五羽の鳩には、陰陽五行の力が籠められている。

陰陽五行とは、天の星にも、地に満ちる万物にも適用でき、四方八方の空間、過去から未来までの時間にも通じる世界の法則だ。

戦国時代の『陰陽主運説』で、『木』『火』を陽、『金』『水』を陰、『土』を陰陽半々と記した。

陰陽は循環するために、陰陽師は陽気を持つ男性も、陰気を持つ女性も、五行の全てを扱える。

男性が、金行や水行を使うと効果は落ちるが、一樹は例外だ。

一樹が持つのは、大焦熱地獄で浴び続けた穢れを十二分に抑え込める陽気、そして陽気と同量で得た裁定者の神気だ。多少の効果が落ちる程度など、全く気にしなくて良い呪力がある。

「牛鬼を探せ」

「「「「「ポポッポー」」」」」

世界に産声を上げた五羽の鳩達は、生みの親である一樹の命令を受けて、『臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前を行く』が如く、一斉に飛び立った。

一樹が使用した紙は、中学校で情報の授業中に使えたコピー用紙だ。それに大量の呪力を籠めながら、授業用の筆と墨汁で、使役陣を書き上げている。

普通の式神符は、そんな風には作らない。

生漉きずきの和紙に、毛筆を使い、朱墨で書く。

そのほかにも、日取り選び、潔斎、鎮宅霊府神への祈願と供え物、入魂といった手順が必要だ。

それら一切を無視して、その辺の紙に莫大な呪力を籠めて式神符を作り出せてしまう一樹は、現世の陰陽師とは比較にならないほど呪力が高い。

もっとも一樹の場合、経費を安く上げるために、致し方なく安物を使っているだけだが。

そんな莫大な呪力こそ、和則が太鼓判を押す根拠であった。

目を見張って驚きを露わにした依頼人の老婆は、和則に質した。

「お子さんも陰陽師なんですかね」

「左様です。我が賀茂家は、非常に古い系譜でして……」

賀茂家は、平安時代末期の『今昔物語集』に、陰陽師である安倍晴明の師匠として登場する。

陰陽の世界では、暦道系の賀茂、天文道系の安倍として、二大宗家の一つとしても有名だ。

一〇世紀頃までの賀茂家は、従五位下くらいの下層貴族だった。

だが賀茂忠行、嫡子の天文博士・保憲の代になると隆盛する。

忠行は、式占ちょくせんによって、村上天皇(在位九四六年~九六七年)が竹籠に隠した水晶の数珠を形状や入れ物の姿まで、見事に言い当てた。

保憲は、父以上の力を持ち、暦博士、天文博士、陰陽頭を務めた。そして保憲こそが、かの有名な安倍晴明の師匠でもある。

もっとも賀茂家は、一〇〇〇年以上も前から実在した家柄だ。

直系以外も含めれば、日本中どこにでも子孫はいる。一樹の父である和則は、辛うじて中級陰陽師だが、家としては没落も甚だしい。

そのような歴史の流れを汲む一樹が、程なく声を上げた。

「牛鬼を見つけました。徒歩で二〇分くらいの場所です」

「ええっ、もうかい!?

依頼人の老婆は、驚きの声を上げた。

C級陰陽師への依頼でありながら、これほど早く見つかるとは、想像だにしなかったのだろう。

もっとも一樹には、老婆が驚く様がわざとらしく思えた。

────見つけた牛鬼は、ツバキの根に宿った神霊だった。

牛鬼は文献や伝承から、人を食い殺す悪鬼だとの先入観を持たれる。

だが牛鬼の伝承は様々にあり、その中には生まれて間もない頃に人間に助けられた牛鬼が、人に災いを為す悪霊を祓い、その後は神霊としてツバキの根に宿った話もある。

今世における妖怪変化は、概ね伝承のとおりだ。

したがって、人間に助けられたツバキの神霊が、人に仇為すのはおかしい。

それにも拘わらず依頼人の老婆は、牛鬼を『暴れ回って、凶暴なやつだよ』とのたまった。

「どうした、行くぞ一樹」

「あたし達も確認に行くよ。依頼人だからね」

父親に促された一樹は、依頼人の老婆と孫娘と共に、杉林の中へと踏み入った。


小鳥達の囀りが高らかに響き渡り、川のせせらぎが、微かに聞こえる。

山と主張するには、小ぢんまりとした、私有地の小山。そんな小山に林立する杉林を分け入り、藪をナタで打ち払いながら、一樹達は奥へと進んでいった。

見渡す限り広がる杉林は、かつて日本の電柱が木製だった時代に『お上のお達し』で大規模に植えられた、田舎にはよくある杉山の一つだ。

細長い杖を持ち、しっかりとした足取りで進む老婆は、自らが所有する山の由来を語り始めた。

「昔の電柱は、コールタールを塗った杉が主流だったんだよ。あんたは、知っているかい?」

「そうだったのですか、私は木製の電柱は、見たことがありません」

依頼人に丁寧な口調で答えながら、白髪の老婆は何歳なのだろうか、と、一樹は女性に対して失礼な疑問を抱いた。

「当時の日本は、電柱が杉だったんだよ。それで国中に電柱を立てて交換するためには、杉が沢山必要だって言われて、杉山を増やしたのさ」

それだけが理由とは限らないだろう。だが当事者ないし子孫の証言がある以上、杉林を増やした理由の一つであるには違いない。杉を電柱用の長さに育てるためには、数十年の歳月が必要だ。

杉の電柱としての耐用年数は一五年であるため、日本中の電柱を取り替え続けるためには、杉を育てる期間を計算に入れて、電柱の倍以上の杉が必要となる。

電柱が杉だった時代であれば、杉の需要を見込んで増やすのは、むしろ自然な流れだ。

「だけど、コンクリート製の電柱が登場して、杉は不要になったのさ。植えさせておいて、買い取れませんと来たものさ。全く、迷惑な話さね」

「それは大変ですね」

それは確かに困るだろう、と、一樹も理解を示した。

コンクリート製の電柱は、耐用年数が四〇年以上もあり、杉よりも管理が楽だ。何しろ育てなくて良いし、街中でも作れる。

すると国中の電柱がコンクリート製に変わって、杉は不要となる。

需要と供給が逆転して、不要となった杉が、日本中に溢れかえる。

古代から日本中に杉が溢れ返っていたのであれば、環境適応しているはずの日本人が、これほどスギ花粉で苦しむはずもない。

国策で大規模に増やして、手に負えなくなったのが、現在の大量にある杉林なのだろうかと一樹は考えた。


土地は、所有するだけでも税金が掛かる。

かといって土地を活用するために杉を売ろうにも、誰も要らないので、ろくに売れず、伐採するだけでも大赤字だ。

そのような土地は、負債と不動産を掛け合わせて、負動産とも呼ばれる。

そうした話を聞きながら歩くうちに、一樹達は牛鬼の下へと辿り着いた。

────やはり、ツバキの神霊だな。

山の片隅で、静かに咲く赤いツバキの花。

そのツバキから、一樹は自身にも宿る神気を感じ取れた。

気を感じ取る力に関して、一樹は他の追随を許さないと自負する。

何しろ大焦熱地獄で、無限に続くかと思われるほどの長きに渡り、膨大な陰気の存在に触れてきたのだ。

────こいつ自身に穢れは無い。暴れ回る凶暴な奴ではない。

一樹自身の経験を信じるか、初対面の老婆の主張を信じるか。

答えは、言わずもがなであった。

「父さん、俺が調伏してみる。凄く力の強い牛鬼で、勝てるとは限らないけれど、無理をしてでも倒さないと、依頼人さんが危ないからね。父さんには、式神の鳩を二羽付けるよ。最悪の場合、足止めにはなると思う。気を付けて」

一樹は、危険な相手に無理をする性格ではない。

現場でイレギュラーは発生するが、戦う前に勝てないかも知れないと分かっているならば、素直にそう言って一度逃げる。そして万全の準備を整えてから、再挑戦すれば良いと考える。

一樹が生み出した式神の鳩も、足止め程度の存在ではない。

あからさまに、おかしなことを言う一樹の意図を酌み取った和則は、しばしの間を置いて答えた。

「うむ、分かった」

和則と頷きあった一樹は、次いで依頼人に呼び掛けた。

「相川さんは、危ないので少し離れていてください。牛鬼を倒してみます」

「そうかい。それじゃあ頼むよ」

老婆と孫娘を下がらせた一樹は、陣を作成して準備を整えた。

ただし作ったのは、調伏ではなく、式神として使役するための陣だ。

式神の使役には、大別して三種類がある。


一つ目、鬼神・神霊を、呪力と術で使役する陰陽道系。

二つ目、異界より喚び出す護法神。(神社の稲荷、寺の金剛力士等)

三つ目、紙や木片に、自分や誰かの呪力を籠める道教呪術系。


鳩の式神は三つ目で、今回牛鬼に使うのは一つ目だ。

一つ目の式神を使役するには、術者が式神に、自らの呪力を与え続けなければならない。また式神が戦闘で力を消費すれば、その補充も行わなければならない。

そのため呪力の低い術者は、式神に力を与えるだけで、自らの呪力の大半を失ってしまう。

すると式神の維持と運用に掛かりきりとなり、式神を扱う以外の活動はまともに出来ない。そんなデメリットがあるために、式神使いは陰陽師の主流ではない。

二つ目の方法も、強い相手を異界から呼び出すために、相応の準備や対価が必要だ。一般的な陰陽師は、とても気軽には使えない。

そのため式神使いではない陰陽師は、一般的には三つ目である使い捨ての式神を多用する。

だが一樹は、強大な牛鬼であろうとも、使役するには充分な呪力を持っていた。

「それでは調伏します」

正しくは、調伏ではなく、使役である。

一樹は印を結び、老婆には聞こえないように、小声で呪を唱えた。


『臨兵闘者皆陣列前行。天地間在りて、万物陰陽を形成す。我は陰陽の理に則り、霊たる汝を陰陽の陰と為し、生者たる我が気を対の陽とする契約を結ばん。然らば汝、この理に従いて我が式神と成り、顕現して我に力を貸せ。急急如律令』

一樹が唱えながら陣に気を注ぎ込んでいくと、やがてツバキの根がある中心付近に霊力の渦が発生し、恐ろしくも厳格な顔付きの巨大な牛鬼の顔が現れた。

「おおっ、なんと強大な!?

おののいた和則が見上げる牛鬼は、二階の屋根に届きそうな巨躯だった。

牛鬼の姿形は、「名は体を表す」の言葉通りに『牛の頭に鬼の身体』で、凄まじく筋肉質だ。

ゴリラやチンパンジーの筋肉の質が、人間とは異なるように、鬼の筋肉も人間とは異なるのだろう。単なるマッチョな人間では有り得ない筋肉だった。

全身はツバキのように赤色で、腰蓑を巻き付けており、右手には巨大な棍棒を掴んでいる。

『民家ほどの大きさのゴリラが、巨大な棍棒を掴んで見下ろしている』

それに等しい光景であり、和則は思わず後退った。

これほど強大な牛鬼であれば、アフリカ象を倒すどころではなく、ティラノサウルスにも勝ち得るかも知れない。

ベテラン陰陽師の和則を怖じ気づかせた牛鬼は、流し込まれる陽気が契約に見合った時点で、一樹の影に飛び込んでいった。

刹那、呪力を流し込む対象を見失った陣が、強烈な突風と共に霧散した。

「きゃっ」

突風に煽られた蒼依が悲鳴を上げて蹌踉よろめき、思わず座り込んだ。

それから僅かな沈黙が流れた後、小鳥の囀りと小川のせせらぎが戻った。

突風が吹き荒れた周囲からは、ツバキの花が消えている。

一樹は依頼人の老婆に視線を合わせながら、報告を口にした。

「私の気と、我が家に伝わる秘術を以て、なんとか封印しました。私の気は尽きましたが、後日、牛鬼の記憶を見て、なぜ暴れていたのかを確認します」

「そんなことが出来るのかい?」

驚く老婆に向かって、嘘吐きの一樹は、力強く頷いてみせた。

「数日ほど気を溜めれば、確認出来ます。念のためですが、二体目は居ないですよね。私は、既に気が尽きて、父もC級陰陽師です。二体目が出ると……勝てません」

不安げな表情をのぞかせながら一樹が訴えると、老婆は口元を小さく歪ませながら答えた。

「そうかい。だけど安心して良いよ。牛鬼は、もう出ないからねぇ」

「それは良かったです。実は、もう歩くのも限界で」

そう言った一樹は、覚束無い足取りで老婆に背を向け、和則のほうを向いた。

「父さん、封印がおわ……」

一樹が発した言葉は、鈍い衝撃音が鳴り響いて掻き消された。

咄嗟に飛び退いた一樹が振り返ると、何処から取り出したのか、老婆は巨大な山刀を構えていた。その山刀が、一樹の影から現れた牛鬼の棍棒と打ち合い、激しい火花を散らせていたのだ。


「小僧、なぜ分かったあぁ!?

まるで刀のように巨大な山刀を振り回す白髪の老婆が、苛立ちも露わに叫んだ。

牛鬼を盾に飛び退き、向き直って印を結ぶ一樹は、老婆に答えない。

強大な妖怪に対して、わざわざ自分の戦闘に関する情報を与える者など、いるはずもない。

────人違いで大焦熱地獄に墜とされた俺は、冤罪が嫌いだ。

様々な人に多用される「嫌い」には、幅広い程度が存在する。

その中でも、一樹が冤罪を嫌う程度は、極めて深刻なレベルだ。だから相手が牛鬼だとしても、頭ごなしに悪鬼とは決め付けない。

何ら証拠を提示せず、善性であるはずのツバキの神霊を悪しき様に罵った老婆に対して、一樹は強い不信感を抱いていた。

────それと妖気は感じ取れる。

一樹は大焦熱地獄で、責め苦を行う鬼達の気を知覚し続けた。

故に視覚で追わずとも、妖気を感じ取れるようになっている。

警戒していたところに、背後から急速に迫ってくる妖気があれば、迎撃するに決まっている。

一樹は依頼主が妖怪でも頭ごなしに否定しないが、斬り掛かって来たなら敵である。

「さしずめ人を襲う妖怪が、対立する妖怪を弱らせるために人間の陰陽師をぶつけて、漁夫の利を狙ったか。老獪な妖怪だ……お前は、山姥だな?」

一般人が山姥に持つイメージは、一体どのようなものだろうか。


一.山に住む老婆で、迷い込んだ旅人に一晩の寝床を貸し、旅人が寝静まった夜中に襲う姿。

二.三枚の御札に登場するような力の強い化け物で、寺の小僧が逃げながらお札の力で退けようとするも、全てを跳ね除けて追いかけてくる姿。

三.金髪に肌を黒く塗ったガングロの出で立ちで、世紀末に渋谷や池袋を闊歩した女子高生。


山姥の姿は、福岡市博物館が所有する『百怪図鑑』(佐脇嵩之・一七三七年刊行)では白髪で、伸びて乱れた蓬髪で、顔がしわくちゃな老婆が、ボロボロの着物を纏って細長い杖を持つ姿だ。

これは有名な『画図百鬼夜行』(鳥山石燕・一七七六年刊行)にも影響を与えており、多くの日本人が知る山姥の原典となっている。

依頼主の老婆は、ボロボロの着物を古い衣服に変えれば、全ての特徴が一致していた。

さらには山刀を生み出して、人間に襲い掛かってきた。

ここまで完璧に一致するならば、山姥と考えるのが妥当だろう。

はたして老婆は、口元を裂けるように吊り上げて、深い笑みを浮かべた。

「よく勉強しておいでだねぇ。感心だよ、坊や。ご褒美に喰ってやろうかね」

醜悪に笑う老婆に向かって、一樹は不快な表情を返した。

「山姥は、山の女神とも言われるが、お前は女神には見えないな」


一説によれば、山姥の由来は、日本神話に登場する山の女神イザナミだとされる。

イザナミとは、天地開闢の際に兄であり夫でもあるイザナギと共に生まれ、神々が作り出したオノゴロ島に降り立って、日本列島を形成する多数の子を産んだ女神だ。

数多の子を産んだイザナミは、迦具カグ土神ヅチノカミを産んだ際、陰部に火傷を負って亡くなり、日本最古の書である『古事記』によれば比婆山に葬られた。

そして夫のイザナギが、妻イザナミを黄泉の国へ迎えに来た際、悲劇が起きる。

『地上へ帰るために、相談するから、覗かないで』

約束を破ったイザナギが覗いた先のイザナミは、身体が腐乱しており、蛆が湧いていたのだ。死体を見られたイザナミは夫の愛を失い、追い縋るが、三度振り切られてしまう。

その腐乱した姿が、醜女の山姥となった。

そして三度振り切られた話は、三枚の御札の物語に影響を及ぼした。したがって山姥は、醜い姿に成ったイザナミであり、三度振り切られた逸話が山姥の話となったとされる。

夫に捨てられたイザナミは、呪詛を投げた。

『一日に一〇〇〇人殺す』

するとイザナギは言い返した。

『産屋を建てて、一日に一五〇〇人の子供を産ませる』

やがて夫に捨てられたイザナミ、すなわち伊邪那美命イザナミノミコトは、黄泉国を支配する黄泉津大神ヨモツオオカミとなる。山姥が人間を襲っているのは、自分を捨てた夫への恨みからだ。

山姥の由来には、姥捨てで山に捨てられた老婆という説も存在するが、そんな老婆は若い男性を襲って食えるほどの力は無い。

したがって山姥は、女神イザナミ説が、最も整合性が取れている。

「山姥は、零落した山の神で、神の由来はイザナミの成れの果てとされる。一日に一〇〇〇人殺すと呪ったイザナミが、実際に一〇〇〇人殺すために分割した女神だ。だが敢えて言うが、夫婦喧嘩で他人に八つ当たりするな」

山姥に背後から山刀で襲われて、八つ当たりで殺され掛けた一樹には、それを言う資格があるはずだ。

だが批判された山姥は、一樹の至極真っ当な考えを一喝した。

「黙れ、小童こわっぱ!」

怒れる山姥は、巨大な山刀を振りかぶり、再び襲い掛かってきた。

煌めく山刀の一閃が、牛鬼の棍棒で弾き返された。

身体ごと弾かれた山姥は、軽やかに宙を回転して、両脚で木の幹に着地した。そして木を蹴り飛ばして、反動で再び飛び掛かってくる。

対する牛鬼は、棍棒を振るって山姥を叩き返した。

一樹の目から見て、牛鬼の神霊と、一日一〇〇〇人殺すべく分体となったイザナミの力は、概ね拮抗していた。

だからこそ人間の陰陽師をぶつけて、人間を守る存在である牛鬼を弱らせようとしたのだろう。人を守るツバキの神霊に、由来に相反する人間への攻撃を行わせれば、弱るのは道理だ。

そんな山姥の想定外は、牛鬼を式神として使役した一樹だ。

神霊で式神の牛鬼は、霊的な存在であるため、傷を負っても呪力で復活する。使役者の一樹が呪力を送り続ける限り、牛鬼は無限の体力と回復力を持つようなものだ。

そして戦いの場に居るのは、牛鬼と山姥だけではない。

陰陽師の一樹は、虚空から別の式神を喚び出す。

『カヤ』

一樹が呼び掛けて手に収めたのは、和弓だった。

元は東京都川口村(現・八王子市)の「たたみが原」に出た『頬撫で』という妖怪で、夜中に傍を通ると青白い手が伸びてきて、頬を撫でた。昔、咄嗟に刀で斬り返した侍が居たが、翌朝調べてみるとカヤの木に刀傷が付いており、血のようなものが流れ出ていた。

山梨県にも同様の話が伝わるが、正体は歳月を経たカヤの木が、妖怪化したものだ。

以前、陰陽師の和則に「撫でられると気持ち悪いから調伏してくれ」と依頼が来て、一樹が霊体の部分を使役して解決した。和則が中級に拘るため、カヤの木はD級の力があったが、問題なく使役できた。

使役後は、一樹の呪力によって顕現し、身体を弓、枝を矢、繊維を弦として役立っている。

漆を塗っていない白木の弓は、陰陽道では妖怪を祓う儀式の道具でもある。弓の弦を引き鳴らせば、魔を祓う効果があるのだ。

一樹は白木の弓を構え、漆を塗っていない白弦を引き絞り、離して鳴らした。

鳴弦めいげん

裁定者からせしめた一樹の神気が、陰陽術に乗って戦いの場に響いていく。

「ぐぎゃあああっ」

神気を浴びた山姥が、肌に熱湯を浴びせられた様に苦しみ出した。そこを牛鬼の棍棒に攻められ、防戦一方に追いやられる。

「おのれ、忌々しい小童め」

堪らず山姥は呪詛を吐いたが、一樹は一切取り合わず、虚空に星形の呪術図形を描いた。

『セーマン』

陰陽道には、代表的な呪術図形が二つある。それは安倍晴明からきた星形を描くセーマン、蘆屋道満からきた横五本縦四本の九字を描くドーマンだ。

星形の呪術図形・セーマンは、正式には晴明桔梗と呼ばれる五芒星で、陰陽五行と星辰信仰の意味があり、破邪や厄除けの効果を持つ。呪術として使用する際は星形の中央に一点を加えるが、矢や術を中央から放てば済む。

星形を描くことに慣れている一樹は一秒で描けるので、戦闘では重宝している。

虚空に浮かんだ印に牽制された山姥は、一樹に襲い掛かる隙を見出せなかった。

すると山姥は、一樹を罵倒した。

「牛鬼も人を喰うと知られているのに味方するなんて、とんでもない陰陽師だね!」

「……何だと」

一樹は俯くと、弓の弦を引き絞り、離して振るわせた。

『鳴弦』

一樹が振るわせた弦が、突如として世界に悲鳴を上げる。

震撼する空気が、一樹の呪力に染め上げられて形を変えていく。

「な、なんだいっ!?

無色だった世界に、大焦熱地獄の穢れが染み込んだ一樹の魂が、一滴落とされた。

それが世界にとっての猛毒であることは、もちろん一樹には分かっていた。本来であれば、軽々しく使って良いものではない。だが──、

世界を覆う空気が、まるで水を溢された紙であるかのように、一樹の色へと染まっていく。

夜空を照らす星のような淡く綺麗だった白色の世界に、灼熱と血に染まる濃い赤色が混ざって、世界は危機感を抱いたかのように真っ赤な色に塗り変わっていった。

おぞましく変容した世界には、おぞましい住人達が存在する。

「おれは……」

人には、絶対に許せないことがある。

一樹は、大きく息を吸い込んで、呪詛と共に吐き出した。

「冤罪が嫌いだ」