
酷い空腹と共に目が覚めた。
昨日の晩御飯が早すぎたんだよなぁ、なんて寝惚け眼を擦りつつ大きく伸び。
部屋をぐるりと見まわすと、同室の男子は雑魚寝部屋と勘違いしたのではないかと思うほどに適当な位置で寝転がっていた。
思い起こせば昨夜は何かと騒いでいた気がする。
俺は胡桃さんとの突発的キスでドキドキしていたので、話半分にしか聞いていなかったが。
あくびを嚙み殺しながら洗面所へ行き顔を洗う。
寝ぐせを整えたところで桐島くんがやって来た。
「うっす」
「おはよう桐島くん。眠そうだね」
「いつもは朝練があるから気にしないんだが、ないと思って寝るとダメだな。無限に寝れる」
普通はない日でも早起きしてしまうと後悔しそうなところだが、彼は逆らしい。
歯を磨いてから洗面所を後にして、何気なく外を見ると本日もいい天気。
太陽も燦々と輝いていて……って、あれ? ちょっと明るすぎない?
確か朝の六時半には朝食の会場に集合と予定表に書かれていた気がするが。
プチっとテレビのスイッチを入れると朝のニュース番組が放送されていた。
関西ローカルの見慣れないスタジオである。そして画面左上には時刻の表示。
「ふむ……」
「どうしたぁ?」
「いやぁ、その──」
『時刻は七時をお伝えします! 今日も元気に、いってらっしゃい!』
にこやかな女子アナの笑顔と共に、遅刻の事実が周知された。
朝食会場に到着すると同時に物部先生からのお説教。
遅刻するようじゃ、社会に出たらやっていけないぞ云々。
いやぁ実に申し訳ないと謝罪を重ねると、さっさと食べてこいと呆れられた。
会場での食事は基本的に自由な席に着いて問題ない。
そうと決まれば胡桃さんの隣を狙うのは必然である。
本当は昨夜の夕食の際も胡桃さんと食べようと思ったのだが、彼女は同室と思われる女子と食べていたので、しぶしぶ俺は阿坂くんたちと食べたのだ。果たして本日は……と。
会場を見渡すと遅刻してきたこともあってか、すでに食事を終えた生徒もそれなりに居たようで席はまばらに空いていた。それは胡桃さんの隣も同様の様子。
「おはよう、胡桃さん!」
「……おそい。待ってたのに」
そう語る彼女の皿は半分を少し過ぎた頃。
すでに食事が始まって三十分以上も経つだろうから、かなり待っていてくれたのだろう。
「ごめんね。胡桃さんとの逢瀬が非常に刺激的だったもので、目がギンギンに冴えてなかなか寝付けなかったんだ。これってつまり胡桃さんが寝かせてくれなかったと言い換えてもいいね!」
「ば、ばかじゃないの!?」
「男というのは好きな女の子の前では馬鹿になってしまう生き物なんだよ」
「あんたはいつもだと思うんだけど……」
「いつも見てくれているだなんて……っ! 嬉しいよ胡桃さん!」
「ちょっ、ちょちょ! 昨日言ったこともう忘れたわけ!? もうっ!」
ふんっ、と顔を逸らしてベーコンを口に運ぶ胡桃さん。
因みに朝食はバイキング形式。胡桃さんは洋食中心のようだった。
もぐもぐよく嚙んで食べる胡桃さんに相変わらず行儀がいいなぁ、と見惚れていると、彼女の横合いから低い声が掛けられた。
「早く取ってきたら?」
「……わかってるよ」
至極当たり前のことを告げたのは今朝もどこかローテンションの小倉だった。
やはり朝にめっぽう弱いのだろう。彼女の言う通りに行動するのは癪だが、腹が減ったのも事実。早速並んでいる料理の下へと向かおうとして──。
「あ、それと」
「なんだ?」
「……おはよ」
「…………お、おう」
うーむ、やはり何だか調子が狂うが……まぁいいか。
俺は大きく息をつくと、気を取り直して料理の下に向かった。
とりあえずは胡桃さんの食べていたベーコンを確保するとしよう。
食事を終えると、一度部屋に戻って本日の準備を行う。
修学旅行二日目はそれぞれの班に分かれての自由行動だ。行く場所も各々で決定することが出来るという、まさにクラスメイトとのプチ旅行である。
浴衣から制服に着替えを終え、桐島くんと共にロビーに下りる。
玄関口にはすでに胡桃さんと小倉が待機していた。
二人仲良く話す姿に、どことなく心が温かくなるのを感じた。
「お待たせ!」
「ううん、待ってないよ」
「十分は待たされた」
「小倉は先に行ってくれてよかったのに」
「だからあたりが強いって。冗談じゃん!」
「ははは、俺のも冗談だ!」
互いに棒読みで愚痴り合う。
すると桐島くんが手を叩いて注目を集めて告げた。
「そこまでにしろー。とにかく、時間も有限なことだし、さっさと行こうぜ」
「「「おぉ~!」」」
そんな感じで修学旅行二日目の幕が上がった。
ホテルを後にした俺たちが足を向けたのは駅。
目的の路線を確認して電車に乗り込む。
途中一度乗り換えを挟みつつ電車に揺られること約一時間。
見知らぬ景色が窓の外を流れていくのを見たり、本日の行き先について話したりしていると、すぐに目的地に到着した。
胡桃さんは目の前の光景を見て、
「……事前に決めてたからわかってはいたけど……修学旅行でここ?」
と首をかしげて呟いた。
確かに、修学旅行と言うにはいささか疑問が残る目的地である。
何故なら、俺達が本日やって来たのは関東の某遊園地と並び立つ、日本のもう一つの有名なテーマパーク──某遊園地だったのだから。
わびさびの景色はどこへやら、昨日の京都とは似ても似つかぬ同所が本日の目的地であった。
「まぁまぁ、細かいことは気にしない方向で! 今日も楽しもうよ!」
「……そうね。でも、こういうところはあんまり来たことないからリードはお願いできる?」
そう言って胡桃さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべて手を差し出した。文字通りリードして欲しい、ということなのだろう。
なので俺は彼女の手をゆっくりと取って、
「もちろん。一生涯胡桃さんをリードしていくつもりだよ!」
「遊園地だけでいいんだけど!?」
「またまた~照れちゃって!」
「て、照れてないけど!? あ、あと──」
息を荒くして否定の言葉を紡いだ彼女は、しかし一度深呼吸して落ち着くと上目遣いに俺を見て。
「……や、やっぱりなんでもない。行くわよ」
「え、ちょ、ちょっと! すごい気になるんだけど!?」
踵を返して遊園地の入場ゲートへと向かう胡桃さんの手を引いて尋ねる。
すると彼女は下唇を嚙みしめ逡巡し、意を決してこちらを振り向くと、耳元に口を近付けて俺にだけ聞こえる程度の声量で囁いた。
「……い、一生涯に関してはリードじゃなくて、支え合う方向で」
「……っ!?」
「わ、わかった!? そ、それじゃあ行くわよっ!」
突然の告白に茫然としていると、胡桃さんは逃げるようにいそいそと入場ゲートへ足を向けた。一方の俺はすぐに軽いトリップ状態から抜け出せるわけもなく……ガシッと誰かに右肩を摑まれ、現実に引き戻された。
どちら様かなと視線を向けると、そこには渋い顔の桐島くん。
「何を言ってたのかは知らんが朝からはやめてくれ。胸焼けする」
いや、申し訳ない。
胸中で謝罪していると、今度は左肩に小倉が手を置いた。
「胡桃ちゃんが可愛かったから、許す」
何をだよ。つーか肩痛い。力入れ過ぎなんだよ。
俺は一度大きく深呼吸して落ち着くと、胡桃さんの後を追って入場ゲートへと向かった。
ゲートを潜ると園内は平日にも関わらず人でごった返していた。
俺たちと同じような高校生から大学生、大人に小学生ぐらいの子供まで。大盛況だ。
マップを広げて四人で話し合った結果、まずはコースター系から制覇していくことになった。
と言っても、一日では到底回り切れないので、その都度取捨選択していく必要はあるだろうが。
なに、別に今日一日で回り切る必要はない。
また胡桃さんと二人で……いや、四人で来ればいいだけの話だ。
「また、来たいね」
「今着いたばかりなんだけど!?」
まったくである。
なんで終わりの雰囲気を出してるんだ俺は。
とにかく俺たちは一番近いコースター系のアトラクションに向かった。
到着したのはドーム型の建物の中をジェットコースターが走るアトラクション。
混んではいるが一番人気や二番人気に比べるとそこまでではない。
待ち時間も、胡桃さんたちと話しているとすぐに過ぎ去っていった。こういうところ、遊園地はぼっちお断りだよなってつくづく思う。きっと暇で仕方がないだろう。
しばらくして俺たちの番が回ってくると、係員に案内されてコースターに乗車。
お隣には少し緊張した面持ちの胡桃さんが座った。
「緊張してる?」
「ま、まぁ。遊園地に来るの子供の頃以来だし、その頃は身長的な問題でこういうのはまだ乗れなかったから」
口をキュッと結ぶ胡桃さん。
実質初めてということらしい。
「じゃあ初体験ってわけだねっ!」
「確かにそうだけど、言い方!」
「大丈夫! 実は俺も初めてだけど、二人一緒なら怖くないよ! 仲良く一皮むけようね!」
「だから言い方!」
顔を赤くして吠える胡桃さん。
そうこうしているうちに安全バーが下りてくる。
もう間もなく出発だ。
「も、もう……昨日も言ったけど、そういうのは二人きりの時に──っ」
「胡桃さん」
若干震えていた彼女の手を握り、名前を呼ぶ。
驚いてこちらを見る胡桃さんに俺は笑いかけた。
すると彼女は小さく嘆息して、ぎゅっと握り返してくれる。
「もう」
そんな風に呟く彼女は、すっかり安心したように笑みをこぼしていた。
『では、出発します! 行ってらっしゃい!』
係員の声と同時にコースターは出発した。
「も、もう一回! もう一回乗らない!?」
アトラクションの出口から出てくるなり鼻息荒く告げた胡桃さんは、まるで子供のようにテンションが高かった。昨日も昨日で京都の街並みに興奮していた様子だったが、それとはまた違った興奮の仕方である。
「ま、まぁまぁ胡桃ちゃん。アトラクションは他にもあるから、ね?」
「あっ、そ、そう、だね……」
小倉がジェットコースターでぼさぼさになった胡桃さんの髪を整えながら告げると、胡桃さんは僅かに落ち込んだ様子で首肯した。まるで楽しみにしていた遠足が雨で中止になった小学生のようである。可哀想かわいいというやつだろうか。庇護欲がビシバシと刺激される。
そんな姿に、小倉は俺と桐島くんを振り返ると、潑剌とした声で告げた。
「もう一度乗ろっか!」
「大賛成だ」
「……お前ら古賀に甘すぎないか!?」
呆れたようなため息をつきつつも、しっかり付き合ってくれるあたり桐島くんもたいがい甘い性格をしていると思う。
そんな感じでもう一周を終えると今度こそ別のアトラクションへと移動。
コースター系を攻めるとは言ったが、それだけに決めているわけではなく、途中面白そうだと思ったところに片っ端から並んでいく。
「ね、ねぇ! 次はアレにしない?」
そう言って袖をクイクイと引っ張ってアトラクションの入口に向かう胡桃さんに、俺の口角は上がりっぱなし。ただ気分的には恋人と言うより娘とお父さんって感じ。
「ん~? もう仕方ないにゃあ!」
「え、気持ち悪いんだけど」
「いきなり辛辣過ぎない!? ……まさかこれが反抗期? 反抗期の娘ってこんな感じなのか?」
息子だったらまだましなのだろうか。
ぼんやり考えていると、胡桃さんのジト目が飛んできた。あらかわいい。
「いったい何の話してるのよ」
「いずれ生まれてくる胡桃さんとの子供について……かな?」
「まるで意味わからないんだけど!?」
「大丈夫、子どもが出来ても俺の一番はいつまでも胡桃さんだから」
「そ、そんなこと聞いてないし心配もしてないから! むしろあんたの頭の方が心配なんだけど!?」
「そう? 結構近い将来だと思うんだけど」
「ち、ちか、近くないけどっ!?」
何故かめちゃくちゃ動揺していた。
顔を耳まで真っ赤にして、今までにないほど動揺していた。
いったいどうしたというんだろう。
まぁ、確かに『近い』か『近くない』で言えば俺たちはまだそういうことをしていないので、『近くない』が正しいのだが……あっ、そうか!
「……なるほど! 結婚してしばらくは二人の生活を楽しみたいってやつだね!」
「そっ……う、かも……」
だからどうして口ごもるのか。
顔を真っ赤に納得するように首肯する胡桃さん。
すごく可愛いからいいのだけど……はて、そこまで動揺する話題だっただろうか?
割といつもと変わらないと思ったけれど。
どこか後悔するように頭を抱える胡桃さんを眺めつつ考えていると、それまで傍観していた桐島くんが小さくぼやいたのが耳に入った。
「……楽しめてるよな? 俺。このバカップルに付き合わされてる状況だけど、本当に楽しめてるんだよな?」
いや、本当に申し訳ない。
胸中で深く謝罪しつつ、俺はまだ若干顔が茹っている胡桃さんの手を取って次のアトラクションの順番待ちの列に並んだ。
しばらくして順番が回ってきたので、アトラクション用のボートに乗り込む。
席は二つ並びではなく複数人が横に座るタイプのものだった。
並びとしては胡桃さんが一番外側で、次いで俺、小倉、桐島くん。
「実はこの映画見たことないのよね」
ぽつりとこぼした胡桃さんは、どこかそわそわとした様子でボートの縁から水面を覗き込む。
今回乗るアトラクションはとある映画がモチーフとなっており、そこに登場する化け物たちの間を流れる川をボートに乗って遊覧する、というものだ。
感覚的にはコースター系とは違い、息抜きのつもりで胡桃さんは選んだらしい。
係員の合図でボートが出発してしばらく。
最初は化け物を遠巻きに眺めつつ、時たま入るギャグ付きの解説にほんわかしていたのだが、アトラクションが後半に差し掛かったところで何やら雰囲気が変わった。
「ひゃっ!」
可愛らしい声を上げて胡桃さんが俺の腕に抱き付いてくる。
服越しでも女の子らしい柔らかい肢体が感じられてドキドキ。童貞かな? 童貞だわ。
「胡桃さん大丈夫? いくらでも抱き付いていいからね!」
「べ、別に何も問題は……わひゃっ」
「……っ! か、かわ、かわいい……っ」
びくっ、と肩を揺らして、身を寄せてくる胡桃さん。
というのも、実はこのアトラクション、最初は遊覧船のようなゆったりとした雰囲気で森の中を進むだけなのに対し、途中からは化け物の研究所らしき場所に入っていき、それまで遠巻きに見ているだけだった化け物たちが襲ってくるようになったのだ。
しかもホラーと言うよりびっくり系で。
「安心して、胡桃さんのことは俺が守るから!」
「いや、びっくりしただけで怖いわけでは──はわわっ」
どうやら胡桃さんはびっくり系がよほど苦手な模様。
化け物が出てくるたびにびくっと身体を震わせ、抱き付いてくる。
怯える胡桃さんには悪いけど、可愛すぎてずっと見ていたいぐらい。
「……チッ」
「まぁ、落ち着けって」
胡桃さんの反対側では、俺に鋭い視線を送ってくる小倉を桐島くんが宥めていた。
もうほんと、桐島くんには頭が上がらない。お昼ご飯は俺がご馳走することにしよう。
そんなことを考えているうちにアトラクションも終盤。
ボートは化け物から逃げるように研究所の中を昇っていき、やがて追いつかれる──と思った瞬間、目の前が開けて一気に外へと滑り落ちた。どうやらこのアトラクションのラストは急流すべりのようで……って、待って? 急流すべりってことは──。
「きゃっ」
「ぬおぅ!」
俺たちは頭から水をかぶることになった。
濡れた、と言ってもずぶ濡れというほどではなかったのは不幸中の幸いか。
それぞれハンカチで濡れた箇所を軽く拭いて、近場のお土産屋の中に入った。
外だとさすがに寒い。その点、店内は空調がよく効いて助かった。
土産物を見ながら体を温めていると、
「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「私も、お手洗いに」
と言って、桐島くんと小倉は店内のトイレへと向かって行った。
俺は店内でぬいぐるみをもふもふしている胡桃さんに近付いて声をかける。
「それ気に入ったの?」
「ん……アトラクションの方は怖かったけど、ぬいぐるみだと可愛いかも」
彼女が抱えていたのは先ほどまで俺たちを襲っていた化け物のぬいぐるみだった。
デフォルメされて確かに可愛い。
胡桃さんは尻尾の感触が気に入ったのか、もふもふもふもふ。
何だこの可愛い生き物。
「よかったらプレゼントに俺が買おうか?」
「別にいいわよ。それにまだ悩み中だし」
「そっか。……それにしても、できれば夏に乗りたいアトラクションだったね」
「ふふっ、そうね」
さすがに冬や寒い季節はキツイ。合羽の販売もあったのでそれを羽織ればいいだけの話ではあるのだが、今回は気付かなかった。それに水をかぶるのも醍醐味のひとつというやつだろう。
「その時は是非薄着で」
「……この変態」
鋭い視線が飛んできた。ぞくぞくしちゃう。
「我々の業界ではご褒美です」
「変態」
「あひん」
「……はぁ、ほんとバカなんだから」
胡桃さんは大きくため息をつくと、ぬいぐるみに視線を落として僅かに微笑みながら続けた。
「──でも、また夏に来るのはいいわね。薄着は絶対しないけど」
「そんなに嫌?」
「い、嫌って言うか、何て言うか……」
胡桃さんは一瞬口ごもると、手にしていたぬいぐるみで顔を隠すようにして、ぼそぼそと呟いた。
「……あ、あんた以外に見られるのが……い、いやなのよ」
その言葉を理解するのに数秒を要したのは仕方のない事だろう。
俺はぬいぐるみの後ろで恥ずかしがる胡桃さんを見て、視線を逸らし、天井でファンのようなものがくるくる回ってるな、なんて思ってからもう一度胡桃さんを見る。
やがてすべてを理解した脳みそが、一つの答えを導き出した。
「それはつまり、逆説的に言えば俺には見てもらいたい、と?」
「なんでそうなるわけ!?」
「俺はいつでも構わないよ!」
「私は構うんだけど!? こ、この変態っ!」
ぺしっ、とぬいぐるみのパンチが飛んできた。可愛い。
ぬいぐるみを抱えて顔を赤くしつつ怒る胡桃さんを何とか宥めていると、トイレに旅立っていた二人が帰ってきた。
「わりぃわりぃ。ちょっと混んでてさ。っと、次はどこに行く?」
マップを広げる桐島くんに、小倉はお腹を押さえながら答えた。
「そろそろお腹空いたかも。いい時間だしお昼にしない?」
言われて時計を確認すると、時刻は十二時を少し過ぎていた。
朝ごはんが早かったというのもあって、腹の具合は丁度いい塩梅だ。
特に反対意見も上がらず、次の目的地はレストラン街に決まった。
早速移動を開始しようとして、
「あっ、ちょっと待って」
と言って、胡桃さんは先ほどからずっと抱えていたぬいぐるみを持ってレジへ。
てててっ、と小走りで向かい、待たせている俺たちをちらちら見て、気持ち急ぎ目にお金を払い終えると、また小走りで戻ってきた。
「ご、ごめんね」
「全然、胡桃さんのためなら何年だって待てるよ!」
「あんたは迎えに来るタイプの人間でしょ」
ぬいぐるみの入った袋を抱え、至極当然といった目でこちらを見つめてくる胡桃さん。
いや、まったくもってその通りだ。その通りなのだが……ふむ。
自分のことを言い当てられるというのは嬉しいような恥ずかしいような、むず痒い感じだ。
でも、決して悪い気分ではない。
まぁ、胡桃さんが関係することで悪い気分になることなどないのだが。
「ほら、早く行くわよ」
そう言って手を取る胡桃さん。
俺も握り返して、レストラン街へと向かうのだった。
昼食を終えて約一時間後、事件はとあるアトラクションを乗り終えた時に起こった。
「……あぁ、俺はもう無理かもしれない。胡桃さん。さ、最後に……旅立つ最後に胡桃さんの美しい顔を見たい。是非ともその世界一綺麗な顔を、俺の目に……」
「なんか思ったより元気っぽいんだけど?」
「いやぁ、でもマジでちょっとしんどい」
俺は園内のベンチに腰掛け、空を見上げるように背中を預けていた。
気分は最悪。正直、吐きそうである。
ぼんやりと空を眺めて気を紛らわしていると、視界にイケメンが入ってきた。
「まさかお前がここまで4Dに弱いとはなぁ」
「自分でもびっくりだ。そして胡桃さんの顔を要求したのになぜ桐島くんが」
「ひでぇ」
けらけら笑う桐島くん。
俺がこうなっているのは、4Dと呼ばれるタイプのコースターに乗ったのが原因だった。
3D眼鏡を掛けて、映像を見ながら縦に横に、上に下に、前に後ろにとぐるぐる回転しながらぐわんぐわん動き回り、ぎゅんぎゅん巡る映像に俺の三半規管は音を上げたのである。
つまりは、酔った。
「って、あれ? 胡桃さんは?」
先ほどから胡桃さんの声が聞こえないと思って視線を空から地上に移すと、飲み物を手にした胡桃さんが丁度こちらに駆けてくるのが目に入った。
「もう……大丈夫? これ飲んで? ……気分、落ち着かない?」
心配げな表情で俺の隣に座ると、ぺたぺたと首やおでこを触られる。
それは熱が出た時の触診では?
藪蛇になったら最悪なので、何も言わないけど。むしろ一生触っていて欲しいまである。
「だ、大丈夫だよ。少し休憩すれば落ち着くから」
「そう? それ飲んでね。お金は気にしなくていいから」
胡桃さんが渡してきたのは市販のペットボトル飲料。
テーマパークの中だと割高だろうに、申し訳ない。
お金は後で返すとして、今は遠慮なく飲ませていただく。
「ありがとう、胡桃さん」
「べ、別にこれくらい……気持ち悪いなら横になる? い、今なら、膝貸すけど……」
「……っ! それはもう全力でお借りしたい! ……けどっ」
俺は口元を押さえる。
「ごめん胡桃さん。ちょっと今横になるのはしんどくて……今度二人きりの時に、もう一度誘ってくれないかな。一緒に大人の階段を昇ろう」
「やっぱり元気なんじゃないの!?」
顔を真っ赤にして立ち上がる胡桃さん。
彼女は心配そうに俺を見つめていて──。
「乗りたかったら、乗ってきても大丈夫だよ。俺はここで少し休憩してるから」
「っ、い、いいわよ。あんたが心配だし」
「それは嬉しいけど……胡桃さん楽しそうだったしさ。きっと他にも乗りたいのいっぱいあるでしょ?」
そう、4Dアトラクションを終えてすぐ俺はバタンキューしてしまったが、それでもしっかり両の眼で胡桃さんがすごく楽しそうにしていたのは捉えていた。
普通のコースター系のアトラクションより、殊更にはしゃいでいたのだ。
「…………で、でも」
「時間は有限だし、俺はまだもうちょっと動けそうにないからさ。それに……俺にとって、胡桃さんが楽しんでくれているのが、一番の薬なんだよ」
「…………」
それでもまだ僅かに渋る胡桃さんは、俺の頰に手を当てて、
「ほ、ほんとに大丈夫?」
「まぁ、酔っただけだしね。あとで話を聞かせてよ」
告げると、彼女はしぶしぶといった様子で首肯。
「…………ん、じゃあ、行ってきてもいい?」
「楽しんできてね」
「わかった」
胡桃さんは小さく告げると、俺から離れる。
俺は桐島くんに視線をやると、
「じゃあ桐島くん、お願いできる?」
「おっけー、任せろ」
ドンと胸を叩いて任されてくれた。ありがたい。
相も変わらず頼もしい友人だと思っていると、ふとそれまで黙っていた小倉が大きく息を吐いて俺の隣に腰掛けた。
「何してんの?」
「いや、実は私もちょっとしんどくて……こっちで残ってていい?」
「し、調ちゃんも!?」
俺だけならまだしも、小倉もとなれば胡桃さんはやっぱり行くのをやめると言うだろう。
胡桃さんが一緒に居てくれるのはとても嬉しいが、個人的には胡桃さんが楽しんでくれている方がもっと嬉しい。
余計なことをと流し目で小倉を見ると、彼女は苦笑を浮かべて胡桃さんに告げた。
「大丈夫、私のはそこまで辛くないから。胡桃ちゃんは楽しんできて」
「で、でも……」
胡桃さんは俺と小倉を交互に見やる。
まぁ、俺たちの関係はお世辞にもいいとは言えないからな。
「私としても、胡桃ちゃんが楽しんでくれている方が嬉しいなって」
「う、うん……そう、かな? ……わかった。それじゃあ一時間ぐらいで戻るから、ここに集合ね」
「おっけー」
小倉は胡桃さんの言葉に軽く答え、二人を見送った。
俺も胡桃さんの姿が人ごみに消えるまでしっかり見送る。
気分はさながら今生の別れである。
そうして取り残されたのはクラスでも頭がおかしいと有名な男子生徒と、金髪巨乳の元いじめっ子。
「……」
「……」
周囲からレールを走るコースターの音や、アトラクションの音楽、客の楽しそうな声が聞こえて騒音に包まれる中──俺と小倉の周りだけ、まるで切り取ったかのように異質に静寂が支配していた。
胡桃さんから貰ったペットボトルの蓋を開けて、中身を口に含む。
静かに飲み込み、何か話した方がいいのか? と考えていると小倉が先に口を開いた。
「……覚えてる?」
「何が」
「修学旅行に行く前、言ったこと」
「修学旅行に行く前?」
何だったか、と記憶を遡り一つ思い出す。
「……あぁ『時間を作ってくれ』とか、そんな感じだったか?」
「そう」
小倉は短く返事をすると、スッと真剣な表情でこちらに向き直り、静かに淡々と、今までに聞いたことのない、真剣な口調で告げた。
「いま、時間ある?」
「……そりゃあ、あるけど」
「だったらさ、ちょっと歩きながら話さない?」
小倉は返事も待たずにベンチから立ち上がって、さっさと歩き始めてしまった。
別に後を追わなくてもいいのだが……。
「おい、待てよ……くそ」
脳裏にこびりつく彼女の真剣な表情が、それを許さなかった。
歩くことしばらく、俺たちがやって来たのはコラボエリアだった。
このテーマパークは自社のキャラだけではなく、日本の有名なアニメや漫画、ゲームとよくコラボしては、それに応じたエリアを展開するという少し変わった特徴があった。
俺たちが訪れたのはまさにそこ。
現在は有名なロボットアニメとコラボしていた。新とか旧とか映画の頭についてるやつだ。
ただ、正直世代が少し古いので、オタクの俺でも内容は大まかにしか知らない。
そのような場所、オタクでもなくコミュ強のバリバリ元陽キャの小倉からすれば、殊更に無縁に思えたのだが……。
「す、すごっ! でかっ、かっこいいっ!」
「お、小倉?」
「見て見て! これ主人公が乗ってる機体! 有名だから見たことぐらいはあるでしょ? って、細か! この駆動部めっちゃ凝ってる!」
「……あー、良かったら写真撮ろうか?」
等身大ジオラマを前に目を輝かせる小倉に、俺は思わずそう尋ねていた。
「い、いいの!? ……んっ、んん! じゃ、じゃあお願いしてもいい?」
「まぁ、それぐらいなら」
というわけではいチーズ。
金髪ギャルとロボの異色なツーショットの完成である。似合わねぇ。
しかし、出来上がった写真を確認する小倉は何とも笑顔だった。
「好きなのか?」
「ん、ま、まぁ」
「お前が好きなのはバイクに乗る変身ヒーローじゃなかったか?」
「あ、あれも好きだけど……言わなかったっけ? お父さんの影響で好きになったって。これもそうなの」
「なるほどね」
確かに、俺たちの親ならちょうどリアタイしていた世代だろう。
「中、入らない?」
「話は?」
「……その、まっすぐ伝えられる自信ないから。見ながらでもいい?」
「お前がそれでいいならいいけど」
中はアトラクションになっているわけではなく、アニメで出てきた武器や衣装など、ファン向けの資料がずらりと並んでいた。一応、4Dのアトラクション的なのがあるみたいだが、とてもではないが無理だ。
酔い醒ましついでにぼんやりと眺めつつ、帰ったらこの作品見てみるかなぁ、なんて考えていると、とつとつと小倉が語り始めた。
「昔、好きだったモデルの子がいたの。綺麗でなんでも着こなして、すごいなぁ、なんて漠然と思って。しかも同い年。……憧れって言うのかな。近付きたくて、真似して、真似して……ほんとに、強く憧れてた」

「……」
「その子はどんどん有名になっていって、女優にならないか、なんて話が持ち上がるくらい成功してた。僻みなんてない。さすがだ、って。やっぱりすごい子なんだ、みんなやっと気づいたんだって……」
「古参面だな」
「そうかもね。……でも、その子はある日突然活動を休止して、SNSなんかも全部止まって、消息が分からなくなって──私の目の前に現れた」
小倉は目の前の展示物を見ているようで、だけどどこか遠くを見つめていた。
「高校の入学式の日、すぐにわかった。あの子だって。話しかけようかな、どうしようかなって一週間ぐらい……ううん、もっと悩んだかも。こんなに緊張したの初めてってぐらい緊張したし、いつも以上に身なりに気を付けて、話しかけた。モデルやってた胡桃さんですよね、って」
「……」
「そうです、って返してくれて、私もう嬉しくって……たくさん話した」
それは、俺の知らない話だった。
胡桃さんと小倉はそんなに早く接点を持っていたのか。
「それで、どうしてそれがああなったんだ?」
人の目もあるためぼやかして尋ねると、小倉は苦しそうに吐き出した。
「……憧れの人が目の前に現れて、僻んじゃった」
「……」
「きっとすごい努力をしてその体型を維持してるんだろうなとか、食べ物はどんな感じで気を使ってるんだろうとか、肌の手入れは? 髪の手入れは? どんな化粧水を? ……とか。聞いて、いっぱい、迷惑かなとか、うん。思ったけど……で、聞いて、それで私……」
「落ち着け。ゆっくりでいいから」
段々と支離滅裂なことを口にする小倉の肩に手を置いて、一度会場を出る。
外の生垣のふちに腰掛けさせると、ようやく落ち着いたようだった。
「……ごめん」
「問題ない」
小倉はしばらく俯いた後、自分の顔を両手で押さえつけながら、吐露を続けた。
「なんだっけ。……あ、そうそう、聞いたのよ。どんなふうにして綺麗に保ってるのかって。いきなり失礼だとは思ったけど、でもずっと聞きたかったことだから」
それは分からないでもない。
俺も好きな漫画やラノベの原作者が目の前に居たら作品について色々と聞くだろう。
「そしたら胡桃ちゃんね、特に努力はしてない、って」
「……まぁ、そうかもな。胡桃さんとは中学からの付き合いだけど、モデルになる前から可愛かったのは覚えてる」
「……だよね。うん、知ってる。……でも、その時の私は謙遜なのかなって思って、結構監視って言うか、まぁ学内だけだけどストーカーってぐらい見てたの」
マジかよ。俺以外にも胡桃さんのストーカーが居たのか。
「それで?」
「それで、胡桃ちゃんの言ってることってなにも間違ってないんだなぁって。確かに体型維持で多少運動してる感じはあったけど、朝からガッツリ走ったり、食事制限したりはしてなかった。私より、全然努力してないのに私よりすごいんだなぁって、まじまじ見せつけられた気がして──僻んだ。嫉んだ」
「……」
「もしこれが、雑誌の向こうやテレビの向こうならそうはならなかったかもしれないけど、目の前で天才であることを見せつけられたら、もう……おかしくなっちゃった」
聞こえるか聞こえないか、魂を絞り出すように吐き出した小倉は下を向いたまま頭を抱え込む。朝からセットしていたであろう金髪がぐしゃっと崩れ、その努力が水泡に帰す。
「……」
小倉は胡桃さんに憧れていた。
それも他の人よりも強く憧れていたのだろう。
だからこそ、自身の理想である憧れの胡桃さんと現実の胡桃さんのギャップに耐えられず、失望し──そして自分には無いものを持っている彼女に嫉妬した、と。
つまりはそういうことなのだろう。
「……ってことを、あんたに伝えときたかった。ごめん、今こんな話して」
「まったくだ。楽しい楽しい修学旅行がしんみりしたじゃないか」
「うぐっ。……そ、それで?」
気まずそうな表情で、こちらを見つめてくる小倉。
「は? なにが?」
「いや、だから……そ、それで? 何か言わないの? そんな自分勝手な理由で、とか、やっぱりお前は糞アマだ、とか。……っ、な、殴るのは、やめて欲しいけど……でも、い、一発までなら……」
ぎゅっと目を瞑る小倉。
いや、そんな卑屈なことを言われても。
「……別に、何もないよ」
「で、でも……わた、私は……」
「胡桃さんにはもう伝えてるんだろ?」
「そりゃあ、うん。あの、あの日に……助けてくれた日の夜に、電話で」
「胡桃さんはなんて?」
「そうだったんだ、って。……あ、あと」
小倉は一度言葉を区切ると、僅かに口端を持ち上げる。
「使ってる化粧水、教えてもらった」
「……」
「そんな感じ」
「そうか。……なら、それでいいんじゃないか?」
ことはすべて小倉と胡桃さんの間で完結している。
俺が口を挟むようなことは何もない。
「でもあんたは、私にすごい怒ってたし、怒られて軽蔑される自覚もあるし……」
だから理由を聞いてもっと怒ると思ったのだろうか。
「馬鹿か。俺が怒っていたのはお前が行った行為に対してだ。理由は関係ない」
「そ、そっか……そうだよね」
「だが──まぁ、なんだ。納得はしたよ。許せる許せないは別として」
「……うん」
小倉は小さく首肯すると、大きく息を吸い込んで、一言。
「ごめん」
と告げたのだった。
それを静かに受け止めつつ、俺は空を見上げた。
大きく吐いた白い息が、からっと晴れた空へと昇っていった。
まだ時間があったので近くのカフェに入る。
さすがに外に出ずっぱりでは身体が冷えてしまった。
「俺コーヒー」
「飲み過ぎると身体に悪いんだって」
「コーヒー好きを前になんてことを言うんだ」
「……別に。胡桃ちゃんの彼氏ならちょっとでも健康でいて欲しいだけ」
そう言って自分は砂糖たっぷりのココアを頼む小倉。
「胡桃さんの友達やるならデブるなよ」
「女子に向かってなんてこと言うのよ」
キッと睨みつけてくる小倉に嘆息しつつ、俺はふと思ったことを尋ねた。
「そう言えば、どうして今だったんだ?」
「なにが?」
「さっきの話だよ」
告げると彼女は机に肘を置いて、窓の外を睥睨する。
「別に、学校じゃ胡桃ちゃんがいるから二人になれないし、かと言って電話をするのもなんか違う。休日に会うのはもっと違うし……このタイミングなら、修学旅行中なら話せる機会もあるかな、って。そう思ったのよ」
「なるほどな」
短く返し、俺も背もたれに背を預けて窓の外を見つつ、思う。
だからと言って、こんな楽しそうな場所でする話でもなかったのでは? と。
まぁ、もう済んだことだし別にいいのだが。
「楽しい雰囲気壊したのは……うん、ごめん」
「別にいいよ。……つーか、前から思ってたんだけどさ。お前は……胡桃さんが好きなんだよな? そういう意味で」
「何、いきなり」
「いや、はっきりと言葉で聞いたことはなかったなと思って」
尋ねると小倉は若干居心地が悪そうに身じろぎして、頰を染めて答えた。
「……まぁ、好き。……そういう意味で」
「ふむ……ならもっとココア飲め」
「はぁ!? あぁ、もう。なんで胡桃ちゃんはこんなデリカシーの無い男を……」
「なんか言ったか小倉ァ」
「別に?」
などと口論しつつ、到着したコーヒーを一口。
仄かな苦みと深いコク、どこかフルーティな口当たりが飲みやすい。
なるほど、一般受けしやすい飲み口だ。
「何考えてんのよ」
「いや、なに。胡桃さんと一緒ならもっと美味かっただろうなって、そう思っただけだ」
「ふーん」
小倉もココアの入ったマグカップを手にして啜る。
小さく嚥下すると、満足そうに息を吐いた。
「それには同意」
以降は特に言葉を交わすこともなく、窓の外をぼんやり眺めつつ飲み干した。
そして身体が温まったのを確認してから、俺たちはカフェを後にした。
待ち合わせの場所で小倉と待っていると、数分もしないうちに胡桃さんと桐島くんは戻ってきた。
「あっ、おーい、胡桃さん」
「ごめんごめん、待った? と言うかもう大丈夫?」
こちらに気付くや否や小走りで近付いてきた胡桃さんは、そのまま再度触診を始めた。
されるがままになっていると、彼女は早々に切り上げて、お次は隣金髪ギャルを診る。
「調ちゃんも大丈夫? 気持ち悪くない?」
「胡桃ちゃんに触ってもらってるだけで体力が回復していくよ♡ もっと触って♡」
「なんかヤバ宮くんみたいになってるんだけどっ!?」
「それは心外」
「おいこら」
このアマ。さっきまでのしおらしい様相はどこに行ったんだ。
内心で呆れていると、少し遅れて桐島くんが戻ってきた。
「どうだった?」
「楽しそうにしてたよ。変な輩に絡まれることもなかった」
「それは何より」
「お前らの方は、何かあったのか?」
桐島くんは俺と小倉を交互に見やる。
何かあったかと聞かれれば、答えはただ一つ。
「特に何もないよ。少し話をしただけ」
「そうか」
「そうそう。……さて、それじゃあもう時間もないし、次のアトラクションに行こっか」
じゃれていた二人に告げると、彼女たちは笑みを浮かべて頷いた。
そんな感じで時間いっぱい遊園地を満喫。
遅くなる前に、電車に乗ってホテルへと戻るのだった。
ホテルに着くと、すぐに夕食の時刻となった。
時計を見ると六時半。だから早いんだって。
席は自由で、今回は胡桃さんの隣を無事確保。
が、四人並んで座れるところは空いておらず、小倉と桐島くんは少し離れた席である。
胡桃さんが少し寂しそうな表情を見せるあたり、二人にはかなり心を許しているようだ。
それはともかく、本日の料理は和食。
目の前には色とりどりの季節のお野菜に白ごはん、汁物、鉄板焼きに刺身と、なんだとっても豪華じゃないか。一人感心していると、お隣の胡桃さんが震えた声で呟いた。
「ま、マグロがある」
「あれ、胡桃さんマグロ苦手?」
「いや、そうじゃなくてむしろ……」
ごくり、と喉を鳴らすところを見るにかなりの好物のよう。
ならば俺が行うべきはただ一つ。
「はい、あーん♡」
「なんで!?」
「もちろん胡桃さんの喜ぶ顔が見たいからだよ! 胡桃さんが未来永劫隣で笑っていてくれることこそが、俺の何よりの望みだからね!」
「マグロ一切れにそこまで考えてるの!?」
「胡桃さんとの将来設計は常日頃から考えてるよ!」
「もっと別のことは考えられないの!?」
胡桃さん以外のことか。
「子供の教育方針……とか?」
「バカなの!?」
「まぁ、親バカにはなりそうかな」
「聞いてないんだけどっ!?」
わいわい言い合っていると、胡桃さんはハッと我に返ったように周囲を見渡し、顔を赤くして俯いてしまった。俺も倣って周りを見ると、なるほど同じクラスの連中が『またか』といった様子でこちらを見ていた。
確かに、学校でも似たようなものだしな。
「はい、あーん♡」
「少しは空気を読んで欲しいんだけど!?」
何て言いつつも、胡桃さんは口を開いて俺の箸からマグロをパクり。
もぐもぐと小動物のように咀嚼してごっくん。
口をへの字に曲げて俺を睨むとぼそりと愚痴った。
「温くなってる」
「あちゃー、愛の炎であったまっちゃったかー」
「あちゃーじゃないわよ! ……でも、ありがと。代わりにこれあげる」
胡桃さんが差し出してきたのは白い刺身。イカだ。
彼女は箸で挟むとそのまま俺の皿へ──。
「食べさせてくれないの?」
「く・れ・な・い・わ・よっ! ばかっ!」
べっ、と舌を出した胡桃さんは、自らの皿に向き直って食事を再開した。
本当に食べさせてはくれないらしい。残念だ。
しかし、おいしそうに自分の分のマグロを口に運ぶ姿に、自然と笑みがこぼれてしまう。
行儀いい所作で食べる彼女に見惚れつつ、俺も頂戴したイカをパクり。
「……おいしい」
「そう? よかった」
「うん、胡桃さんの味がするよ」
「何もよくなかった。病院行く?」
「胡桃さんとならどこへでも」
「あんたは無敵なの!?」
本心なんだけどなぁ。
食事も終えて部屋に戻ろうと館内を胡桃さんと歩く。
食事会場は一階にあり、俺たちが泊まっている部屋は男子が四階、女子が五階。
それぞれエレベーターでの移動となる。
食事が終わった者から部屋に戻って構わないと言われていた為、帰る時間はバラバラ。
エレベーターの前には俺と胡桃さんの姿しかなかった。
「それにしても、今日は疲れたわね」
「そうだね。かなり遊んだし……胡桃さんもはしゃいでたしね」
「は、恥ずかしいから忘れて……」
「胡桃さんの笑顔を忘れるなんて無理な話だよ!」
「う、うぅ……ばかぁ」
赤面して頰を搔く胡桃さん。
改めて心のメモリーにしっかり刻み込んでおこうと決意していると、胡桃さんはエレベーターの階層表示を眺めながら大きくため息をついた。
「どうしたの?」
「ん? あぁごめん。疲れたからこそ、また部屋風呂かって思って。男子もそうなんでしょ?」
「まぁ、先生にはそう言われたね」
答えると、胡桃さんは眉をひそめた。
「もしかして……」
「昨日は大浴場の方に行かせていただきました」
「ルールはちゃんと守らないとだめでしょ!」
怒られちゃった。胡桃さんらしい。
なのでこちらは仲間を売らせていただく。
「いや、俺以外にも桐島くんや同室の阿坂くんも一緒で──!」
「言い訳しない!」
「はい!」
仲間の売却はなんの意味もなかったし、ただ共犯者の名前を喋っただけだった。
俺と一緒にお酒を飲もうとしたり、授業をエスケープして屋上に向かったりしている胡桃さんであるが、それにはそれ相応の理由があり、基本的に彼女は真面目な人なのだ。
そういう凜としているところが最高に孤高で惹かれるのだけども。
「……ち、因みに、ほんとにバレなかったの?」
……おっとぉ? さすがの胡桃さんも背に腹は替えられなかった模様。
そりゃあ大浴場があるならのんびり足を伸ばしてくつろぎたいよね。特に女の子なら。
真面目なところも最高に魅力的だけど、ちょっとずる賢いところが出てくる胡桃さんも、それはそれで非常に愛おしい。ギャップ萌えというやつか。
なので俺は親指を立てて胡桃さんに答えるのだった。
「もちのろんよ」
胡桃さんと話しているとエレベーターが到着。
早速乗り込もうとしたところで──。
「な、なぁ小倉。少し話があるんだけど、今時間いいか?」
「……っ、な、なに?」
聞き覚えのある声と、耳なじみのある名前が聞こえてきた。
胡桃さんも気が付いたのか、エレベーターに向けていた足を止めて声の方に視線を向ける。
そこには小倉を呼び止める阿坂くんの姿があった。
「ここじゃあれだからさ、少し移動していいか?」
「……わ、わかった」
場所を移動する二人。
それを見て、俺は理解した。
(昨日のこと、早速行動に移すのか)
昨日のこと──とは阿坂くんが大浴場で相談してきたことだ。
つまるところ小倉への謝罪である。てっきり修学旅行が終わってから謝罪するものだと思っていたのだが……まぁ個人的にすぐに動いたことに関しては好感度が高い。
二人の間でどのようなやり取りがなされるのかは気になるが、覗くのはさすがに阿坂くんに対して失礼だろう。
俺は再度エレベーターに乗り込もうとして。
「あ、あれっ! ……っ!」
「ちょ、胡桃さん!? ま、待って!」
どういうわけか慌てて二人の方へと向かおうとする胡桃さんの手を取って制止する。
「と、止めないとっ!」
「どうしたの胡桃さん。止めるって何を──」
「ま、また調ちゃんが、傷つけられる!」
その言葉を聞いて、合点がいった。
阿坂くんはかつて小倉を虐める空気を作り出した張本人であり、そのことを後悔して俺に相談を持ち掛けてきた。
その結果として小倉に対し真摯に謝罪するということを決めたが、当然胡桃さんはそのことを知らない。だから『また』と焦っている。
「ま、待って、待ってって胡桃さん!」
「ど、どうしてっ?」
「とにかく落ち着いて。……それから、静かについて来て」
俺は逡巡した後、阿坂くんには申し訳ないと思いつつも、見せた方が早いと静かに二人の後を追った。
二人が行きついたのはロビーの隅。
というか、俺と胡桃さんが昨日乳繰り合っていた現場である。
そんな場所で真剣な話をしようとする二人。
何というわけではないけれど、阿坂くんに対する申し訳ない気持ちが倍プッシュ。
今度学食で焼き肉定食でもご馳走しよう。
俺は、下唇を嚙んで今にも飛び出しそうな胡桃さんを押さえながら二人の話に耳を傾けた。
「……は、話って、なに?」
小倉の声は僅かに震えていた。
小倉自身も、阿坂くんに対して相応の苦手意識を抱いているのだろう。
そういう意味では、人気のないここは悪手だったと言える。
静かなカフェとか、そんなところが良かったのではなかろうか。
いまさらどうなるわけでもないが。
阿坂くんもきっとそれに気付いていたのだろう。
だからこそ彼は安心させるように一歩足を退いた。
「話っていうか……その……」
阿坂くんは僅かに言い淀んだけれど、一度大きく息を吸い込むとまっすぐ頭を下げた。
「あの時は、ごめん」
「……え?」
「あの席替えの時、俺は小倉に対して酷いことを言って傷つけた。そのことを改めて謝罪したい。……本当に、申し訳なかった」
その言葉に小倉は明らかに動揺していた。
どうすればいいのだろう、と頭を下げる阿坂くんを見て唇を嚙みしめる。
静寂は十秒もなかったように思える。
けれど、どこまでも張り詰めて、当事者にとっては数分や数十分にも感じられるだろう。
その中で、小倉は俯いて自嘲を浮かべた。
「……あれは、私が悪かったから」
確かに元を辿れば、小倉が胡桃さんを虐めていたのが原因だ。
けれど、だからと言って関係の無い人間が小倉を糾弾するのはまったく別の問題なわけで。
──『私が悪かったから、別に気にしないでいい』
なんて答えは、必ずと言い切っていいほど間違っている。
俯き、前髪で表情の伺えない小倉に対し、何と声をかけていいのか逡巡する阿坂くん。
しかし、それよりも先に小倉が小さく横に首を振った。
「ううん、そうじゃない。──あれは、私も悪かったから。って言うほうが正解なのかな」
その独白は、静かな当所によく響いた。
隣で息を飲む音が聞こえる。
視線を向けると、胡桃さんが目を見開いて二人をじっと見つめていた。
何を思っているのだろうか。残念ながら俺には分からない。
けれど、彼女はまっすぐ二人を見つめていた。
小倉は一つ深呼吸して言葉を続ける。
「私は、ああいうことをされて当然の人間だった。それだけのことをした自覚もあるし、後悔もある。その償いで、あの子のためなら何でも、本当に何でもしてあげたいって思う。それぐらい、あの時の私は最低最悪で、本当に気持ち悪くて、自己嫌悪で死にたく──ううん」
小倉は一瞬言葉に詰まり、震えた声で告げた。
「私みたいな人間死んでしまえ、って。そう思うぐらい、私は酷いことをした」
もしかしたら彼女はあの日──屋上に駆けあがった日。
本当にその先へ足を進めるつもりだったのかもしれない。
ちらりと隣の胡桃さんを見ると、拳を強く握り締めていた。
「だから阿坂にされたことは自業自得だと思ってる。……でも、阿坂が言いたいのはそういうことじゃないんだよね」
「……あぁ。俺が、俺がやったのは、誰が相手でもしちゃいけないことだ。小倉がどういう人間だったかは関係ない。結局のところ、俺が行ったのは他人を傷つける行為だから……。本当に申し訳なかった」
改めて深々と頭を下げる阿坂くん。
そんな彼を複雑な瞳で見つめた後、小倉は彼に顔を上げさせる。
「正直、阿坂のことは最低だと思う。それはきっと今後も変わらない。……ごめん」
「──っ」
「で、でもっ! だけど、あんたより最低の私を、見捨てないでくれた人がいた。その人は、私の憧れで尊敬している人で──だから、今すぐはまだ心の整理がつかないけど、謝罪は受け止めとく」
必死に絞り出したであろうその言葉を受け、阿坂くんは暫し瞑目すると小さく息を吐いた。
「あぁ、わかった。……話はそれだけだ。改めて本当に、申し訳なかった」
もう一度深く頭を下げると、彼は踵を返してその場を後にした。
(って、こっち来る!)
慌てて胡桃さんの手を取り場所を移動。
幸い阿坂くんは外の空気でも吸いに行ったのか、玄関口へと歩いて行った。
俺たちはエレベーターホールに戻ってくると、上昇ボタンを押して二人並んで待つ。
会話はない。ただ摑んだ手は離さず、俺はぼんやりと変化する階層番号を眺める。
しばらくして胡桃さんが小さな声で話しかけてきた。
「……阿坂くん、調ちゃんに謝るつもりだったんだ」
「そうだね」
「知ってたの?」
「相談は受けてた」
「そっか……。また調ちゃんに何かするのかも、なんて酷いこと考えちゃったな」
「知らなかったんだから仕方ないよ」
エレベーターが到着する。
人は乗っておらず、乗り込んで四階と五階のボタンを押した。
「調ちゃんも、あんなに悩んでるなんて知らなかった」
まぁ、小倉の性格からして誰かに相談することはないだろうしな。
特に相手が胡桃さんならなおさら。
気取られることすら嫌がっただろう。
「知らなかったなら、知ればいいだけだよ」
「……そうね。それとなく聞いてみる。……その、友達として」
「そうだね、それがいい。俺も何かあったらいつでも手を貸すから。嫁の頼みなら何でも聞くよ!」
「まだ彼女よ、ばかっ! ……でも、ありがと。期待してる」
胡桃さんは笑みを浮かべる。よかった。
辛気臭い雰囲気のまま別れるのは嫌だったからな。
「もちろん! 期待通りちゃんと嫁にするから!」
「そっちじゃないんだけど!?」
そうこうしているうちに四階に到着し、俺たちはそれぞれの部屋に戻った。
「お前は馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だと常日頃から思っていたが、まさかここまで馬鹿だとは」
「いや、ほんと申し訳ないです」
俺は目の前でお冠の物部先生に平謝りしていた。
時刻は八時半を少し過ぎた頃。場所は夜空を望む露天風呂の中。
何故こうなったのか。それは遡ること約一時間前。
胡桃さんと別れて部屋に戻った俺は、本日も桐島くんと大浴場へと向かうことにした。
昨日のこともあり阿坂くんも誘おうと後から帰ってきた彼にも声をかけたのだが、少し一人で考えたいことがある、とのことで本日は部屋風呂を選択。
先ほどの一件の後だから、それも仕方ないだろう。
というわけで桐島くんと大浴場を訪れ、本日の疲れを癒していたのだが……。
「んじゃ俺は先あがるわ」
「うい~、俺は露天でもう少しゆっくりしてから戻るよ」
「おっけー」
露天風呂に浸かり、外気の肌寒さと温泉の温かさのはざまで極限の快楽に文字通りその身を沈めつつ、満天の星々を眺めていた俺は──爆睡した。それはもうぐっすりと。
自宅の風呂場で寝落ちしてしまうことがあるが、旅先ではさすがに初めてだ。
それだけ疲れていたということなのだろう。
寝落ちすること自体はしばしばあるので溺れる心配はなかったが……問題はその後だった。
「……ぉい、おい」
「……んぇ?」
「なにが『んぇ』だ。起きろ笠宮」
誰かに名前を呼ばれた気がして重たい瞼を持ち上げると、そこには物部先生の姿。
俺は目をこすり、周囲をきょろきょろ。
露天風呂──桐島くんと別れてから約一時間が経過した時計──全裸の物部先生。
そこから導き出される結論はただ一つ──。
「ごめんなさい」
「寝起きでよくそこまで頭を回せたな。ったく」
そして、現在に至るというわけだ。
物部先生は露天風呂の淵にゆったり背中を預け、タオルを頭の上に載せて息を吐いた。
「はぁ……。まぁ、なんだ。いろいろと言いたいことはあるが、修学旅行中に怒るのもあれだしな。今回は大目に見よう」
「ありがとうございます。……でも、ふと思ったんですけど、生徒は部屋風呂で先生は大浴場なんですね」
「……」
「視線逸らさないでくださいよ。まるで脅してるみたいじゃないですか」
「……なにが望みだ」
「ほんとに脅してるみたいじゃないですか!?」
物部先生はクツクツ笑うと、湯船から出ていた肩に湯を掛けた。
十一月末の夜ともなるとかなり冷える。
俺は一時間近くも寝落ちしていたので若干のぼせているが。
露天風呂の湯気が夜空に昇っていくのをぼんやり眺める。
「笠宮、修学旅行はどんな感じだ?」
「楽しんでますよ。何枚か結婚式の時のスライドショーで使えそうな写真も撮れましたし」
「お前って素でそれなんだな」
「それってなんですか、それって」
失礼な。俺は胡桃さんを世界の何ものよりも愛しているだけだというのに。
物部先生は、こちらの内心などまるで気にしないで続ける。
「でも、そんな写真が撮れるくらい楽しんでるのなら……そりゃあよかったよ」
「それに関しては同意ですね。……っと、すいません。そろそろのぼせそうなのでお先に失礼します」
「おう。……あっ、そうだ。俺は風呂上がりにビール飲んで爆睡するつもりだが、夜はあんまり騒ぎ過ぎるなよー」
適当にひらひらと手を振りながら一応といった風に告げる物部先生。
まったく、それでいいのか教師よ。
呆れつつも露天を後にしようとして、背中に声を掛けられた。
「あと一日。最後まで楽しめよ」
「……はい、それはもう全力で楽しませていただきますよ」
端的に返しつつ、俺は風呂を上がった。
脱衣所で身体を拭いて浴衣に着替え、ドライヤーで髪を乾かしてから大浴場を後にする。
暖簾をくぐって廊下に出ると、同タイミングで女湯の暖簾の向こうから二人の少女が出てくるのが視界に入った。……あれはっ!
「胡桃さん! ……と、小倉」
そこに居たのは愛するマイハニーとその友人。
こちらに気付いた二人は驚いた表情を見せる。
「あんたもちょうどお風呂上がり?」
「そうだけど……、っ」
近付いて小首を傾げ尋ねてくる胡桃さん。
その表情は弛緩しきっており、とろんとした目がこちらを見つめていた。
頰は風呂上がりのためか僅かに上気していて、しっとりとした髪が妖艶な雰囲気を醸し出している。正直、浴衣姿の胡桃さんというだけでも興奮が止まらないのに、そこに加えて風呂上がり。──一瞬、息をするのも忘れて見惚れてしまうのも無理からぬことだった。
「どうしたの?」
「胡桃さんが魅力的過ぎて見惚れてた。新婚旅行は温泉もいいね」
「い、いきなり何なの!?」
「嫌だったりする?」
「い──や、では、ないけども……」
もごもごと答えた後、口を結んで恥ずかしそうに睨んでくる胡桃さん。
申し訳ないとは思いつつ、しかし彼女への愛情を抑えられないのだ。
すると一部始終を見ていた小倉が呆れを多分に含んだため息をついた。
「はぁ……、あんまりそういうこと人前で言ってると本格的に嫌われちゃうわよ? ──はっ! そうじゃなくてもっと言っていった方が愛が伝わるわよ!」
「調ちゃん!?」
「本性を取り繕えていないにもほどがあるだろ、お前」
その言葉に小倉は舌打ちをして返した。
彼女もまた風呂上がりのため頰は朱色に染まり、普段きつめの瞳も目じりが垂れ下がっていた。髪は緩やかに下ろされていて、いつもと異なる雰囲気を纏っている。豊満な胸は浴衣を持ち上げ、帯で強調されたくびれに、彼女もまた胡桃さんとは別種のスタイルの良さを持つ少女なのだと再認識させられた。
こちらの視線に気付いた小倉はふんっと鼻を鳴らす。
「なに?」
「いや、別に。……それより胡桃さん、お風呂の方はどうだった?」
「部屋風呂で済ませろって言った先生を恨む程度にはよかったわよ」
まったくもって同意だ。
「それはよかった。是非とも今度は一緒に入ろうね!」
「あれ!? そんな話だったっけ!?」
「私はもう胡桃ちゃんと一緒に入ったけどね」
「なんで張り合ってるの!?」
突っ込み魔人と化した胡桃さんにすり寄る雌猫。
そりゃ、一緒に大浴場から出てきたところを見るにそうなのだろうけども。
「……待て、つまりお前は胡桃さんの裸を見たと?」
「お風呂に入ったんだから当たり前でしょ?」
「お、俺もまだ見てないのに!」
「ば、ばか! 何言ってるの!?」
「えへへ、胡桃ちゃんスタイル良過ぎ。マジで目の保養になった」
「これが……寝取られ?」
脳が破壊されそう。
「背中流してあげるときに少し触ったけど、肌もすべすべで──」
「ぐあぁああああああっ!」
完全な寝取られにより脳が破壊されてしまった。
「くそっ……! 胡桃さん!」
「な、なに!?」
「お風呂に行こう!」
「今出てきたんだけど!?」
「家族風呂的なやつがあるかもしれない。一緒に入ろう!」
「家族でもないんだけど!?」
「将来的に一緒になるから大丈夫! ホテルの人も分かってくれる!」
「ぜ、絶対に無理だから! っていうか、入らないから!」
「小倉とは入ったのに!? どうして!」
「どうしてもこうしても調ちゃんは女の子だし! ……うぅ、あーもうっ!」
嘆いていると、胡桃さんは呆れた表情を見せつつも吹っ切れたように声を上げた。
そして顔を真っ赤にしながら俺の耳元に口を寄せると、小さく囁く。
「か、帰ってから……水着ありなら、一緒に入ってもいいわよ……っ」
「っ! よ、よし! 帰りの新幹線は何時かな?」
「まだ帰らないけど!?」
スマホを取り出して調べようとしたら奪われてしまった。
「……ねぇ、二人で何の話してるの?」
「べ、別になんでもないわよ?」
訝し気な目を向けてくる小倉に対し、胡桃さんはしどろもどろになりながらも誤魔化していた。
きっと何も誤魔化せてはいないのだろうけど。
小倉の追及を回避しつつ部屋に戻ろうと歩いていると、ある物を見つけた。
「ここ、卓球台もあるんだ」
エレベーターホールへと向かう道すがらに娯楽室があり、その中央に本格的な卓球台がドンと鎮座していた。近くにはラケットもあり『ご自由にお使いください』の文字も拝見できる。
「せっかくだしやってみる?」
とは胡桃さんからのご提案。
もちろん拒否などしない。胡桃さんと卓球なんて最高。
当然と言うか何と言うか、小倉も二つ返事で参加を表明してきた。
「……小倉は帰ってもいいのに」
「なんでよ。私も胡桃ちゃんと卓球したい。キャッキャうふふしたい」
「それは彼氏の俺がするから」
「……」
「……」
「ぼこぼこにしてやる」
「絶対負けない」
というわけで、第一回戦は俺と小倉の対戦となった。
卓球台を挟んで金髪ギャルと対峙。
「じゃ、私は審判してるね~」
胡桃さんは近くのベンチに座り俺と小倉の両方にがんばれー、と声援を送っていた。
かわいい。
「俺は経験者だからサーブはそっちからでいいぞ」
「……ふん」
ピンポン玉を手にして小倉が構える。
その立ち姿を見るに、彼女もまた卓球の経験がありそうだった。
ところで、俺がわざわざ小倉に勝負を仕掛けたのには単純にムカついた以外にも理由がある。
それすなわち、胡桃さんの前で小倉を打ち負かしていいところを見せたいという純度百パーセントの下心だ。言われたい、胡桃さんにきゃーきゃーと。
言っているところは欠片も想像できないけれど。
とにかく小倉には悪いが、踏み台になってもらうとしよう。
ぎゅっとラケットを構え直すのと、小倉がサーブを放ったのはほぼ同時だった。
カンッカンッ、と乾いた音と共にピンポン玉が飛んできたので、救い上げるように打ち返す。
すると小倉も難なく打ち返し、しばらくラリーが続いて──。
「……っ」
俺が空振り、小倉に点が入った。
「二人とも卓球できるんだ」
にこやかな胡桃さんの声に、しかし小倉はじっと俺を見つめていた。
「……ねぇ、卓球やってたんだよね?」
「そうだが?」
「……? そう」
小倉は不思議そうに小首を傾げた後、再度サーブ。
それは強い下回転がかかっていた。
「っ、くそ!」
手を出すも球ははじかれネットに引っ掛かり、またもや小倉の得点。
すると小倉が再度同じ質問を投げかけてきた。
「……ねぇ、卓球やってたんだよね?」
「だからそうだって言ってるだろ? お前もなかなかやるようだな」
「な、なかなか……? まぁ、中学生の時は卓球部だったし。一年でやめたけど。そういうあんたはどこでやってたの?」
「俺は去年、体育の選択種目で卓球を選んだ」
因みにほかの選択種目はバスケとサッカー。
求められる運動神経の質が高すぎるんだよ。
「……それだけ?」
「あぁ、それだけだ。──さぁ、こい!」
「サーブはあんたからよ」
「おっとそうだった。せいっ」
そうして放った俺のサーブは、
「──って言うか、そんな付け焼刃で敵うわけないでしょうがッ!」
恐ろしい速度のスマッシュにより容易に打ち返されてしまった。
壁に当たり床を転がるピンポン玉。
俺はそれを拾い上げるともう一度構えて──。
「そんなの、やってみないと分からないだろ!」
スポコン主人公みたいな台詞を吐いたのだった。
──負けた。
得点は十一─三、完敗である。
「調ちゃん、凄いね!」
「え、えへへっ、そ、そう?」
よいしょする胡桃さんに、デレデレする小倉。
くそう、本当なら俺が褒められたかったのに。
しかし実力差があったのは事実。
と言っても、最後の方はなんとか三点取り返したので頑張った方だろう。
小倉も本気で悔しがっていたので、情けを掛けられたということもなさそうだし。
そんなわけで負けた俺が胡桃さんと場所を入れ替わり、二回戦は小倉vs胡桃さんのマッチが執り行われる。
「よろしくね、胡桃ちゃん!」
「う、うん。お手柔らかに……」
対峙する二人。
小倉が卓球強かったのは正直意外だったが……、俺は知っている。
──胡桃さんが運動神経抜群の完璧美少女であるということを。
彼女は顔が良く、スタイルも良くて、性格もいい。加えて運動神経もいいのだ。
思い出すのはアミューズメント施設でバスケをした時のこと。
サクサクと点を取られたのはいい思い出だ。
「ふっ、胡桃さんは強いぞ」
俺は胡桃さんの後方のベンチに腰掛け、腕を組みながら告げる。
「へぇ、それはちょっと楽しみかも」
ぺろりと唇をなめる小倉。
「ちょ、ちょっと! ほんとにお手柔らかにね?」
「がんばれ胡桃さん! 胡桃さんなら勝てる! 小倉なんてやっつけろっ!」
「いくら彼氏だからって贔屓しすぎじゃない!?」
小倉が喚くが気にしない。
俺はただ胡桃さんを全力で応援するのみだ。
サーブは胡桃さんから。
「じゃ、じゃあ行くわよ……っ、えい!」
……掛け声可愛すぎない?
見事なフォームで放たれたピンポン玉は美しい曲線を描き──まっすぐネットに収まった。
これがサッカーなら先制点だ。しかし困ったことにこれは卓球。
「……」
「……」
どうしたんだと俺と小倉が視線を向けると、胡桃さんは耳まで真っ赤にしながら再度構え直していた。
「……っ、も、もう一回っ、……んっ♡」
今度は何故か色っぽい声だった。助かる。ありがとう。
しかし胡桃さんの放った球は、またもや綺麗な曲線を描いてネットに一直線。
これには小倉も困ったようで、気まずそうに視線をそらす。
「あー、えっと……じゃ、じゃあ次私のサーブ……い、いくね?」
「……」
顔を真っ赤にして返事もできない胡桃さんに、小倉がサーブを出す。
ふんわりふわふわ、小学生でも簡単に返せる優しいサーブボール。
胡桃さんはジッと凝視してラケットを握りしめ、渾身のスイング。
果たして──ボールは無情にも俺の足元に転がった。
それはもう見事な空振り。
コンコンとボールのはねる音だけが気まずい空気の中に響く。
すると、とうとう我慢の限界が来たようで……胡桃さんは赤くなっていた顔を手で覆うと、声を絞り出すように告げた。
「……じ、実はラケットとか道具とかを使う系のスポーツは苦手なのよっ」
恥ずかしそうにする胡桃さん。
ここは彼氏として慰めるべきだろう。
「そんな胡桃さんも、たまらなく愛おしいよ」
「フォローになってないんだけど!?」
「大丈夫、俺が教えるから」
「あんたも調ちゃんに負けてたじゃない」
「それでも一応勉強はしたから問題ないよ」
小倉を倒してかっこいいところを見せよう作戦は失敗したので、変更である。
今度は大学のテニサー所属のチャラ男が如く、手取り足取り指導させていただくとしよう。
俺は胡桃さんを後ろから抱きしめるように腕を取った。
「まず構え方はこう」
「……んっ、ちょ、ちょっと? ち、近いんだけど」
「そんなことないよ!」

「は、恥ずかしいし、離れてよ」
「離れたら教えられないじゃん」
「~~~~っ!」
正直自分で言っていて意味が分からないが、反応が可愛いので続けさせていただく。
「このラケットはペンホルダーだから、握り方はこうじゃなくて、人差し指と親指でペンを持つみたいにして……そう、そんな感じ」
「も、もう、それくらい言葉だけでもわかるってば」
「……まぁ、本音を言うと好きな人と一分一秒でも触れ合っていたいという下心なだけなんだけど。……そんなに嫌だった?」
尋ねると、胡桃さんは顔を真っ赤にしたまま、小さく首を横に振る。
「べ、別に嫌だとは……もう、ずるい」
その言い方が一番ずるいと思うのだけど。
これはもういけるところまでいけるのではないだろうか?
修学旅行中だとか、ここはホテルはホテルでもラブホじゃないよ? とか関係ない。
暴走する愛は止められないのだ。
なんて思っていると、
「だ、ダメダメダメ! せめて目の前はやめてっ!」
悲壮な声が聞こえて来た。
誰だと思って視線をやると悔しそうな表情の小倉の姿。やっべ、完全に忘れてた。
胡桃さんも同じだったのか、慌てて居住まいを正そうとして──しかしその前に小倉は卓球台を回り込んでこちらにやってくると、ラケットを持つ胡桃さんの手を取った。
「わ、私も教える!」
「いや、問題ない。胡桃さんには俺が手取り足取り教えるから!」
「ダメ。私の方が卓球上手いから!」
「ちょ、ちょっと二人とも!?」
慌てる胡桃さんをサンドイッチにする形で小倉と睨み合う。
すると小倉は俺が教えている途中だったラケットの握り方を引き継ぐ形で教え始める。
「胡桃ちゃん! このタイプのラケットは裏を使わないから中指なんかで後ろを支えるようにすると打ちやすいよ!」
「し、調ちゃん!?」
言いながら小倉はその豊満な胸を胡桃さんに押し付ける。
人によっては嫌悪感を抱いてもおかしくないだろうが、胡桃さんはどっちもいけちゃう系女子。そのアピールは間違ってないだろう。
「胡桃さん! ボールを打つ時はまず軽く向こうに届けることを意識して打つとやりやすいよ!」
「ちょ、ち、ちかっ……、ふ、二人とも、近いって! はわ、はわわわっ!」
前門の巨乳、後門の彼氏という状況に、あわわと顔を真っ赤に混乱する胡桃さん。
しかしここで引くわけにはいかない。
胡桃さんとイチャイチャするのは俺なのだからっ!
「胡桃さん!」
「胡桃ちゃん!」
「わ、あわわわわわっ!」
結局それから約三十分。
指導という名のセクハラは、我慢の限界を迎えた胡桃さんが逃げ出すまで続くのだった。
因みに、混乱しつつも胡桃さんの口角が少し上がっていたのを俺は見逃さなかった。
やはり小倉は要注意人物かもしれない。
「胡桃ちゃん、めっちゃいい匂いだったんだけど」
「お前、中身おっさんなのか?」
「うるさい、変態」
「鏡見ろ鏡」
胡桃さんが逃げてしまったこともあり、突発的に開催された卓球大会はお開きとなった。
「たけぇなぁ」
夜も完全に更けて現在時刻は十時半。
消灯時間も過ぎて、部屋の外に出ることを禁止されている時刻であるが、俺は廊下の突き当たり──立ち並ぶ自販機を眺めて愚痴をこぼしていた。
何てことはない、喉が渇いたので買いに来ただけだ。
しかし流石はホテル価格。どれもお高い。
(……そう言えば、売店は安かったな)
一階までの移動となると先生に見つかる可能性もあるが……まぁ、いいか。
いざとなれば物部先生に頼むとしよう。一人のびのびと大浴場で疲れを癒していたことを持ち出せば、きっと穏便に済ませてくれるはずだ。
というわけでエレベーターに乗ってサクッと移動。
売店で京都ブランドのお茶を購入。
ついでに霞へのお土産をもう一度確認しておこうかな、なんて思い店内をぶらつこうとして俺の耳が聞き逃すはずのない声を捉えた。
しかし、どうしてこんな時間にこんなところで?
疑問に思いつつ声の方へと向かうと、人気のない隅で胡桃さんがスマホを耳に当てていた。
それにしても、本当にこの場所とは縁があるな。
(相手は気になるけど……盗み聞きはさすがに失礼だよな)
だがそれとは別に折角だし部屋まで一緒に戻ろうと、彼女の電話が終わるまでお茶を飲んで待っていると──俺のラブラブイヤーが思いとは裏腹に彼女の美しい声を拾ってしまった。
「それは……うん……いや、無理かなって……っ、う、うん」
困ったような胡桃さんの声。
覗く彼女の表情には、卓球をしていた時のような笑顔など欠片も存在していない。
胡桃さんは下唇を嚙み締めて、電話の相手に何かを告げようとしては、飲み込むことを繰り返していた。
修学旅行が始まってから、そんな雰囲気は欠片も見せていなかったと思ったが……。
そう言えば昨日の朝──つまりは修学旅行初日、集合場所の学校に向かう電車の中でも彼女は浮かない表情を見せていた。
それはまさしく今、目の前で見せているのと同じようなもので──。
「……でもっ、……うん、いや……あ、うん。──わかった。じゃあ、明日」
思考している間に電話は終わったらしい。
浮かない表情の胡桃さんはスマホを浴衣の袖に戻すと、しばらくその場に立ち尽くす。
大きく息を吐いて、もう一度スマホを取り出して操作。
少しの間画面をじっと見つめると、小さく首を振って、スマホを再度袖に戻そうとしながら踵を返して──そこでようやく俺に気が付いた。
「ぇ、ええ!? な、なな、なんでいるの!?」
「喉が渇いたからお茶を買いに来たんだ。つまり運命だね!」
「そ、それは偶然でしょうが」
「愛し合う二人が意図せず出会ったのなら、それは運命と呼ぶんだよ!」
「本質的には偶然も一緒でしょ。……はぁ」
胡桃さんは大きくため息をつくと、ちらりと自らのスマホを見る。
そこにはどういうわけか俺の連絡先が表示されていた。
胡桃さんは慌てて画面を消すと、浴衣の袖に戻して咳払い。
「ん、んんっ。……それより、聞いてた?」
「まぁ、少し。でも誰と何を話していたのかは聞こえてないよ」
「…………そう」
小さく呟いて俯いてしまう胡桃さん。
その表情はやはり、先ほどまでの浮かないものだ。
──だからこそ、俺がやるのはただ一つ。
「胡桃さん。何があったのかは分からない。だけど、俺は胡桃さんの味方で、胡桃さんが笑顔になってくれるためなら何でもする。文字通り何でもだ。だから、何か悩みがあるのなら相談して欲しい。だって、俺は胡桃さんの未来の夫だからね!」
告げると、胡桃さんは唇を尖らせて、
「……最後のは余計だと思うけど……でも、ありがと」
少しだけ、笑みを浮かべてみせてくれた。
正直、無理をしているのはまるわかりだったが。
話を聞くため、場所を移して売店横のソファーに腰掛ける。
時間も時間なので周りに人はおらず、穏やかなBGMだけが館内をゆるやかに流れていた。
隣に腰掛ける胡桃さんとの距離は近く、拳一つ分って感じ。
「お茶いる?」
「……そうね、貰ってもいい?」
腰掛けてしばらく。無言でなんと切り出せばいいのか悩んでいる様子だったので、緊張をほぐすためにと差し出すと、思いのほかすんなりと胡桃さんは受け取った。
「ちなみに間接キスだね」
「そうね」
「……!?」
「……なに驚いてるのよ」
気にした様子もなく、キャップを開けてペットボトルに口を付ける胡桃さん。
コクコクと飲み込み、ありがと、と言って返してきた。
「……胡桃さんから、照れが消えた?」
いつもなら間接キスなんて言うと顔を真っ赤にしていたというのに。
返していただいたペットボトルを眺めつつ呟くと、胡桃さんがゆったりとこちらに寄りかかってくる。こ、これもどうしたというのか。いつもより積極的だ。
しかし俺はクールな男。落ち着いて対処できるはずだ。
「く、くりゅ、くりゅみしゃんっ、どどど、どうしたの?」
ね?
「あんたこそ……き、貴一こそ、どうしたのよ」
「きっ──」
名前まで!?
以前一度呼んでくれたきり、全然呼んでくれなかったというのに!
状況に付いていけずおろおろしていると、胡桃さんがクスリと笑う。
「もう付き合い始めて半月以上よ? 間接キスだって気にしないし、名前も……うん。頑張ってみた感じ」
「き、気にしないって……でも夕食のときはあーんですごい恥ずかしがってたじゃないか!」
「……っ、あれは! ほ、他の人が見てたから……それに言ったでしょ?」
胡桃さんは言葉を区切ると、俺の目をまっすぐ見つめて続けた。
「二人きりの時なら、素直になれるって」
「~~っ」
「あっ、照れたぁ。私最近になってだんだんあんたのこと分かってきたけど、貴一ってば自分はぐいぐい押してくるくせに、自分がされるのは弱いわよね」
「そ、そんなことは」
「ん~?」
「ひょっ!?」
否定しようとすると、胡桃さんがさらに体重をかけて手を握ってくる。
すべすべとした手は冷え性気味なのかひんやりとしていて、暖房が効いて温かい当所において、とても気持ちがいい。
それは彼女も同じなようで……。
「手、すごい熱いね♡」
「愛の炎が燃え上がっているからね」
「そうなの? 気持ちいい」
ダメだ! まったく効いていない!
結局イケイケな胡桃さんが落ち着くまで、俺は翻弄されっぱなしになった。
一息ついたところで、さてどうしたものかと考える。
出来うることならこの弛緩した空気のまま胡桃さんに話してもらいたいものだけれど……あまり期待することは出来ないだろう。時間を掛ければ彼女は教えてくれるだろうが、長居していると教師陣に見つかる可能性も高くなる。
そうなってしまえば本末転倒だ。
なのでここは俺から尋ねることにした。
「……それで胡桃さん。何があったの?」
迂遠な問いに意味などない。
単刀直入に切り込むと、胡桃さんは一瞬肩を強張らせた。
しかし、ぎゅっと拳を握るとぽつぽつ話し始める。
「……お父さんがね、京都に居るの。それで明日の十一時、場所はこっちで指定していいから久しぶりに会えないかって」
それが先ほどの電話だったのだろうか。
別に会えばいいじゃないか、とは考えるまでもなく口に出来なかった。
何故なら、俺は胡桃さんが一人暮らしをしていることを知っているから。
そしてそれが家族と上手くいっていないからこその結果だということも。
だけど、具体的にどのような事情があったのかは当然ながら知らない。
俺が知っているのは、何かがあって、胡桃さんは一人で暮らすようになった。
ただそれだけなのだから。
「会いたくないの?」
「……そうね。会いたくない。きっと会わなくちゃいけないんだけど……でも、どんな顔をして会えばいいのか分からない。──いえ、どんな顔をして会いに来るのかが分からなくて、会いたくない」
初めて聞く、底冷えするような声。
俺が驚いたことに気付いたのか、胡桃さんは自嘲を浮かべた。
「ごめんね。こんな顔、見せたくなかったのに……」
「何があったか聞いてもいい?」
「……聞いてもらってもいいの?」
「胡桃さんのことで聞きたくないことなんて何一つないよ。それだけ俺は、古賀胡桃という女の子を愛しているからね」
「……ん」
胡桃さんはくすぐったそうに瞑目して首肯すると、ゆっくり昔のことを話し始めた。
ある日、モデルとしてスカウトされた。仕事をこなしていると自分でも驚くほどに成功した。するとある時から母親が、仕事の成功を自分のことのように、自分のこと以上に喜び始めた。
そこから何かがおかしくなり始めた。
順風満帆な仕事は、しかしあまりにも上手くいきすぎていて、怖くなって一度休もうと思っても母親のことを考えればそうもいかない。そうしてズレた歯車を回し続けた結果、古賀家は壊れてしまった。
父親が「一度距離を置いた方がいい」と口にして家を出て行き、胡桃さんも後を追うように家を出て、母親の元を離れ一人暮らしを始めた。
そして、それからはどちらとも連絡を取っていなかった、と。
「……それで、一年ぶりに電話をかけてきたのが、二日前」
二日前と言えば、修学旅行出発の前日だ。
「なるほど、それで元気がなかったんだね?」
「ん、まぁ、そんな感じ」
話を聞く限り、会いたくないと語る胡桃さんの気持ちが分かった気がした。
同時に、会ってきちんと話をしないと、この問題の根本的解決にはならないということも。
胡桃さんの様子を見るに、気まずいから会いたくないといったような、単純な問題ではないことはわかる。隣に座る胡桃さんは、どこか怯えているように見えた。
父親が怖いのか、それとも……。
「胡桃さんは、なにが怖いの?」
「……っ、わかるんだ」
「愛しているからね」
「もう。……でも、何だろ、今はまだ言葉に出来ない。ごめん」
「別に謝ることじゃないよ。胡桃さんはどうしたいの?」
「……会いたくない」
きゅっと、俺の浴衣の袖をつかむ胡桃さん。
だから一々行動がかわいいんだって。
俺は怯える彼女を安心させるようにその手を握りながら告げる。
「でも、胡桃さんは会わなくちゃいけないって、そう言ったよね?」
「……ん。……会わないと、たぶん何も解決しないってことは、分かってる」
でも、と彼女は不安に揺れる瞳で俺を真正面から捉えて、
「怖いよ」
と蚊の鳴くような声で絞り出した。
すっかり憔悴しきっている様子の胡桃さんだが、それも仕方がないだろう。
胡桃さんは中学生の時に俺を助けてくれたり、クラスの悪意が小倉に集中した際に、すべてを投げ出してでも助けたりと、普通の人なら怖くて出来ないことをできる人である。
しかしそれは誰かを助けるため、という理由があってこそ。
──そもそも古賀胡桃という少女は、自分のことに関してはめっぽう弱いのだ。
何せ、一度は飛び降りる直前まで追い詰められたほどなのだから。
むしろこうして誰かに相談してくれていることは大きな成長と言えるだろう。
ならば俺がしてあげられることなんて一つしかない。
それ即ち、胡桃さんの背中を押すことだ。
「逃げることも必要だ、なんて俺は言わないよ」
「……っ」
「進んだ先の結果はわからないけれど、逃げた先の結果はわかるからね」
例えばそれは、先ほどの小倉と阿坂くんの一件。
彼もまた悩んでいた。許してもらえるかどうかわからないけど謝罪するか、それとも逃げるか。結果として彼は謝罪し、許してはもらえなかったけれど、それでもいい方向に進んだのは間違いない。だが逃げていれば……。
俯いて下唇を嚙みしめる胡桃さんに俺は続ける。
「怖いのはわかる。でもやらなきゃいけないなら、やるしかないんだ」
「……だけどっ」
胡桃さんの怯えはまだ拭えない。
否、拭うことなど無理なのかもしれない。
ならば発破をかけるしかない。
「胡桃さん。夕食の後のこと、覚えてる?」
「……えっと、調ちゃんのこと?」
「そう。あの時、阿坂くんは小倉に謝罪した。許してもらえるか分からないけど、それでも」
「で、でも、あれは、彼が悪くて……」
「そうだね。悪いから謝罪するのが道理。しないことが間違っているのは分かっていた。つまり、阿坂くんもまた逃げた結果はわかっていたから、謝罪したんだ。まぁ、結果はあまり芳しくはなかったけど、それでも以前よりはいい方向に進んだと俺は思ったよ。……胡桃さんはどう思った?」
「……私もそう思った。けど……」
「俺は思うんだ。……どれだけ怖くても、しなきゃいけないことはある、って」
やるしかないから、やる。
結局のところ、それだけなのだ。
「……」
俺の言葉を受け、胡桃さんは俯き黙り込む。
十秒、二十秒と経過して、緊張からか背中に嫌な汗をかき出した頃──彼女は顔を上げた。
その瞳はまだ不安に染まっていたけれど、胡桃さんはゆっくりと声を絞り出す。
「あ、会いに行く前……一回抱きしめて。……そ、それで、頑張るから」
口をきゅっと横に結び、俺の手を握る胡桃さん。
返す言葉は決まっていた。
「一回だけじゃなくて何回でも抱きしめるよ」
「……ううん、一回だけで大丈夫」
「いやいや、遠慮しなくても」
「遠慮とかそういうのじゃなくて」
「……」
「……」
「……えい」
ぎゅっと抱きしめる。
「なんで今!?」
「胡桃さんに勇気を送り込んでいるんだ」
「下心しか感じないんだけど!?」
「そんなことはない! 愛情も感じるはずだ!」
「やっぱり勇気はないじゃない! もー!」
ぷんぷんと可愛らしく『私、怒ってます』みたいな表情を見せる胡桃さん。
文句を口にしつつも、しかし離れようとするどころか大人しく収まっているあたり、嫌なわけではないのだろう。
「がんばって、胡桃さん」
「……むしろ、最初からその一言だけでよかったのに」
案外、俺が思っている以上に胡桃さんの心は強くなっているのかもしれない。
「さて、たっぷりイチャイチャしたことだし、そろそろ部屋に戻ろうか」
先生に見つかる前に早く帰らねば。
ソファーから立ち上がって胡桃さんを見やると、彼女は両手で顔を隠しながらぼそぼそと何事かを呟いていた。
「……もう、私はなんであんな……はぁ、確かに二人きりだったけど、修学旅行先のホテルよ? あぁ、もう。ほんと、疲れがたまってるから……?」
どうやらいまさらながらに羞恥が顔を出したらしい。
相も変わらず可愛いなとほっこりしていると、
「……あ~? お前らこんな時間に何やってんだぁ?」
どこか間延びした、そして聞きたくない声が聞こえてきた。
振り返った先に居たのは見慣れた担任教師の姿。
「あー、こんばんは、物部先生」
「おう、さっきぶりだな……じゃなくて、生徒は部屋にいる時間のはずなんだがなぁ?」
暗にどういうことかと尋ねてくる彼に、俺は躊躇なく答えた。
「逢引きってやつですよ」
「ち、違うけど!?」
「さっきまでそれはもう二人だけの空間を形成してイチャイチャしてました」
「はぁ……いつものやつか。ほどほどにしろよ、お前ら」
「私も!?」
呆れたようにため息をつく物部先生に、胡桃さんは嘆く。
そんな照れなくてもいいのに。
「ったく、ほんとこれだからバカップルは! 俺だって可愛い彼女と旅行に行きてぇよ!」
「せ、先生……?」
愚痴るように語る彼は平素とは様子が異なって見えた。
いつもあけっぴろげではあるが、さすがにここまでぶっちゃけたりしない。
彼は生徒に対しても比較的フランクな対応をするが、それでも生徒と教師の線引きはきちんと考えているタイプの人間だ。
どうしたのか……って酒くさ!
胡桃さんも気付いたのか鼻を押さえつつ、物部先生に尋ねていた。
「先生、酔ってます?」
「まぁ、強かにな。っと、そうだ。足りなくなったから買いに来たんだった」
ふう、と大きく息を吐いて物部先生は売店の方へ。
何とはなしに付いていくと、彼は京都の地ビールを三缶も購入していた。おい教師。
「そんなに飲んで大丈夫なんですか?」
胡桃さんが再度尋ねると、物部先生は購入したビールを大事そうに抱えながら答える。
「まぁ、大丈夫だ。学年主任にばれると怒られるだろうが……あの人もビール好きだし、いざとなればよいしょしながら奢れば許してくれるだろ」
大人の酒への愛情を垣間見た瞬間だった。
その答えを受け、胡桃さんは顎に手をやり彼の抱えるビールに視線をやる。
物部先生も気付いたのか、抱え直しながら告げた。
「未成年は飲むなよ」
「の、ののの、飲まないですよ! 飲んだこともないですよ! ただ、どんな味なのかなぁ、って。大人がそんなに好きになるほどおいしいんですか?」
その質問に、物部先生は手元のビールに視線を落としつつ、そうだなぁ、と口にする。
「確かに、美味いっていうのもある。旨い飯食って、美味い酒を飲む。そういう楽しみ方もある! ……だけど、俺は酒の良さは酔いにあると考えている」
「酔い?」
「そうだ。何しろ、酔っぱらうといろんなしがらみから解放されるからな。めんどくさいことを考えなくて済むし、悩んで眠れなくなることもない。まさに魔法の飲み物なんだよ」
飲み過ぎると翌朝が辛いけどな、と苦笑しながら付け足して、物部先生はエレベーターの方へと踵を返した。
「まっ、酒の味は二十歳になるまで我慢するんだな。酔っぱらうのは楽しいぞー。……それじゃ、他の先生方に見つかる前にさっさと部屋に戻れよ~」
物部先生はいつもより間延びした声で言い残し、どこか機嫌よく鼻歌を歌いながら背を向けて去っていった。知らない人が見れば、とてもではないが修学旅行の引率中の教員だとは思わないだろう。……それにしても。
(酔っぱらうのは楽しいぞ、か)
思い出すのは初めて胡桃さんの家にお邪魔した日のこと。
酒を口にこそしていないけれど、あの日俺たちはべろんべろんに酔ってしまった。
ちらっと胡桃さんを見ると、彼女も思い出していたのか顔を赤くしている。
「……確かに、楽しかったね」
「っ! ……そ、そう、だった?」
「えっ、覚えてないの!? 胡桃さんが俺のファーストキスを奪ったあの日のことを!」
「う、うるさい! 覚えてない! 全部忘れた!」
「それじゃあもう一度酔っぱらって思い出そうじゃないか! 大丈夫! 飲まなくても酔えることは実証済みだから!」
「し、しない! 絶対しないからっ!」
「どうしてだ! 今はあの時とは関係性も違うし、少し酔いが回ったところで二人仲良く大人の階段を昇ろうじゃないか!」
「……っ」
告げると彼女は押し黙って気まずそうに視線を逸らした。
たまにそうするけど、一体どういう意味なのだろうか。
そろそろ聞いてみようかな、と思ったところで──足音。
まさか別の先生が来たのではと一瞬焦ったが、そこに居たのは小倉だった。
「胡桃ちゃん? 電話長いけど何か──って、なんで笠宮もいるの?」
「運命だな」
「偶然よ」
小倉は俺と胡桃さんを交互に見やり、やがて大きくため息を吐く。
「はぁ……。とにかく遅かったのは逢引きしてたってこと? 別に、付き合ってるし二人きりで会うのは何も言わないけど……でも、心配だからせめて遅くなるって連絡ぐらい欲しかったな」
どうやら小倉は、なかなか帰ってこない胡桃さんを心配して様子を見に来たらしい。
それはなんと言うか、申し訳ない気もしないでもない。
「ご、ごめんね調ちゃん!」
「……ん、別にいいけど」
「ほ、ほんとにごめん!」
拗ねる小倉に謝罪の言葉を口にする胡桃さん。
まぁ、これに関しては悪いのは胡桃さんなのだから仕方ない。
「……じゃあ、今日一緒に寝てくれたら許してあげる」
前言撤回。こいつは悪だ。
「ほんと? いいよそれくらい」
「胡桃さん!?」
「そ、それじゃあ早く部屋に戻ろ! うん、すぐに戻ろう!」
「え、あ、う、うんっ」
そうして胡桃さんの手を取ってエレベーターの方へと向かおうとする小倉。
俺は堪らず、そうはさせるかと小倉が握っているのとは逆の手を取ろうとして──、その前に胡桃さんは小倉に一声かけてから立ち止まる。
そのままこちらに駆け寄ってくると、胡桃さんは上目遣いに見つめて告げた。
「話、聞いてくれてありがと。おやすみ」
それだけ言って、胡桃さんは小倉と部屋に戻っていった。
個人的には仲良く二人で部屋に戻りたかったのだが……まぁ、行ってしまったものは仕方ない。スマホの画面を見るとすでに十一時を回っていた。
今日はテーマパークに行ったり卓球をしたりと忙しかったうえに、修学旅行はまだ一日残っている。
「俺も、寝に戻るかな」
一人ぼやいて部屋に戻ろうとして、ぐぅ、と腹が鳴った。
夕食が早い弊害だ。いや、卓球をしたからか?
兎にも角にもカロリー消費の多い一日だったことには間違いない。
俺はホテルに併設されていたコンビニに入っておにぎりを購入。
一人ゆっくり部屋に戻ると、電気が明々と点いた中で桐島くんや阿坂くんたちが雑魚寝同然の様相で爆睡しているのを発見した。辺りにはトランプが散らばっている。
そう言えば俺も参加していたのだが、途中で飲み物を買いに出たのだったか。
「仕方ないな」
途中で抜けた申し訳なさもあるので散らばったカードをケースに戻してから電気を消す。
寒くないように暖房の温度を確認し、空気が乾燥しないよう加湿器のスイッチも入れる。
「んぁ、戻ったのか?」
「ごめん、起こした?」
「いや、問題ない。……何か手伝うか?」
「寝てていいよ」
「うい~」
一瞬顔を起こした桐島くんだったが、数秒の後にこてんと眠りに落ちた。
彼もかなり疲れていたのだろう。
俺は部屋の奥にあるテーブルと椅子が置かれた謎スペースに赴き、買ってきたコンビニ飯を広げた。それにしても、ここなんていう名前なんだ?
調べると広縁と言うらしい。
「なーんか、落ち着くんだよなぁ」
なんて独り呟き、おにぎりを頰張る。具は鮭。
重くないチョイスである。
窓の外に視線を移すと、京都の街が一望できた。
と言っても、時間も時間なので綺麗というほど明かりはついていないが。
「……さて。明日どうなるか。だな」
お茶を飲み、おにぎりを食う。
何気なく見上げた夜空は、雲が星を覆い隠していた。