「ひいいいっ」

牛鬼に冤罪を掛け、輪廻転生して果たす一樹の陰陽師としての生き様を罵った山姥の行為、言葉は、一樹の逆鱗に触れた。

思わず悲鳴を上げて飛び退いた山姥の足元からは、亡者の手が無数に湧き出していた。

ボロボロになった血の通わない真っ白な手が、山姥を掴もうと、あるいは救いを求めようと、必死に伸びていく。それらは、大焦熱地獄から逃れようとする亡者の手だ。一度掴めば、手がもげようとも、身体が千切れようとも離さない。

その苦しみを一樹は知っており、襲われる山姥も本能で危険を知覚した。

山姥は、無数に伸びてくる手から必死に逃れようとした。

もはや牛鬼など、相手にしていられない。亡者の手を呼び出した一樹のような不可解な相手にも、近寄りたくはない。

故に山姥は、傍観者となっていた和則に飛び掛かった。

山姥はB級の力を持ち、和則の資格はC級に過ぎない。

互角の力を持つ牛鬼でも、おぞましい力を持つ陰陽師の一樹でもなく、C級陰陽師の和則を人質に取ろうと図ったのだ。

和則は一樹の父親で、一樹に対する人質に出来る。

一樹を封じれば、使役した牛鬼も大人しくさせられる。

山姥が和則に襲い掛かった直後、和則に付いていた二羽の鳩が両者に割って入った。

もう一人の傍観者となっている蒼依の瞳には、一羽が祖母の山刀を防ぎ、もう一羽が祖母に取りついて激しく燃え上がる姿が映った。


「うぎゃあああ、ああぁっああっ!」

咽の奥から絞り出すような、おぞましい山姥の絶叫が杉林に響き渡った。

痛みを絶叫に変えて、少しでも発散しようとしたような、生命の危機を声高に叫ぶ声が上がる。

山姥に襲い掛かったのは、一樹が和則に付けていた二羽の鳩だった。より正確には、五行のうち土行と火行の属性を持たせた式神達である。

土行の式神は、土陣を生み出して、山姥の山刀を防いだ。

火行の式神は、焦熱を生み出して、山姥の全身を焼いた。

山姥は必死に転げ回り、全身に絡み付いた炎を消そうと藻掻き苦しむ。

だが一樹が籠めた莫大な呪力は、そもそも人間を由来としていない。山姥であろうとも、容易に耐えられるものでは無かった。

苦しむ山姥に対して、和弓を番えた一樹が追い打ちの矢を射た。

『火行ノ祓』

引き絞られた矢が、ビュウンッと力強い音を立てて山姥に飛んでいった。

射られた矢は、頬撫での妖怪の枝だが、一樹の呪力で顕現している。山姥の山刀が打ち払おうとした瞬間に燃え上がり、山刀を持つ山姥の手を焼いた。

「ぐぎゃあああっ」

苦悶に表情を歪めた山姥に、牛鬼が棍棒で容赦なく追撃を加える。

山姥が振り回す山刀は、一樹に焼かれながら、牛鬼に何度も打ち据えられていった。

やがて山姥に対する勝利を確信した一樹は、周囲を見渡して孫娘の蒼依に警告を発した。

「鳩は五羽を生み出して、まだ三羽が残っている。抵抗するなよ」

イザナミが一日一〇〇〇人を殺すために分体を増やしているのだとすれば、蒼依も祖母と同レベルの強さを持っている可能性がある。実際に蒼依の陰気は強く、一樹は蒼依に対しても警戒した。

対する蒼依は、三羽の鳩が周囲を囲む姿を視界に捉えながら、硬い表情で頷いた。


木の枝に飛び乗って逃れた山姥は、忌々しげに叫んだ。

「おのれ、小童め!」

山姥に罵倒された一樹は、あからさまに不満げな表情を浮かべて言い返した。

「頬撫では、手を伸ばす妖怪だ。お前が陰陽師を誘い込んだら、式神で反撃されただけだろう」

正論を説いたところで、それが通じる相手であれば、八つ当たりで一日一〇〇〇人を殺すという発想になるはずもない。

一樹は、続けざまに告げた。

「聞け、山姥! 俺の気をお前に焼き付けた。俺に近付けば、感知した俺の式神達が襲い掛かる。それが嫌ならば、日本から去れ。そうすれば、俺も追えない」

山姥は一樹と式神達を睨み、孫娘の蒼依にも素早く視線を送った。

対する一樹は、右手を胸元に引き上げ、印を結んで威圧し返す。

「俺は、お前を殺せる。お前は、俺を殺せない。強い者が勝つ。失せろ」

一樹が警告すると、山姥は一歩下がり、二歩下がって、ついには背後の杉林に飛び込んで逃げ去っていった。

緊迫した空気が数十秒続いて、やがて弛緩した。

山姥は、一樹に負けて逃げ去った。これは千年以上の長きに渡って繰り返されてきた、陰陽師と妖怪変化との有り触れた戦いの一幕である。

山姥の逃亡と、息子の勝利を確信した和則は、一樹に質した。

「一樹、どうしてトドメを刺さなかった。呪力は、未だ沢山あっただろう」

あと三〇枚も飛行できる鳩の式神を使えば、山姥を逃がさず倒せていた。そして一樹には、それを容易く行えるだけの呪力もあった。

理由を問う和則に対して、一樹はやむを得ざる事情を話した。

「生徒が使えるコピー用紙が、一人五枚だった。だから式神符は、五枚しか無かった」

呪力が満ち溢れていても、追撃する手段が無い。

そのように一樹が説明すると、和則は躊躇った後、息子に告げた。

「学校から、くすねてきなさい」

人を殺して喰う山姥を倒すために、公立中学校……すなわち税金から、コピー用紙を拝借する。

それは公益性と費用対効果で、社会的には許されるかもしれない。だが子供に、窃盗を指示する父親は、如何なものだろうか。

一樹は首を横に振って、否と答えた。


かつて一樹が行かされた大焦熱地獄は、五戒とされる『不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒』を破った者が堕とされる世界であった。

陰陽師として戦う以上、敵対する妖怪を殺したり、戦いで嘘を吐いたり、儀式で清酒を飲んだりするかも知れない。既に山姥に対しては、牛鬼の記憶を見られると嘘を吐いた。

だが窃盗は、人生で一度も行わなくても良いかも知れない。

人生における善行と悪行を見比べるのが裁定者であろうから、善行が多ければ問題ないだろう。だが悪行にひた走っても、少なくとも窃盗をしていなければ、大焦熱地獄には堕とされない。

それは一樹にとって、極めて重大事項であった。

「父さん。頼むから、もっと稼いで、紙くらい買ってくれ」

「……うむ」

和則が妻に離婚されたのも、無理からぬ話であろう。

情けなく言い合う親子に対して、捕まった蒼依は、困った表情を浮かべた。


「それで、わたしはどうなるのですか」

コピー用紙を巡って情けなく言い争った一樹に向かって、気を取り直した蒼依が質した。

蒼依の周囲は、一樹が生み出した式神三羽が取り囲んでいる。

それらは山姥の不意打ちを防ぎ、逆に全身を焼いた式神達の片割れだ。五羽を同時に生み出している以上、残る三羽も、先に使った二羽と同等の力を持つだろうと予想できる。

三羽を突破しても、山姥と打ち合っていた牛鬼が控えている。

一樹自身も和弓と術を使い、和則の側には山姥を防いだ土行の式神が未だ残っている。

今すぐ逃げても、四羽の式神に追われて殺されるか、祖母のように印を付けられて日本中を追い回されるだろう。蒼依の進退は、窮まっている。

一樹は油断なく身構えながら、蒼依に質した。

「これから質問を行う。冤罪を掛けたり、誤解したりしないために、弁明の機会も充分に与える。山姥に従属して、俺達を山中に連れ込んだ時点で、質問への拒否権は無い。正直に答えてもらう」

山姥は『うちには孫娘も居るんだ。早く、何とかしておくれよ』と、一樹達を催促した。

その場に同席し、反論せず嘘の出汁にされていたのだから、少なくとも消極的には、一樹達を騙して誘い出す行為に協力している。

誘い出した先で殺そうとしていたのだから、殺人の従犯と見做して良い。

はたして蒼依は、拒否する素振りを見せず、しおらしい態度で頷いた。


「それでは質問する。そもそも山姥は、白髪で、伸びて乱れた蓬髪で、顔がしわくちゃな老婆が、ボロい衣服を纏って、細長い杖を持つ姿で現れる」

それは山姥が、イザナギに捨てられたイザナミの分体だからだ。身体が腐乱し、蛆が湧いた醜悪な姿故に、イザナミは夫の愛を失った。

だが蒼依は顔立ちが整い、黒髪も美しい、色白の少女だ。

髪は一本一本が艶やかで、雪の結晶が陽光を浴びたかのように儚く煌めく。肌は新雪のように白く、若くて瑞々しい。このような姿であれば、夫の愛を失わず、山姥にも成らない。

したがって一樹は、蒼依が山姥ではないと考える。

「だが、お前は美人で、山姥の特徴と一致しない。一体、何者だ?」

一樹は前世を持つが、魂は大きく損耗している。

故に精神は年齢に近く、同級生くらいに見える女子に正面から美人だと言うのには、若干の羞恥があった。

僅かに躊躇った後に口にして、自ら発した言葉に照れをのぞかせた一樹に対して、蒼依はホッと一息を吐いてから答えた。

「山姥の孫です」

羞恥を誤魔化すために渋い顔を浮かべる一樹に対して、蒼依は語った。

「日本各地にいる山姥は、山姥の子孫です。山姥の血を引く人妖が、自ら殺した人を食べると、山姥になります」

────イザナミが分体を送り出した伝承に鑑みれば、可能性としては有り得るか。

女神イザナミは、夫イザナギに「一日一〇〇〇人殺す」と呪詛を吐いた。

そしてイザナギと共に生み出した日本に、自らの分体をバラ撒いた。

イザナギとイザナミは、本州、四国、九州などを生み出した。

山姥の伝承も、その範囲にある。

だが北海道や沖縄を除く日本の大部分に散ったとは言え、一日一〇〇〇人を殺し続けるのは容易ではない。『踏み入れば必ず殺される山』に、一体誰が入っていくだろうか。

過去の陰陽師が討伐に赴いて、分体の山姥を減らした山もあるだろう。

だからイザナミの呪詛を達成すべく、分体の山姥達は子孫という手駒を増やして、不足分を補おうとしたのだ。

────山姥に、別の意味で襲われた男達がいるわけか。

その光景を想像しかけた一樹は、おぞましさに身体を震わせて、想像を振り払った。

そして気を取り直して、もっとマシなことを考えようとする。

「生前のイザナミは、女神だった。伊邪那美命と呼ばれ、名前に美しいという文字も入っていた。美しい娘が生まれるのは理解した。山姥に至る前の、山姫という存在か」

「はい、そうなります」

山姥には美人も存在して、その場合は『山姫』として扱われる。

イザナミの逸話が存在しながら、なぜ美人なのか、一樹は理由が理解できていなかった。

蒼依の話を聞き、美しい山姥である山姫が存在する理由に得心した一樹は、次の疑問を尋ねた。祖母と孫娘の間に居るはずの母親についてだ。

「母親はどうした」

祖母を撃退された恨みだと言って襲い掛かられれば、堪ったものではない。

一樹にとって、命に関わる問題であり、家庭の事情であろうと知らねばならぬことだった。

蒼依は、若干躊躇った後に答えた。

「私を作って、用済みとなった人間の父が、祖母に食べられました。父を食べるように言われた母は、祖母に逆らって、殺されました」

重い話を聞いた一樹は、不機嫌そうに眉を顰めた。

父親を祖母に殺されて、逆らった母親も殺された話など、不快であるに決まっている。

質問を続けなかった一樹の代わりに、蒼依は自ら説明した。

「母は、まだ山姫でした。日本は戸籍や身分証がしっかりしているので、土地や家を所有するにも、子孫を増やすにも、辻褄が合っていないと駄目ですから。うちは六〇歳くらいまでは、山姫として人間に紛れ込みます」

山姥の手の込み様に、一樹は驚きつつも感心した。


六〇歳くらいまで人間の社会に紛れ込めば、その後に山姥となっても、人間には分からない。

山姥がしわくちゃでも、六〇歳以上であれば、役所も外見に触れたりはしないだろう。

そうやって山と子孫を保ちながら、安定して人間を喰ってきた訳だ。

一〇〇歳を超えるくらいまで生きれば、妖怪に襲われて死んだことにでもする。そうして家や子孫を保つ使命から離れて、日本中の山々で人間を喰うことに専念する。

「現代社会で人間を殺し続けるために生み出した、世代交代のサイクルか」

夫婦喧嘩で、そこまでするなよ……と、一樹はイザナミの執念に呆れ果てた。

もっとも神が人間の都合に合わせるなど有り得ないとは、輪廻転生の経緯で理解しているが。

「だが、どうして父親は殺された。人間社会に溶け込むなら、もっと生かしておいたほうが、都合が良かったんじゃないか」

「わたし達は人を喰う存在で、人肉を食べたり、生気を吸ったりしないと駄目らしいです。母は、かなり弱っていました」

蒼依から山姫の生態に関する重要な話が出て、一樹は話の続きを促すべく、黙して頷いた。

「たまに祖母が食事に混ぜていましたけれど、人間の父と仲の良い母は嫌がっていました。だから祖母が、それを治そうとして、父を殺したんです」

「それは酷い話だ」

人間を喰わない原因を取り除こうとして、それ自体には成功したが、夫を喰わせようとしたのが拙かったのだろう。

山姥は夫を嫌いだが、山姥になる前のイザナミは夫に愛がある。

せめて殺すだけにしておけば良かったのだ……とは言い切れないが、祖母の山姥が母親のために父親を殺した理由も、母親が反発した理由も、一樹は概ね理解した。

そして改めて、蒼依の様子を観察した。

蒼依の肌は色白で、僅かに赤みを帯びており、不健康そうに見える。

「お前も、あまり人間を食べていないのか」

「でも祖母が食事に混ぜますし、少しは食べているはずです。それに祖母が山姥だと分かっていて、隠していました。どうしますか?」

粗方の事情を聞き終えた一樹は、押し黙って考えた。

正式な陰陽師は父親だが、山姥や山姫に対処できる力は持たない。

対応するのは、一樹自身だ。

────未成年が保護者に従属するのは、責められない。

事情を話せば、母親同様に蒼依自身も殺されるのだから、言えないだろう。

祖母の山姥に従属して、山中に引き込む出汁に使われた蒼依の事情は、情状酌量の余地がある。将来は兎も角として、山姥が居ない現在の蒼依は、殺さなければならない凶悪な妖怪ではない。

問題は、蒼依が気を必要とする部分にある。

それを調達していた祖母は一樹が追い出した。

一樹は正当防衛だと自認するし、反省も不要と考えるが、結果として蒼依は餓死するか、自ら人間を襲うしかない状態に陥った。

『山姥の血を引く人妖が、自ら殺した人を食べると、山姥になります』

そのように蒼依は説明した。

中学生の美少女から、白髪の山姥に変貌すれば、蒼依は人間社会に居られなくなる。

すると山中に逃げ込み、人を喰いながら生きていくことになる。

蒼依の事情を理解した一樹は、結論を出した。

「分かった。結論を伝える。山姫のお前を俺の式神にして、気を与える。それで人間を食べずに済むから、山姥にならず、人の生活を続けられる。対価は式神としての従属。それで良いな?」

蒼依は生者だが、伊邪那美命の分体たる山の神で、陰陽道系で使役できる存在に含まれる。

確認した一樹に対して、蒼依は否定的な言葉を口にした。

「人間が式神にしようとすると、直ぐに気が尽きると思います……」

だから式神にするのは不可能だと言おうとして、山姥と互角に戦った牛鬼を従えた事実を思い出した蒼依は、口を噤んだ。

「現状で、お前は殺されるほどの罪は犯していない。だが放置すれば餓死か、山姥化だと知った。もしも山姥化するのであれば、見逃した陰陽師の責任になる」

一樹は蒼依を見逃せない理由を説明した。

蒼依を殺せば、地獄に墜ちる罪を一つ満たすかも知れない。意図的に放置して山姥化に至らしめれば、どのような罪になるのか。それらにも鑑みて、座視は出来なかった。

「俺を引き込んで襲い掛かった祖母に、お前は従属して協力した。故に陰陽師として、妖怪に対する式神化の判断を下す。この件に関して、拒否権は無い。俺の気が足りずに倒れれば、運良く逃げられたと思えば良い」

「はい、分かりました」

呪力に関して半信半疑の蒼依は、それでも式神化の話には素直に従った。

一先ずの理解を得た一樹は、その場で陣を整えると、牛鬼に対したときのように、蒼依に式神契約を行った。


『臨兵闘者皆陣列前行。天地間在りて、万物陰陽を形成す。我が氏は賀茂、名は一樹、理を統べる陰陽師也。我は陰陽の理に則り、山姫たる相川蒼依を陰陽の陰とし、我を対の陽とする契約を結ばん。然らば汝、我が与える気に従い、我が式神と成れ。急急如律令』


五行陰陽において男性は陽、女性は陰とされる。

一樹が呪を唱えながら、陣を介して山姫の蒼依に気を注ぎ込んでいくと、やがて蒼依に神気が宿り始めた。

輝きを放つ自らの身体を見回した蒼依は、驚きに目を見張った。

「本当に、出来るんだ」

『汝、我に従いて、我が式神と成れ……すまないが、これからは俺を家族と思ってくれ。山姥化しないように最善は尽くす』

一樹が重ねて告げると、蒼依は驚いた表情を浮かべた。そして、まるで結婚した妻が夫を立てるような古風な言い回しで返答した。

「不束者ですが、どうぞ宜しくお願いいたします」