、拭いた方がいいです」

 なんとかそう伝えると、ダスティンさんは自分の頭に手を当てた。そしてベタッとした液体に触れると、嫌そうな表情になる。

「確かにこれは酷いな。……なんだこの匂いは。まるで長年放置しておいた腐った水だ」

「あぁ……確かにそうですね」

 言われてみれば、ドブみたいな臭いがする。普段からスラムでこんな臭いを嗅いでるから、そこには意識が向かなかった。

「片付けないとですね」

 なんだか楽しい気分でそう告げると、ダスティンさんは不思議そうに私の顔を覗き込んだ。

「この惨状で楽しそうにできるのは凄いな」

「そうですね……自分でもよく分かりませんが、魔道具開発は突拍子もないことが起こるんだなって思ったら、楽しくなっちゃって。ダスティンさんが好きなのも分かります」

 本心でそう告げると、ダスティンさんも楽しそうに口角を上げた。

「そうだろう? そしてその突拍子もない事柄に、小さな規則性を見つけた時が嬉しいのだ」

 その考えは、完全に研究者だね。ダスティンさんは運良く汚れてない私に液体を付けないよう立ち上がると、工房中を見回して呟いた。

「まずは掃除だな」

 そして近くの戸棚を開け、そこから掃除道具を取り出していく。

「レーナも手伝ってくれるか?」

「もちろんです。それにしても、また改良をやり直しですね」

「いや、なんとなくどの魔法がダメだったのかは予測がついている。別の魔法に変えるか、どうにかして魔法を合体させることができれば、成功に近づくかもしれない」

 もう予測がついてるんだ、さすがダスティンさん。それなら予想より早く形になるのかも。

「頑張ってください」

「もちろんだ。じゃあ、この液体をバケツに集めてくれ。溜まったら青草に分解させる」

「分かりました。青草ってこんなものまで分解できるんですか?」

「基本的になんでも分解できるな。ただ分解したものによって、あとに残るものは違う。たぶんこれは……普通に綺麗な水になるだろうな。そうなれば外に流しておいても問題はない」

「へぇ~、凄いんですね」

 ダスティンさんは片付けに使うため、トイレの魔道具とは異なる分解の魔道具を作ったらしい。バケツに取り付けて使うもので、取り付けてボタンを押すと中に青草が大量に育つ。

「レーナ、そこの机の上を頼んでもいいか? この布で拭いてくれ」

「分かりました。水ってどこにありますか?」

「そこの棚の中に給水器がある」

「使いますね」

 それから私はひたすら掃除に精を出した。掃除はスラム街で毎日のようにやっていたので、かなり得意でどんどん進む。ダスティンさんも何度も工房をぐちゃぐちゃにしているからか、掃除の腕はプロ並みだった。

「──ふぅ、綺麗になりましたね」

「掃除は終わりだな。礼に昼ご飯をごそうしよう」

「本当ですか! 嬉しいです」

 労働の対価なら申し訳なく思わずに食べられるので素直に喜ぶと、ダスティンさんはふっと優しい笑みを浮かべて私の頭をポンと軽く撫でた。

「ちょうど食材はたくさんあるので、私が作ろう。何が食べたい?」

「え、手料理ですか!? じゃあ……ダスティンさんの一番の得意料理でお願いします」

「また難しい注文だな……まあ分かった。食材を見てから決めよう」

 それから私とダスティンさんは掃除で汚れた手や顔を念入りに洗い流し、工房からリビングに移動した。

 私はダスティンさんが料理をするところを、テーブルに座って大人しく待つ……つもりだったけど、どうしても気になって後ろから手元を覗いた。

「それ、なんのお肉ですか?」

「ハルーツのヒレだ」

 ヒレは確か、牛肉に近い味の部位だ。それをミンチにしてるってことは、もしかしてハンバーグとか? 想像だけでお腹が鳴りそう……。

「……そんなに気になるか?」

「はい。普段は扱えない食材ばかりですし、調理器具もとても便利そうで気になります」

 この家は魔道具師の特権なのだろうけど、普通は貴族の屋敷にしかないはずの魔道具がそこかしこで当たり前のように使われていて、見て回るだけで楽しいのだ。

「ではレーナも手伝え。ナイフは使えるか?」

「もちろんです!」

「凄い勢いだな……あそこの台を持ってきて、その板の上で野菜を切って欲しい。切る野菜はオニー、キャロ、アネだ。全てこの肉ぐらい細かくしてくれ」

「分かりました」

 私は仕事がもらえたことが嬉しくて、意気揚々と台を運んでその上に立った。そして私の手には大きなナイフを使って、をしないように気をつけて野菜を切っていく。

 まず手に取ったのはアネだ。アネは日本にあった野菜に例えると、パプリカかな。瑞々しいけど少しの苦味があって、火を通すと甘くなる。でも日本のパプリカより小さくて、色のバリエーションも多い野菜だ。

「ダスティンさん、今日は何を作ってるんですか?」

「肉団子だ。その野菜をいためて味付けして、この肉と混ぜ合わせる。そして……そうだな、親指と人差し指で作れる輪と同じぐらいの大きさに丸めるんだ。それを焼いてからソースと絡めて完成だ」

 おおっ、それって肉団子だ。絶対に美味しいやつ!

「ラスタも炊きますか?」

「もちろんだ。肉団子にはあれがないとな」

「ダスティンさん、分かってますね」

 やっぱり肉団子には、白米に似たラスタだよね。この国ではラスタ派とラスート派に分かれるらしいけど、今までの感じからしてダスティンさんはラスタ派な気がする。

「レーナ、そこにあるボウルを取ってくれ」

「はい」

 それからも私はできる範囲でダスティンさんを手伝い、ちょうどお腹が鳴り始めた頃に全ての料理が出来上がった。

「食べるか」

 目の前で艶々と輝きを放ちながらいい香りを発している肉団子に誘われて、フォークを持つ手を伸ばす。肉団子にプスッとフォークを刺して口に運ぶと……口に入れた瞬間に、ジュワッと幸せな肉汁が溢れ出た。その肉汁は肉団子がまとっていたソースと絶妙に絡み合い、口の中でこの料理の美味しさの最大限が作り出される。

「お、美味しすぎます……!」

 濃厚な旨味に支配された口の中にさっぱりとしたほのかな甘味のラスタを入れると、これがまた合いすぎる。もう幸せだ……ダスティンさん、めちゃくちゃ料理上手い。

「それはよかった。……うん、美味いな」

 ダスティンさんは自分が作った料理の出来栄えに満足したようで、うっすらと頰を緩めて一度だけ頷いた。

 それから私たちはたまに言葉を交わしながらも、美味しい食事に集中した。そして肉団子も半分ほどがなくなり、少し空腹感も落ち着いてきた頃、私はふと思い出したことを口にする。

「そういえば、染色の魔道具はどうですか?」

「ああ、そちらの話をしていなかったか。実はそちらの方が、上手くいっているのだ。やはり元々ある技術を応用するというのは失敗が少ない」

「そうなのですね。では一時的に染色させることには成功したのですか?」

「今は1週で消えるところまできている。あとは布の傷み具合に関しての実験や、色むらをなくす改良、それから染めたくない部分をどうするのかについて、もっと利便性が高いものにできないかを考えているところだ」

 もうそんなに進んでるんだ。やっぱりダスティンさんって優秀なんだね。いつも爆発ばかりしてるから、ちょっとだけ腕を疑ってたんだけど……それは内緒にしておこう。

「完成を楽しみにしています」

「ああ、まだ先になるが、完成したらレーナにも試してもらいたい」

「もちろんです」

「染色の魔道具にがついたら、4つの魔石を使った洗浄の魔道具開発に着手するか……」

 私はダスティンさんがボソッと呟いたその言葉を聞いて、思わずダスティンさんをじっと見つめてしまった。

「──さっきの惨状を忘れたんですか?」

 そう告げると、ダスティンさんは気まずそうに私から目をらし、落ち込んだ様子で呟く。

「しばらくはやめておこう」

 絶対にそれがいいよ。2つの魔石といくつかの魔法の組み合わせだけで、あんな変なことになるんだから、4つとかほぼ不可能だ。染色の魔道具は奇跡の産物だと思う。

「私が言うのも微妙ですが、少なくとも2つの魔石を使った洗浄の魔道具が、完成してからがいいと思います」

「……そうだな、そうしよう」

 ダスティンさんは、難易度が高い研究に挑戦したいんだろうな。本当に研究者気質だよね。

 それからはしばらくやめておこうと言いつつ、どうすれば4つの魔石を組み合わせた魔道具が、偶然ではなく作れるのかに関するダスティンさんの仮説を聞きながら、残りの肉団子を味わった。話は難しくてよく分からなかったけど、ダスティンさんの楽しそうな年相応の笑みが印象に残った。


◆◇◆◇◆


 ダスティンさんの工房で午前中を掃除に費やしたあの日から、約2週が経った。今日は9連勤の9日目で、私は仕事が終わったあとに商会長室へ足を運んでいる。

「それで、今日はなんの話かな?」

「本日はお時間をとっていただき、ありがとうございます。実は引っ越しに関してギャスパー様にお力添えを願いたいと思っておりまして、この場を設けさせていただきました」

 私がそう切り出すと、ギャスパー様は満足そうに微笑んで口を開いた。

「レーナは本当に敬語が上手になったね。違和感はほとんどないよ」

「本当ですか! ありがとうございます」

 空いた時間を駆使して皆に教えてもらっていた成果を褒められて、表情がほころんでしまう。

「それで引っ越しだったね。部屋の紹介かな?」

「はい。そろそろお金も貯まりましたので、部屋を探し始めることにしました。ギャスパー様が部屋を探す時には力になるとおっしゃってくださいましたので、ご相談させていただきたいです」

「もちろん力になるよ。どんな部屋がいいか要望はあるかい?」

「安くて好立地だと嬉しいです。部屋の狭さや不便さなどには目をつむりますので」

 家族と話し合って、部屋を見つけるのにどこを重視するのかは決めてある。私は快適な室内を重視したかったんだけど、皆からしたら街中の部屋はどこもスラムの小屋よりは快適だろうから、それよりも立地を重視したいってことだった。

 まあ確かに、治安とかは大切だから分かるんだけどね。

「ふむ、安さと立地を重視するんだね。……いくつか思い浮かぶところがあるよ。知り合いの不動産屋に声をかけてみるから、明日は暇かい?」

「自由に動けます」

「では明日の5の刻に、ここに来て欲しい。不動産屋と引き合わせよう。ただ私は明日予定があって、内覧には同行できないんだ。誰か大人を連れて来られるかい? さすがに君が1人では、管理者によっては断られることもあるだろう。私が紹介する不動産屋は大丈夫だろうけれど、各アパートには管理人がいるからね」

 確かにそうだよね……こんな子供を信用して部屋を貸してくれる人は少数だろう。いくらロペス商会からの紹介があると言ったって。

「……お父さんはどうでしょうか?」

 皆には街に入る時に払うお金がもったいないし、私がお金を出すんだからレーナが好きに部屋を選んでいいと言われてるけど、大人が必要って言えば一緒に来てくれるだろう。

「そうだね……市民権がない人はちょっと難しいかな。それに定職がある人の方がいい」

 確かにそうか、日本でもそうだったもんね。定職がない人が部屋を借りるのは厳しい。

 うぅ、そうすると途端に難しくなる。ジャックさんとニナさん、それからポールさんは明日出勤だったはずだし、私と一緒に休みの人は、彼女とのデートが楽しみだと言っていた。

 ──そうなると、思い浮かぶのは1人だけだ。

「1人だけ心当たりがあります。以前ギャスパー様にご報告したと思うのですが、魔道具工房を営むダスティンさんです」

「ああ、そういえば彼がいたね。レーナがこぼしたアイデアを評価してくれたんだっけ?」

「はい。それでアイデア料を受け取り、それからも休みの日には工房にお邪魔していて……」

「それなら、ちょうどいいね。彼に頼んでみてくれるかい? もし彼がダメならうちの商会員の手が空いていれば、レーナの方に行ってもらえるようにお願いするけど」

「ありがとうございます。できる限り一緒に来てもらえるよう、頼んでみます」

 部屋を紹介してもらえるだけでありがたいのに、これ以上迷惑をかけたくないから、ダスティンさんの予定が空いてたらいいな……。

「じゃあ明日は、遅れないようここに来てね。もし彼が来てくれるなら、彼も一緒に」

「分かりました。ご紹介、よろしくお願いいたします」

「任せておいて」

 そうして私は商会長室をあとにして、外門に向かう前にダスティンさんの工房へ向かった。

 休みの日以外でここに来るのは初めてだ。いつも通り工房で魔道具の改良をしてるんだろうと思いながら、ドアをノックすると……ドアを開けてくれたのは、知らない男性だった。

「……お前は誰だ?」

「えっと……レーナですが、あなたは?」

 お互いに誰だか分からず困惑していると、奥から声が聞こえてくる。

「クレール、誰が来たんだ? 勝手に出るなといつも言っているだろう? 配達なら金を払っておいてくれ」

「かしこまりました。……配達か?」

「いえ、ダスティンさんに用事があって……」

 クレールさんと呼ばれた男性は、茶髪に茶色の瞳でどこにでもいそうな平凡な男性って感じなんだけど、こちらを探るような目だけが鋭くて怖い。誰だろう、この人。ダスティンさんの声音を聞くに親密そうだけど……この人、さっき敬語を使ってたよね。魔道具師の弟子とか?

「配達ではないようです。小さな子供ですが」

 クレールさんが工房の方に声をかけたと同時に、ダスティンさんがリビングにやってきた。

「ん、レーナじゃないか。どうしたんだ?」

「この子供と、知り合いなのですか?」

「ああ、最近知り合ってな。発想力豊かな面白い子供だ」

「…………」

 ダスティンさんの言葉に、クレールさんは言葉こそ発していないけど、ろんげな目つきでダスティンさんを見つめた。なんかピリピリとした雰囲気だね……。

「──こういうのは困ります」

 ダスティンさんがクレールさんを押し退けて私の前に来た時、2人がすれ違った瞬間、クレールさんが小声で呟いた声が私の耳に微かに届いた。

 2人はどういう関係? この人は誰? 全く2人の間柄が分からず、凄く気になる。親密そうな感じもするけど、距離がありそうな感じもあって……弟子っていうのも、あんまりピンと来ない。すっごく聞きたいけど、聞ける雰囲気じゃないよね。

「クレールは中に入っていろ」

「……かしこまりました」

 クレールさんが工房に向かって、玄関先にはダスティンさんと私だけになった。

「待たせてすまないな。今日はどうした?」

「あっ、あの……明日お時間があるなら、部屋の内覧に付き合っていただけないかなと思ったのですが……さっきのクレールさん? がいらっしゃるなら無理ですよね」

「ほう、もう街中に引っ越してくるのか?」

「その予定です……」

「分かった。確かに大人がいた方がいいな。明日は急ぎの仕事もないし行けるぞ」

「でも、さっきの人は……」

 あの人が誰なのか教えてもらえないかなという気持ちもありつつそう聞くと、ダスティンさんは面倒くさそうな表情を隠さず首を横に振った。

「あいつは気にしなくていい。このあとすぐに帰る」

「……そうなのですか? お弟子さんとかじゃ」

「そういうのではない。あいつは……小さな頃からの知り合いみたいなものだ。たまに安否確認にやってくる」

「そう、なのですね。……明日来ていただけるの、とてもありがたいです」

 ダスティンさんがあまり追及されたくなさそうだったので、私はクレールさんのことをこれ以上聞くのは止めて、明日の話に話題を変えた。

「何時にどこに行けばいい?」

「ロペス商会に5の刻なので、4の刻9時ぐらいに私がこちらに来てもいいですか? それで一緒に商会まで行っていただけると助かります」

「4の刻9時だな。分かった」

「よろしくお願いします。では、今日は失礼します」

「ああ、また明日」

 そうしてダスティンさんと明日の約束をして、最後に何気なく工房の中に目を向けると……そこにはこちらをじっと見つめるクレールさんがいた。

 私はその探られるような瞳が怖くて、すぐに目を逸らして帰路に就いた。


 次の日の午前中。私用の時計がなくて正確な時間が分からないので、遅れないようにと早めにダスティンさんの工房へ向かった。少し緊張しながらドアをノックすると……扉を開けてくれたのは、まだ部屋着姿のダスティンさんだ。私はダスティンさんの顔を見てホッと安堵のため息をつき、おはようございますと挨拶をした。

「随分と早いな。4の刻9時じゃなかったか?」

「そう約束したのですが、スラムでは正確な時間を知るすべがなくて、遅れるよりは早めにと家を出ました。もしご迷惑でしたら、どこかで時間を潰しますが……」

「いや、構わん。入るといい」

「ありがとうございます」

 最初よりは見慣れた部屋の中を見回すと、そこにはいつも通りの光景が広がっているだけだった。クレールさんはいなそうだね。

「今日はいくつの部屋を回るんだ?」

「それはまだ聞いていないのですが、うちの家族の要望は安くて立地がいい部屋なので、それに適合する部屋を紹介してもらえるのだと思います」

 ダスティンさんがミルクとシュガを入れたハク茶をれてくれたので、私はありがたく受け取って椅子に腰掛けた。

 ふぅ……あったかくて美味しい。最近は火の月も終わりに近づいてるからか、肌寒く感じることが増えてきて、飲み物はホットが美味しく感じるようになってきた。

「部屋の快適さよりも立地なのか? 立地はいいが不便な部屋は住みにくいぞ」

「私もそう思うんですけど、治安が悪いところは私が危ないからってお父さんが譲らなくて」

 そう言って苦笑を浮かべたら、ダスティンさんも納得したのか頷いた。

「レーナの父親は過保護なのだったな」

「まあ、そうですね。自分で言うのも微妙ですけど、私のことが大好きなんです」

「……そう言えるのは、素敵なことだ」

 どこか遠くを見つめながら呟いたダスティンさんは、なんだか寂しそうだった。ダスティンさんの家族の話は聞いたことがないけど、いい関係性じゃないのかな……。

「さて、私は着替えてくるので少し待っていてくれ。レーナは商会で制服に着替えるのか?」

「はい。なのでここで待ってます」

 それからダスティンさんが着替えて私がハク茶を飲み切って、時間が4の刻8時になったので2人で工房をあとにした。商会に着いて裏口から中に入ると、そこにはちょうどジャックさんがいる。身嗜みだしなみの最終確認をしているらしい。

「ジャックさん、おはよう」

「おっ、レーナ。おはよう。今日は部屋を紹介してもらうんだってな」

「うん。ギャスパー様に聞いたの?」

「ああ、もしダスティン様の予定が合わなかったら、俺が一緒に行って欲しいって。でも大丈夫みたいだな」

 ジャックさんは私の後ろに視線を向けると、髪飾りの位置を整えてニコッと笑みを浮かべた。

「ダスティン様、レーナに付き添ってくださりありがとうございます」

「いや、気にすることはない。私もレーナには世話になっているからな。それに今日は客として来ているわけでもないし、そんなにかしこまらなくともいい」

「分かりました。ありがとうございます」

 ダスティンさんって私以外の商会員にも知られてるんだね。配達はほとんど私だから、皆に周知のお客さんだとは思ってなかった。

「ダスティンさんって、店舗にも来てるんですか?」

「もちろんだ。ここには定期購入しているもの以外にも、良いものがたくさんあるからな」

「そうだったんですね」

「……レーナはダスティン様と結構仲がいいんだな。今回ギャスパー様にダスティン様の名前を聞いた時に不思議だったんだが、配達で意気投合したのか?」

 私はその質問に、ダスティンさんを椅子に誘導しながら頷いた。

「私が魔道具作製に興味を持って、それで休みの日にも工房にお邪魔してるの」

「レーナのアイデアは私にも有用なのだ」

「へ~、そうなんですね。やっぱりレーナは凄いな」

「私のアイデアを、上手く魔道具に落とし込んでくれるダスティンさんが凄いんだけどね。じゃあダスティンさん、少しここで待っていてください。私は着替えてきます」

「分かった」

 それから私は更衣室に向かって、素早く制服に着替えて休憩室に戻った。するとちょうどいい時間になっていたので、そのままダスティンさんと商会長室に向かう。

「もうお店が始まってるので、静かにお願いします。階段は廊下の先です」

「……裏はこんな作りになっていたのだな」

 ダスティンさんはいつも贔屓にしているお店の裏側が面白いようで、興味深げに辺りを見回した。今更だけど、お客さんでもあるダスティンさんを連れてきてよかったのかな……まあ、ギャスパー様に提案されたんだからいいんだろうけど。

 商会長室に着いて扉をノックすると、中からすぐに声が聞こえてきて扉が開いた。扉を開けてくれたのはポールさんだ。ちょうどお客様にお茶を出していたところだったらしい。

「失礼いたします」

「レーナ、よく来たね。ダスティン様もレーナへの付き添い、ありがとうございます」

「いえ、私もレーナには日々助けられていますので」

 ギャスパー様と簡単な挨拶をしたら、さっそく不動産屋さんを紹介してもらった。私とダスティンさんの向かいに男性が腰掛けて、横にある一人席にギャスパー様が座る。

「紹介するよ。私がこの商会を立ち上げる時にも協力してもらった信頼できるお方で、コームさんと言う。コームさん、こちらがお話ししたレーナとその付き添いのダスティン様です」

 コームさんは茶髪で茶色の瞳の優しそうな人だった。眼鏡をかけていることできっちりした印象も受けるけど、全体的には優しそうな雰囲気だ。

 同じく眼鏡をかけてるダスティンさんとは、全くタイプが違う。ダスティンさんは慣れたら優しくていい人って分かるけど、初対面の印象だけだとちょっと怖い感じだからね……。

「レーナと申します。よろしくお願いいたします」

「ダスティンです。よろしく」

「ごていねいにありがとうございます。私はコームと申します。本日はレーナ様のご要望に沿った最適なお部屋をご提案させていただきますので、よろしくお願いいたします」

 それからギャスパー様も交えて少し雑談を交わし、コームさんがお茶を飲み切った頃に、さっそく候補の部屋へ向かうことになった。裏口から商会を出るとコームさんがこちらにと案内してくれたので、私とダスティンさんはそのあとに付いていく。

「本日ご案内するお部屋は、3つご用意しております。その中で気に入られたお部屋がありましたら、仰ってください。ない場合はまた別の物件を探しますので、その場合も遠慮なく仰ってください」

「分かりました。ありがとうございます」

 上から見下ろされてると私が感じないようにか、コームさんは少しだけ離れた場所で、軽く腰を落として声をかけてくれた。こういう小さな配慮をしてくれる人はいい人だよね。

「部屋を借りる時って、月ごとに料金を支払うのでしょうか」

「それは管理者によって異なりますが、基本的には月ごとのお支払いとなります。ただ3週や半月でというお部屋もありますので、そちらもご案内の際に説明させていただきます」

 管理者によって変わるんだね……できれば短い期間ごとの支払いの方が、1回で支払う金額が少なくていいかもしれない。まだ大金を保管しておくのは緊張するし。

「もう少しで1つ目のお部屋に到着いたします。こちらの角を曲がって路地に入っていただき……あちらに見える建物でございます」

 コームさんが示した建物は、とても綺麗で清潔感のある外観だった。まだそこまで古さは感じず、手入れも行き届いているように見える。立地は大通りから路地に入ってすぐのところだし、ロペス商会から近くて私の配達圏内。今のところかなりの好条件かな。

「こちらの3階のお部屋が空いておりまして、3階なので家賃はお安くなっております」

 3階なのか……この国ではエレベーターみたいなものがないから、基本的には上の階ほど安くて1階が一番高くなる傾向がある。

 水や火種を買ってそれを部屋まで運ぶのは上層階ほど大変だし、魔法使いにトイレの分解を頼むにしても、魔法使いによっては上層階の方が値段を高く設定したりするらしいのだ。

「管理人は食堂を営まれていたご夫婦が、お店を息子夫婦に譲ってから始められました。管理人歴は5年です。ご夫婦のあとは食堂を継いでいない別の息子さんが管理を引き継ぐことになっておりますので、管理人不在となる危険性は低い物件です」

 そんな解説を聞きながら建物に入って階段を上ると、すぐに3階へ辿たどり着いた。コームさんが鍵を使って扉を開けると……中は予想以上に広かった。

 土足前提の部屋なので玄関を中に入るとそのまま廊下で、目の前の突き当たりに扉がある。しかしその扉を開けず右に目を向けると、そちらがこの部屋のリビングのようだった。

「玄関を入って正面にあるのが水場へ繫がるドアです。そして水場のさらに奥がトイレとなっております。リビングと寝室は右手側にございまして、右手に進んだ広い空間が全てリビングとなっております」

 玄関から部屋に入って体を右に向けると、目の前に広いリビングがある。そしてそのリビングとカウンターを隔てて存在しているキッチンは左手側だ。寝室は右手側で、リビングにある扉の先が寝室になっているらしい。

 部屋にはいくつもガラス窓があって、光花がなくても明るい。開放的で素敵な部屋だ。

「凄くいい部屋ですね」

 そう素直な感想を述べると、コームさんはにっこりと微笑んで窓を開けた。

「高層階ですので窓からは心地良い風が入り込みます。またこちらのアパートは隣が2階建ての建物でして、日当たりのいいお部屋となっております。窓際にお洗濯物を干されれば、すぐに乾くでしょう」

 窓からの景色は悪くないし、建物の中も綺麗だ。もうここでいい気がしてきた。

「先ほど水場と仰っていましたが、上層階では汚水をどうするのですか?」

「汚水は全て、水場に流していただくことになります。水場は体を洗ったり衣服の洗濯をしたり、そういう場にも使われます」

「流した汚水はどこに行くのですか?」

「アパートには必ずある、汚水を貯めるタンクです。管理者が定期的に魔法使いへと依頼をして、汚水を分解します」

 そんな仕組みになってるんだ。日本とはちょっと違うけど、快適な生活が送れそうかな。この部屋にする問題点は、階段を上るのが大変なことぐらいだ。

「あの、トイレの分解を魔法使いに頼む場合は上層階の方が高いと聞いたのですが、それはどのぐらいの差があるのですか?」

「そうですね。一度の分解で小銀貨1枚ほどが相場です。3階だとプラス銅貨1枚程度でしょうか。分解を数日に一度頼むとしても、2階や1階のお部屋の家賃と比較したら、3階の方がお得になります」

 それならもうここを断る理由がない。この部屋、一目見ていいと思ったし、ここに住む未来が見えるというか、ここに住みたいという気持ちが湧いてくる。

「ここの家賃を教えていただけますか? それからこれから紹介していただく他の2つのお部屋の家賃と、大まかな情報もお願いします」

「かしこまりました。まずこちらのお部屋ですが、3週ごとのお支払いとなっておりまして、銀貨8枚でございます」

 銀貨8枚か……私の給料が10日で銀貨5枚だから、家賃を払って3週で残る生活費は銀貨7枚。それで家族全員が暮らすのはちょっと厳しいかな……。

 でも皆が働くまでなら節約すればいいし、皆が働き始めれば問題なく払えるだろう。

「他のお部屋はどうなのでしょうか?」

「2つ目にご紹介しようと思っていたお部屋は、2階建ての2階に位置するお部屋で、部屋はここよりも少し狭くなります。また周囲に高い建物が多くあり、日の光がお部屋にほとんど入りません。しかしその代わりにお安く、月ごとの支払いで銀貨15枚。3週ですと銀貨5枚の家賃です」

 銀貨5枚! それは確かに魅力的だ。でも日の光が入らないのは、閉塞感があるよね……。

「3つ目のお部屋は一応ご紹介をと思ったお部屋なのですが、ここからすぐ近くにある1階のお部屋です。部屋はここと同じような広さなのですが、何よりも1階という部分がおすすめです。また面している路地が広く、1階でも日当たりがとてもいいです。しかしその分家賃が高く、3週で金貨1枚と銀貨2枚となってしまいます。大通りに近い立地の1階のお部屋でこの家賃はかなりお安いので、一応ご案内させていただこうと候補に入れておりました」

 うわぁ……そこ、惹かれる。でも金貨1枚と銀貨2枚はさすがに無理だ。そうなるとこの部屋か、2つ目の銀貨5枚の部屋かどっちかだね。

「2つ目のところも見学をお願いできますか?」

「もちろんでございます」

「ダスティンさんも、付き合ってもらっていいですか?」

 部屋の中を興味深げに見回っていたダスティンさんに声をかけるとすぐ頷いてくれたので、私たちはもう1つの部屋に向かうことになった。

「さっきの部屋はどう思いました?」

 ダスティンさんの意見を聞かなかったなと思って、もう1つの部屋に向かいながら聞いてみると、ダスティンさんは顎に手を当てて少しだけ考え込んだ。

「悪くはなかったな。トイレが水場の奥というのが、複数人で住む時には少しだけ面倒だとは思ったが、そこは家族なら問題ないだろう」

 確かにそうか……ユニットバスみたいなものだもんね。誰かが体を洗ってたりしたらトイレに入りにくい。まあでも、スラムのあのプライバシーのかけらもないボロ小屋に住んでる私たちとしては、そんなものさいなことだ。

「家賃が安い部屋は、どうしてもその間取りになってしまうのです。もう少し広い部屋になると、水場とトイレがそれぞれ独立するのですが……」

「そうなのですね。今回そこは妥協しようと思います」

 それからしばらく歩いていると、コームさんが前方を手のひらで示した。

「あちらの建物が、2つ目の紹介物件です」

 おおっ、外見はそこまで悪くない。でもさっきコームさんが言っていた通り、周りに高い建物がたくさんあって、それらの建物のすぐ近くにあるから日は全く当たらなそうだ。

「入り口はこちらでして、階段を上がってすぐのお部屋でございます」

 コームさんが鍵を開けてくれて中に入ると……そこはさっきの部屋とあまり変わらない間取りだった。でも明確に違うのはその明るさだ。この部屋は暗くて少しジメジメとしている。

「これは……高くてもさっきの方がいいかもしれません」

「そうだな。ここでは洗濯した衣服も乾かないのではないか?」

「パリッとは乾きませんね」

 最近は洗浄の魔道具開発の影響で服を干すことが多いからか、ダスティンさんはその部分を指摘した。安いのは魅力的だけど……さっきの部屋の方がいいかな。なんだかここに住んでたら気持ちも沈みそうだ。やっぱり日当たりと明るさは重要だよね。

「コームさん、せっかく連れてきていただきましたが、1つ目の部屋でもいいでしょうか?」

「もちろんでございます。では先ほどの建物に戻りましょう。このまま契約に進んでしまって構いませんか?」

「はい。よろしくお願いします」

 それからさっきの部屋がある建物に戻った私たちは、部屋には上がらず、1階にある管理人室に向かった。管理人だというご夫婦はとても優しそうな方々だ。

「あらあら、今回の契約者さんはとても可愛らしいお嬢さんなのね」

「こんにちは。レーナと申します」

「確か4人家族だと聞いていたんだが、今日はいないのかい?」

「はい。今日は私だけで来ました。引っ越しの日に家族皆で挨拶に寄らせていただきます」

 この人たちへの挨拶の練習をしないと。今日帰ったらさっそく勉強会かな。

「とても礼儀正しいお嬢さんね~。楽しみにしているわ」

「契約書はこれなんだけど、内容に問題がなければ署名をしてもらえるかな?」

「分かりました。少しお待ちいただけますか?」

「もちろんだよ」

 私は笑顔のご夫婦から契約書を受け取ると、ダスティンさんに屈んでもらって一緒に契約書を読んだ。まだこういう固い文章は完璧には読めないのだ。

「署名しても大丈夫でしょうか?」

「ああ、問題ない。ごく一般的な内容だ」

「ありがとうございます」

 ダスティンさんからのお墨付きをもらえたことで、私は安心して署名をした。もうダスティンさんは、私の中の信頼できる人ランキングでかなり上位だ。

「ちゃんと署名されているね。これで契約は完了だよ」

「ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」

 私のその挨拶に、ご夫婦は優しい笑みを向けてくれた。なんだかこの2人を見てるとなごむな……この部屋にしてよかった。

「引っ越しはいつにするかい? その日までに部屋の掃除をしておかないといけないから、正確に決めておきたい」

「そうですね……ちょうど10日後が休みなのですが、どうでしょうか?」

10日後だね。うん、私たちも空いているから大丈夫だよ」

「よかったです。では10日後に引っ越しでお願いします」

 これでついにスラム街から抜け出せる……! 瀬名風花の記憶を思い出してから長かったような短かったような、なんだか感慨深い。


 管理人夫妻と別れて建物を出た私たちは、ギャスパー様に報告をするため、ロペス商会まで戻ってきた。しかしギャスパー様はまだ出先から戻っていないようだったので、報告は後日にして今日は解散することにする。

「コームさん、今日はありがとうございました。素敵な部屋を借りることができました」

「こちらこそ、ご同行させていただきありがとうございました。お引っ越しの日にも立ち会わせていただきますので、よろしくお願いいたします」

「こちらこそよろしくお願いします。ではまた10日後に」

 コームさんと挨拶をして見送ると、残ったのは私とダスティンさんだけだ。

「レーナ、これからどうするんだ? もう帰るか?」

「そうですね……まだ時間は早いですが、引っ越しの予定を皆に早く伝えたいですし、帰ることにします。次のお休みは引っ越しで潰れてしまうので、しばらくは工房に行けませんね」

「それは仕方がないな。次にレーナが来る時までに、2つの魔道具を完成に近づけておこう」

 楽しそうに少しだけ口角を上げたダスティンさんを見ていると、凄く羨ましくなる。私も魔道具開発にもっと関わりたいな。人間の欲望って留まるところを知らないよね……今の私の現状は最高なはずなのに、もっとこうしたいって欲がたくさん湧き出てくるんだから。

「頑張ってください。楽しみにしています」

「ああ、レーナも家族でスラムから街中に引っ越すなど大変だろう。何かあったら私を頼ってくれて構わない」

「いいんですか?」

 迷惑じゃないのだろうかとダスティンさんの表情を窺うと、ダスティンさんはすぐに頷いてくれたので、私は満面の笑みを浮かべてお礼を言った。

「ありがとうございます」

 やっぱりダスティンさんって、凄く優しい人だ。ギャスパー様、ジャックさん、ニナさん、ポールさん、それにダスティンさん。こんなにも街中に味方がいるんだから、これから大変なことがあってもやっていけるよね。素直にそう思うことができた。

「じゃあ、そろそろ行きますね。また休みの日に」

「ああ、配達もしっかりと頼んだぞ」

「それはもちろんです!」

 そうしてダスティンさんと手を振って別れた私は、外門に向かって一歩を踏み出した。10日後に引っ越しできるって伝えたら喜んでくれるかな。皆の反応が楽しみだ。


 引っ越し日が決まったことを伝えた時の皆は、それはそれは大喜びだった。私はお父さんにスラムの小屋の中で抱き上げられて、危うく天井に頭をぶつけて怪我をしかけたほどだ。

 そんな日から10日間はあっという間に過ぎ去り、ついに今日は引っ越し当日だ。早起きをした私たち家族は、小屋の中にある荷物を全て袋に入れてまとめ、引っ越しの準備を整えた。

「これで全部まとめたわね」

「うん。この布団は置いていくんだよね?」

「ええ、サビーヌにあげるつもりよ。それから家の外にある机も置いていくわ」

 大きくて運ぶのが大変なものや、さすがにボロすぎて街中には適さないものは持っていかないと決めた。だから私たちの荷物はかなり少ない。少しの食料といくつかの布と服、それからお父さんが作ったカトラリーなどの小物ぐらいだ。

「朝ご飯は普通に作って食べてから、挨拶に回って街中に向かうんだよな?」

「そうよ。レーナ、スラムで最後の料理をしましょうか」

「うん。ポーツは私が持っていくよ」

「じゃあ私はラスートね」

 それから私たちは皆に悟られないようにいつも通りの食事を作り、焼きポーツだけの簡素な朝食を終えた。そして皆が片付けを始めて仕事に行く準備を進め始めたその時、荷物を全て持って小屋をあとにする。

「あら、そんなに家の中の物を出してどうしたの?」

 まず声をかけてきたのはサビーヌおばさんだ。一番仲が良かったお母さんが、サビーヌおばさんに近づいていく。

「サビーヌ、私たち今日引っ越すことになったの。騒ぎになると思って今まで黙っていてごめんなさい。レーナのおかげで私たち全員で街中に住めるのよ」

 別れの寂しさよりも、これからへの期待に弾んだ声でそう言ったお母さんの言葉に、サビーヌおばさんは少し瞳を見開いた程度でふわっと微笑んだ。なんとなく分かってたのかな……。

「そうなのね。いつかはそうなるんじゃないかと思ってたわ。ルビナ、おめでとう」

「ありがとう。サビーヌ、これから街中での生活がどうなるのか分からないけど、落ち着いたら会いましょう。そんなに遠くないんだもの、会えない距離じゃないわ」

 2人がそんな話をしていると、その声が聞こえた近所の人たちが私たちの周りに集まってくる。その中には、エミリーとハイノ、フィルもいた。

「……レーナ、やっぱり、行っちゃうんだ……っ」

 エミリーは瞳に涙をたくさん溜めて、スカートをギュッと握りしめながらそう言った。私はそんなエミリーの姿を見て、泣かないでお別れしようと思っていた気持ちにすぐ負ける。

「エミリー……っ、泣か、ないでっ」

「ふふっ……っ、レーナも、じゃない」

「だって、エミリーが泣くから……っ」

 エミリーを強く抱きしめて肩に顔を押し付けると、エミリーも私を抱きしめ返してくれた。

「レーナ、これからも会える?」

「もちろん……! 絶対に、会えるよ。エミリーを街中の家に招待するから、遊びに来てね」

「本当!?

 私の言葉を聞いて、エミリーはぐいっと涙を拭うと今度は瞳を輝かせた。

「うん、絶対だよ。私が働いてる商会のスラム支店があるって、前に紹介したでしょ? そこにいる人に伝言してもらえれば私まで届くから」

 ちょうどエミリーと一緒に市場に行く機会があって、何気なく教えておいたのだ。スラム街支店で働く商会員にもお願いしてあるし、連絡はいつでも取れる。

「分かった……、じゃあ、たくさん伝言頼むね!」

「ありがとう。でも迷惑にならない程度にね」

 そうして私とエミリーが泣きながら笑い合っていると、フィルとハイノも声をかけてくれた。ハイノはお兄ちゃんとの挨拶は済ませたらしい。

「レーナ、また会えるって本当か?」

「本当だよ。2人のことも街中に呼ぶから楽しみにしてて!」

 もう泣いてるけど少しでも明るい別れになるようにと声を張ると、フィルは唇をギュッと引き結びながら頷いて、ハイノは優しく笑ってくれた。

「楽しみにしてる。レーナは本当に凄いな。街中でも頑張れよ」

「うん。お兄ちゃんも街中には友達がいなくて寂しいだろうし、私たちのこと忘れないでね」

「ははっ、忘れるわけないだろ?」

「ありがと」

 ハイノが私の頭をポンポンっと軽く撫でて一歩下がると、フィルが私に近づいた。

「レーナ、俺……頑張るからな! 俺もレーナみたいに凄いやつになる!」

 そして真剣な表情でそう宣言する。私はそんなフィルが微笑ましくて、思わずフィルの頭に手を伸ばした。

「ちょっ、な、何するんだ。俺は子供じゃないぞ!」

「ははっ、ごめんごめん。なんか可愛く見えて。フィル、私にできる手助けならなんでもするから、気軽に連絡して」

「……分かった。ありがと」

 それからも近所のおじさんやおばさん、仲が良かった友達たちに挨拶をして、私たち家族は住み慣れた場所を離れた。

「好意的に送り出してもらえてよかったな」

「本当だね。皆が日頃から近所の人たちと協力してたからだよ。そうじゃなかったら、もっと険悪なムードになってたと思う」

 その証拠に近所の人たちの周りには私たちを恨めしそうな目で見ている人がいたし、高いものを持ってるんじゃないかと品定めをしてくる人もいた。今もジロジロと色んな視線を向けられているから、お父さんとお兄ちゃんがいなかったら、ちょっと危なかったかもしれない。

「お母さん、これからスラムに来る時があったら、お父さんかお兄ちゃんと一緒に来ようね」

「そうね。2人がいれば安心ね」

 お母さんは私の発言の意図を理解したみたいで、手に持っている荷物をギュッと胸に抱いて頷いた。するとそんなお母さんの様子を見たお父さんが、安心しろとでも言うようにお母さんの肩に腕を回す。

「アクセル、ありがとう」

「ルビナのことは俺が守るから大丈夫だ。もちろんラルスとレーナもな」

「お父さん、ありがと」

「俺も皆を守るぞ」

 そうして皆で話しながら歩いていると、やっと外門が見えてきた。いつも通っている外門だけど、皆と一緒に通るというだけでなんだか感動する。

 この時間に外から街中に入る人はほとんどいなくて、待つことなく兵士のチェックを受けると、いつも会っている兵士の男性は私たち家族を見て瞳を見開かせた。

「もしかして、街中に引っ越すのか?」

「はい。家族皆で引っ越せることになりました」

「スラムから家族で引っ越すとか、凄いな……」

「嬢ちゃんがどうやったら街中に入れるかって聞いてきたのは、そんなに前じゃないよな? あの時スラムの子は入れないって言ったんだけどな~」

 もう1人の男性が苦笑しながら言ったその言葉に、確かにそんな時もあったなと懐かしく思う。まだそこまで昔のことじゃないんだけど、最近は毎日が濃すぎるから、瀬名風香の記憶を思い出した初期の頃のことは遠い昔のように感じるのだ。

「入れるように頑張りました」

「普通は頑張ったって無理なんだけどな、嬢ちゃんは本当にすげぇよ。嬢ちゃんは市民権があるよな? 家族はなければ1人銀貨1枚だ」

「ありがとうございます。家族の分は用意してあります」

 私は服の袖を捲って市民権を見せ、皆の入街税として銀貨3枚を支払った。そして兵士の男性たちに手を振って門を通過する。

「やっと皆で街中に入れたね!」

 外門広場の入り口で皆のことを振り返ると……3人は、瞳を輝かせて街中を見回していた。

「すっげぇな! なんか、すげぇよ!」

「お兄ちゃん、凄いしか言ってないよ?」

「だってそれ以外に言葉が出てこないんだ!」

「こんなに大きな建物がたくさんあるなんて、凄いわね」

「どうやって建ててるんだ? これって石で作ってるのか?」

 楽しそうな皆の様子に私も心が浮き立つ。やっぱり私一人じゃなくて、皆と一緒に街中に引っ越すことを目指してよかった。

「石の他にも多様な建材が使われてるんじゃないかな。スラムの家は木造だから全然違うよね」

「ここから見えてる建物が家だって言うなら、スラムのあれは家じゃないな……」

 お父さんが思わずといった様子で呟いたその言葉に、私は頷いて同意を示した。スラムのあれは小屋だ。しかもうちは特に、そろそろ取り壊した方がいいって感じのボロ小屋だった。

「壁の中と外でここまで違うなんて……」

「距離的にはすぐ近くなのに不思議だよね。──じゃあ皆、街の様子を見て回るのはあとにして役所に行こうか。引っ越しは約束の時間があるから、その前に市民権を買わないと」

「そうだったわね。役所はどこにあるの?」

「ちょっと距離があるんだけど、うーん……うちから森に行くのと同じぐらいかな」

 外壁の近くには役所がないので、前にギャスパー様に連れて行ってもらった役所まで行かないといけない。あそこはロペス商会より街の内側だから、結構距離がある。

「それぐらいなら問題ないな」

「そうね。荷物も重くないし大丈夫よ」

「それならよかった。じゃあさっそく行こうか」

 よく考えたら毎日森まで歩いたり畑まで歩いたりしてたんだから、このぐらいの距離は問題ないよね。スラムだと歩くのが当たり前だと思うんだけど、街中だと遠いと思ってしまう。

 やっぱりリューカ車の定期便とか、他の移動手段があるからそう思うのかな。

「レーナ、あれがリューカか?」

 私がリューカ車のことを考えていたら、ちょうどお兄ちゃんが道路の真ん中を進むリューカ車を指差した。

「そう。あれはどこかのお店が個人で持ってるやつかな。定期便はそうだと分かるように、車部分に定期便って大きく書かれてたりするから」

「そうなのね……凄く大きな動物ね」

「そういえばレーナ、街中にはミューっているのか?」

「もちろん。でも野良のミューはほとんどいなくて、基本的には家の中で飼われてるんだ」

 スラム街でのミューの扱いは、害虫を食べてくれる討伐しても旨みのない動物って感じだったけど、街中では完全に愛玩動物だ。日本での犬猫と同じような感じ。

「家の中で飼うのか?」

「そうだよ。家族の一員なの。だから街中でミューを見かけても、捕まえようとしたりしちゃダメだからね。どこかの家から脱走したミューかもしれないし」

「分かった。気をつける」

 それからも皆の疑問に答えながら大通りを歩いていると、ロペス商会が見えてきた。私はそこで一度足を止めて、皆に職場を紹介する。

「皆、あれがロペス商会だよ。私はあそこで働いてるの」

「……あんなに凄そうな場所で働いてるなんて、レーナは凄いな」

「予想以上だったわ……」

「さすがレーナだな!」

 お兄ちゃんとお母さんはぼうぜんと商会を見つめ、お父さんは私の頭を強めに撫でてくれた。

「ちょっとお父さん、もう少し優しく撫でて……っ」

「ははっ、悪い悪い。それでレーナ、商会に寄ってから役所に行くんだよな?」

「うん。市民権を買うお金を持ってくるよ。ここでちょっと待っててくれる?」

 さすがに金貨3枚をスラム街に持ち帰る勇気はなくて、役所に向かう前に取りに寄ろうと決めていたのだ。

「私たちは挨拶しなくていいの?」

「今は忙しい時間だし、またあとで時間を作ってもらうよ」

「分かったわ。じゃあ待ってるわね」

「ありがと。すぐ戻ってくるね」

 3人を大通りの端に残してロペス商会に向かった私は、皆のことが心配で駆け足で裏口に向かった。そして休憩室にいる皆に挨拶をして、更衣室にあるロッカーを開く。

 1、2、3、ちゃんと3枚あるね。金貨を3枚握り締めたら、さらにロッカーの中に畳んでおいた上着と靴を4つずつ取り出す。これは事前に買っておいた、街中でも浮かない質のものだ。さすがにスラムの服装で引っ越すのは目立ちすぎるから、事前に準備していた。

「皆、お待たせ」

「……凄い荷物ね。お金だけを取りに行ったんじゃなかったの?」

「上着と靴も持ってきたの。私たちの服装は目立つでしょ? 全部着替えなくても上着を羽織るだけで違うと思うから。あと靴も履き替えて欲しい」

 私の言葉に皆は素直に頷いてくれて、それぞれの服を手にした。

 大通りを路地に入った人通りが少ないところで、全員で素早く着替えをする。すると……皆の印象が大きく変わった。明らかに貧しい家族といういでちが、街中に住む普通の家族ぐらいにはなった。やっぱり裾が長い上着にして正解だったかな。ボロい服は隠れてるから、じっと服装を観察されない限りは、街中にいても違和感がない。あとは靴が変わると全然違うね。

「これって革の靴か?」

「そうだよ。中古の安いやつにしたから、サイズが合う靴はまたあとで買おうね。履けないと困ると思って大きめにしたの」

「なんか、街中の人になったみたいだな!」

「うんうん、お兄ちゃん似合ってるよ」

 私は嬉しそうなお兄ちゃんを横目に、自分も上着を羽織った。私は制服に着替えてもよかったんだけど、1人だけ明らかに上等な服を着てるのも微妙かなと思って皆と同じにしたのだ。

「この時期に上着なんて暑いと思ったけど、意外と大丈夫ね」

「防寒というよりもオシャレ重視の薄い上着だからね。でも色が濃いやつにしたから下の服は透けないし、結構いいでしょ?」

「ええ、着心地もいいわ」

「父さんは似合ってるのか?」

 不安そうに自分の体を見下ろしたお父さんに、私はすぐに頷けなくてあいまいな返事になった。お父さんはこういうオシャレな格好より、もうちょっとワイルドな感じの方が似合いそうだ。

「……似合ってなくはないけど、もう少し違う系統の服の方がいいかも。服を買う時に色々と見てみようよ」

「そうだな」

 それから脱いだ靴を袋の中に仕舞って隠し、私たちはスラムの住人から街人に生まれ変わった。さっきまでよりも街に溶け込みながら、また役所に向かう。

 しばらく歩いていると、少し先に役所の建物が見えてきた。

「皆、あれが役所だよ」

 指差した方向に視線を向けた皆は、ポカンと口を開けて呆然と役所を見上げる。

「すげぇな」

「大きいよね。でも街中では土地が限られてるから、縦に大きな建物より横に大きい建物の方が凄いんだって」

「へぇ~、そうなのか。この建物も十分凄いけどなぁ」

 まだ圧倒されている様子の皆を連れて役所のドアを開けると、前に私の対応をしてくれた女性がちょうど受付にいた。私はその顔を見て、安心して少し体の力を抜く。

 知ってる人でよかった。色々と疑われたりしたらどうしようって、少し緊張してたのだ。

「本日はどのようなご用件でしょうか?」

 受付に4人で向かったら、にこやかな笑みを浮かべて声をかけてくれた。

「今日は市民権を買いに来ました。私が市民権を持っていて、この3人の分の購入です」

「かしこまりました。3名様で合計金貨3枚となりますが、よろしいでしょうか?」

「大丈夫です」

「ではこちらにご記入をお願いいたします。私が代筆もできますがいかがいたしますか?」

「ご迷惑でなければ、よろしくお願いします。私も書けるのですが、まだ時間がかかってしまうので」

 その言葉を聞いた女性は「かしこまりました」とにっこり微笑んで、書類を自分の向きに変えた。ペンを持ってお父さんから順番に、必要事項に関する質問をして空欄を埋めていく。

 女性の文字はとても綺麗で書くのが早くて、私は思わず見入ってしまった。こんなふうに書けるようになりたいな……これが理想だ。

「お答えいただきありがとうございました。では市民権の発行までしばらくお待ちください」

「はい。代筆ありがとうございました」

 それから役所の中にあるソファーに腰掛けて、発行までの待ち時間を潰すことになった。皆はまずソファーの座り心地に感動して、次に興味が移ったのは掲示板に貼られた求人用紙だ。

「レーナ、これはなんて書かれてるんだ?」

「それは食堂で働く給仕の募集だって。人を雇いたいなって思った時に、少しお金を払えば役所に求人を出してもらえるんだよ」

「そうなのね……じゃあ私たちもここで仕事を探したらいいんじゃない?」

「確かにありだね。見てみようか」

 端から求人内容を読み上げていくと、いくつか皆に向いてそうな仕事があった。

「この仕事なんてどう? 木材加工工房が人を集めてるんだって。初心者でもいいけど長く働いてくれる人を求めてて、手先が器用な人が有利だって書いてあるよ」

「アクセルにピッタリじゃない」

 お父さんは木を切る仕事をしてたけど、木を加工するのも得意だったのだ。細かい作業ができる道具がほとんどない中で作ったカトラリーやテーブルは、割といい出来だった。

「応募してみるのもありかもね」

「そうだな。これっていつまでなんだ?」

「期日は1週後までだね。今日は忙しいし、また明日以降に来ようか」

「分かった。そうしよう」

「レーナ、俺に向いてそうなのはあるか?」

「うーん、お兄ちゃんはまだ若いし、なんでもできると思うんだよね……」

 色んな工房からの募集が出てるから、この中ならどれを選んでもいいんじゃないかな。役所の受付とか高級店の店員とか、そういうのは無理だろうけど。

「木材を扱う工房はこの辺で、金属加工はこの辺。荷運びの仕事の募集とかもあるよ。この辺は食堂かな」

「色々あるんだなぁ」

「ゆっくり考えたらいいよ。そこまで急がなくても大丈夫だから」

「そうだな」

 そこまで話をしたところで受付の女性から声をかけられたので、私たちは受付に戻った。そして市民権を受け取り、皆でそれを感慨深く眺める。

 これで家族全員が、正式にこの国の平民だ……!

 いくつか説明を受けた私たちは女性に感謝を伝えて、役所をあとにした。役所の外に出たところで全員で顔を見合わせ、皆が満面の笑みを浮かべる。

「レーナ、ありがとな!」

「わっ、お父さん、突然は驚くよ!」

 お父さんにぐいっと抱き上げられて、急に目線が高くなった。

「はははっ、ごめんごめん。嬉しくてな」

「私たちもここに住めるのね」

「嬉しいな!」

 皆は人目もはばからずに一通り喜び合って、やっと落ち着いたところで、これから住む部屋に向かうことになった。

「部屋はこっちにあるのね?」

「うん。ロペス商会から結構近い場所なんだよ。大通りを入ってすぐのところだから、治安もかなりいいと思う」

 役所まで歩いてきた大通りをそのまま戻って、目印のオシャレなカフェがある場所から路地に入る。そして少し先に進むと……これから私たちが住むことになる建物が見えてきた。

「あの建物だよ」

「あ、あんなに大きくて凄い建物に住めるのか!?

「うん。でも建物全てじゃなくて、3階にある1部屋だけね」

「それでも凄いな」

「本当ね……こんな場所に住める人生だなんて、少し前までまったく想像もしてなかったわ」

 皆が感動しながら建物を見上げていると、ちょうどコームさんが建物から出てきたようで、私に気づくと頭を下げてくれた。

「コームさん、お待たせしてしまいましたか?」

「いえ、私も少し前に来たところでございます」

「それならよかったです。家族を紹介させてください。こちら父と母、それから兄です」

 皆を紹介すると、コームさんは3人の顔を順番に見回してから頭を下げた。

「初めまして。コームと申します。レーナ様にお部屋をご紹介させていただきました。本日はよろしくお願いいたします」

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。ルビナです」

「アクセル、です」

「ラルスです」

 皆は緊張の面持ちで、しかしちゃんと覚えた丁寧語を使って挨拶をした。それを聞いたコームさんは、僅かに瞳を見開いてからにっこりと微笑む。スラム街出身の家族が丁寧語を使えることに驚いたのだろう。

「ご丁寧にありがとうございます。ではさっそく管理者を紹介させていただきますので、こちらへお越しください」

 コームさんによって促された私たちは、管理人のご夫婦がいる管理人室に入った。

 契約時にも入った管理人室の中は、以前と全く変わっていない。優しげな笑みを浮かべているご夫婦も変わらずだ。

「いらっしゃい。あらあら、とても仲が良さそうなご家族ね」

「お久しぶりです。父と母、兄です」

 ご夫婦にもコームさんに対してと同じような挨拶をすると、お2人は優しく微笑んでくれた。そしてさっそくと棚から鍵を取り出すと、私に手渡してくれる。

「これが部屋の鍵だよ。4人家族だと聞いていたから4つ渡すけど、なくさないように気をつけて。退去の時に鍵が揃っていなかったら、鍵を交換する費用をもらうことになるからね」

「分かりました。気をつけます」

 4つ用意してくれるなんて、凄く親切だよね。本当にこの部屋を選んでよかった。

「じゃあ部屋に案内しようか。部屋の掃除はちゃんと終わっているから、問題ないとは思うけど確認してくれるかい?」

「はい。確認させていただきます。問題がなければ、すぐに住み始められますか?」

「もちろんだよ」

 そうして私たちは、皆で3階へ移動することになった。長い階段を上るのも初めてな皆は、興味深そうに廊下を見回していて、部屋に入る前から楽しそうだ。

 お父さんが人生で初めての鍵に手間取りながら、ドアを開けると──

「おおっ!」

 開いたドアから中を覗いた皆は、3人で揃えて感嘆の声を上げた。私はそんな皆の背中を押して部屋の中に促す。

「早く入ろう。廊下で騒いでたら他の住民に迷惑だから」

「そ、そうね」

「……うわぁ、すっごく綺麗じゃないか? 本当にこんなところに住むのか?」

「い、色々あるな。何がこんなにあるんだ?」

 ほとんど何もないスラムのボロ小屋との落差に、皆はかなり困惑している様子だ。そんな皆のことを迷惑がらずに待ってくれている管理人ご夫婦とコームさん、本当にいい人たちだ。

「時間がかかってすみません。すぐに中を確認しますね」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 それから私は困惑して感動してと忙しい皆は置いておいて、部屋の中に問題がないかをざっと確認した。そして特に問題はなさそうなので、その旨を管理人さんに伝える。

「問題なさそうです。綺麗に掃除してくださってありがとうございます」

「それならばよかったです。ではこちらの入居確認書類に署名をしていただけますか?」

「私の方でも、ご紹介完了書類への記入をお願いいたします」

 管理人の男性とコームさんに書類を手渡され、私はカウンターの上で素早く署名をした。これで引っ越し手続きは全て完了だ。

「ありがとうございます。では私たちはこれで失礼いたします。何かありましたら、管理人室まで来てくださいね」

「分かりました。これからよろしくお願いいたします」

「私も失礼させていただきます。またご相談などありましたら、お声がけください」

「はい。また何かありましたら、相談させていただきます」

 管理人のご夫婦とコームさんを送り出した私は、皆がいる部屋の中を振り返って、どこか落ち着かない様子の皆に声をかけた。

「これで引っ越しの手続きは全部終わったよ。今この瞬間から、この部屋が私たちの家になりました!」

 笑顔で告げたその言葉に、皆もやっと実感できたのか頰を緩め、部屋の中をもう一度見回す。

「本当にこんな部屋に住めるなんて、凄いわね。レーナは凄いわ」

「レーナ、部屋の使い方を教えてくれるか?」

「もちろんいいよ。じゃあ入り口の近くから説明していくね。まずはここなんだけど──」

 それから皆に部屋の使い方を一通り説明して、それが終わったところで、何もないリビングの真ん中に皆で集まった。

「じゃあ皆、これからやることなんだけど、まずは何よりも買い物かな。この部屋には何もないから、色々と買い揃えないといけないんだ。テーブルと椅子、あとはベッドに入れる布団。それから調理器具各種。水場で使うおけやタオルも必要だね。あとは皆の服と鞄もないと不便だから買わないと」

 私が指折り必要なものを挙げていくと、皆は楽しそうな笑みを浮かべた。しかしお兄ちゃんがハッと何かに気づいたような表情を浮かべ、心配そうな様子で口を開く。

「そんなに買って大丈夫なのか? 金がかなり必要じゃないか?」

「……確かにそうだったわね」

「もし足りないなら、父さんの服はこのままでもいいぞ」

「そうよね。布団だってなくても大丈夫よ」

 皆が心配そうな表情で慌てだしたので、私は安心してもらえるように笑みを浮かべた。

「気にしなくて大丈夫だよ。お金はまだあるから」

 市民権はダスティンさんがアイデア料としてくれたお金で買えたので、私が働いて得た給料は丸々残っているのだ。これからの生活を考えたら無駄遣いはできないけど、生活必需品を買うぐらいなら問題はない。

「よかったわ。……でも私たちも早く仕事を見つけないといけないわね」

「そうだな。いつまでもレーナに頼りきりじゃダメだ」

「俺も頑張って働くぞ!」

「落ち着いたらすぐに仕事を見つけようか。そのためにも、今日中に必要なものを揃えよう」

「確かにそうね。じゃあ行きましょう」

 私たちは買ったものを入れるためのかごや袋、そしてお金を持って部屋を出た。ここからは楽しい買い物の時間だ。


 部屋を出て1階まで階段を駆け降りた私たちは、建物の周辺をほうきで掃除している管理人ご夫婦に挨拶をして、さっそく市場に向かった。

「街中の市場はスラムにないものがたくさんあるのよね」

「うん。だから見てるだけで凄く楽しいよ。最後に今日の夜ご飯の材料も買って帰ろうね」

「夜ご飯、楽しみだな! 焼きポーツじゃないんだよな?」

 お兄ちゃんは夜ご飯という言葉に、瞳をキラキラと輝かせている。私はそんなお兄ちゃんの表情を見て、苦笑しつつ口を開いた。

「焼きポーツじゃないものにしようか。街中の市場には色んな食材が売ってるから。もう完成してる料理も売ってるし、それを買うのもありかも」

「おおっ、屋台飯って言うんだよな!」

「お兄ちゃん、よく覚えてるね」

「ご飯に関することだけは完璧だ」

 そう宣言したお兄ちゃんの表情はドヤ顔だ。やっぱり人間、好きなものに対しては凄い力を発揮するよね。

「屋台飯って高くないのか?」

「うーん、食堂とかカフェで食べるよりは安いよ。でも食材を買って家で調理するってなると……そっちの方がより安いかな。特にうちはお父さんが火魔法を使えるでしょ? だから火種も買わなくていいし」

「確かにラルスは精霊魔法が得意だものね」

 街中で魔法使いの魔法を見る機会は何度もあったけど、お父さんの魔法はそれに匹敵するとは言わないまでも、普通に街中で使っても問題ない程度の上手さなのだ。

 少なくとも火種を作り出したら部屋中の魔力が枯渇するとか、そういう心配はいらない。

「レーナ、俺も火の女神様の加護を得てるんだからな」

「それは知ってるけど……お兄ちゃんは、精霊魔法かなり苦手でしょ?」

 そう言われたお兄ちゃんはねたように少しだけ唇をとがらせたけど、ここは擁護できない。だってお兄ちゃんの精霊魔法はまずほとんど発動しないし、さらには発動したらしたで周囲の魔力が根こそぎなくなるらしいのだ。

 私はお兄ちゃんが魔法を使ったところをよく覚えていないけど、皆がお兄ちゃんに魔法を使うなと言っていたのは覚えている。

「そうだけどさぁ。……父さんは上手くて羨ましいな」

「ラルスは諦めなさい。あなたは私に似たのよ。私も精霊魔法が得意じゃないもの」

「やっぱりそうだったんだ。お母さん、分解以外で全く魔法を使わないもんね」

「ええ、分解もできればやりたくなかったのよ。でもあの地域では土の女神様の加護持ちで精霊魔法が得意な人がいなくて、複数人でなんとか分解してたわ。街中では魔法使いに頼めるんでしょう?」

「うん。だからもうお母さんが魔法を使う必要はないよ」

 お母さんが魔法を使ったら部屋中の魔力が一度でかつして、回復するまでしばらく魔法が使えなくなりそうだ。だから使う必要がないというよりも、使っちゃダメが正しいかも。

 魔力がなくなったら回復するまでの期間、かなり大変だからね……汚物をわざわざ運び出して分解してもらわないといけなくなる。

 今思い返せば、スラムで汚物を頻繁に分解できないのは魔力がなくなっちゃうからだって言ってたけど、あれって精霊魔法が苦手な人たちが分解してたからなんだね。

「あ、もしかして市場ってあそこか!」

 色々と話をしながら足を進めていると、お兄ちゃんが見えてきた市場を指差して叫んだ。

「そうだよ」

「ラルス、1人で勝手に行ってはぐれないようにしなさいよ。ここはスラムじゃないんだから」

「分かってるって。早く行こうぜ」

「そうだな。まずは何を買うんだ?」

 色々と買いたいものはあるんだけど……とりあえず細かいものからかな。大きなものは他の買った荷物を部屋に置きにいって、戻ってきて最後に買うのでもいいだろうし。

「服と鞄、それから水場で使う桶と布。あとは調理器具かな。その辺から探そう」

「分かった。それならあの店はどうだ?」

 お父さんが市場の入り口近くにある店を示したので視線を向けると、そこではたくさんの布が店先に並べられていた。

「行ってみようか」

 近づいてみると、そこは布屋というよりも服屋だった。布だと思ったのは畳まれていたシャツで、多種多様な服が所狭しと並べられている。

「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」

 私たちが近づくと、店員の女性がにっこりと笑みを浮かべながら声をかけてくれた。

「服を探しています。家族4人なんですけど、サイズってありますか?」

「もちろんです。多様なサイズを用意しています」

「じゃあ、それぞれに合うサイズの服を教えていただきたいです」

 その要望に女性はすぐ頷くと、私たち家族をじっと凝視して服に視線を戻した。そして棚や平積みになっている服から、的確にいくつかの服を引っ張り出して並べてくれる。

 どこにどんな服があるのかを覚えてるのかな……凄いね。この店のプロって感じだ。

「お待たせしました。こちらが皆さんに合うサイズの服です」

「ありがとうございます」

 私は他よりも明らかにサイズが小さい服の中から一番上にあったものを選び、目の前に掲げてみた。するとダスティンさんが買ってくれた服や制服よりはもちろん劣るけど、シンプルながらもワンポイントがあって可愛いワンピースに心が躍る。

 これからはお洒落もできるんだね。雑巾ワンピースとの別れが嬉しい。いや、お母さんが作ってくれた思い出の服ではあるんだけど、とにかく汚すぎるのだ。

「あら、可愛いわね」

「お母さんもそう思う? 私はこれと……これにしようかな。皆は決まった?」

 それから私たちは気に入った服を見せ合って、予想以上に服が安かったことと、たくさん買ったら割引してくれるという話を聞き、3着ずつ購入した。

 買った服を全て袋に入れてお父さんに持ってもらったら、さっそく次のお店に向かう。


 そうして楽しく買い物をすること数時間。私たちは大きな家具以外の必要なものを全て揃えることができた。調理器具を購入したお店から少し離れ、これからの動きを相談するために立ち止まる。全員の腕にはここまでの数時間で買った必要なものが、たくさん抱えられていた。

「一度部屋に戻る? あと買いたいのはテーブルと椅子、それから布団だから、今の状態じゃ買っても持てないと思うんだけど……」

「そうだな。さすがに父さんでもこれ以上は厳しい。戻ってまた来るか」

「それがいいわね」

 満場一致で一度帰ることに決めた私たちは、重い荷物をなんとか抱えてアパートまで戻った。そして最後の難関である3階までの階段を上がると、部屋の鍵を開けてすぐ中に入る。

「ふぅ、やっとこれが置けるわ」

「さすがに重かったな……」

 荷物を置けるような家具はないので床に直接置くと、私たちは体を伸ばして一息ついた。

「皆、まだいける? 疲れたなら残りの買い物はまた後日でもいいけど」

「いや、俺はいけるぞ」

「俺もだ」

「母さんも頑張るわ。早く引っ越しを終わらせて、街中の生活に慣れないとだもの」

「じゃあ、また市場に戻ろうか。でもその前に買ってきた服に着替えよう」

 皆で着替えをして今度こそ街人への完全変身を遂げた私たちは、さっきの市場に戻った。そして今度は家具を売っているお店に向かう。

 ただ市場で家具を売っているお店といえば中古品店なので、テーブルと椅子がセットで揃っているというものはなかなかない。

「できればセット売りしてるやつがいいんだけど……」

 バラバラでも機能性に問題はないけど、やっぱり見た目に統一感がないのは微妙だ。安さを追求するならそれもありなんだろうけど、家具は長く使う物だし納得できるものを買いたい。

「レーナ、この机はどうだ?」

「おお、悪くないかも。シンプルだけど頑丈そう」

「いらっしゃいませ。こちらのテーブルおすすめですよ」

 私がお兄ちゃんと話をしていたら、店員の男性が笑顔で声をかけてくれた。

「あの、1つ聞いてもいいでしょうか。テーブルと椅子でセット売りしてるものは、市場にありますか? このテーブルじゃなくても構いませんので」

「セットですね……椅子はいくつあればいいですか?」

「4つです」

 4つという返答を聞いてあごに手を当てた男性は、記憶の中の在庫を探っているのかしばらく考え込んだ。そしてハッと顔を上げると、私に1枚の紙を渡してくれる。

「私の記憶が確かならという曖昧なものですが、たぶんここの市場のお店にセットで販売しているテーブルセットがあったはずです。とてもシンプルなもので、木造の家具に艶出し剤と防水剤が塗られている程度です」

 男性が渡してくれたのは簡易の地図だった。それによると、その市場までは歩いて数十分らしい。自宅から遠ざかるって方向じゃないし、行ってみるのもありかな。

「皆、ここに行くのでいい?」

「私はいいわよ」

「俺もだ」

「じゃあ行ってみようか。教えてくださってありがとうございます」

 店員の男性にお礼を言って自宅に一番近い市場をあとにした私たちは、初めて通る道を楽しみながら2つ目の市場に向かった。

 そして市場に到着すると、目的のお店を入り口近くにすぐ見つけることができた。中を覗いてみると……たくさんの商品の中に目当てのテーブルセットを見つけた。

「すみません! それ、試してみてもいいですか?」

 見つけた嬉しさで前のめりに店員さんへと声をかけると、女性店員さんは笑顔で私たちを中に入れてくれた。

「どうぞ、試してみてください」

「ありがとうございます。……おおっ、悪くないかも」

 手触りはツルツルで引っかかるところはないし、近くで見ても傷やシミなどはほとんどない。前の使用者は綺麗好きだったのかな。椅子の座り心地は……私はまだ小さいから座るのが少し大変だけど、それ以外に気になるところはない。

「皆はどう?」

 私と同じように椅子に腰掛けた皆を見回すと、全員が気に入ったようだった。

「気に入っていただけてよかったです」

「これ、おいくらですか?」

「セットでご購入いただければ、銀貨4枚とお安くなっております」

 銀貨4枚……高いな。家具にしては高くないのは分かってるけど、今の所持金を考えたら高い。でも家具はずっと使うものだし、気に入った質がいいものを買いたいよね……。

「皆、これを買ったらベッドの布団は安いものになるけど、それでもいい?」

 私のその問いかけに、皆はすぐに頷いた。

「もちろんいいわよ。スラムで使ってたあの布よりは、いいものになるんでしょ?」

「それはもちろん!」

 逆にあの布よりも質の低い布を探す方が難しい。あれ以下となったら……もう布じゃなくて葉っぱとか?

「それなら問題ないな。じゃあこれにしよう」

「こちら購入しますか?」

「はい。買います」

 そうして購入を決めた私たちは、テーブルセットを少しだけこのお店に置かせておいてもらって、その間に別のお店で布団と夕食を購入した。そしてお父さんが大活躍して購入品を全て部屋に運び込んだら、さっそく新しいテーブルを使って夕食だ。

「早く食べようぜ!」

 お兄ちゃんが屋台で買ってきた料理を広げて、満面の笑みを浮かべている。

「そうね。お腹が空いたわ」

「全部中身は同じなんだよな?」

「うん。最初だから私のおすすめだよ」

 今回買ってきた料理は、ラスート包みだ。中身はハルーツの胸肉とキャレーの千切り、それから火を通したオニー、さらにミリテが少し入っている。

「周りの紙は食べられないから、剝きながら食べてね」

「おうっ。──う、美味っっ!」

 お兄ちゃんはガブっとラスート包みにかぶりつくと、瞳をぐわっと見開いてそう叫んだ。

「お兄ちゃん、他の部屋に住んでる人にうるさいから静かに」

「あっ、そうだったな。これ、めちゃくちゃ美味いぞ」

「本当ね……なんだかよく分からないけど、とにかく美味しいことは分かるわ」

「色んな味がするが、とりあえず美味いな」

 人生で初めての味に困惑もあるみたいだけど、皆の顔は晴れやかだ。

「美味しいものを食べてる時って幸せだよね」

「ふふっ、本当ね」

「これからの生活が楽しみだな」

「こんなに美味いものを食べられる生活とか、最高すぎるぜ」

 それからも私たちは美味しいラスート包みを堪能し、幸せな気分で街中での初めての夜はけていった。