第六話 沙羅からの指名依頼
「青森県の統括陰陽師が殉職しました。状況は、極めて深刻です」
青森県の妖怪対策部長が、声高に危機を訴える。
それに対して秋田県の統括である春日弥生は、冷めた眼差しで言い返した。
「春頃に殉職したのは、存じておりますわ。そして原因が、青森県にあることも」
図星を指された妖怪対策部長は、気勢を削がれて押し黙った。対する弥生は、追及を重ねる。
「陰陽師協会が、苦労して配置しているのです。そう易々と、使い潰さないでほしいですわね」
日本陰陽師協会は、上級陰陽師の枠を七二名と定めている。
内訳は、A級陰陽師八名、B級陰陽師六四名だ。
そして協会は、七二名を『四七都道府県に最低一名ずつ』配置することを目標に掲げていた。
上級陰陽師達に、居住制限が課される訳ではない。
基本的には自発性を期待して、上級陰陽師の居ない各都道府県に住むのであれば、統括陰陽師の地位を用意する。
そのほかには、移住したくなるような後押しも行っている。その一つが、各都道府県を拠点とする陰陽師の大家のうち、当代に上級陰陽師を輩出できなかった家に迎え入れることだ。
陰陽大家は親類縁者から美男美女を見繕い、上級陰陽師が婿入りや嫁入りしてくれれば、本家を継がせるなどの条件を付けて、お見合いをさせる。
陰陽大家は地元の有力者であり、地位、財産、名誉が揃っている。
実家の陰陽大家を継がない嫡子以外や、実家が陰陽大家ではない成り上がり者の陰陽師ならば、全てが揃っている陰陽大家に迎え入れられれば欲しいものが概ね揃う。
そして受けたならば、協会や都道府県が支援し、送り出した家が困った際にも色々と優遇する。
元五鬼童家の弥生は、そのような昔ながらの互助で、秋田県の春日家に嫁いだ。
だが、それだけで全ての都道府県に上級陰陽師を揃えるのは、不可能だ。
そのため、『B級に認定する代わりに、上級が不在の地域に住む』ことを条件に、居住地に拘りのないC級陰陽師の上位者に昇格を打診するのも、昔から多用される手法の一つである。
・当事者は、上級陰陽師に認定されて名誉を得られる。
・陰陽師協会と都道府県は、上級陰陽師を配置できる。
・都道府県民は、上級陰陽師が居る安心感を得られる。
青森県のB級陰陽師は、移住条件付きで昇格した他県出身のC級陰陽師だった。
B級陰陽師が殺されたのは事実だが、妖怪の脅威度に関する評価は異なる。
「殉職した場所は、青森県内にある白神ラインの白神山地側でしたわね。青森県が開発のために、進出されたのでしょう。無理をさせたようですね」
白神山地は、青森県から秋田県にまたがる山地だ。
約一三〇〇平方キロもの広さがある自然豊かな土地であり、東京都が約二一〇〇平方キロのため、白神山地は東京都の約六割もの面積がある。
それほど広大な白神山地には、相応に妖怪も住み着いている。
だが長い歴史の中で、人間とは住み分けが出来ていた。
人間は、どこまで妖怪の住処に近付けば、襲われるのか。
逆に妖怪は、どこまで人里へ近付けば、調伏されるのか。
人と妖怪は、長い時間と相応の犠牲によって築き上げた白神ラインという境界線によって、互いに適切な距離を保ちながら暮らしてきた。
それが近代に入り、人間の科学技術が大きく発展した。
E級以下の実体を持った妖怪は、自衛隊の小銃小隊で駆逐できる。
D級妖怪は強いが、一二・七ミリ重機関銃であれば倒せる。
C級妖怪は、個人携帯対戦車弾などを撃ち込めば良い。
人と妖怪の境界線は、近年に入って何度も引き直された。
白神山地の周辺でも、やはり境界線を引き直す開発が行われていたのだ。そして妖怪に抵抗されて、青森県が白神山地に陰陽師と自衛隊を送り込んだところ、返り討ちに遭った。
「ご指摘のとおり、青森県のB級陰陽師、ならびに自衛隊の普通科連隊から一〇〇名近い犠牲者が出ました。しかも妖怪による被害は、作戦後に急拡大しています。相手は
先に白神山地に攻め込んだのは人間だ。
あらゆる生き物は、襲われれば反撃するなり、逃亡するなり反応するのが当然だ。今回の場合、当たり前のリアクションを返されただけなのだ。
妖怪は人間を襲う。だが人との境界線も知っている。
先に不文律を破って過激化させたのは、今回に限れば人間側だ。
それを意図的に話さず、まるで妖怪側から人間を襲い始めたような青森県の妖怪対策部長の言い分に、弥生は強い不快感を覚えた。
絡新婦とは、人化能力を持った女郎蜘蛛の妖怪である。
妖気で紡いだ糸で獲物を絡め取り、蜘蛛のように捕食する。
獲物は自身の成長に応じて、昆虫、鳥類、動物、人間、妖怪と上がっていく。
子蜘蛛の頃は大した力を持たないが、獲物を沢山食べて長く生き続ければ、巨大化して内包する力も強くなっていく。
そして強くなると子蜘蛛を生み、ある程度育ててから独立させる。
「絡新婦は、子蜘蛛を害せば報復します。子育てを行う大抵の生物も同様ですが、青森県は絡新婦に恨まれたのでしょう。賢さは人間以上で、人語も解しますから、厄介ですよ」
弥生は妖怪対策部長に対して、因果関係を明確化させた。
「藪をつついて蛇を出す。新開発地域を放棄する案は、出ませんでしたか」
「出来る訳がないでしょう。既に数千億円を投じている上に、県民も移り住んでいます」
言葉を飾る無意味さを察した妖怪対策部長は、やむを得ず本当のことを話した。
日本は選挙で政治家が決まる。
数千億円を投じた新開発が失敗して、投資分の損失を丸ごと被れば、開発を決定した青森県知事と青森県議会が、県民から追及される。
県民が危機に陥ったとあれば尚更で、失敗して撤退するのは認められない。
妖怪対策部長は、引けない理由を補強した。
「それに撤退したところで、絡新婦が襲ってくれば何の意味もありません。ですから、駆除しなければなりません」
手に負えない妖怪に対しては、撤退して境界線を引き直されて終わりだ。
今回は、人間が勝てそうなため、渋々と隣県から増援を呼ぼうとしている。
問題の白神山地は、青森県と秋田県にまたがる。
そのため白神山地の妖怪が人間を襲う場合、秋田県民にも被害が及ぶ。
話を持ち込まれた春日家は、秋田県の統括陰陽師だ。被害が出れば対応せざるを得ない立場で、話の内容を無視できない。
弥生は不快そうな表情を露わにしながら、受諾の条件を突き付けた。
「原因を作ったのは青森県です。相応の条件と報酬を示していただかなければ、B級陰陽師を殺した妖怪の調伏依頼は受けられません。無論、ほかの陰陽師に依頼されても構いませんよ」
「秋田県にも関わりますし、秋田県の陰陽師に協力を要請します」
弥生は青森県の妖怪対策部長を睨め付けた。
「B級妖怪の調伏には、A級陰陽師を呼ぶのが常識で、相場は一〇億円です。今回はB級陰陽師が殺されているため、二倍の二〇億円となります。さらに自衛隊も動員していただきます」
「持ち帰って図りますが、おそらくお願いすることになります」
弥生は厳しい条件を突き付けたが、撤退できない青森県は受諾した。
そして契約が結ばれて、白神山地に陰陽師が入ることとなった。
A級 五鬼童義一郎(当主)
B級 春日弥生、五鬼童義輔(当主の弟)
春日一義(長男)、春日結月(長女)
五鬼童義友(義一郎の次男)、五鬼童風花(義一郎の長女)
C級 五鬼童沙羅(義輔の長女)、五鬼童紫苑(義輔の次女)
五鬼童本家からは嫡男のみ参加していない。
それは全滅で家が断絶しないように、同じ依頼を受けないからだ。
報酬の取り分は、最初に協会が一割を持っていく。残った一八億円は、本家が七割五分、春日家が一割五分、分家が一割とされて、陰陽師が呼び集められた。
その際、話を聞いた分家の沙羅が、父親の義輔に提案した。
「春日家がB級三人で一割五分、うちがB級一人とC級二人で一割。釣り合っていないよね」
「何を言いたい」
「私の取り分をいくらか使って、賀茂一樹さんに指名依頼を出しても良いかな」
「あいつの資格はC級だ。連れてきても、B級を用意したことにはならんぞ」
不満そうな表情を浮かべる義輔に対して、沙羅は過日に配信された、牛鬼と鉄鼠の決戦動画を見せた。
明らかにB級中位以上の力を持つ牛鬼が、B級の強さを持つ鉄鼠に棍棒を振るい、叩きのめしている。そして鉄鼠が大きく削られたところに、八咫烏達が五行の術を浴びせ掛けて、鉄鼠の全身を満遍なく削り取った。
殴打と五行の浄化を浴び続けた鉄鼠は、絶叫しながら消滅した。
動画の再生数は、僅か数日で数百万回。
比叡山は完全解放された可能性があり、陰陽師協会の調査が始まっている。
恐るべきは、B級の鉄鼠を圧倒的な力で押し潰した一樹の呪力だ。
「資格はB級じゃないけど、実態はどうかな」
一樹の呪力は、明らかに鉄鼠よりも格上だ。
そして式神達を用いれば、呪力を十全に使うことができる。
「……正式な陰陽師の沙羅が、自分の報酬でほかの陰陽師を呼ぶのは構わん」
かくして一樹は、沙羅から指名依頼を出された。
◇◇◇◇◇◇
「このたびはご指名を頂き、真に有り難うございます。沙羅お嬢様」
「書類上の依頼人は、儂だがな」
一樹が冗談めかして述べると、厳つい顔の中年が、不機嫌そうに口を挟んだ。
もっとも、実質的には沙羅だと認めており、実直な性格が窺える。
一樹に依頼を出したのは、試験後に連絡を取っていた沙羅だ。沙羅の父親である義輔は、沙羅が行う再依頼を認めた。
依頼を受けた陰陽師が増援を呼ぶことは、珍しい話ではない。そもそも今回の依頼では、春日家の弥生が五鬼童家を呼んでいる。
したがって、正式な陰陽師の沙羅が自身の不足を補うべく、ほかの陰陽師に声を掛けたのは、おかしなことではない。
沙羅は自分の取り分である一八〇〇万円から半分以上を割り振って、一〇〇〇万円の報酬でC級陰陽師の一樹を招聘した。
沙羅が提示した一〇〇〇万円の依頼料は、C級陰陽師が依頼を受ける場合には相場の金額だ。
二回目の仕事を行う一樹は、納得して受けている。
手続きの問題で義輔の名義を使っただけで、一樹の実質的な雇い主は沙羅だ。
「今回は、C級の式神使いである一樹さんへの依頼です。ですから一樹さんは、式神を使って上空からの索敵や、戦闘支援をお願いします」
絡新婦の妖怪は、B級陰陽師を殺した。
だが安全な場所から式神を飛ばして、索敵や戦闘支援をする程度であれば、危険は無い。
一樹は沙羅に向かって、丁寧に答えた。
「明日からの探索では、一羽でC級下位の強さを持つ鳩の式神を九羽出します。三羽一組の三チームで、護衛・偵察・攻撃など自由に使い潰してください。使った鳩は、合流時に補充できます」
偵察任務であれば、捕捉した敵を二羽が追尾して、一羽が報告に戻る。
攻撃や護衛を行うのであれば、鳩達は三羽で連携する。
あまり複雑なことは出来ないが、五鬼童の気を味方だと覚えさせて、自分より強い妖気を感知したら敵だと認識させる程度は可能だ。
それらを説明した一樹は、さらに守護護符を取り出して沙羅に渡した。
「試験では、五〇トンに一分以上を耐えた護符です。どうぞ、お使いください」
「報酬は増やせないですけど、大丈夫ですか?」
C級とB級の強さは一〇倍差。
C級下位の鳩が九羽であれば、ギリギリC級の仕事の範疇に収まる。
それは手抜きしたいのではなく、『五鬼童が安い報酬で、実質的にB級の陰陽師を扱き使った』ことにしないための配慮だ。五鬼童は陰陽師の大家で、社会的な立場がある。
だが一樹の護符は、明らかにC級で収まらない。
最初から上回る分に関して、一樹は適当に理由を述べた。
「先物買いをしたお客様に対する、先行特典です」
カボエネの初依頼より前から、沙羅は予約していたようなものだった。
それを先行特典と宣った一樹に対して、沙羅は微笑んで礼を述べた。
「ありがとうございます」
そして一樹に付いてきた蒼依と八咫烏達に目線を送り、依頼人として尋ねた。
「八咫烏達は、どうされるのですか?」
国家試験での八咫烏達は、一羽で沙羅や紫苑と互角だった。
そちらに関しても、一樹は適当に理由をでっち上げた。
「あいつらは子供でして、初めての場所で共同作戦を行うには不安があります。世話をする助手の蒼依と共に戦力外として傍に置いて、周辺の警戒にでも使う予定です」
「分かりました。それで大丈夫です」
一樹と沙羅の話が終わると、話し合いを見守っていた義輔が告げた。
「我々は三隊に分かれて探索する。西から順に、一ツ森峠から向白神岳、天狗峠から天狗岳、津軽峠から櫛石山。担当は春日家、五鬼童本家、そして我が分家だ。探索には、自衛隊も付く」
現在地は、西目屋村側の入り口前にあるコテージ群だ。
白神ラインの東側で、人と妖怪の境界線の人間側にあたる。
ライフラインと宿泊施設が整備されており、人間側なので比較的安全だ。
こちらで最終確認を行い、翌朝からは探索に赴く予定だ。
自衛隊からは、師団が来ている。春日家、五鬼童本家、五鬼童分家が三チームに分かれて探索するため、普通科連隊も一隊ずつが付く。
自衛隊は、事前にベースキャンプを作っていた。
アンテナを設置し、物資を運び込み、衛生部隊も揃えている。
「はい、伺っています。中央にA級陰陽師を配置して、東西のどちらにもフォローできるようにするのですよね」
一樹が返答すると、義輔は僅かに頷いた。
「C級以下の子蜘蛛達は、各自で対応する。親蜘蛛が出れば、A級で対応する。青森県が開発したので携帯電話も使えるが、敵の発見報告など、全体に伝えるときには無線機を使え」
「分かりました」
「よろしい。以上だ」
義輔は言い足りなさそうだったが、実際の一樹の雇い主が沙羅個人であるためか、必要最低限の話をすると話を終えた。
春日家と五鬼童本家に至っては、義輔の家が独自に行ったこととして、完全に不干渉である。
なお紫苑も不干渉だ。試験で追い回されたことを根に持っているのか、一樹を見ると不満顔を見せた。そして不満を伝えるべく、あからさまに顔を背けてみせた。
その件に関して一樹は、紫苑の訴えが分からないわけではないが、正規の試合でルールにも反していないため、見なかったことにした。
「それでは一樹さん、よろしくお願いします」
「畏まりました。報酬に見合う仕事は果たしますので、ご期待ください」
丁寧に述べた一樹は、去ろうとした沙羅の手を引き、無言で制した。
そして紙に文字を書いて、中身を見せた。
『絡新婦の糸が張られている。振動で会話を聞いているかもしれない。対処してくる。複数で行くと気付かれるから、俺に任せてくれ』
文字を読んだ沙羅は、目を見開いて驚きを露わにした。
「仕事は明日からでしたね。少し周辺を見てきます」
「気を付けてください」
本当に一人で行くのか、と、沙羅は瞳で問うた。
それに対して一樹は、安心させるように軽く頷いて見せた。
「蒼依は八咫烏達を連れて、割り振られたコテージに戻っていてくれ」
「分かりました。みんな、おいで」
「「「「「クワッ!」」」」」
一樹が連絡を取り過ぎると、気付いたことが露見しかねない。
何も知らない蒼依が八咫烏達を連れて、コテージから出ていった。
蒼依がコテージを出たのに続いて一樹も外に出ると、ブナの原生林が連なる森の中へと慎重に、分け入った。
コテージ周辺の喧騒が消えて、運動靴が土を踏みしめる音だけが聞こえる。
森の空気は、血の臭いと怨念とが混ざって最悪に淀んでおり、今にも毒蛇などが襲い掛かってきそうな殺気に満ちている。
────これくらいなら、全然最悪ではないな。
一樹が体験した最悪は、無限と思えるほどに続く大焦熱地獄である。
それに比べれば、一度殺される程度の苦しみは、気が付かない程度の誤差にも等しい。
一樹は五分ほど、一般人にとっては吐きそうな程におぞましい森を平然と歩き続けた。
すると一樹の第六感に、爬虫類に無機質な瞳を向けられた哺乳類を想起するような、生命の危機に鳥肌が立つような感覚があった。
捕食者が獲物の動向を注視するかのような視線は、前方に高く伸びるブナの上方から向けられている。立ち止まった一樹は、懐から五枚の式神符を取り出して呪を唱え始めた。
『臨兵闘者皆陣列前行…………この者、木より流転し無の陰なれど、我が陽気を与えて生に流転せしむ。然らば汝、陰陽の理に基づいて、我が式神と成れ。急急如律令』
式神が飛び立ったのと、木々を薙ぎ払った殺人の糸が迫るのは、同時だった。
猛毒が染み込んだ糸が、一樹の身体に絡み付く。そして強烈な力で引っ張り、四肢の切断と、毒の注入を試みた。
左腕を首元に立てて咽を守った一樹は、鳩に向かって命じた。
「焼き払え!」
「「「「ポポッポー」」」」
叫んだ直後、糸に絡め取られた一樹は地面に引き倒された。
懐に隠していた守護護符が輝きを放ち、四肢の切断を防ぐ。すると凄まじい勢いで、今度は身体を引き摺られた。
その間、ブナの上に飛び上がった四羽の鳩が、妖気の持ち主に襲い掛かった。
激しい炎が二度も立て続けに噴き上がり、隠れ潜む敵の全身を灼熱で焼き払う。
「ギャアアアアッ!?」
ブナが燃え上がり、人語の絶叫が響き渡った。
一樹が知覚する妖気は、八咫烏達の強さに匹敵するC級上位。
二羽で倒すには荷が重いが、一樹が生み出した鳩の式神は四羽だ。
火行に続いて金行の鳩二羽が、それぞれ鉄の楔と化して、妖怪の身体に左右から突き刺さっていった。
再び悲鳴が響き渡り、木の上に潜んでいた絡新婦が落ちた。
「牛太郎、叩き潰せ」
地面に転がる一樹が指示すると、影から巨大な牛鬼が現れた。
牛鬼は楔を打ち込まれた絡新婦に向かって、振り上げた棍棒を全力で振り下ろした。
ズガンと、重々しい震動が響き渡る。
地面が揺れて、転がる一樹の身体を僅かに撥ね上げた。
一樹を引き摺る糸は止まったが、蜘蛛の生命力は人間の想像の上を行く。
「そいつが死ぬまで殴り続けろ」
「ブォオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
牛鬼は雄叫びを上げ、動かなくなった絡新婦を棍棒で叩き始めた。
その間に絡み付いた糸を解いた一樹は、服に付いた毒を振り払い、立ち上がって服に付いた泥を払い、やがて牛鬼に命じた。
「良くやった、牛太郎。もう良いぞ」
引き摺り回された一樹は、深い溜息を吐いた。
いかに強大な呪力を持とうとも、所詮は生身の人間だ。妖怪と肉弾戦が出来るはずもない。
撲殺された絡新婦の傍に近寄る前に、充分な安全確認を行う。
それからようやく傍に寄って、印を結んだ。
『臨兵闘者皆陣列前行。天地間在りて、万物陰陽を形成す。我は陰陽の理に則り、汝を陰陽の陰とし、我が気を対たる陽として、汝を従属せしむ。然らば汝、我が理に従いて、我が式神と成れ。急急如律令』
一樹が用いたのは、気を以て強引に従える呪法だ。
呪力と術で使役する陰陽道系だが、牛鬼には合意を得たのに対して、絡新婦には力尽くで有無を言わせずに契約を求めている。
絡新婦の霊体は抵抗を示したが、一樹が持つ莫大な気が、大河のように小さな抵抗を押し流していった。
あまり好みの方法ではないが、これは人間と妖怪との生存競争だ。
そもそも絡新婦は人を喰う存在で、人間にとっては有害な存在である。
勝者が敗者を喰うのは、自然界における勝者の権利だ。ならば勝った陰陽師が妖怪を使役するのも、自然の摂理だと一樹は考える。
『お前も俺を殺そうとしたのだから、対等な戦いの結果で良いだろう』
それが最後の一押しだったのか、絡新婦は式神に降った。
疲れて肩を落としてから、一樹は自身の中に混ざった新たな式神に命じた。
「出てこい、絡新婦」
中学生くらいの少女の霊体が、音も立てずに現れた。
金髪に黒の着物姿で、黄色と黒色の女郎蜘蛛を彷彿とさせる色彩である。
────絡新婦は、喰った人間を模せるが、本来の姿から人化したほうか。
まるで蜘蛛が周囲を観察するような瞳で、一樹を観察している。
長く彷徨った霊は、生前の意思や記憶が薄らぐ。だが式神化が早かったからか、絡新婦は記憶を残しているようだった。
一樹は生前の敵だが、現在は呪法で縛られている。
式神として降ったことで、使役者が内包する莫大な気を知覚したのだろう。だから敵意は示さずに、様子を見ているのだ。
絡新婦の知能を警戒した一樹は、最初に名前を付けて束縛の強化を試みた。
「お前の名前は、
牛太郎や猫太郎が集う一樹の周囲だが、流石に蜘蛛子は酷いと自重した。
女性の場合は、万葉集に記される雪月花にちなんで「雪子、月子、花子」と付ける選択肢も有り得る。だが動画配信チャンネルで「花子です」と報告すれば、非難
それに対して水仙は、美しい花の名前で、中国の漢名を音読みされる。
中国古典・天
子神解章には、次のように書かれる。
『仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙』
水仙は水辺に育ち、長く清らかに在るとされている。毒もある花だが、一樹は「式神として、使役者に寄れ」と、名付けで縛った。
「……名前の由来は以上だ。それでは最初の命令を出す。元の仲間に対して、倒されていない振りをしろ」
水仙と名付けられた絡新婦の式神は、命令を受けて押し黙った。
そして一樹の身体を眺め回してから、徐ろに口を開いた。
「従うけど、どうしてボクの毒が効かなかったのかな。妖気を変換する神経毒だから、身体に触れるだけでも、多少は効果があるはずだけど」
一樹が無事だったのは、地蔵菩薩が万病熱病平癒の修法を持つからだ。
不穏なことを口走る式神に対し、一樹は『お前は清らかな水仙だ』と念じた。
◇◇◇◇◇◇
「主様、式神を増やされたのですか」
一樹がコテージに戻ると、蒼依が不安そうな表情を浮かべていた。
────俺を介して気が繋がるから、知覚できるか。
蒼依の立場に鑑みれば、不安になるのは無理もない。
蒼依は一樹との関係が破綻すれば、気を得るために人間を喰わざるを得ない。そうすれば醜い山姥と化して、人間としての生活は終わりを迎える。
無論、一樹はそのようなことをしない。
そもそも一樹は、蒼依に対して「一生手放さない」と言明している。
陰陽師が言葉にした約束を破れば、言霊の効力が激減して、力を大きく損なう。陰陽師の一樹なればこそ、そのように愚かな真似をするはずがない。
それに蒼依には、困っているときに受験費用を借りたり、家に住まわせてもらったりした。それが無ければ受験できず、生活も軌道に乗せられなかった。
諺には『犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ』とあるが、一樹は犬よりも記憶力が良いつもりだ。
────これ以上、何を言えば良いんだ。
一般的に女性は何度でも言われたがるが、男は易々とは言わないとされる。
この件に関しては一樹も多数派の一人であり、度々口にするのは憚られた。
困った表情を浮かべた一樹と、不安そうな蒼依の様子を窺った水仙は、微笑を浮かべながら二人の間に割って入った。
「あなたは、奥方様ですか」
「ふぇえっ」
一樹の妻かと問われた蒼依は、驚きの声を上げ、次いで頬を朱に染めた。
「あの、まだそうじゃないけど、一緒に暮らしているというか……」
根が正直な蒼依が動揺しながらも、真面目に答えようとする中、水仙は第二声を放った。
「ボクは、ダーリンの愛人で、水仙と申しますぅ」
水仙の言葉を聞いた蒼依は、一瞬で固まった。
そして美しき伊邪那美命ではなく、冷酷な黄泉津大神を彷彿とさせる冷めた表情を浮かべて、一樹に顔を向けて、目線で真偽を問うた。
それは、蛇に睨まれた蛙の如き様だった。
一樹は強張った表情となり、首を左右に大きく振って弁明した。
「嘘だ。そいつは、さっき戦って式神にした絡新婦だ。蒼依が望むなら、仕事が終わったら契約を解除しても良い」
焦った一樹が過激な弁明をすると、蒼依は水仙に向き直って微笑んだ。
次の瞬間、天沼矛が具現化して、煌めく矛先が水仙の首元に添えられた。
そして蒼依は、黄泉津大神の如き底冷えのする声で質す。
「もう一度、自己紹介してくれるかな」
「はじめまして、ボク、式神の水仙ですぅ!」