1章 街中での生活


 仕事2日目の朝。私は昨日と同じように外門までお父さんに送ってもらい、街中に入った。余裕を持って家を出たので、ロペス商会の本店に到着したのは少し早めの時間だ。

 裏口から中に入ると、ちょうどジャックさんが更衣室から出てきたところだった。他にはポールさんと、もう1人優しい雰囲気の男性がいる。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします」

 あいさつは大事だと笑顔で声をかけると、3人は私と同じように笑顔で挨拶を返してくれた。

「今日も早いな。昨日はかなり頑張ってたってニナに聞いたけど、疲れてねぇか?」

「うん、全く問題ないよ。ジャックさんはどう? 本店での仕事は大変?」

「そうだなぁ、かなり大変だ。でもやりがいがあって楽しいぞ」

 そう言ってニッと笑みを浮かべたジャックさんは、凄く凄くかっこいい。ここにスマホがあったら確実に連写してたよ……。本当にジャックさんって、この制服が似合ってるよね。

 それに長髪ポニーテール。これが本当にかっこいい。長髪イケメン……推せるっ!

 私がそんな馬鹿なことを考えていると、ジャックさんも私の姿をじっと見つめていた。

「レーナがその格好してると、今まで通りでなんか落ち着くな」

「そうかな?」

 確かにジャックさんとは、このスラムの格好で接してる時間の方がまだ長いもんね。

「そうだ、レーナ。更衣室に入る前に、ちょっとそこで待っててくれるか?」

 ジャックさんは突然何かを思い出したような顔をして、男性用の更衣室に入っていった。なんだろうと不思議に思いながら待っていると、手に何かを持ってすぐに戻ってくる。

「これ、レーナにあげようと思ってたんだ。商会員になれた祝い? みたいな感じだな。あとは俺が本店勤務になれたのはレーナのおかげもあるから、その礼も兼ねて」

 そう言ってさわやかな笑みを浮かべながら渡してくれたのは、新品のくしと整髪料だった。櫛はスラム街でジャックさんが貸してくれてたものと絵柄違いのおそろいで、整髪料は同じものだ。

「もらっていいの?」

「ああ、もちろんだ。ここで働くなら、今まで以上にれいにした方がいいだろ?」

「ジャックさん……ありがとう!」

 私はうれしさと感動のあまり、声が大きくなってしまった。

 ジャックさん、外見だけじゃなくて行動もイケメンなんてかんぺきすぎる。

 私も今度、何かプレゼントを渡そう。10日後に給料が入ったら、そこまで高くないものなら買えるよね。ジャックさんは私のおかげだって言うけど、どちらかといえばジャックさんのおかげで私が今ここにいるんだから。

「お前、そういうこともできるのかよ! 行動までイケメンとかどうなってるんだよ!」

 私が感動していたら、ポールさんが横からツッコミを入れた。その意見には完全に同意だ。ポールさん、私と気が合うね。

「レーナには世話になったし、礼をしただけだろ。ポールもレーナに何かあげたらどうだ?」

「うっ……そうだけど、僕があげてもイケメンな行動にならないんだよ! やっぱり顔か、顔なのか!」

 確かに、ポールさんが「これからよろしくね」って何かをくれたとしても、凄くいい人だって嬉しく思うだけで、イケメンだとはならない気がする。もちろん内面は大切なんだけど、やっぱりそれに外見も合わさると最強なのだ。ジャックさんはその最強だよね。

 ポールさん……頑張ってください。

 そんな失礼なことを内心で考えていると、ポールさんとジャックさんで話が盛り上がっていたので、私はこの場を退散することにした。

「じゃあ私、着替えてきますね」

 そうして更衣室に向かい、今日は1人で着替えをする。そしてジャックさんからもらった整髪料を少しつけて櫛でかし、綺麗に髪の毛をひもで縛り直したら完成だ。

 姿見に自分を映すと……完璧だ。めっちゃ綺麗。この格好になると気が引き締まるね。

 仕上がりに満足してから休憩室に戻ると、もうジャックさんとポールさんはいなくて、そこにはニナさんだけがいた。

「あっ、レーナちゃん、おはよう」

「ニナさん、おはようございます」

 ニナさんの柔らかい笑みに、制服を着たことでわずかに生まれていた緊張が解けた。

「制服、ちゃんと着られてるわね」

「はい。今日もよろしくお願いします」

「ええ、今日も1日頑張りましょう。授業は午後の予定だから、午前中は昨日に引き続き計算よ。今日は遠い場所の配達しかないから、レーナちゃんの配達はお休みね」

 今日の午前中はずっと計算なんだ。それならかなり進められるかな。1週分はやり切ることを目標に頑張ろう。

 それから計算の仕事に集中していると、気づいたらお昼休憩の時間になっていた。固まっていた体をほぐすように伸ばしてから休憩室に入ると、そこにはポールさんがいる。

「ポールさんも休憩ですか?」

「そうだよ。よろしくね」

 笑顔のポールさんにいやされながら、更衣室に入って用意してきたお昼ご飯を取り出した。

 私のお昼ご飯は、今日から数日は焼きポーツのみだ。ポールさんの向かいの席に腰掛けて、お母さんが持たせてくれた、冷えて少し固い焼きポーツを口に入れる。

 ……うん、美味しくないわけじゃないけど、凄くシンプル。最近は味が濃くて美味しいものを食べられてたから、今までより味が薄く感じる気がする。

「レーナちゃん、それだけなの?」

「はい。ポールさんは今日もたくさん食べますね」

 ずらっと並べられた美味しそうな料理を見て、なんの他意もなくそう口にした。

 早く私も、好きなだけ美味しいものが食べられるようになりたいな。そんなことを考えていると、ポールさんが食事の手を止めていることに気づいた。自分の食事と私の焼きポーツを何度か見比べて、ラスート包みの1つを半分に割ると、「これあげるよ」と差し出してくれる。

 そこで私はやっと、さっきの発言は嫌味に受け取られたかもと思い至った。

「い、いえ、大丈夫です。そんな悪いので……」

 あわてて両手を振りながら断ったけど、ポールさんはラスート包みをもう一度差し出してくれる。

「でもそれだけじゃ、お腹がくでしょ?」

 確かに焼きポーツは成長期の体に対して、十分な量じゃないんだけど……。ポールさんのニコニコとした人のいい笑みを見て、私はそっと半分のラスート包みに手を伸ばした。

「本当に、いいのですか?」

「もちろんだよ。美味しいものは皆で食べた方がいいからね」

 ポールさん、いい人すぎる……!

「ありがとうございます。いただきます」

 私は感動しながら、ラスート包みを両手で受け取った。

「私はあげられるものがないのですが……焼きポーツ、食べますか?」

 お礼にと自分が持っているものを見回したけど、もちろん焼きポーツしかなく、申し訳なく思いながらも提案した。するとポールさんは、思いのほか焼きポーツに興味を持ってくれる。

「それって初めて見るんだけど、スラムではよく食べられてるの?」

「はい。よく食べられてるどころか、毎日3食これですね」

 私のその言葉にポールさんは衝撃を受けたようで、「スラムの人たちって凄いね……」と謎の尊敬を抱いたらしい。

「それだけで毎日元気に働けるなんて、僕には信じられないよ」

「それが焼きポーツって、意外と腹持ちがいいんですよ。まあ、十分な量とは言えませんが」

「へぇ~そうなんだ。……ちょっと、もらってもいい?」

「もちろんです」

 焼きポーツの半分ほどを手でちぎってポールさんに渡すと、ポールさんはじっくりと観察してから、大口で焼きポーツにかぶりついた。

 しばらく静かに咀嚼そしゃくして……楽しそうな笑みを浮かべる。

「これ美味しいね。食感が凄くいいと思う。なんで街中にはないんだろう」

「……ポーツは貧しい人たちの嵩増しだってイメージなんでしょうか?」

「うーん、でもラスート包みにポーツが入ってたりするんだよね。もしかしたらポーツを主食にするっていう考えがないのかも。これさ、お肉を巻いて焼いたりしたら絶対に美味しいと思わない? あと最後にタレを絡めたら最高だと思う」

 おおっ、確かに。シンプルな味だからアレンジはなんでも合う気がする。もちもちとして、ほのかに甘い焼きポーツに肉が巻かれて、さらにタレの味が染みたら……絶対に美味しいね。

「ポールさん、それ最高です」

「今度作ってみようかなぁ。この焼きポーツってどうやって作るの?」

「え、ポールさんって料理するんですか?」

「もちろん。美味しい物の追求には自分が作れないとね」

 ポールさん凄いな……ポールさんおすすめのものなら、絶対に美味しい料理な気がする。今度街中の食堂やカフェを開拓する時には、ポールさんに相談しよう。

「焼きポーツは簡単です。ポーツをでて皮ごとつぶし、そこにラスートを少し加えます。そして平べったく丸く成形して、あとは焼くだけです。フライパンにくっ付いたら、焼く時に水も少し入れてます」

「へぇ、それなら今夜にでもできそうだよ。やってみたら感想を教えるね」

「楽しみにしてますね」

 それからも2人で楽しく話をしながら休憩をしていると、気づいたら休憩時間は終わりとなり、ついに筆算の授業をする午後となった。

 ポールさんも授業を聞く商会員に選ばれているということで、一緒に2階の会議室へ向かう。するとそこには、すでにジャックさんとニナさんが集まっていた。

「お、レーナ来たな」

「待ってたわ。今日は私たちとポール、それからギャスパー様が受けられるからよろしくね」

「そうだったのですね。よろしくお願いします」

 最初の授業だから、緊張しないようにってメンバーを考えてくれたのかな。ありがたい。

「もうお昼は食べた?」

「はい、さっきポールさんと。ラスート包みを半分くださって、美味しかったです」

「ポールが誰かに食べ物をあげるなんて……驚きね」

「なっ、僕だってそんなに意地汚くないよ!?

 ニナさんの驚愕きょうがくの表情を見て、ポールさんが心外だというように突っ込んだ。そうして4人で楽しく話をしていると、ギャスパー様が会議室に入ってくる。

「待たせたかな?」

「いえ、大丈夫です」

「それならよかった。じゃあ皆、席に着こうか。レーナの席はそこで、私たちがこちらに分かれて座ろう」

 ギャスパー様に指定されたのは、いわゆるお誕生日席とも言われる、会議室では発表者や一番の上司が座る場所だった。私はその場所に緊張しつつ腰を下ろし、4人の様子を順番に確認していく。

 全員の準備が整っていたので最後にギャスパー様に視線を向けると、始めてもいいと言うようにうなずいてくれたので、さっそく授業を始めることにした。

 私の手元には黒板と白い石、さらには昨日準備した掛け算九九を書き記した紙などがある。

「レーナです。筆算の授業を始めさせていただきます。まずは……皆さんが普段どのように計算を行っているのかについて、聞いてもいいでしょうか。例えば5×7、こちらの計算をしなければいけない時はどうしますか? 手元に計算機はないものと考えてください」

 その質問に、まず口を開いてくれたのはジャックさんだ。

「計算機がない状態でそんな計算をすることがまずないんだが……もし今俺が答えを導き出すとしたら、5を7回足すな。それ以外の方法は思い浮かばない」

 ……まあそうだよね。私も九九を暗記してなかったら、その方法しか思い浮かばないかも。

 とりあえず、掛け算九九の暗記は必須かな。いくら筆算が便利でも、1けたの掛け算をすぐにできなければ教えても意味がない。

「私は1桁の掛け算は、全て暗記しています。これを暗記すると本当に便利なので、皆さんにもぜひ覚えて欲しいです」

 そう伝えてから、昨日準備した九九を全て書き記した紙を4人に見せた。するとギャスパー様がその紙を手に取って、私に視線を向ける。

「ではレーナ、8と7をかけると?」

56です」

 ギャスパー様の質問に間髪入れずに答えると、4人は表情を驚きに変えた。暗記してなかったら、答えを導き出すのって大変だもんね。

「じゃあ、9と6は答えられるか?」

54です」

「レーナちゃん、5と8は?」

40です」

 ジャックさん、ニナさんに尋ねられた計算にもすぐに答えると、全員が感心したような表情を浮かべて私を凝視した。

「本当に覚えてるんだな……すげぇな」

「確かにこれを覚えていたら楽になるね」

「レーナちゃん、すごいわ」

「さすがに僕でも暗記はしていなかったよ……」

「掛け算や割り算の筆算で、1桁の掛け算を暗記していることは重要なので覚えて欲しいです。……では暗記は皆さんにお願いするとして、筆算のやり方の説明に入ります」

 まずは簡単なところからということで、足し算と引き算のやり方から説明することにした。この商会で働く皆は筆算のやり方を知らないだけで、数字の概念はしっかりと理解しているので問題なく授業は進む。

「足し算と引き算に関してはシンプルだね。問題なく理解できたよ」

「よかったです。桁が増えても同じ方法で計算できますので、あとでやってみてください。では次は掛け算を教えていきますね」

 私はまず一番簡単な、2桁と1桁の掛け算を黒い板に書いて皆に見せた。そして掛けていく順番や、10の位の数字をメモする位置なども説明していく。

「これが筆算なのですが、どうでしょうか」

「やはりこれはとても素晴らしいよ。算術に革命が起きるかもしれないね。レーナ、もっと桁が多い計算をやってみてくれないかい?」

「分かりました。では数字が大きい2桁同士の掛け算と、3桁の掛け算もやってみますね」

 私が間違えるとややこしくなるので慎重に、皆に分かりやすいように説明しながら計算していくと……計算を終えた時に理解できていたようなのは、ポールさんだけだった。

「レーナちゃん、これは凄いよ! 僕は今、感動してる。計算機なしでこんなに大きな桁の計算結果が出せるなんて……!」

 ポールさんの勢いに若干引きながらよかったですと答えると、ギャスパー様が苦笑しながら口を開いた。

「計算機はかなり大きなものだし値段も高いし、どこででも使えるものではないからね。こうして紙とペンさえあれば答えが出せるというのは、本当に画期的だよ」

 やっぱり計算機って高いんだ。確かに複雑そうだし大きかった。日本の電卓みたいなものがあれば筆算のありがたみは薄れるんだろうけど、この世界ではかなり有用なはずだ。

「従来の算術よりも、かなり簡易なのも凄い」

 そう言ったギャスパー様に、ジャックさんが少し躊躇ためらいながら口を開いた。

「これは本当に、簡易なのですか? 途中から理解できなかったのですが……」

「私も途中から、何をやっているのか分からなかったです」

 ニナさんとジャックさんの言葉に、ギャスパー様は苦笑しつつ頷く。

「私もだよ。ただ算術よりも簡易であることは確かだと思うよ。現に……ポールは理解できたようだからね」

 ギャスパー様に視線を向けられたポールさんは、興奮しながら頷いた。

「はい! とても覚えやすく規則的な計算方法でした。これを思いついたレーナに僕は感動が止まりません!」

 ポールさんから、キラキラとした尊敬のまなしを向けられている。ポールさんって計算が得意なだけじゃなくて、数学が好きなんだね。

「分かった分かった。ポール、ちょっと落ち着きなさい。私たちも理解できるようレーナに説明してもらうから、ポールは自習していていいよ。ぜひレーナがいなくても筆算を使いこなせるようになってくれ」

「かしこまりました!」

 ギャスパー様はそう言ってポールさんを静かにさせると、私に視線を戻した。

「ではレーナ、やり方の説明を詳しくお願いしたい」

「かしこまりました」

 それからの授業時間ではひたすら掛け算のやり方を覚えてもらい、2桁の計算をなんとかできるようになってきたかな……という頃に、授業が終わりの時間となった。

 あと何回かは掛け算に特化して、それから割り算かな。九九の暗記状況によって進捗しんちょくは変わりそうだ。今日は九九の表を見ながら計算してもらったから、時間がかかった。

「ふぅ、少し疲れたね」

「俺はもう頭がおかしくなりそうです……」

 ジャックさんは青白い顔で机に突っ伏してそう言った。ジャックさんは計算が苦手と言っていただけあって、他の3人よりもかなり苦戦していたのだ。ギャスパー様とニナさんは、一般的には優秀な部類だと思う。ただポールさんが優秀すぎてかすんでたけど。

「凄く楽しかったです。ご飯を食べる時間以外でこんなに楽しいのは久しぶりです。レーナ、君は天才だよ」

「ありがとうございます。私からしたら、ポールさんの方が天才だと思います」

 私は天才じゃなくて日本の義務教育が凄いだけだから、ポールさんは本当に凄いと思う。こういう人を見つけて雇ってるギャスパー様も凄い。

「じゃあ、今日は解散にしようか。レーナ、続きはまた今度よろしくね。他の皆も何グループかに分けて授業を受けてもらうから、今日と同じように頼むよ」

「かしこまりました。精一杯頑張らせていただきます」

 最後にギャスパー様からの言葉をもらい、初回の授業はおおむね成功で終わりとなった。

 ちょっと肩の荷が下りたかな……緊張してたけど、上手うまく説明できてよかった。


*****


「筆算とは、本当に素晴らしい発明だね」

 私はレーナの授業を受けたあと、商会長室で先ほどの授業で取ったメモをながめていた。

 足し算と引き算ももちろん凄いけれど、何よりも掛け算だ。掛け算を計算機なしでできるなど、どれほど有益か。そして1桁の掛け算を全て暗記するという大胆な方法もとてもいい。

 あれを暗記するのは大変だろうけど、そのメリットは計り知れない。なぜ今まで暗記しようと思いつかなかったのかと、自分を責めたいほどだ。

 割り算のやり方は少し聞いただけで理解はしていないけど、あちらも掛け算同様に画期的な手法なのだろう。そちらも学ぶのが楽しみだ。

「さて、これをどうするか」

 うちの商会だけで秘匿していいようなものではないことは確かだ。大々的に広めなければいけない。やはり……研究として国に提出すべきかな。

 私は算術にあまり詳しくないからなんとも言えないけれど、あれは上で情報を独占しているというよりも、内容の難しさからほとんどの人が理解していない学問という感じだったはず。

 それならば算術分野の研究を発表しても、学者などから目をつけられることはないだろう。それどころか、算術がより多くの人に知ってもらえる機会だと歓迎されるかもしれない。

 もろもろ考慮して、研究として提出するのが一番かな。

 あとの問題は研究者の名前だ。レーナに話をして名前を使っていいのであればレーナの名前で、もし嫌がるのならロペス商会の名前で提出してもいい。

 有益な研究はそれ自体がお金になることはないけれど、とても名誉なことで国から名前を覚えてもらえる。さらにその研究結果によって何か事業が始まる場合には、研究者にお金が入ったり、監修を求められ給金がもらえたりする。

「まずはレーナに話をしないとかな」

 私はそう結論づけると、掛け算九九を暗記するために頭を使うことにした。商会長として、商会員に負けるわけにはいかないのだ。


*****


 ロペス商会の本店で働き始めてから、数日が経過した。今日の午前中はいつものように配達に出かけていて、次が本日最後の配達先、ダスティンさんの工房だ。

 初めてダスティンさんと会った日に配達以外で来るといいって言われたけど、まだ仕事が休みの日になっていないので行けないでいる。ちなみに仕事の休みは10日に1度だ。週の最終日が私の休みの日と定められた。基本的にこの国では、10日に1度しか休まないのだそうだ。

「ロペス商会です。ご注文の品をお届けに参りました」

 ドアをノックして声をかけると、最初とは違って工房の中から足音が聞こえ、中からドアが開かれた。しかし……現れたダスティンさんは、頭のてっぺんから爪先まで水浸しだ。

「えっと……大丈夫、ですか?」

「ああ、すまないが私はこんな状態だから、中に商品を置いてくれるか?」

「分かりました」

 そうしてまたもや工房の中に招かれた私は、工房内の惨状に自分の目を疑った。工房内は全てが水浸しで、さらに家の中で嵐でも起きたのかというほどに物が散乱していたのだ。

「……えっと、強盗に襲われたとか?」

「違う。研究中の魔道具を試しに起動したら、少し失敗しただけだ」

「これが少し……なんでしょうか?」

 工房の真ん中に私の身長よりも大きな箱があるので、これが開発中の魔道具だろうか。ただ箱は、ボロボロに破れている。金属っぽい硬そうな素材の箱が、内側から破れてる感じだ。

 何をどうしたらこんなことになるんだろう。それにこんな惨状を引き起こす魔道具って、何を研究してるんだ。

「うわっ」

「おっと、大丈夫か?」

 工房内を見回していたら足元がおろそかになっていたようで、滑って転びそうになったところをダスティンさんが腕をつかんで助けてくれた。

「ありがとうございます。すみません」

 荷物は机の上に置いてたからよかったけど、転んでいたら制服がダメになるところだった。

 それにしてもこの水、ただの水じゃなさそうだね。かなり滑ってるし……せっけんとか?

「何かを綺麗にする魔道具なんですか?」

「そうだ。ボタン1つで中に入れたものが瞬時に綺麗になる魔道具があったら、便利だと思わないか? 例えばこの木の椅子……だったはずのものなんだが、これはしばらく外に放置していたため真っ黒だったんだ。一応綺麗にはなっただろう?」

 ──うん。その木の破片みたいなやつが元は木の椅子だったのなら、黒ずみは取れてるね。ただその代わりに原型を留めないほどバラバラで、周囲にあるものを破壊するけど。

「……なんだその顔は」

「いえ、魔道具作りって大変なんだなーと」

「そうだな。でもそこが楽しいんだ」

 そう言ったダスティンさんの声音は明るくて、思わず顔を見上げると、そこには僅かな笑みを浮かべたダスティンさんがいた。

 この人って最初の印象は神経質そうであんまり仲良くなれないかもって思ったけど、全然そんなことなさそう。素直で1つのことに熱中しすぎるタイプで、あと意外と面白い人かも。

「何がダメだったのかを洗い出して、次は魔法の種類を変えてみるか……それとも箱の強度の問題か?」

 ダスティンさんは私の隣で、ぶつぶつと独り言をつぶやきながら改良案を考えている。でも……箱の強度とかいう問題じゃない気がする。私は工房内の惨状に目を向け、思わず口を開いた。

「これって要するに、洗浄の魔道具? みたいなやつですよね」

「そうだな」

「それなら洗浄の対象を限定した魔道具にした方が、成功の確率は上がるのではないでしょうか。これは威力が強すぎたみたいですし、例えば服を綺麗にする魔道具にすれば、そこまでの強さは必要ないと思うんですが……」

 綺麗にするってところから日本にあった洗濯機を思い出してそんな提案をしてみると、ダスティンさんは私の顔をずいっとのぞき込んで「それだ」といい声で呟いた。

「服だけに限定しても売れますか? 今までそういう魔道具って作られてないのでしょうか?」

「ああ、今まで魔道具を使うのは基本的に貴族だったんだ。だから下働きがこなす仕事を代替するようなものは、ほとんど研究されなかった。しかし最近は魔道具を一部の平民が買えるようになっているからな……たぶん売れる。洗濯業者が狙い目だな」

 そういう事情があるんだね。確かに洗濯機とか、下働きの人が全て綺麗にしてくれる貴族たちには売れなそうだ。

「洗濯業者なんてあるのですね。頼んだら服を綺麗にしてくれるところでしょうか?」

「そうだ……って、頼んだことがないのか? そういえば、スラム出身だと言っていたな。街中にはそこかしこに服を綺麗にする洗濯屋があるんだ」

 そんな場所があるなんて便利でいいね。私も街中に引っ越したらお願いしたいな。洗濯って手がかなり荒れるし、できれば避けたい仕事なのだ。

「それなら開発の甲斐かいがありますね」

「ああ、どんな魔法や魔石、素材を組み合わせればいいのか、色々とイメージが湧いてきた」

 ダスティンさんはそう呟くと、早く開発に戻りたいのか受け取りのサインを書いて、商品の確認を素早く済ませてくれた。そして私が工房をあとにしようとすると、いくつかの素材を棚から取り出しながら声をかけられる。

「レーナ、今度の仕事がない日に研究の成果を聞きに来るといい。アイデアをもらうぞ。アイデア料は……今度来た時に支払うのでいいか?」

「え、そんなのもらっちゃっていいんですか?」

「当たり前だろう? 成果には正当な報酬が必要だ」

 ──もらっていいのかな。私は綺麗にする対象を絞った方がいいって提案しただけなのに。

 でもダスティンさんがいいって言ってるし、今はお金が欲しいし……もらえるものはもらっておこう。自分の中でそう結論づけると、私はダスティンさんに頭を下げた。

「ありがとうございます。今度で大丈夫です」

「分かった。じゃあ待っている」

 そうして思わぬ副収入を約束して、ダスティンさんの工房をあとにした。あんな少しのアイデアにお金を払ってくれるなんて、やっぱりあの人っていい人だね。

 私は次の休みが楽しみで、足取り軽くお店に戻った。


 お店に戻るとちょうどお昼休みの時間だったので、荷物を片付けて休憩室で昼食を食べることにした。今日の休憩時間がかぶっていたのはジャックさんとポールさんだったようで、2人はすでにご飯を食べ始めている。

「レーナ、お疲れ。もう仕事には慣れたか?」

「うん。ジャックさんはどう?」

「俺もかなり慣れたな。ただ覚えることが多くてかなり疲れる」

「それは分かる。私も夜はぐっすりだよ」

 最近は布団のチクチクも虫も全く気にならないほどに眠りが深くて、街中で働いている思わぬ利点だ。肉体的にはスラム街での仕事の方が疲れるものなのかもしれないけど、やっぱりここでの仕事の方が圧倒的に頭を使うので慣れてなくて疲れる。

 ふうは事務作業なんて毎日やって慣れていたけど、レーナの体では初めてだからね。

「なんかいいにおいがする」

 更衣室に焼きポーツを取りにいこうとしたけど、その前に匂いが気になってそう呟くと、ポールさんが瞳を輝かせて私にお皿を差し出した。

「レーナちゃん、これ見て!」

 お皿の上に載っていたのは、タレで焼かれた薄切りの肉だ。そしてその肉は何かに巻いてあるようで……もしかして、これってこの前話したやつ?

「焼きポーツの肉巻きですか?」

「そうなんだ。ちょっと食べてみて、衝撃的な美味しさだよ」

 ポールさんは上機嫌で、フォークを焼きポーツの肉巻きに刺して渡してくれた。

 私は勢いに押されてフォークを受け取り、口に運ぶと……その美味しさに心から驚く。

「これ、売れますよ。最高に美味しいです」

 甘辛いタレに絡んだ肉は柔らかく味が良くて、その中にある少しもちっとした食感の焼きポーツに最高に合っていた。

「そんなに美味いのか? ポール、俺にも1つくれ」

「もちろん。ぜひ食べてみてよ」