3章 楽しい日々と街中への引っ越し
その日もいつものように仕事をこなしていると、ギャスパー様が資料室に顔を出して私を商会長室に呼んだ。少し緊張しながら付いていくと、商会長室にあるソファーを勧められる。
「突然ごめんね」
「いえ、大丈夫です。何か仕事に関して、問題などがありましたでしょうか……」
やらかしたならせめて自分から話を切り出そうと緊張しながら問いかけると、ギャスパー様はすぐ首を横に振った。よかったと安堵しつつ、それならなんの話だろうと疑問に思う。
するとギャスパー様が、1枚の紙を机の上に載せた。それは筆算の授業中に、ギャスパー様がメモをしているものだ。
「今日は筆算について話があるんだ。今までの授業で筆算のやり方を理解したけれど、これはうちの商会だけで共有していていいようなものじゃない。だから筆算を、研究として国に提出しようと思っている。そこで発案者のレーナに意見を聞きたいんだ」
研究として、国に提出……? 私は驚きすぎて、すぐに言葉が出てこなかった。
「研究として国に発表して、その内容が有益なら国に名前が売れる。さらにはその研究に関して何かしらの事業が始まる場合、研究者にもお金が入ることが多い。その情報をしっかりと認識した上で考えて欲しいんだけど、研究をレーナの名前で発表するので構わないかい?」
ギャスパー様のその問いかけに、私はまだ事態を飲み込めていなかったけど、ほぼ反射で首を横に振った。するとギャスパー様は苦笑を浮かべて、もう一度私に質問してくれる。
「そう言われる気がしていたけれど、本当にいいのかい? 国に名が売れれば、国の研究機関などに雇われることだってあるはずだ」
「……はい。私の名前は出さなくていいです」
というか、ぜひ私の名前は隠して欲しい。確かに名前が売れたらメリットはあるんだろうけど、絶対それに伴うデメリットもたくさんあるはずだ。
私はそこそこの暮らしができれば他に望むのは平穏だけだから、目立つのは避けたい。国に名前を覚えてもらうなんて、名誉というよりも
「筆算を研究として提出することは構いませんが、名前は隠していただけると助かります」
もう一度しっかりと自分の意思を伝えると、ギャスパー様は頷いてくれた。
「分かった。レーナの望みならばそうしよう。では研究者名はロペス商会にしておくよ。あれは組織名でも受理されるからね」
「そうなのですね。ではそれでお願いします」
それなら安心だと感謝の気持ちを込めて頭を下げると、ギャスパー様は苦笑を浮かべる。そして切り替えるように居住まいを正すと、また口を開いた。
「研究として提出するには資料を作らないといけないんだ。その資料作りは、レーナに頼んでもいいかい? 助手はポールに任せよう」
「もちろんです。ポールさんが手伝ってくれるのなら安心です」
ポールさんはすでに一部の筆算について、私よりも深く理解してるくらいだ。ポールさんの頭の良さには本当に驚く。数学的なことに関する才能は商会の誰よりも、もしかしたらこの国の中でもトップクラスじゃないかと思う。
「ありがとう。では2人で資料作りができるように、仕事の内容を少し変更しておくよ。そうだね……レーナは基本的に午後は計算だったかい?」
「そうです」
「それならば、その時間の一部を資料作りの時間にするのが一番かな。ポールの配達予定がある日は、他の人にずらしてもらって……」
それからギャスパー様はメモ用紙に私たちの仕事について決めたことを書き込み、最後には私に対して優しい笑みを向けてくれた。
「レーナ、君には
「本当ですか! ありがとうございます」
私は褒美という言葉が嬉しくて、思わず身を乗り出してしまった。だって褒美をもらえるなんて、瀬名風花時代も合わせて初めてだったのだ。
しかも私の意見を加味してくれるなんて、やっぱりギャスパー様は最高の上司だ。
「そこまで高いものじゃないとありがたいかな」
勢いが凄かったからかギャスパー様がそう付け足したので、私は大きく頷いた。
「常識的な範囲内のものにします」
「それでお願いするよ。……それにしても、常識的なんて言い回しをよく覚えたね」
「……読み書きを教えていただく時に、一緒に難しい言葉も覚えてるんです」
これはあながち噓ではない。ただそれ以外に、普段の会話から言葉の意味を予測して覚えているというのも大きい。
私は日本語で一通りの言葉をマスターしてるから、他の人よりもそれが容易にできるのだ。
「本当にレーナは頭がいいよ。これからも頑張ってね。期待しているよ」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
「じゃあポールにも話をしたいから、呼んできてくれるかい? レーナはポールに声をかけたら、仕事に戻っていいよ」
「かしこまりました。では失礼いたします」
そうしてギャスパー様との話を終えた私は、商会長室から出てほっと息を吐いた。やっぱり雇い主の部屋に呼ばれるのって緊張する。
店舗のカウンター内で商品の包装をしていたポールさんに声をかけ、また資料室に戻る。そして時計を確認すると、終業時間まであと1刻ほどだった。1刻もあれば、かなり進められるかな。私は気合を入れて、またペンを握った。
*****
忙しく仕事の日々は過ぎ去っていき、2回目の9連勤を終えた。これがこの世界の標準だとはいえ、日本では5連勤が標準の社会で生きていたので、まだ慣れない。
9日も働いて休みは1日だけなんて、この国の人たちは働き者だよね……。
そんなことを考えながら向かっているのは、街中の市場だ。
今日は前回の休日と同様に、ダスティンさんの工房へ向かう予定だけど、その前にジャックさんへのお祝いの品を買いに来た。私がロペス商会に雇ってもらえたお祝いに整髪料と櫛をもらったので、そのお返しをしたいと思っていたのだ。
それから、ダスティンさんのところに持っていく手土産も買いたい。この前子供って言われたからね……実際に子供だってことは否定しないけど、少しは大人な部分も見せたい。
──こうしてムキになるところが子供だって言われたら、反論できないけど。
まあ大人な部分を見せるとか関係なく、色々と良くしてもらってるんだから、手土産ぐらい持っていくべきだよね。
「いらっしゃいませ~。可愛いお花が揃ってますよ」
市場を見て回っていたら、お花屋の女性に声をかけられた。でもお花は……さすがに違う。ダスティンさんへの手土産は甘いもので決まりだし、ジャックさんへのプレゼントはもう少し実用性があるものがいいだろう。
例えばちょっとオシャレなペンとか。あっ、髪飾りが売ってる。でも髪飾りはたくさん持ってるよね……さすがにあれ以上あっても仕方ない気がする。
ジャックさんは、ギャスパー様に似合うだろうから接客の時に髪飾りを付けてみなさいと言われ、それを付けてお店に出たら、お客さんに大好評だったのだ。それで一部のお客さんからは髪飾りをプレゼントされたりもして、今では日替わりで違う髪飾りを付けている。
確かに凄く似合ってたから、プレゼントしたくなる気持ちは分かるんだよね……。でもさすがにジャックさんは1人しかいないんだし、もう髪飾りは必要ないはずだ。
──そうだ、髪飾りを仕舞っておくための箱はどうだろう!
私はいいプレゼントが思いついて、思わず立ち止まってしまった。確かジャックさんが、ロッカーの中が髪飾りでいっぱいで大変だって、この前言ってたはずだ。
「すみません。髪飾りを綺麗に仕舞っておける箱って売ってますか? 贈り物なんですけど」
さっそく髪飾りを売ってるお店の店員さんに聞いてみると、店員の女性は笑顔で頷いてくれた。店頭には出ていない商品のようで、いくつか後ろから取り出してくれる。
「こちらの3つですね。右から2つは引き出しタイプで、左のものは開戸タイプです」
「ありがとうございます」
3つの箱は、どれもシンプルだった。装飾などはなくて機能性重視という感じだ。やっぱりそこは市場のお店なのだろう。お洒落なものは、大通り沿いの雑貨店とかに売ってるのだ。
でも私にとってはちょうどいい。ジャックさんは装飾されたお洒落な箱より、シンプルなものの方が喜びそうだから。
どっちがいいか悩むね……。引き出しタイプの方が収納できる髪飾り数が多いって利点があるけど、開戸タイプには開いてすぐに全部の髪飾りを見られるっていう利点がある。
ジャックさんは……やっぱり利便性重視かな。引き出しタイプだと、奥に仕舞ったものは、ずっと使われなさそうだ。
「これはいくらですか?」
開戸タイプの箱を示してそう聞くと、店員の女性は笑顔で答えてくれた。
「銀貨1枚です」
ちょっと高いけど……まあいいかな。ジャックさんが気にしてしまう金額ではないはずだ。
「じゃあ、これでお願いします」
「分かりました。お買い上げありがとうございます」
お金を支払って持っていたトートバッグ型の
それから私は楽しく市場を見て回って、ダスティンさんへの手土産も無事に買うことができた。さらにいつもお世話になっているロペス商会の皆にも、ちょっとした手土産を買った。
皆にはお昼ご飯を分けてもらったり、お菓子をもらったり、可愛い髪飾りをもらったり、思い返せばキリがないほどにたくさんの物をもらってるから、お礼がしたいと思ってたのだ。
たくさんの荷物を持ってロペス商会に向かうと、ちょうどジャックさんとポールさん、それからニナさんが休憩室にいた。昨日帰る前に今日の休憩表を見ておいたけど、ちゃんと時間通りだったみたいだ。
「あれ、レーナちゃんどうしたの? 何か忘れ物?」
「いえ、皆さんに少し用事があって寄りました。まずはジャックさん、かなり遅れちゃったけど本店に異動おめでとう! あと私をギャスパー様に紹介してくれて、本当にありがとう。ちゃんとお礼もお祝いもできてなかったから、遅くなったけどこれ使ってくれたら嬉しいな」
改めてお祝いや感謝を述べるのはなんだか恥ずかしくて、ちょっとだけ早口になりながら鞄から箱を取り出すと、ジャックさんは驚きの表情のまま受け取ってくれた。
「それ、髪飾りを収納できる箱なの。ジャックさんは1つ持ってたら便利かと思って」
「……レーナ、ありがとな。すげぇ嬉しい」
ジャックさんは嚙み締めるようにそう言って、ニカッと眩しい笑みを浮かべた。喜んでもらえてよかった……やっぱりこういうプレゼントって緊張する。
「レーナちゃん! 本当にいい子ね……!」
「うわっ」
私たちの様子を見ていたニナさんが、感極まった様子で私をぎゅっと抱きしめた。
「ジャック、絶対大事にしなさいよ! 一生大事にしなさいよ!」
「お、おうっ、もちろんだ」
「いや、別にそこまでしなくても……」
「いいえ、レーナちゃんからの贈り物なのよ? そのぐらいは当然よ」
私を解放すると、腰に手を当ててそう宣言するニナさんは、なぜか自慢げで可愛らしい。ニナさんにも何か買ってくればよかったかなぁ。ニナさんって意外と可愛いものが好きだから、可愛いぬいぐるみのキーホルダーとか喜んでくれる気がする。
「あの、これは皆さんになんですけど、クッキーの詰め合わせを買ってきました。いつも色々といただいてるので。休憩の時にでも食べてください」
とりあえず皆への手土産を渡そうと思って鞄から取り出すと、それに真っ先に反応したのは予想通りポールさんだった。
「クッキー! 買ってきてくれたの!?」
「はい。日頃の感謝とお礼に」
「レーナちゃん、ありがとね」
ポールさんが感動の面持ちでクッキーを受け取り、さっそく開けようとしたところで……ジャックさんとニナさんが同じタイミングでポールさんの頭を軽く
「ポールは一番最後だ」
「そうよ。ポールが食べたら一瞬でなくなるじゃない。まずはギャスパー様に持っていって、次に皆で分けて残ったのをあげるわ」