
修学旅行も最終日を迎える本日。
これにて胡桃さんとの楽しい旅行も最後かと思うと、やはり寂しいものである。また今度二人で遊びに行けばいいだけの話ではあるのだけれど、それはそれとして──。
(なんだかんだで、『修学旅行』として楽しかったからな)
桐島くんや小倉、それにルームメイトになった普段話さないクラスメイトなど。
胡桃さんとの思い出以外にも、個人的に楽しい旅行だった。
兎にも角にも、今日も今日とてより良い思い出を作れたらと切に願うのだが、そうも言っていられないのが現状なわけで……。
寝起きの気分は若干ブルー。
テレビでは昨日も見た女子アナが最低気温の更新をお伝えしているし、本日の天気は昨夜見たものと同じく雲が空を覆い隠していた。ここ二日間の快晴が懐かしい。
けれど何より俺の心を曇らせているのは隣に座る胡桃さんの表情だった。
朝食も終えてホテルを出発し、最終日の目的地へと向かう電車の中。
胡桃さんは膝に手を乗せて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
表情は浮かなくて、どこか緊張している様子。
膝の上の手も僅かに震えており、それを隠すようにキュッと握りこぶしを作っていた。
昨日話していたことが原因であろうことは間違いない。
(胡桃さんは十一時って言ってたっけ)
今から緊張していたら精神的に持たないだろう。
それに、そればかりに気を取られて最終日を楽しめなければ目も当てられない。
「胡桃さん、大丈夫?」
「……っ、だ、大丈夫よ」
「それ、大丈夫じゃない時の声じゃん」
「ぐっ……」
図星を突かれたように声を漏らした彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「抱きしめようか?」
「いまっ!?」
「胡桃さんが困っているのなら、いつ、どこで、どんな時でも抱きしめて勇気をあげるよ」
「恥ずかしいからやめて」
「抱きしめられることは嫌じゃないんだね」
言うと、胡桃さんは不満そうに頰を膨らませながら上目遣いに見つめてきた。
「……嫌なわけないでしょ。ばか」
不貞腐れたように吐き捨て、俺の肩に頭を乗せる胡桃さん。
「よし、そうと決まれば早速──」
「ばっ、こらっ! 時と場所はわきまえてってば!」
「そうだった。こういうのは二人きりの時に、だったね」
「そ、それは、そうだけど……そうなんだけど……っ」
何かを言いたそうにわなわなと肩を震わせる胡桃さんだったが、やがてあきらめたように大きくため息をついた。
「はぁ。もう……励ますにしても、もっと他にないわけ?」
「何のことかな?」
「それくらいわかるわよ、ばか」
とぼけてみたけれど魂胆は見透かされていた模様。
「通じ合ってるって感じでドキドキするね」
「はいはい」
軽く流してみせる胡桃さん。
表情こそ平素の涼しげなものに戻っていたけれど、その手はまだ震えていた。
「仕方ない。抱きしめられないなら、今はこれで」
そう言って、俺は胡桃さんの手を握った。
冷たくて小さく震える手を、まるで壊れ物を扱うように優しく。
一瞬強張ったけれど、胡桃さんも握り返してくれた。
恋人繫ぎではないものの、確かに握られた手。
「……ありがと」
耳元で小さく囁かれた声はまだ不安の色が残っているようだったが、それでも最初よりは幾分か安心しているようにも聞こえた。
この調子で、最終日を楽しんでくれるといいのだが──。
「ね、ねぇ! 早く行きましょ!」
「胡桃さんとならどこへでも! 人生という道を共に歩いていこう!」
「じゃあ、まずは……ここ! 竹林の小径から!」
そう言って観光マップを手にして道順を確かめる胡桃さん。
そこには先ほどまでの不安の色は一切存在しなかった。
理由は単純──訪れた場所に興奮しているからだ。
いったいどれくらい興奮しているのかというと、
「古賀のテンションの上がり幅やべーな」
いつも冷静で優しい桐島くんが、若干引くぐらいには興奮していた。
だが、個人的にはそれも仕方のないことだと思う。
何せ修学旅行最終日である本日訪れたのは名所も名所。
京都の有名どころがぎゅっと一堂に集まった地域──嵐山なのだから。
正直、俺もかなりワクワクしていた。
何しろ嵐山は様々なアニメの聖地になっているからね。オタクとしては外せない。
有名どころだと胡桃さんも言っていたけれど竹林の小径や、あとは渡月橋など。
これに加えて他にもあるというのだから興奮しない方がおかしい。
つまり桐島くんがおかしいと言える。……それは言い過ぎか。
何はともあれ、
「は、早く行きましょ!」
胡桃さんが楽しんでくれているのなら、それ以上に望むことなど何もない。
まず初めに竹林の小径に赴き、次いで天龍寺の中を観光。
どちらも有名観光地というだけあって、かなり見応えがある。
胡桃さんなど写真を撮る手が止まらない止まらない。
それを撮る俺の手も止まらない止まらない。
一息入れて近くのベンチに腰掛けながら撮影した写真の整理(消すのではなく胡桃さんか胡桃さん以外かをアルバムに分類)していると、横から小倉が覗き込んできた。
「ねぇ、それ私にも貰えない?」
因みに胡桃さんと桐島くんはお手洗いに行っていて今は居ない。
以前までの俺なら迷う間もなく即断っていたところだが──。
「……わかったよ」
逡巡した後、俺は首肯を返した。
すると小倉がキョトンと目を丸くさせる。
「意外。絶対断られるかと思ってた」
「ならやらん」
「う、噓だってば!」
慌てて弁明する小倉。
正直、俺だって意外である。以前の自分にこのことを教えても絶対に信じなかっただろう。
ならどうして認めたのかと問われれば、この二日間──否、小倉が逃げ出したあの屋上の一件以降の彼女の様子と、それに対する胡桃さんの対応を見て、としか言いようがない。
小倉が胡桃さんに対して友愛以上の想いを抱いていることは危惧すべき事項ではあるものの、それを抜きにすれば、俺が小倉を忌み嫌い続けることは二人にとって良くない方向へ進むのではないかと判断した。
特に、昨夜の小倉と阿坂くんの一件での発言を聞いていてそう思う。
(……それに元々これは胡桃さんと小倉の問題だしな)
そろそろ俺も溜飲を下げる頃合いなのだろう。
「ならコーヒーを奢ってくれ。ただでやるのは気に食わん」
「まぁ、それくらいならいいけど」
不服そうにつぶやいて近くの自販機でホットな缶コーヒーを買ってくる小倉。
いや、今というわけではなかったのだが……。
しかし買ってきてもらったものは仕方ない。
コーヒーを受け取るとスマホを取り出す。
メッセージアプリを通じて小倉に写真を送ろうとして──その前に彼女は画面にQRコードを表示させた。
「……あ?」
「なんで一々高圧的なのよ。……友達。登録してなかったでしょ」
「そう言えばそうか」
表示されたQRコードを読み取ると、小倉のLINEアカウントが表示される。
てっきり自意識高めの自撮り写真をプロフィール画像にしていると思ったのだが、そこに映っていたのはおそらく小学校に入る前か入った直後くらいであろう小倉の写真。
なるほど、こういう系か。
だからどうだというわけではないが。
「まさか、お前の連絡先を登録する日が来るとはな」
「私もびっくり」
適当に言い合いつつ、俺は小倉の連絡先を登録。
友達の欄に小倉の名前が追加された。
それは土産物屋や食べ歩きの店を散策しつつ、嵐山のメインと言っても過言ではない渡月橋を渡り、一通り写真を撮り終えた時だった。
「……あ、あのっ!」
僅かに言葉に詰まりつつもそう切り出したのは、俺の愛する少女──胡桃さんである。
寒風に髪がたなびくのを手で押さえつつ、真剣な表情で桐島くんと小倉を見つめていた。
(そうか、そろそろか)
ちらりとスマホで時間を確認すると、現在時刻は十時四十九分。
十一時の待ち合わせ時刻まであと少しだった。
場所がどこかまでは聞いていないが、今切り出したということはここからそう遠くないのだろう。
先ほどまでテンション高く観光を楽しんでいた胡桃さんの変貌に、事情を知らない二人は驚きと困惑がない混ぜになった表情で小首を傾げる。
胡桃さんは一度大きく息を吸うと、嚙まないようにゆっくりと告げた。
「実は、この後少し用事があって……それで、少し抜けてもいいかな?」
「用事? 何か買いたいものがあるなら付き合うよ?」
「俺も付き合うが……」
小倉と桐島くんの言葉に、胡桃さんは首を横に振る。
「そうじゃなくて、えっと……」
きっとこの二人なら用事の内容を教えても問題はない。
それは胡桃さんも分かっているだろう。
だけど、分かっていても伝えるのをためらう事柄というのは存在するのだ。
相手に関係のないことなどは、特に。
胡桃さんは何度か口をぱくぱくさせた後、伏し目がちに口を開く。
「その、ごめんなさい。今は……言えないんだけど……でも、その、大事な用事で……だ、だから、少しの間、抜けさせて貰えないかな……?」
胡桃さんの声は段々小さくなっていく。
修学旅行中、それも班行動中に自分の我儘で輪を乱すことに負い目を感じているのだろう。
小倉と桐島くんはその様子にお互いに顔を見合わせて、こちらに視線をよこしてきた。
それは『お前は把握しているんだよな?』と確認するような視線。
目は口ほどになんとやらとはよく言ったものだ。
言葉になっていないはずなのに、二人が何を言いたいのかが分かる。
俺が首肯を返すと、彼と彼女は僅かに苦笑を浮かべてから、再度胡桃さんに向き直った。
「……正直なところ何があるのかは分からん。が、まぁ俺たちのことは気にするな。仮に何かあってもお前の彼氏が何とかしてくれるさ」
「桐島くん……ありがとう」
桐島くんの言葉を受けて、胡桃さんが顔を上げる。
次いで、間髪容れずに小倉も口を開いた。
「私も大丈夫だよ。それに言えないなら無理にも聞かない。……でも」
小倉は胡桃さんに優しく笑いかけて、続けた。
「私は……私も胡桃ちゃんの味方だから。何かあったら頼ってね」
「調ちゃんっ……」
二人の言葉に胡桃さんは下唇をキュッと嚙みしめると、再度頭を下げた。
「ごめんなさい。それと……ありがとう」
顔を上げた時、そこに先ほどまでの不安の色は残っていなかった。
しかし胡桃さんはじっとこちらを見つめて、まっすぐ近付いてきて──え、どうしたの?
困惑していると──ぽすんと胸に顔をうずめてきた。
つむじが可愛いな、ってそうじゃない。
いい匂いがする、ってそうでもない。
「……んー!」
あまりの可愛さに脳がショートを起こしていると、胡桃さんは駄々っ子のように体重をかけてきた。……ちょっと可愛すぎないですか?
どうしてこう胡桃さんは一挙手一投足が可愛いのだろう。
是非とも一生隣でその謎を追い求めていきたい所存である。
「……もうっ、早くしてよ」
胸中で結婚の決意を新たにしていると、むくれた胡桃さんがジト目を向けてきた。
「ごめんごめん、胡桃さんが可愛すぎて。誓いのキスをすればいいんだっけ?」
「……」
鋭い視線が飛んできた。これは反省しないとね、と思っていると。
「そ、それはまた今度……いまは、……んっ」
両手を軽く広げる胡桃さん。
個人的には今の発言をもう少し掘りたいところではあるが、一秒前に反省したばかり。
俺はたぎる思いをぐっと堪え、胡桃さんを真正面から抱きしめた。
すると応えるように胡桃さんも背中に手を回してくる。
「頑張るから、私」
「うん。頑張れ、胡桃さん」
耳元で囁き合って、もう一度少し強めに抱きしめる。
「んっ、もう……」
「……」
「……ちょっ、ちょっと。もう大丈夫──ねぇ下心! 下心出てるわよっ!? ばかっ!」
「あぁ……」
ガバッと勢いよく引き剝がされてしまった。
名残惜しいけれど、そろそろ時間も差し迫っている。
胡桃さんは一度時計をちらりと見た後、もう一度だけ俺を見て告げた。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
これ新婚夫婦みたいで嬉しいねと思ったけれど、さすがに口に出すのは自重した。
「で、なんでそんな顔してんだよ」
遠のいていく胡桃さんの背中を目で追っていると、ふと桐島くんが呆れた様子で声をかけてきた。
「そうそう。あんなにいちゃついて……はぁ、ほんといちゃつき過ぎ。私も抱きしめながら言えばよかった」
「この変態雌猫が」
「あんたに言われたくはないんだけど」
不満げな視線を向けてくる小倉に軽口を返しつつ、しかしそれでも視線は胡桃さんを追っていた。すでに人混みに紛れており、一瞬でも視線を外せば見失ってしまうだろう。
(……大丈夫だろうか)
遠い背中を見つめて思う。
別に胡桃さんを信じていないというわけではないのだが、そんな不安が腹の底から顔を出す。
俺に出来る限りのことはした。小倉も桐島くんも胡桃さんの背中を押していた。
だから大丈夫。
そう思いたいのに脳裏に過るのは昨夜──胡桃さんが電話している時の様子だった。
俺に相談している時とは異なる、父親と二人で話している時の胡桃さんの姿。
何も言えず、頷き、返事をする。
そんな胡桃さんらしくない、胡桃さんの姿。
「……そんなに心配なら、付いていってやれよ」
「……っ」
桐島くんに言われて、無意識に表情に出ていたことに気付いた。
慌てて取り繕うと、今度は小倉がぶっきらぼうに吐き捨てる。
「それに、ナンパされるといけないからね」
「……」
「なに?」
「いや……何でもない」
背中を押されているのはすぐにわかった。
ただ小倉からも提案されたのは意外だったが。
俺は二人の顔を一瞥してから、胡桃さんの向かった方向を見やる。
すでに彼女の背中は見えなくなっていた。
しかし一度ぐっとこぶしを握り締めると、俺はその見えない背中を追って歩き始める。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
「「行ってらっしゃい」」
二人に見送られて小走りに追いかける。
空を覆う雲は色をより濃くしていた。
私、古賀胡桃は震える足を奮い立たせて待ち合わせ場所へと向かっていた。
一歩踏み出すたびに先ほどのみんなの言葉を思い出す。
むしろ思い出さないと進めなかった。
(大丈夫。大丈夫の、はず)
気を抜けば戻りたくなるけれど、必死に前を向いて待ち合わせ場所へと歩いていく。
先ほどまで楽しんで眺めていた景色は、しかし今はそんな余裕はない。
渡月橋を渡り、交差点を曲がると、待ち合わせ場所が近づいてくる。
そこは渡月橋の掛かる桂川沿い。普段は雄大な山をバックに渡月橋の写真が撮れるということで人が多い当所であるが、本日に限っては天気が悪くなってきたこともあってか人はまばらになっていた。しかし、そんな中に目的の人物が──居た。
久しぶりに会うというのに、遠目でも一瞬で気付いたのは親子だからだろう。
スーツに厚手のコートを羽織った父が、そこには居た。
あちらも気付いたようで、片手を挙げて私を呼ぶ。
「……」
いよいよだ。
生唾を飲み込みつつ私は近付いていって──そして、
「久しぶりだな、胡桃」
「……うん、久しぶり。お父さん」
私は約一年ぶりに、父と再会した。
……寒い。
冷たい風が頰を撫でた。
乱れた髪を摘まんで耳にかけると、私は緩んでいたマフラーを巻き直して、深く息を吸い込む。乾いた空気が肺を冷やして、意識をはっきりさせる。
出来うることなら、最初の電話の時のように、気付かぬうちに話し合いが終わってくれればいいのにと思ったけれど、どうやらそれは無理なようだ。
冷たい指先に息を吐きかけると、白い息が中空へと昇って消えた。
ぼんやりと見上げた空は分厚い雲が覆っていて、今にも一雨来そうな様子。
周りから人はどんどん減っていき、川を流れる水の音がいやに耳につく。
その静寂を打ち破ったのは父だった。
「わざわざ抜けさせてすまなかった。ただどうしても直接会いたくて……時間を作ってくれてありがとう」
「う、ううん、別に……」
言うと、父は優しい──家を出ていく前と何ら変わらない優しい笑みを浮かべた。
「そうか。……ところで、電話でも聞いたが学校の方は順調か? 生活の方も何も問題はないか? 何かあればいつでも相談していいんだぞ」
その言葉に私の頭は真っ白になった。
触れられたくない傷をぐりっと無遠慮に抉られたような、嫌な気分。
「う、うん。……問題ないよ」
だから、本当は問題しかないのに私は首肯を返した。
……いや、一概に噓とも言い切れないか。
確かに虐められて、追い詰められて、その果てに屋上から飛び降りようとしたけれど、でもすべては過去のこと。もちろん『全部元通り、学校生活も何もかもが順調!』とは言えないけれど、それでも今の生活が充実していることには変わりない。
一人納得していると、不意に大きなため息が聞こえた。
「……あのな、確かに最近会っていなかったけど、これでもお前の父親なんだ。何かあったことぐらいはわかる。私生活か?」
「べ、別になにも──」
「学校か」
「……っ」
言葉に詰まった。
「相変わらず顔によく出るな。……大体、まだ仕事も休止したままだし、これで問題ないと言われて『はいそうですか』と引き下がるほど俺は愚かじゃない。胡桃……大丈夫か?」
「……」
「心配なんだ」
「…………」
父の言葉に、私は堪らず俯いて下唇を嚙み締める。
(なら、ならどうして──心配してくれてたのなら、どうして一切連絡をくれなかったの?)
それはきっと、ずっと抱いていた不満だった。
虐めを受けていて、クラスにまだ誰も味方が居なくて、仕事も休止して、何が楽しくて、何を楽しみに、どうやって生きていけばいいのかわからなくなった時、連絡を取り合っていたなら、もしかしたら相談できていたかもしれなかった。
けど、私のスマホは鳴らなかった。
インターホンも。家の電話も。何も。何も鳴らなかった。
私は、助けて欲しかったのに。
「……胡桃」
名前を呼ばれて顔を上げる。
視線が合うと、父は穏やかな、落ち着きのある優しい声で告げた。
「こっちで、一緒に暮らさないか?」
「……え?」
その提案に、私の喉は乾いた声を出すのが精いっぱいだった。
父は気付いた様子なく続ける。
「その、学校は転校になるが、そっちで問題があるなら構わないだろう? それにお前は頭も悪くないし、編入も問題ないだろう。仕事も今のまま復帰しないんだったら……どうだ? 一緒に暮らさないか? 一緒に住めば私生活の面でも支えられる。それにもうじき冬休みだろう? そこを狙えば引っ越しもやりやすいはずだ」
矢継ぎ早に告げる父に、言葉を挟む隙はない。
まだ提案を受けているだけのはずなのに、すでに決まっているかのように話を続ける父。
──別に、忘れてなんていなかった。この人はこういう人間だ。
何しろ、一家離散の引き金を引いたのが目の前の男なのだから。
じくじくと、傷口をえぐられているような嫌な気分が続く。
そろそろ我慢の限界だと、口を開こうとして──さらに続く父の言葉に、いよいよもって私の思考は停止した。
「そう言えば、母さんの方も最近は落ち着いているみたいなんだ」
……え?
──雨が降り始めた。
「……」
「何度か会ったんだが、あいつもあの時のことは後悔しているみたいでな。今度三人で集まってもう一度話し合えないだろうか? それから一緒に──」
すでに父の言葉は右から左へ、認識することを──理解することを脳が拒み、流れていく。
私は動悸が激しくなるのを感じた。イヤな予感が脳を締め付け、喉が渇いて仕方がない。胸焼けより気持ち悪い感覚が胸中を襲い、吐き気すら感じる。
理由は一つ。
(……どういう、こと?)
いや、違う。疑問じゃない。これは疑問じゃなくて、理解が出来ないだけ。
目の前で笑みすら浮かべて話す父が、私には理解できなかった。
だって、そうでしょ?
父の言うことが正しいのならそれは、それはつまり、
──お母さんとは連絡を取り続けていたってことじゃないの?
言葉の意味を咀嚼し、飲み込んだ瞬間、息が詰まった。
「っと、本格的に降り出したか。……胡桃?」
降り出した雨が髪を濡らす。冷たい。
けど、私の胸中はそれどころじゃない。
私には何の連絡もなくて、二日前の電話が離れ離れになってから初めての連絡で、色々問題もあったけど、でも何とか乗り越えたし、何の連絡もくれなかったことは正直ショックだったけど、でもそういう人なんだって、そう……そう、決めつけて、軽蔑して終わりだと思ったのに。
「……なに、それ」
「胡桃?」
「心配って……」
先ほど父が宣った言葉に不快感すら覚える。
確かに家族が離れる前、母は精神的に少し参っている様子だった。
でも、心配して連絡して何度か会って、さらに最近落ち着いている、なんて会話までして。
それで、私には?
「もう……いや」
結局それって、私は心配されていなかったってことじゃないの?
「胡桃? どうかしたのか? とりあえず、どこか雨をしのげるところに移動を──」
心配げに見つめてくる父に、歯を嚙みしめ、思う。
私が苦しんでる時、この人は何をしていたのだろう、と。
私が家で一人ご飯を食べている時、この人は母とご飯を食べていたのだろうか。
私が誰も居ない部屋にただいまって言っている時、この人は母と会っていたのだろうか。
私が死ぬ前に飲もうってお酒を買っている時、この人は母と酒を飲んでいたのだろうか。
それで、その果てで、私が助けて欲しい時に何もしてくれなかったこの人は、母と仲直りして、家族の間の問題を自分たちだけですべて解決した気になっていたのだろうか。
(……もう、ダメだ)
もう私は、この人を父親として見られない。
この父親に、なにも期待ができない。
「……いろいろ、あったよ」
「え?」
「問題なんかいろいろ、あった。たくさんあった。仕事はやめて、高校に行くようになって、でも教室には居場所がなくて」
「く、胡桃?」
心配げな声をかけてくるが、無視して続ける。
「何回も何回も死にたいって思って、何回も何回も助けて欲しいって泣きながら布団の中で丸まって、でも連絡なんかない。連絡を貰ったと思ったら、お母さんと仲直りしたから一緒に暮らさないかって、意味がわからない」
「死にたいってお前……なんで連絡しなかったんだ!」
「……できるわけないでしょ」
連絡なんて、できない。できるわけがない。
死にたいぐらい辛いのに、そんな勇気、出るわけない。
──自分を置いて出て行った人に、そんな相談ができるわけない。
ぎりっ、と奥歯を嚙みしめる。
「胡桃」
「……ほんと、なにこれ。なに? ……なんなの? なんで私ばっかりこんな……なんで全部解決したみたいな顔してるの? なんで私にはなにもないって思ってるの? なんでお母さんと仲良くしてるの? なんで、なんで──なんで、あの日出て行ったの?」
尋ねると、父は一瞬言葉に詰まった後、まっすぐ見つめて──答えた。
「あれが、最善だったからだ」
「……ぁ」
その瞬間、最後の支えがぽきりと折れた音が聞こえた。
「……ふざけないでよ」
「ふざけていない」
「もう……もういいっ! もう何も聞きたくないっ!」
「胡桃! 話を聞け! 一体なにが──」
「うるさいっ! もうお父さんなんかっ──」
カッ──と頭に血が上り、私は感情のままに吐き捨てようとして、
「胡桃さん!」
聞きなれた、私が世界で一番大好きな人の声が聞こえた。
瞬間、吐きかけていた言葉を飲み込む。
驚いて目を見開き、その声の方に視線を向けると、そこには予想通りの人物の姿。
どこまでもまっすぐな瞳は私に向けられていて、彼は真剣な表情のまま告げた。
「それ以上は、言っちゃだめだよ」
その言葉に、私の荒ぶっていた感情は冷や水を浴びせられたように落ち着いていく。
そうだ。
私はここに喧嘩をしに来たわけじゃない。
問題を解決しに来たのだ。
「……貴一」
気付けば、彼の名前を呼んでいた。
彼は応えるように、先ほどとは打って変わって優しい笑みを浮かべた。
それだけで何を言いたいかが分かった。
バカップルだから、なのかもしれない。
見つめ返すと、小さく首肯する貴一。
視線だけで通じ合う。そんな関係性に、とくんと心臓が跳ねた。
私はキュッと口を結んで気合を入れ直し、真正面から父を見据える。
いま私がやることは、溜め込んでいた鬱憤を吐き出すことじゃない。
ちゃんと、話し合うこと。
情けないけど、そのために彼の力を借りさせてもらう。
降り続いていた雨が、やんだ。
胡桃さんのあとを追うのは簡単だった。
何しろ俺にはラブラブセンサーがあるからな。
見つけてからしばらく、盗み聞きということに罪悪感を覚えつつも胡桃さんたちの会話を耳にしていたところ、話し合いは難航しているようだった。
そしてさすがにこれ以上はダメだと判断し、こうして割り込ませていただいた次第である。
「胡桃さん、落ち着いた?」
「……ん、落ち着いた」
「それは良かった」
「……うん」
返事をする胡桃さんは確かに落ち着いているし、もう一度父親と向き合おうと決意を露わにしていたが、それとは別にポーっと熱い視線をこちらに向けていた。
「いやん、照れちゃうねぇ」
「ば、ばかっ、なに言ってるのよっ」
見つめていたことに今更ながら気付いたのか頰を染めて顔を逸らす胡桃さん。
是非ともこのままお持ち帰りしたいところなのだが、その前に射殺さんばかりの殺意の籠った視線をどうにかしなければならない。その主は言わずもがな、胡桃さんの父親。
彼は不快そうに眉間にしわを寄せると、低い声で尋ねてきた。
「お前は胡桃のクラスメイトか何かか?」
「はい、一応」
将来の約束をしている恋人同士ではあるが、クラスメイトであることにも変わりない。
俺の返答を受けて彼は大きくため息をつくと、頭を抱えて告げた。
「これは家族の問題だ。部外者は口を挟まないでくれ」
「なら将来的に家族になるのでなんの問題もありませんね! 全力で挟ませていただきます! お義父さん!」
「お、お義父さんっ!?」
素っ頓狂な声を上げるお義父さんは、俺と胡桃さんを交互に見つめて口をポカンと開けた。
どうやら状況が理解できずにショートしている模様。
すると、すぐ隣からため息が聞こえた。
「……もう、なに言ってるのよ」
「本当のことでしょ?」
「……そ、そうだけど」

もごもごと口ごもった胡桃さんは誤魔化すように話題を変えた。
「そ、それよりっ、どうしてここに居るの?」
「胡桃さんの居るとこならどこへでも」
「……相変わらずバカなんだから」
そうして言葉を交わす胡桃さんはすっかりいつも通りに戻っていた。
しばらくイチャイチャしていると、ようやく状況を理解したお義父さんが慌てたように声を荒げる。
「ふ、ふざけるな! 胡桃はうちの大事な娘だ! もし何かしたのなら絶対に許さんっ!」
それは、俺が思わず一歩下がってしまいそうなほどの剣幕だった。
胡桃さんも初めて見たのか、目を丸くしている。
しかし数回瞬きすると、唇を尖らせながら呟いた。
「別に、そ、そこまで心配しなくても何もないわよ」
「胡桃……」
「何を言っているんだ胡桃さん! 俺たちの間には愛という名の赤い糸があるじゃないか! いい機会だし是非ともお義父さんにも認めてもらおう!」
「お前は何を言っているんだ!? 胡桃! こんなのがクラスメイトなど大変だったろうに! お前が原因かこのストーカーめ! 胡桃、やっぱりこっちで一緒に暮らそう!」
「こ、こんなの!? ストーカー!?」
さすがに酷くない? 一応初対面なのだけど。
助けて胡桃さん、と視線を向ける。
「ヤバ宮くんはちょっと黙ってて。はぁ……」
「ため息!?」
扱いちょっと雑くない? とか思わないでもないが、胡桃さん相手なら雑に扱われようがご褒美である。変態じゃないよ、愛の力だよ。
仕方がないので大人しくしていると、胡桃さんは顎に手を当てて逡巡。
お義父さんを真正面から見据えると言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。
「お父さん、私が思ってること正直に言うから聞いて」
「あ、あぁ」
お義父さんが頷くのを待ってから、胡桃さんは続けた。
「まず、私は一緒に暮らせない。その、まだ心の整理がついてなくて二人とは暮らしたくないっていうのもあるけど、それより今は絶対に転校したくないから」
「……こいつか?」
だからこいつて。
お義父さんの指摘に、胡桃さんの頰が徐々に赤くなる。
耳まで真っ赤になると、熱で壊れたロボットのように首を縦に振った。
「……ま、まぁ、うん。その……あ、改めて紹介すると、彼は笠宮貴一くん。一応、私の彼氏というか、恋人というか……大切な人」
「この頭のおかしい奴が?」
さっきから失礼じゃない?
胡桃さんも何とか言ってよ!
「うん、頭おかしいし、変態だし、基本的にばかだよ」
「胡桃さん!?」
散々な言われようなんだが?
内心でショックを受けていると胡桃さんは「だけど」と繫ぐ。
「それでも私が世界で一番大好きな人で……私のために一生懸命になってくれて、私も、その……この人のために一生懸命になりたいって思える人。……だから、お父さんと一緒に暮らすとか、転校とか、彼と離れるのはいや。それに、最近は学校にも友達が出来て……すごく楽しいから」
「胡桃……」
お義父さんはじっと胡桃さんを見つめると、先ほどの胡桃さんのように顎に手を当てて熟考を始める。そして数秒の後、再度口を開いた。
「一応聞くが、そいつがお前を助け──いや、これは野暮か」
言いかけるも、最終的には目を閉じて首を振るお義父さん。
どうしたのかと思っていると、胡桃さんは俺の腕を取って抱きしめ、お義父さんに向かって明るい笑みを向けた。
「そ、この人が助けてくれたの!」
「……そうか」
胡桃さんの言葉を聞いてお義父さんは小さく頷くと、それまで見せたことのない優しい笑みを浮かべた。
その瞬間、二人の間にあったわだかまりが、確かになくなったのを感じた。
安堵の息をつくと、白くなって空へと昇っていく。
雲の切れ間から青空が見え始めていた。
「胡桃さん、これどうぞ。お義父さんも」
「ありがと」
「悪いな。……が、お前にお義父さんと呼ばれる筋合いはない」
場所を移して濡れてないベンチに腰掛ける二人に、俺は近くの自販機でココアとコーヒーを購入して手渡した。
「じゃあ俺は少し外すから」
「えっ」
「え?」
わだかまりもなくなっただろうし、親子の会話の邪魔になるだろうと席を外そうとしたのだが、胡桃さんがキュッと服の裾を摑んできた。
お義父さんを見ると、ため息をついて頭を搔いた。
「ま、聞いてどうなる話でもないしな」
そう前置きし、お義父さんは語り始めた。
「正直、言われるまでお前がどれだけ苦しんでいたかなど分かっていなかった。……俺は本当に、お前なら大丈夫だとそう思っていたんだ。何しろ中学生で立派に仕事をこなしてお金をもらっているんだからな。きっと俺は、お前のことを成人した大人として見ていたんだと思う」
その話を胡桃さんはココアの缶で手を温めながら聞き届ける。
次にプルタブを開けて喉を潤すと、質問を投げかけた。
「出て行ったのは、正解だったと思う?」
「あの時は、そう思ったよ。いや、ずっと正解だと思っていた。……あまり娘やその彼氏に聞かせるのもあれなんだが、あの時は夫婦仲が良くなかったんだ。だから、『俺が』出て行きたかったというのも大きい」
苦々しげに告げるお義父さんは決して詳細を語りはしなかったが、よほど辛かったのだろうことは容易に想像できた。邪推かもしれないが、もしかするとDVに近いものを経験していたのかもしれない。
胡桃さんも似たことを考えたのか、苦々しげに表情を歪める。
「そう……だったんだ。知らなかった」
「知らせなかったからな。お前が気にすることじゃない。……とにかく、そんなわけで別居をはじめてからは、何よりも不安定だった母さんのケアを優先した。胡桃は大丈夫だから、こいつを先に落ち着かせないと、と。離婚するつもりはなかったし、早くもう一度一緒に暮らしたいとも考えていたからな。……それで胡桃に連絡を入れるのが後回し後回しになって……そりゃあ、ダメだよな、俺」
うなだれて頭を抱えるお義父さん。
「胡桃を傷つけないために上手くやろう上手くやろうってしてきたつもりだったのに、俺が一番傷つけてた。最初から、空回りしてたんだ。俺は」
ぼやくと、お義父さんはぐいっとコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「昼、まだだよな。これ」
そう言って彼は財布から三万ほど取り出して胡桃さんに手渡す。
「えっと……」
困惑する胡桃さんにお義父さんは財布をポケットにしまう。
「お前の修学旅行を邪魔してしまったお詫びだ。他にも友達いるんだろ? これで美味しいものでも食べて、気を付けて帰りなさい」
「……ありがと」
胡桃さんの返事に笑みを浮かべると、お義父さんは背を向けて去っていった。
「いいお義父さんじゃん」
「余所行きの顔よ」
そう言いつつも胡桃さんは遠ざかるお義父さんの背を見つめ──
「お父さんっ!」
呼び止めた。
半身だけで振り返る彼に、胡桃さんは迷うことなく告げる。
「毎週土曜、電話するからっ」
刹那、彼の顔が初めてくしゃっと歪んだ気がした。
遠目でよくわからなかったが、お義父さんは胡桃さんに右手を挙げて、もう一度背を向けようとして──踵を返して戻ってきた。その視線は俺を捉えており……え、えっ、なにっ!?
「おい、笠宮とか言ったな」
「は、はいっ」
「言い忘れていたが、娘を泣かせるようなことをしたら容赦しないからな」
そんな脅しのような言葉に、俺は笑顔でもって答える。
「もちろんです。胡桃さんには一生涯笑顔で過ごしてもらうつもりですので」
聞き届けると、彼は不満げに鼻を鳴らして今度こそ去っていった。
残されたのは俺と胡桃さんだけ。
自然とお互いに顔を見合わせて、笑った。
「じゃあそろそろ二人のところに戻ろうか」
「そうね。お金も貰ったし、いいもの奢ってあげないとね」
ちらりと時計を見ると、時刻は十一時三十六分。
長く感じたけれど、たった三十分しか経っていなかった。
用事が終わった旨を桐島くんに連絡を入れると、どうやら別れた場所の近くで待っていてくれているらしかった。
これ以上待たせるのも悪いので急いで戻ろうと歩き出そうとして──。
「……っと」
ふらっ、と胡桃さんが体勢を崩した。
手で支えつつ彼女の様子を見ると、足が震えている。
「ご、ごめん。ちょっと、緊張が解けたみたいで……」
「大丈夫、支えるから」
「ありがと」
そう言って手を繫いで再度歩き出そうとすると、胡桃さんは繫いでいた手をもぞもぞと動かし、指と指を絡めるように握り直した。恋人繫ぎだ。
ちらりと表情を見やると、満足気に口端を持ち上げていた。
あまりの可愛さに内心悶絶していると、胡桃さんは思い出したかのように突然スマホを取り出して、インカメを表示させる。
どうしたのだろうか? と疑問に思っていると、胡桃さんは上目遣いに提案してきた。
「ね、ねぇ、その……せっかくだし二人で、撮らない?」
「……っ、もちろん喜んで!」
そうして渡月橋をバックに二人で並ぶ。
手を繫いでいるためかなり近くてそれはもう興奮必至の距離であるが、シャッターを押す寸前、胡桃さんはさらに一歩近付いて俺の腕を抱きしめた。
「ひょっ!?」
──瞬間、シャッターが切られる。
突然のことに驚いていると胡桃さんはしたり顔でニヤリと笑い、俺の耳元で囁いた。
「大好きだよ」
こしょこしょと告げて、サッと身を引く胡桃さん。
いたずらが成功した子どものような笑みを浮かべる彼女に俺は……、
「俺も大好きだぁぁぁああああああぁああああっ!!」
抑えきれなくなった愛を叫び、抱きしめるのだった。
「ちょっ、声が……ひゃっ、あ、あわわっ」
二人の元に戻ると、向こうもすぐに気付いたようで片手をあげて駆け寄ってきた。
「胡桃ちゃん、だ、大丈夫だった!?」
まっすぐ胡桃さんに近付いて心配の声を上げる小倉に、胡桃さんは笑みを返す。
「うん、何とか無事解決した、かな。心配かけてごめんね」
「ううん、大丈夫だよ」
手を繫いで話に耽る二人を横目に、桐島くんが声をかけてくる。
「おかえり。……にしても、また助けたのか」
「別に、俺は特に何もしてないよ。ただ少し話しやすくしただけ」
「そうか……凄いよ、お前は」
「そんなことないよ」
軽く言葉を交わして、これからどうしようかと話していると、混むだろうからと早めの昼食をとることになった。
どこにするか話し合おうとして、待ったがかかる。どうやら小倉が待っている間に嵐山近辺の飲食店を調べてくれていたらしく、「この辺りは少しお値段がねー」と苦笑を浮かべていた。
すると胡桃さんが懐から財布を取り出した。
「そういうことなら任せて。実は──」
今回抜け出した事情を軽く説明し、お義父さんからお金を貰った旨を説明する胡桃さん。
小倉も桐島くんも最初は「申し訳ないからいいよ」と遠慮していたが、結局は胡桃さんの説得の末、首を縦に振っていた。
そうして俺たちが選んだ昼食は──
「これが湯豆腐」
「本当に豆腐だな」
俺の言葉に桐島くんが同意した。
もっと他にないのかと思わないでもないが、語彙力がなくなるのも無理はない。
何しろ目の前にあるのは昆布だしと豆腐、薬味にお吸い物と天ぷらという、とても高校生の修学旅行とは思えないほどの豪勢な食事だったのだから。
「お、お豆腐、入れていいんだよね?」
胡桃さんがおずおずと豆腐を投入……なんちゃって。
「豆腐を投入……ふへ」
小倉がぼそりと呟いた言葉に、内心で同じレベルなのかと戦慄した。
「で、これどれくらい茹でるんだろ。そろそろいいかな?」
しばらくして取り出そうとすると、ぺしっ、と小倉に手を叩かれた。
「まだダメ。豆腐が躍り出してからって書いてある」
そう言って食べ方の載ったネットの記事を片手に鍋奉行小倉が再来した。
「踊り出すの?」
「そうみたい」
胡桃さんの問いに小倉は首肯。
「踊り出すのか」
「うん」
次いで桐島くんの言葉にも頷く。
「豆腐が躍るわけ──」
「そう書いてあるから黙って見てなさいよ!」
「……なんで俺だけ怒鳴るんだよ」
愚痴りつつも鍋を見ていると……、
「「「「おぉ……」」」」
踊り出したよ。ふわふわと。
小倉がそれぞれさらに取り分けてくれたので、感謝を述べつつ手を合わせる。
「「「「いただきます」」」」
まずは醬油を垂らしてパクり。……美味いな。
正直豆腐なんて味は変わらないだろうと高をくくっていたけれど、全然違う。
続く二口目、三口目と口に入れ、時には薬味を変えながら、俺たちは湯豆腐を堪能した。
湯豆腐を食べ終え、嵐山観光に戻る。
と言っても、すでに名所は大方回っているため土産物店を覗く程度なのだが。
「まだ決まらないの? 霞ちゃんへのお土産」
「面目ない」
色々とアドバイスを貰って美容系やら和風っぽい簪やら、扇子やらと見て回っているのだが、果たして喜んでもらえるのかと言われれば……うーん。
「これなんかどうだ?」
「どれ?」
桐島くんが店先の木刀片手にどや顔していた。
胡桃さんもこれには苦笑を浮かべている。
「さすがにそれは……」
「……でも、霞のやつたまに俺の見てるアニメ横から覗いてくるしな。……意外と好きだったりするのか?」
「迷走し過ぎじゃない!?」
もしかするとどこの土産物屋にもある、龍の剣のキーホルダーが正解の可能性も……。
考え込んでいると、軽いチョップが飛んできた。
「ど、どうしたの? 胡桃さん」
痛くも痒くもないし、むしろイチャイチャの波動を感じてむず痒いぐらいだが、ステレオタイプに攻撃を受けた箇所をさすりつつお尋ねすると、胡桃さんはぴっと人差し指を立てた。
「私はあんまり難しく考えなくていいと思うわよ」
「そう……なのかな」
「そう。きっとあんたが貰って嬉しいものは、霞ちゃんも嬉しいはずよ」
胡桃さんは「だって」と続けて、微笑んだ。
「あんたと霞ちゃんって、ほんとよく似た兄妹だと思うから」
「……そっか」
「そうよ、もう……」
呆れたように息を吐く胡桃さん。
「よく見てくれているんだね。さすがは未来の姉妹!」
「ち、ちがっ、そういうつもりで見てたわけじゃ……っ」
「違うの?」
「ぐっ、そ、それは……まぁ、ちが、わない、かもしれないけど……」
顔を真っ赤にして俯いた胡桃さんは、しかしすぐに顔を上げると一言。
「し、調ちゃんはなに買うか決まったっ!?」
そう告げて、てててっと逃げ出してしまった。残念である。
それにしても『俺が嬉しいものは、霞も嬉しい』か……。
兄妹である前に異性であると判断して胡桃さんや小倉に相談したが、そうか。
異性である前に、兄妹であることが正解なのかもしれない。
俺は土産物屋の中を物色し、いくつか購入してから三人の元に合流。
電車に乗り込んで、集合場所である京都駅へ。
そうして新幹線に揺られ、俺たちは三日間お世話になった京都の街を後にした。
学校に到着するとその場で解散となる。
桐島くんや小倉は電車の方向が違うため駅でお別れ。
胡桃さんと並んで電車に乗り込む。時刻は六時前。窓の外はもう暗い。
帰宅ラッシュには少し早いのか、車内はそれほど込み合っていなかった。
「……終わっちゃったね」
「そうね……疲れた」
「確かに」
「でも、楽しかったわね」
「それも確かに」
首肯すると、胡桃さんは寂しそうな顔を見せる。
そして指をもじもじと合わせながら、胡桃さんは提案する。
「今度はその……個人的に二人で、ね?」
「新婚旅行?」
「……新婚になるまで我慢できるの?」
正直、その返しは予想できなかった。
「じゃあ、婚前旅行?」
「そうかもしれないわね」
ちらちらこちらの様子を伺いながら告げる胡桃さん。
それにしても、二人で旅行か。
「二人で旅行ってなったら、その……さすがに我慢できないと思うんだけど」
「もう、すぐ下世話な話になる」
「だって実際そうでしょ? 年頃の男女が旅行で一つ屋根の下、まさかトランプをするわけじゃないよね?」
「それは……そうかもしれないけど……」
想像したのか僅かに頰を朱に染めて視線を逸らす胡桃さん。
やがて彼女は逡巡したのち、俺の指先を軽く摘まみながら、小さな──すぐ隣の俺にも聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、ぼそりと囁いた。
「……そろそろ、いいかもね」
「……っ! それって──」
「あ、あーっ! わ、私ここだからっ! そ、それじゃ!」
「え、ちょっと!」
言葉の意味を聞き終える前に、胡桃さんはカバンを抱えて電車を降りる。
そしてゆっくり振り返ると、小さく笑みを浮かべて、
「それじゃあ、また明日」
と軽く手を振った。
先ほどの発言は非常に気になるけれど、これでも修学旅行帰り。
無理やり聞き出して、体調を崩す結果となっては申し訳ない。
特に胡桃さんはお義父さんのこともあって疲れているだろうし。
「わかった、じゃあまた明日学校で詳しく聞くよ」
「えっ!? まっ──」
胡桃さんが慌てたように手を伸ばしたが無情にも扉は閉まり、電車が発車した。
学校で聞くのは冗談だけど、はぐらかされるつもりがないのは確かである。
最寄り駅に到着して、歩きなれた道を見慣れた街を眺めながら歩く。
旅行帰りの地元の景色はどうしてこう懐かしく感じるのだろう。
安堵にも似た不思議な感覚である。
しばらく歩いて、家に到着。
鍵を開けて靴を脱ぐとリビングに顔を出した。
「ただいまー、あったけぇ」
リビングは暖房がガンガンに効いていて思わず感嘆の声が漏れる。
「おかえり、兄貴」
その快適な空間の中、霞はソファーに寝転びながらスマホを弄っていた。
両親は仕事なのでまだ帰ってきていない。
「場所を空けーい」
「えー」
ソファーに近付くと霞は不満を露わにしつつも身体を起こし、俺が座れるスペースを作ってくれた。
そんなリトルシスターの視線はすでにスマホからは外され俺が持ち帰ってきた荷物の方へ──より具体的には土産物屋の紙袋に注がれていた。
「お、お土産は?」
「もちろん、買ってきたぞ」
俺は紙袋を手に取ると、中からいくつもの箱を取り出した。
それは、別になんてことはないお菓子の箱。
生八ツ橋や、宇治抹茶をつかったチョコレートやクッキーのお菓子である。
「おぉー、ふつー」
「まぁ、奇をてらうよりましだろ。それに──」
言葉を区切って広げたお菓子のひとつを手に取り、続ける。
「試食して気に入ったものを買った。……不満か?」
「別に、もともと不満なんてないし。だけどまぁ……それなら安心かな」
霞は小袋を開けて中のお菓子を取り出すと、ニッと笑みを浮かべて、
「ありがと、兄貴。よくやった」
「おう。どういたしまして妹」
彼女は満足げに頷くと、お菓子をパクっと口に放り込んだ。
その様子に、俺はほっと胸をなでおろす。
さんざん悩んだし、もしかすればもっといいものもあったのかもしれない。
だけど、こうして笑顔でお礼を言われたのならミッションコンプリートだろう。
「因みに父さんと母さんの分も一緒だから一人で全部食べるなよ」
「えぇ!? それは不満! もっと買ってきてよバカ兄貴!」
うがーっ、と怒った霞を宥めつつ、俺も一つ食べる。
うん、やっぱりうまい。
「コーヒー淹れるけど飲むか?」
「飲む!」
──家に帰るまでが修学旅行。
そんな修学旅行の終わりに、俺は妹とコーヒー片手に休憩することにした。