「蒼依と八咫烏達を連れて、試験を受けてくる」
一樹が受験の予定を告げると、師匠でもある父親の和則は、重々しく頷いた。
「うむ。我ら賀茂家の名を、世に知らしめてくるように」
「俺に勝つ受験生が居たら、どうしようもないから諦めてくれ」
一樹は念を押したが、息子が一位で合格することについて、和則は一切疑っていない。
二次試験で測られるのは、受験生が持つ呪力を使う技術だ。
受験生どころか上級陰陽師の中でもトップクラスの呪力があり、呪力を籠める賀茂家の技術を継承していながら、一樹がほかの受験生の後塵を拝すはずがない。
「お前に勝てる相手は、二次試験で一〇〇位にならない。何かの恨みがあって一位を狙い撃ちしようと考えても、意図的に一〇〇位は取れないだろう。試験では、遅刻にだけ気を付けるように」
一樹が納得して、親子の確認は終わった。
賀茂家は、古くから続く陰陽師の家柄だ。ただし和則が現在認定されているC級では、陰陽大家とは認められない。陰陽大家とは、B級陰陽師を一世代に一人は輩出するような家柄だ。
陰陽大家となれば、四七都道府県の一つを任せられる統括陰陽師となる。
担当する都道府県の陰陽師達を差配して、地元の妖怪対策にも関与する。発言の影響力は大きく、場合によっては地方行政の方針すら変えさせられる。
「今年D級になるとして、順位で五鬼童家に勝てば、二〇歳までにB級は固いな」
和則は、賀茂家の復権を考えている。呪力量は遺伝の影響を受けるので、呪力が低かった和則自身での復権は難しかった。だが息子である一樹の呪力は大きくて、陰陽師としての教育も施せた。
後ろ盾が無い立場に鑑みても、一樹は二〇歳までにB級陰陽師となるだろう。B級中位以上の牛鬼を従えており、呪力には余裕があるので、A級への昇格も充分に有り得る。
賀茂家は、安倍晴明の師匠の家柄だ。賀茂家を中興させた一樹の師匠という肩書きは、賀茂家の和則にとっては名誉となる。現状に満足した和則は、八咫烏の世話を手伝ってきた生活から久しぶりに解放されたこともあり、羽を伸ばすことにした。
◇◇◇◇◇◇
「おや、いらっしゃい。最近見なかったけれど、あんた生きていたんだねぇ」
来店した和則に向かって、店主の老婆が軽口を飛ばした。
ここが有名百貨店で、老婆が販売員であれば、周囲がざわつくだろう。
だが生憎と和則が入店したのは、老婆が経営する個人店舗だ。接客マニュアルは老婆自身であり、そもそも老婆は人間ですら無いので、最近の人間の接客スタイルなど知ったことではない。
何百年か年長の妖怪相手に怒る気など湧かず、和則も気にせず店内を見渡した。
「相変わらず、可笑しなものを置いておりますな」
五〇坪ほどで、コンビニエンスストア程度の広さがある店内には、コンビニでは決して目にしない品々が陳列されていた。
呪術用のイモリや蛙を焼いた灰、越後に伝わる逆さ竹。
樹齢五〇〇年の松を軸に使った毛筆、
呪殺を目的とした木製の人形、逆に呪いを弱める撫物。
日蓮宗の呪術である『フキトリ紙』などの
それらは平穏に暮らす一般人にとっては無価値だが、陰陽師や呪術を行う者には垂涎の品々だ。
陰陽師協会では販売しておらず、さりとて法律で販売規制もされていない。そのため老婆の店は、自身の呪力よりも大きなことを為したい客にとっては、根強い需要がある。
「今日は樹齢五〇〇年の松を使った筆を見たいと思いまして」
「おや、羽振りが良いじゃないかい」
長年の客である和則の懐具合を承知している老婆は、意外そうな表情を浮かべた後、口角を吊り上げて深い笑みを溢した。
松には様々な伝承がある。
『古今百物語評判』(一六八六年)によれば、三河の加茂郡(愛知県豊田市)にある長興寺の門前には、龍に似た松があって、地元では二龍松と呼んでいた。
あるとき、寺へ二人の童子がやって来て「紙と硯を貸して欲しい」と言った。住職が貸し与えたところ、童子は紙に一首を書き連ねた。
『客路三川風露秋 袈裟一角事二勝遊一 二龍松樹千年寺 古殿苔深僧白頭』
童子達は、「これでこの寺に災いが降り掛かることは無いだろう」と言って去った。僧が怪しんで行方を見ると、童子達は二龍松の木陰で姿を消したという。
かつて長興寺には災厄があった。一五六七年、立派な寺に城と勘違いした織田信長が焼き討ちして、寺は一度焼失している。だが童子達が守りを掛けた後には、御利益もあった。
長興寺には美しい音色を響かせる鐘があって、盗まれそうになったことがある。
そして盗人が鐘を運び出したところ、鐘が急に重くなり、「長興寺恋しや」と喋った。そのため怖くなって鐘を返そうとしたところ、鐘は軽くなって寺に返せたという。
ほかにも伝承は様々にあるが、樹齢の長い松には霊力が宿る。
霊符を作る際、樹齢五〇〇年の松を軸とした筆であれば、霊符の力が大きく増す。
「ほかだと三〇〇年物を五〇〇年物と言うかも知れないけれど、うちは確かな品だよ」
「そのようなことは、大前提でしょう。三〇〇年物なら、そもそも買いませんな」
値札が付けられていない筆に対して、店主と客の攻防が始まった。
「五〇〇年物は、相応に高いよ。毛も霊狐だしね」
「一本の松から、沢山作れるのでは、ありませんかな。狐も沢山おりましょう」
日本の国土は、人の勢力圏が三分の一で、妖怪などの人以外の勢力圏が三分の二だ。人の手が入っていない地域であれば、五〇〇年を超える松も相応に残っている。
霊狐の毛に関しては、人に味方する善狐と、人を害する悪狐が存在して毛だけでは判別できないために、使用は禁止されていない。
そもそも老婆は、狸の妖怪だ。四国では、狐の大半が追い出されて狸の天下となっており、一部の狸は人間社会での戸籍や立場すら持っている。
逆に本州では狐が優勢で、狐と狸に加勢する人間も居るために、両者の争いは絶えない。
人間が与り知らない所でも争いがあり、老婆は狐の仕入れ先には、困らないはずだった。
「狐を売るのは、お好きなのでしょう」
和則が言い返すと、店主は嗤った。
「ひ、ひ、ひっ。そりゃあ、そうさね。大好きさ」
大喜びした老婆は、狐から毟り取った状況を思い出したのか、筆の毛を嬉しそうに眺めた。
それから和則に向き直って、機嫌良く告げる。
「売るのは大好きだけれど、お金も大好きなのさ。あんたも陰陽師なら、仕事道具じゃないかい。金を惜しんで、命を失ったら終わりだよ」
老婆にとっては遊びのような掛け合いだが、和則にとっては懐事情で真剣である。もっとも推定数百歳の妖怪婆に勝てるはずも無く、直ぐに追い込まれた。
「ほら、幾ら出せるんだい。ちょっとは手加減してやるから、言ってみな」
「馬鹿を言わんで下さい。幾らですかな」
中年の陰陽師を子供のようにからかった老婆は、やがて和則が出せるギリギリの価格を示して、高価な筆を買い取らせた。
◇◇◇◇◇◇
和則が相川家に帰宅した頃、テレビでは陰陽師国家試験の結果を取り上げていた。
一樹が過去最高記録を更新しただけであれば、それほど世間も騒がなかっただろう。
プレス機で鰹節を押し潰す試験は、見た目が地味だ。普段からプレス機を使っている業種であれば驚くかもしれないが、それ以外の人々には、凄さが分からない。
世間が注目したのは、A級常連の五鬼童家が送り出した双子の姉妹と対戦し、八咫烏達と空中戦を繰り広げ、最後には大鬼とされる牛鬼を使役して勝利したからだった。
『昨日、陰陽師国家試験の最終試験が行われて、五五八名の新任陰陽師が誕生しました』
二〇代の女性アナウンサーは、真面目な表情で、驚きの試験結果を読み上げている。
和則が手にしている新聞にも、陰陽師協会が発表した合格者五五八人の名前が、順位や認定された級と共に掲載されている。一位には一樹の名前があって、紙面にはC級認定された詳細も取り上げられていた。
『今年はエキシビジョンマッチが開催され、一位の賀茂陰陽師と、二位と三位で双子の五鬼童姉妹が対戦。一位の賀茂陰陽師が、B級で大鬼とされる牛鬼を使役して、五鬼童姉妹に勝利しました』
アナウンサーが試験結果を読み上げた後、隣に立つ番組の司会者がゲストを紹介した。
『本日は、元C級陰陽師で、現在も弟子育成を行っておられる大崎陰陽師をお迎えして、色々とお伺いしていきたいと思います。大崎さん、よろしくお願いします』
『はい、よろしくお願いします』
カメラが六〇代の男性陰陽師を映すと、紹介を受けた大崎が頭を下げた。
日本には一万人の現役陰陽師のほかにも、引退した元陰陽師達が居る。
紹介された大崎は、引退後にメディアで活動している元C級陰陽師だった。
『それでは大崎さんに、お伺いします。賀茂陰陽師の結果は、どのようにご覧になられましたか』
司会者から大まかに質問のボールを投げられた大崎は、順当に打ち返した。
『驚きました。五鬼童家の子女は、試験の時点でC級以上の実力者です。双子の彼女達もC級で、おそらく上位でした。その二人を同時に相手取って、無傷で勝利するには、格上の実力に加えて、相当高い呪力と技術が無ければ出来ません』
テレビに向かって「然もありなん」と和則が頷く中、大崎は付け加えた。
『現在の賀茂家は、陰陽大家ではなく、陰陽師としての実力も高くないとされていますので』
「なんだと、この野郎!」
大崎の説明に対して、賀茂家の現当主である和則は、罵倒を返した。
もしも和則がテレビで共演していれば、流石に大崎も言葉を選んだだろう。だが生憎と和則は共演しておらず、大崎の指摘も事実だった。
『陰陽大家と、そうではない家だと、どのような差があるのでしょうか』
一般人がよく知らない陰陽大家について、司会者が
すると大崎は、陰陽大家と、そうではない家との差について持論を述べた。
『呪力量は、遺伝します。陰陽大家であれば、別の陰陽大家や高呪力者から配偶者を迎えられて、次代の呪力を保てます』
大崎の説明は、事実だ。陰陽大家は財産、地位、名誉を持つため、互助以外でも高呪力者を招き易い。高い呪力に生まれた者が、好待遇で迎えられる先が陰陽大家だ。
『陰陽大家で無ければ、高呪力者を招き難く、次代の呪力が落ちます。それが数代も続けば、呪力も相応に落ちて、陰陽師の家柄としては力を失ってしまいます』
『なるほど、そうなのですね』
陰陽師の呪力量には、遺伝要因と環境要因が影響する。
陰陽大家から外れると、高い呪力者を配偶者に迎えられず、血はすぐに薄まっていく。
陰陽大家ではない賀茂家に生まれた和則は、呪力不足で相応に苦労してきた。
もしも呪力が十全にあったなら、金銭を対価に妖怪狸婆の店を頼るようなことはしていない。樹齢五〇〇年の松を軸にした筆は、欲したかもしれないが。
『賀茂陰陽師の呪力が高かった件については、どのように考えられますか』
『父親がC級陰陽師ですので、子供が一段階上がることは有り得ます。二段階上がるのは異例ですが、二大陰陽道の宗家でもある賀茂家であれば、理解が及びます。今後の再興に期待ですかな』
「訂正しろ、儂の代からの再興だ!」
テレビに怒鳴りつけた和則は、テレビのリモコンを手にとって、チャンネルをバラエティからニュースに変えた。
すると真面目そうなアナウンサーが、ピックアップされた各地のニュースを伝えており、特に面白味もないが安定した内容に和則は落ち着きを取り戻した。
「はぁ、まったく」
全ての事情を知る者が居たならば、和則をD級からC級に引き上げた一樹の代から再興していると判断するかも知れない。
だが一樹に陰陽術を教えたのは、父親の和則だ。如何に呪力が高かろうとも、陰陽術を教えなければ上級陰陽師は誕生しない。結果には、それに至るまでの過程がある。
「我が家ほど陰陽道に長じた家は、そうそう無い」
確信と共に呟いた和則は、新しい筆で霊符を作り始めた。
一樹に高価な道具を使わせないのは、見習いの間から高価な道具に頼るようでは、陰陽師として大成しないからだ。
道具に頼るのは、呪力が伸び切り、技術が充分に身に付いて、ほかに手段が無くなってからで良い。和則は、その様に考えている。
「大崎何某とやら、霊符に八咫烏を描く真髄など、知らないだろう」
和則が描き始めたのは、八咫烏だった。新しい筆を使い、陰陽道の神である牛頭大王の牛王宝印を施しながら、呪力を籠めて霊符に描き込んでいく。そもそも一樹に術を教えたのは、和則だ。
「儂の代では届かぬが、一樹の代では、我が賀茂家が最高峰だという評価に戻し給え」
それが正当だと確信しながら、和則は霊符を書き連ねていった。
和則自身の呪力不足は、道具で補っている。充分に技術を伴っているのだから、高価な道具で補うことを恥じたりはしない。新しい筆は、和則が満足できる効果を発揮していた。
『続いてのニュースです。一昨日から花咲市に中鬼が発生して、一二人が死傷した事件は、未だに中鬼が調伏されておらず、地元が警戒を強めています。中鬼は赤鬼で、身長は約一八〇センチメートル、身体に
最近は近隣に出ていなかった中鬼の出現報告に、和則は眉を顰めた。
「なんだ、お膝元だろうに。不甲斐ない」
和則の指摘は、些か酷だったかも知れない。
A級陰陽師を輩出する花咲家は、陰陽大家として世に知られる。
だが花咲家は人間の一族で、五鬼童家のように鬼神や大天狗の血は引いていない。花咲家の強さの大部分は、当主に憑く特別な犬神に依存している。
犬神が憑いている花咲家の当主は、今頃は陰陽師国家試験に顔を出しているだろう。試験の総責任者は持ち回りで、再来年からは花咲家が総責任者になる。そのために引き継ぎが必要なのだ。
当主を除く花咲一族は、D級の力があれば立派と見なされる。
D級陰陽師は、同じ強さを持つD級妖怪の中鬼とは戦えない。なぜなら互角の者同士が戦えば、半々の確率で死ぬからだ。
「A級の当主を除けば、花咲市では、我が賀茂家が最強かもしれんな」
そのように考えた和則が霊符を作成していると、夕方を回った頃には一樹達も帰宅した。
「首席合格して、推薦も貰って、C級になった」
喜ばしい報告に和則の口元には笑みが溢れたが、すぐに厳粛な顔付きに戻して教訓を垂れる。
「ご苦労だった。だが新人の立場は忘れないように」
陰陽師が一番死に易いのは、新人の三年間だ。資格を取得したことによる実力の過信や驕り、油断が、妖怪に対する慎重さを損なわせて、致命的な失敗へと至らせる。
さらに資格を取った弟子に対する師匠からの制約も、見習いの時期に比べれば緩まる。
和則から新人の立場を指摘された一樹は、神妙に頷いた。
「四日後、試験に付き合ってくれた御礼で、蒼依と鬼猫島に行ってくる。八咫烏の世話は頼む」
「うむ、のんびりしてくると良い」
和則から見て、山姫である蒼依と一樹が仲良くするのは、悪くない選択肢だ。
前鬼・後鬼の血を引く五鬼童家は、鬼神の体力や天狗の翼を持ち、A級常連となっている。
ならば賀茂家が女神イザナミの血を入れることが出来れば、どうなるだろうか。
イザナミが生み出した神々は、風、海、木、火など様々な属性を持っていた。イザナミにとって火は不吉だが、風や水であれば呪力を変換して直接攻撃できるし、木は霊符との相性が良い。
子孫に何かしらの特別な力が宿れば、賀茂家は五鬼童家に勝る繁栄を得られるだろう。
そして直接的な力が発現せずとも、B級の呪力を持つ配偶者との間に生まれる子供の呪力は、相応に高いことが保証されている。
蒼依が持っている山姥の血は懸念するが、一樹がA級陰陽師になれば、同じA級には神と繋がる者もいるので手助けも受けられる。一樹から八咫烏を頼まれた和則は、息子夫婦が旅行する間に孫の面倒を見るような感覚で快諾した。
「将来は、花咲家の犬神くらい活躍するように」
そう念じながら、和則は八咫烏達の寝床になっている納屋を掃除している。
納屋には、山姥が使っていた様々な道具も置いてある。ノコギリ、金槌、ナタなど、田舎の納屋にあってもおかしくはない品々を退かしながら、隅も箒で払っていった。
一樹が出かけた翌日、和則が納屋を掃除していると、遠くの空からカラスの鳴き声が響いてきた。
「帰ってきたか」
カラスには縄張りがあるらしく、相川家の傍に暮らすカラスは八咫烏だけだ。
鳴き声を聞いた和則が納屋から出ると、一羽の八咫烏が遠くの山から戻ってくるところだった。
C級上位の呪力を風の力に変換できる八咫烏は、飛行速度が速い。瞬く間に大きくなっていく八咫烏は、三本の足で何かを掴んでいる様子だった。
「小鬼を仕留めてきたのか。だったら褒めてやらんとな」
子供が獲物で遊び、それと同時に狩りの訓練をする光景は、自然界の動物にはよく見られる。そうやって狩りが上手くなっていくのだから、遊んでいても叱る場面ではない。
獲物を狩ってきたのなら、褒めてやれば良いと和則は考える。
八咫烏が掴む獲物を見たところ、それはまだジタバタと動いて暴れていた。
「グォオオォォォッ」
空に大きな呻り声も響かせており、活きが良い様子が窺えた。
獲物を生きたまま捕らえて、わざと逃がして追う遊びでもするのかと思って見続けたところ、鬼は次第に大きくなっていった。
肌は赤色で、典型的な赤鬼であった。腰蓑を巻いており、身体の大きさは、人間の子供サイズの小鬼ではなく、大人サイズの中鬼くらいありそうだった。
「生きた中鬼を、連れて来るなぁっ!」
D級に分類される中鬼は、呪力が低い和則とは、概ね互角の強さである。
当初の方針を
だが生憎と八咫烏は、気が繋がる一樹や蒼依の言葉しか伝わらない。
和則が飛び跳ねる様子に、八咫烏は自分が褒められているのかと勘違いしたようだった。そして猫が捕らえたネズミを見せるような感覚で、和則に向かって中鬼を放り投げた。
「ぎゃああああああっ!?」
空から中鬼が迫ってくる様子に、和則は悲鳴を上げて逃げ出した。
咄嗟に納屋へ駆け込むと、背後で中鬼が地面に激突した音が響いてくる。
だが数十メートルの高さから落とした程度では、中鬼は絶対に死なない。和則は納屋にあったナタを手に取りながら、追い立てられるように階段から二階に駆け上がった。
二階に辿り着いた和則の背後から、中鬼が階段から追いかけてくる音が聞こえる。
表情を強張らせた和則は、右手で掴むナタの刃に左手を翳し、呪力を籠めた。そして追いかけてきた中鬼が階段を上り終えようとしたところで、頭上からナタを振り下ろした。
「急急如律令!」
咄嗟に叫びながら行った物理攻撃が、中鬼の頭部に叩き落とされた。
山姥が沢山の人間を解体したであろう由緒正しきナタは、その歴史に相応しく、耐久度に問題があってあっさりと折れた。
ナタの刃先がクルクルと回転しながら、天井に飛んでいく。
「ぬおおおっ、折れるなぁっ!?」
目を見張って驚いた和則は、折れたナタの柄を中鬼に投げ付けながら、窓の方へと逃げた。
掃除をしていたために窓は開いていたが、納屋には屋根瓦などない。だが窓の先には、松の木が生えていた。刺々しい松の葉と、中鬼の豪腕と、どちらが痛いのか。
答えは明らかで、和則は歯を食いしばりながら松の木に飛び移った。
「うぎゃあああっ」
飛び移った松の木の幹にぶつかる衝撃があって、和則は幹にしがみつきながら、滑り落ちた。
木の皮で掌の皮膚が裂け、血が滲む。
和則が納屋の二階を見上げると、無様に落ちた様子を見た中鬼が、嫌らしく嘲笑っていた。
「中鬼如きが、よくも我が賀茂家を馬鹿にしてくれたな」
目を吊り上げて中鬼を睨み付けた和則は、左手を懐に入れて霊符を掴んだ。
そして口早に呪言を唱えながら、右手で地面の石を拾い上げた。
『臨兵闘者皆陣列前行……この者、木より流転し陰なれど、我と神木の陽気を与え、再び生へと流転せしむ。借りし姿は、霊符神の使いたる八咫烏。然らば汝、陰陽の理に基づき、顕現せよ……』
和則は最後の一句を発さず、術の発動を保留しながら、拾った石を中鬼に投げ付けた。
真っ直ぐに飛んだ石は、狙い違わず中鬼に命中して、コツンと小さな音を立てる。
中鬼に対する打撃力は皆無に近いが、小石で攻撃された中鬼は馬鹿にされたと感じて、納屋の窓枠に手を掛けて飛び降りてきた。
その瞬間、和則が霊符を取り出して、最後の一節を唱えた。
『急急如律令』
取り出された霊符が、赤く輝く八咫烏の姿に変じた。
八咫烏に変じた霊符は中鬼に向かって飛び、二階から地面に飛び降りた中鬼に触れる。
途端に中鬼の全身に炎が纏わり付いて、激しく燃え上がった。
「グオオオオッ」
纏わり付いた炎を振り払おうと、中鬼が激しく暴れ回る。
D級の呪力を持つ和則が、高価な道具を使って一枚の霊符に籠めた力は、中鬼が保有する全力には及んでいない。中鬼は藻掻き苦しみながらも、自らの呪力で和則の呪力を振り払おうとした。
すると様子を窺っていた八咫烏が、一声鳴いた。
「クワッ」
刹那、纏わり付いた炎に石油が注がれたかのように、一瞬で膨れ上がった。
呪力的には、拮抗していた戦いに一〇倍の呪力を注がれたようなものだ。中鬼の絶叫が、激しく燃え盛る火炎に飲み込まれていく。
やがて注がれる呪力に耐え切れなくなった霊符が消滅したとき、同様に呪力に抗えなかった中鬼が身体を一部炭化させて倒れていた。
中鬼の死体を見下ろした和則は、呼吸を落ち着かせると八咫烏に告げた。
「中鬼を連れてくるのは、止めなさい」
「クワッ?」
和則に指導された八咫烏は、「褒めているんだよね?」と確認するように鳴き返した。