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 修学旅行も最終日を迎むかえる本日。

 これにて胡桃くるみさんとの楽しい旅行も最後かと思うと、やはり寂さびしいものである。また今度二人で遊びに行けばいいだけの話ではあるのだけれど、それはそれとして──。

(なんだかんだで、『修学旅行』として楽しかったからな)

 桐きり島しまくんや小お倉ぐら、それにルームメイトになった普ふ段だん話さないクラスメイトなど。

 胡桃くるみさんとの思い出以外にも、個人的に楽しい旅行だった。

 兎とにも角かくにも、今日も今日とてより良い思い出を作れたらと切に願うのだが、そうも言っていられないのが現状なわけで……。

 寝ね起おきの気分は若じやつ干かんブルー。

 テレビでは昨日も見た女子アナが最低気温の更こう新しんをお伝えしているし、本日の天気は昨夜見たものと同じく雲が空を覆おおい隠かくしていた。ここ二日間の快晴が懐なつかしい。

 けれど何より俺の心を曇くもらせているのは隣となりに座る胡桃くるみさんの表情だった。

 朝食も終えてホテルを出発し、最終日の目的地へと向かう電車の中。

 胡桃くるみさんは膝ひざに手を乗せて、ぼんやりと窓の外を眺ながめていた。

 表情は浮うかなくて、どこか緊きん張ちようしている様子。

 膝ひざの上の手も僅わずかに震ふるえており、それを隠かくすようにキュッと握にぎりこぶしを作っていた。

 昨日話していたことが原因であろうことは間ま違ちがいない。

(胡桃くるみさんは十一時って言ってたっけ)

 今から緊きん張ちようしていたら精神的に持たないだろう。

 それに、そればかりに気を取られて最終日を楽しめなければ目も当てられない。

「胡桃くるみさん、大だい丈じよ夫うぶ?」

「……っ、だ、大だい丈じよ夫うぶよ」

「それ、大だい丈じよ夫うぶじゃない時の声じゃん」

「ぐっ……」

 図星を突つかれたように声を漏もらした彼女は気まずそうに視線を逸そらした。

「抱だきしめようか?」

「いまっ!?」

「胡桃くるみさんが困っているのなら、いつ、どこで、どんな時でも抱だきしめて勇気をあげるよ」

「恥はずかしいからやめて」

「抱だきしめられることは嫌いやじゃないんだね」

 言うと、胡桃くるみさんは不満そうに頰ほおを膨ふくらませながら上うわ目め遣づかいに見つめてきた。

「……嫌いやなわけないでしょ。ばか」

 不ふ貞て腐くされたように吐はき捨すて、俺の肩かたに頭を乗せる胡桃くるみさん。

「よし、そうと決まれば早さつ速そく──」

「ばっ、こらっ! 時と場所はわきまえてってば!」

「そうだった。こういうのは二人きりの時に、だったね」

「そ、それは、そうだけど……そうなんだけど……っ」

 何かを言いたそうにわなわなと肩かたを震ふるわせる胡桃くるみさんだったが、やがてあきらめたように大きくため息をついた。

「はぁ。もう……励はげますにしても、もっと他にないわけ?」

「何のことかな?」

「それくらいわかるわよ、ばか」

 とぼけてみたけれど魂こん胆たんは見み透すかされていた模様。

「通じ合ってるって感じでドキドキするね」

「はいはい」

 軽く流してみせる胡桃くるみさん。

 表情こそ平素の涼すずしげなものに戻もどっていたけれど、その手はまだ震ふるえていた。

「仕方ない。抱だきしめられないなら、今はこれで」

 そう言って、俺は胡桃くるみさんの手を握にぎった。

 冷たくて小さく震ふるえる手を、まるで壊こわれ物ものを扱あつかうように優やさしく。

 一いつ瞬しゆん強こわ張ばったけれど、胡桃くるみさんも握にぎり返かえしてくれた。

 恋こい人びと繫つなぎではないものの、確かに握にぎられた手。

「……ありがと」

 耳元で小さく囁ささやかれた声はまだ不安の色が残っているようだったが、それでも最初よりは幾いく分ぶんか安心しているようにも聞こえた。

 この調子で、最終日を楽しんでくれるといいのだが──。


☆


「ね、ねぇ! 早く行きましょ!」

「胡桃くるみさんとならどこへでも! 人生という道を共に歩いていこう!」

「じゃあ、まずは……ここ! 竹ちく林りんの小こ径みちから!」

 そう言って観光マップを手にして道順を確かめる胡桃くるみさん。

 そこには先ほどまでの不安の色は一いつ切さい存在しなかった。

 理由は単純──訪おとずれた場所に興奮しているからだ。

 いったいどれくらい興奮しているのかというと、

「古こ賀がのテンションの上あがり幅はばやべーな」

 いつも冷静で優やさしい桐きり島しまくんが、若じやつ干かん引くぐらいには興奮していた。

 だが、個人的にはそれも仕方のないことだと思う。

 何せ修学旅行最終日である本日訪おとずれたのは名所も名所。

 京都の有名どころがぎゅっと一堂に集まった地域──嵐あらし山やまなのだから。

 正直、俺もかなりワクワクしていた。

 何しろ嵐あらし山やまは様々なアニメの聖地になっているからね。オタクとしては外せない。

 有名どころだと胡桃くるみさんも言っていたけれど竹ちく林りんの小こ径みちや、あとは渡と月げつ橋きようなど。

 これに加えて他にもあるというのだから興奮しない方がおかしい。

 つまり桐きり島しまくんがおかしいと言える。……それは言い過ぎか。

 何はともあれ、

「は、早く行きましょ!」

 胡桃くるみさんが楽しんでくれているのなら、それ以上に望むことなど何もない。


☆


 まず初めに竹ちく林りんの小こ径みちに赴おもむき、次いで天てん龍りゆう寺じの中を観光。

 どちらも有名観光地というだけあって、かなり見応えがある。

 胡桃くるみさんなど写真を撮とる手が止まらない止まらない。

 それを撮とる俺の手も止まらない止まらない。

 一息入れて近くのベンチに腰こし掛かけながら撮さつ影えいした写真の整理(消すのではなく胡桃くるみさんか胡桃くるみさん以外かをアルバムに分類)していると、横から小お倉ぐらが覗のぞき込こんできた。

「ねぇ、それ私にも貰もらえない?」

 因ちなみに胡桃くるみさんと桐きり島しまくんはお手洗いに行っていて今は居ない。

 以前までの俺なら迷う間もなく即そく断っていたところだが──。

「……わかったよ」

 逡しゆん巡じゆんした後、俺は首しゆ肯こうを返した。

 すると小お倉ぐらがキョトンと目を丸くさせる。

「意外。絶対断られるかと思ってた」

「ならやらん」

「う、噓うそだってば!」

 慌あわてて弁明する小お倉ぐら。

 正直、俺だって意外である。以前の自分にこのことを教えても絶対に信じなかっただろう。

 ならどうして認めたのかと問われれば、この二日間──否、小お倉ぐらが逃にげ出だしたあの屋上の一件以降の彼女の様子と、それに対する胡桃くるみさんの対応を見て、としか言いようがない。

 小お倉ぐらが胡桃くるみさんに対して友愛以上の想おもいを抱いだいていることは危き惧ぐすべき事じ項こうではあるものの、それを抜ぬきにすれば、俺が小お倉ぐらを忌いみ嫌きらい続けることは二人にとって良くない方向へ進むのではないかと判断した。

 特に、昨夜の小お倉ぐらと阿あ坂さかくんの一件での発言を聞いていてそう思う。

(……それに元々これは胡桃くるみさんと小お倉ぐらの問題だしな)

 そろそろ俺も溜りゆう飲いんを下げる頃ころ合あいなのだろう。

「ならコーヒーを奢おごってくれ。ただでやるのは気に食わん」

「まぁ、それくらいならいいけど」

 不服そうにつぶやいて近くの自じ販はん機きでホットな缶かんコーヒーを買ってくる小お倉ぐら。

 いや、今というわけではなかったのだが……。

 しかし買ってきてもらったものは仕方ない。

 コーヒーを受け取るとスマホを取り出す。

 メッセージアプリを通じて小お倉ぐらに写真を送ろうとして──その前に彼女は画面にQRコードを表示させた。

「……あ?」

「なんで一々高圧的なのよ。……友達。登録してなかったでしょ」

「そう言えばそうか」

 表示されたQRコードを読み取ると、小お倉ぐらのLINEアカウントが表示される。

 てっきり自意識高めの自じ撮どり写真をプロフィール画像にしていると思ったのだが、そこに映っていたのはおそらく小学校に入る前か入った直後くらいであろう小お倉ぐらの写真。

 なるほど、こういう系か。

 だからどうだというわけではないが。

「まさか、お前の連れん絡らく先さきを登録する日が来るとはな」

「私もびっくり」

 適当に言い合いつつ、俺は小お倉ぐらの連れん絡らく先さきを登録。

 友達の欄らんに小お倉ぐらの名前が追加された。


☆


 それは土産みやげ物もの屋やや食べ歩きの店を散策しつつ、嵐あらし山やまのメインと言っても過言ではない渡と月げつ橋きようを渡わたり、一通り写真を撮とり終おえた時だった。

「……あ、あのっ!」

 僅わずかに言葉に詰つまりつつもそう切り出したのは、俺の愛する少女──胡桃くるみさんである。

 寒風に髪かみがたなびくのを手で押さえつつ、真しん剣けんな表情で桐きり島しまくんと小お倉ぐらを見つめていた。

(そうか、そろそろか)

 ちらりとスマホで時間を確かく認にんすると、現在時刻は十時四十九分。

 十一時の待ち合わせ時刻まであと少しだった。

 場所がどこかまでは聞いていないが、今切り出したということはここからそう遠くないのだろう。

 先ほどまでテンション高く観光を楽しんでいた胡桃くるみさんの変へん貌ぼうに、事情を知らない二人は驚おどろきと困こん惑わくがない混ぜになった表情で小首を傾かしげる。

 胡桃くるみさんは一度大きく息を吸うと、嚙かまないようにゆっくりと告げた。

「実は、この後少し用事があって……それで、少し抜ぬけてもいいかな?」

「用事? 何か買いたいものがあるなら付き合うよ?」

「俺も付き合うが……」

 小お倉ぐらと桐きり島しまくんの言葉に、胡桃くるみさんは首を横に振ふる。

「そうじゃなくて、えっと……」

 きっとこの二人なら用事の内容を教えても問題はない。

 それは胡桃くるみさんも分かっているだろう。

 だけど、分かっていても伝えるのをためらう事こと柄がらというのは存在するのだ。

 相手に関係のないことなどは、特に。

 胡桃くるみさんは何度か口をぱくぱくさせた後、伏ふし目めがちに口を開く。

「その、ごめんなさい。今は……言えないんだけど……でも、その、大事な用事で……だ、だから、少しの間、抜ぬけさせて貰もらえないかな……?」

 胡桃くるみさんの声は段々小さくなっていく。

 修学旅行中、それも班行動中に自分の我わが儘ままで輪を乱すことに負い目を感じているのだろう。

 小お倉ぐらと桐きり島しまくんはその様子にお互たがいに顔を見合わせて、こちらに視線をよこしてきた。

 それは『お前は把は握あくしているんだよな?』と確かく認にんするような視線。

 目は口ほどになんとやらとはよく言ったものだ。

 言葉になっていないはずなのに、二人が何を言いたいのかが分かる。

 俺が首しゆ肯こうを返すと、彼と彼女は僅わずかに苦く笑しようを浮うかべてから、再度胡桃くるみさんに向き直った。

「……正直なところ何があるのかは分からん。が、まぁ俺たちのことは気にするな。仮に何かあってもお前の彼かれ氏しが何とかしてくれるさ」

「桐きり島しまくん……ありがとう」

 桐きり島しまくんの言葉を受けて、胡桃くるみさんが顔を上げる。

 次いで、間かん髪はつ容いれずに小お倉ぐらも口を開いた。

「私も大だい丈じよ夫うぶだよ。それに言えないなら無理にも聞かない。……でも」

 小お倉ぐらは胡桃くるみさんに優やさしく笑いかけて、続けた。

「私は……私も胡桃くるみちゃんの味方だから。何かあったら頼たよってね」

「調しらべちゃんっ……」

 二人の言葉に胡桃くるみさんは下した唇くちびるをキュッと嚙かみしめると、再度頭を下げた。

「ごめんなさい。それと……ありがとう」

 顔を上げた時、そこに先ほどまでの不安の色は残っていなかった。

 しかし胡桃くるみさんはじっとこちらを見つめて、まっすぐ近付いてきて──え、どうしたの?

 困こん惑わくしていると──ぽすんと胸に顔をうずめてきた。

 つむじが可か愛わいいな、ってそうじゃない。

 いい匂においがする、ってそうでもない。

「……んー!」

 あまりの可か愛わいさに脳がショートを起こしていると、胡桃くるみさんは駄だ々だっ子このように体重をかけてきた。……ちょっと可か愛わいすぎないですか?

 どうしてこう胡桃くるみさんは一挙手一投足が可か愛わいいのだろう。

 是ぜ非ひとも一生隣となりでその謎なぞを追い求めていきたい所存である。

「……もうっ、早くしてよ」

 胸中で結けつ婚こんの決意を新たにしていると、むくれた胡桃くるみさんがジト目を向けてきた。

「ごめんごめん、胡桃くるみさんが可か愛わいすぎて。誓ちかいのキスをすればいいんだっけ?」

「……」

 鋭するどい視線が飛んできた。これは反省しないとね、と思っていると。

「そ、それはまた今度……いまは、……んっ」

 両手を軽く広げる胡桃くるみさん。

 個人的には今の発言をもう少し掘ほりたいところではあるが、一秒前に反省したばかり。

 俺はたぎる思いをぐっと堪こらえ、胡桃くるみさんを真正面から抱だきしめた。

 すると応えるように胡桃くるみさんも背中に手を回してくる。

「頑がん張ばるから、私」

「うん。頑がん張ばれ、胡桃くるみさん」

 耳元で囁ささやき合あって、もう一度少し強めに抱だきしめる。

「んっ、もう……」

「……」

「……ちょっ、ちょっと。もう大だい丈じよ夫うぶ──ねぇ下心! 下心出てるわよっ!? ばかっ!」

「あぁ……」

 ガバッと勢いよく引ひき剝はがされてしまった。

 名残なごり惜おしいけれど、そろそろ時間も差さし迫せまっている。

 胡桃くるみさんは一度時計をちらりと見た後、もう一度だけ俺を見て告げた。

「行ってくるね」

「行ってらっしゃい」

 これ新しん婚こん夫ふう婦ふみたいで嬉うれしいねと思ったけれど、さすがに口に出すのは自重した。

「で、なんでそんな顔してんだよ」

 遠のいていく胡桃くるみさんの背中を目で追っていると、ふと桐きり島しまくんが呆あきれた様子で声をかけてきた。

「そうそう。あんなにいちゃついて……はぁ、ほんといちゃつき過ぎ。私も抱だきしめながら言えばよかった」

「この変態雌めす猫ねこが」

「あんたに言われたくはないんだけど」

 不満げな視線を向けてくる小お倉ぐらに軽口を返しつつ、しかしそれでも視線は胡桃くるみさんを追っていた。すでに人混みに紛まぎれており、一いつ瞬しゆんでも視線を外せば見失ってしまうだろう。

(……大だい丈じよ夫うぶだろうか)

 遠い背中を見つめて思う。

 別に胡桃くるみさんを信じていないというわけではないのだが、そんな不安が腹の底から顔を出す。

 俺に出来る限りのことはした。小お倉ぐらも桐きり島しまくんも胡桃くるみさんの背中を押していた。

 だから大だい丈じよ夫うぶ。

 そう思いたいのに脳のう裏りに過よぎるのは昨夜──胡桃くるみさんが電話している時の様子だった。

 俺に相談している時とは異なる、父親と二人で話している時の胡桃くるみさんの姿。

 何も言えず、頷うなずき、返事をする。

 そんな胡桃くるみさんらしくない、胡桃くるみさんの姿。

「……そんなに心配なら、付いていってやれよ」

「……っ」

 桐きり島しまくんに言われて、無意識に表情に出ていたことに気付いた。

 慌あわてて取とり繕つくろうと、今度は小お倉ぐらがぶっきらぼうに吐はき捨すてる。

「それに、ナンパされるといけないからね」

「……」

「なに?」

「いや……何でもない」

 背中を押されているのはすぐにわかった。

 ただ小お倉ぐらからも提案されたのは意外だったが。

 俺は二人の顔を一いち瞥べつしてから、胡桃くるみさんの向かった方向を見やる。

 すでに彼女の背中は見えなくなっていた。

 しかし一度ぐっとこぶしを握にぎり締しめると、俺はその見えない背中を追って歩き始める。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「「行ってらっしゃい」」

 二人に見送られて小走りに追いかける。

 空を覆おおう雲は色をより濃こくしていた。


2


 私、古こ賀が胡桃くるみは震ふるえる足を奮い立たせて待ち合わせ場所へと向かっていた。

 一歩踏ふみ出だすたびに先ほどのみんなの言葉を思い出す。

 むしろ思い出さないと進めなかった。

(大だい丈じよ夫うぶ。大だい丈じよ夫うぶの、はず)

 気を抜ぬけば戻もどりたくなるけれど、必死に前を向いて待ち合わせ場所へと歩いていく。

 先ほどまで楽しんで眺ながめていた景色は、しかし今はそんな余よ裕ゆうはない。

 渡と月げつ橋きようを渡わたり、交差点を曲がると、待ち合わせ場所が近づいてくる。

 そこは渡と月げつ橋きようの掛かかる桂かつら川がわ沿ぞい。普ふ段だんは雄ゆう大だいな山をバックに渡と月げつ橋きようの写真が撮とれるということで人が多い当所であるが、本日に限っては天気が悪くなってきたこともあってか人はまばらになっていた。しかし、そんな中に目的の人物が──居た。

 久しぶりに会うというのに、遠目でも一いつ瞬しゆんで気付いたのは親子だからだろう。

 スーツに厚手のコートを羽織った父が、そこには居た。

 あちらも気付いたようで、片手を挙げて私を呼ぶ。

「……」

 いよいよだ。

 生なま唾つばを飲み込みつつ私は近付いていって──そして、

「久しぶりだな、胡桃くるみ」

「……うん、久しぶり。お父さん」

 私は約一年ぶりに、父と再会した。


☆


 ……寒い。

 冷たい風が頰ほおを撫なでた。

 乱れた髪かみを摘つまんで耳にかけると、私は緩ゆるんでいたマフラーを巻き直して、深く息を吸い込む。乾かわいた空気が肺を冷やして、意識をはっきりさせる。

 出来うることなら、最初の電話の時のように、気付かぬうちに話し合いが終わってくれればいいのにと思ったけれど、どうやらそれは無理なようだ。

 冷たい指先に息を吐はきかけると、白い息が中空へと昇のぼって消えた。

 ぼんやりと見上げた空は分厚い雲が覆おおっていて、今にも一雨来そうな様子。

 周りから人はどんどん減っていき、川を流れる水の音がいやに耳につく。

 その静せい寂じやくを打ち破ったのは父だった。

「わざわざ抜ぬけさせてすまなかった。ただどうしても直接会いたくて……時間を作ってくれてありがとう」

「う、ううん、別に……」

 言うと、父は優やさしい──家を出ていく前と何ら変わらない優やさしい笑えみを浮うかべた。

「そうか。……ところで、電話でも聞いたが学校の方は順調か? 生活の方も何も問題はないか? 何かあればいつでも相談していいんだぞ」

 その言葉に私の頭は真っ白になった。

 触ふれられたくない傷をぐりっと無ぶ遠えん慮りよに抉えぐられたような、嫌いやな気分。

「う、うん。……問題ないよ」

 だから、本当は問題しかないのに私は首しゆ肯こうを返した。

 ……いや、一いち概がいに噓うそとも言い切れないか。

 確かに虐いじめられて、追おい詰つめられて、その果てに屋上から飛び降りようとしたけれど、でもすべては過去のこと。もちろん『全部元通り、学校生活も何もかもが順調!』とは言えないけれど、それでも今の生活が充じゆう実じつしていることには変わりない。

 一人納なつ得とくしていると、不意に大きなため息が聞こえた。

「……あのな、確かに最近会っていなかったけど、これでもお前の父親なんだ。何かあったことぐらいはわかる。私生活か?」

「べ、別になにも──」

「学校か」

「……っ」

 言葉に詰つまった。

「相変わらず顔によく出るな。……大体、まだ仕事も休止したままだし、これで問題ないと言われて『はいそうですか』と引き下がるほど俺は愚おろかじゃない。胡桃くるみ……大だい丈じよ夫うぶか?」

「……」

「心配なんだ」

「…………」

 父の言葉に、私は堪たまらず俯うつむいて下した唇くちびるを嚙かみ締しめる。

(なら、ならどうして──心配してくれてたのなら、どうして一いつ切さい連れん絡らくをくれなかったの?)

 それはきっと、ずっと抱いだいていた不満だった。

 虐いじめを受けていて、クラスにまだ誰だれも味方が居なくて、仕事も休止して、何が楽しくて、何を楽しみに、どうやって生きていけばいいのかわからなくなった時、連れん絡らくを取り合っていたなら、もしかしたら相談できていたかもしれなかった。

 けど、私のスマホは鳴らなかった。

 インターホンも。家の電話も。何も。何も鳴らなかった。

 私は、助けて欲しかったのに。

「……胡桃くるみ」

 名前を呼ばれて顔を上げる。

 視線が合うと、父は穏おだやかな、落ち着きのある優やさしい声で告げた。

「こっちで、一いつ緒しよに暮らさないか?」

「……え?」

 その提案に、私の喉のどは乾かわいた声を出すのが精いっぱいだった。

 父は気付いた様子なく続ける。

「その、学校は転校になるが、そっちで問題があるなら構わないだろう? それにお前は頭も悪くないし、編入も問題ないだろう。仕事も今のまま復帰しないんだったら……どうだ? 一いつ緒しよに暮らさないか? 一いつ緒しよに住めば私生活の面でも支えられる。それにもうじき冬休みだろう? そこを狙ねらえば引ひっ越こしもやりやすいはずだ」

 矢や継つぎ早ばやに告げる父に、言葉を挟はさむ隙すきはない。

 まだ提案を受けているだけのはずなのに、すでに決まっているかのように話を続ける父。

 ──別に、忘れてなんていなかった。この人はこういう人間だ。

 何しろ、一家離り散さんの引き金を引いたのが目の前の男なのだから。

 じくじくと、傷口をえぐられているような嫌いやな気分が続く。

 そろそろ我が慢まんの限界だと、口を開こうとして──さらに続く父の言葉に、いよいよもって私の思考は停止した。

「そう言えば、母さんの方も最近は落ち着いているみたいなんだ」

 ……え?

 ──雨が降り始めた。


☆


「……」

「何度か会ったんだが、あいつもあの時のことは後こう悔かいしているみたいでな。今度三人で集まってもう一度話し合えないだろうか? それから一いつ緒しよに──」

 すでに父の言葉は右から左へ、認にん識しきすることを──理解することを脳が拒こばみ、流れていく。

 私は動どう悸きが激しくなるのを感じた。イヤな予感が脳を締しめ付つけ、喉のどが渇かわいて仕方がない。胸焼けより気持ち悪い感覚が胸中を襲おそい、吐はき気けすら感じる。

 理由は一つ。

(……どういう、こと?)

 いや、違ちがう。疑問じゃない。これは疑問じゃなくて、理解が出来ないだけ。

 目の前で笑えみすら浮うかべて話す父が、私には理解できなかった。

 だって、そうでしょ?

 父の言うことが正しいのならそれは、それはつまり、


 ──お母さんとは連れん絡らくを取り続けていたってことじゃないの?


 言葉の意味を咀そ嚼しやくし、飲み込んだ瞬しゆん間かん、息が詰つまった。

「っと、本格的に降り出したか。……胡桃くるみ?」

 降り出した雨が髪かみを濡ぬらす。冷たい。

 けど、私の胸中はそれどころじゃない。

 私には何の連れん絡らくもなくて、二日前の電話が離はなれ離ばなれになってから初めての連れん絡らくで、色々問題もあったけど、でも何とか乗のり越こえたし、何の連れん絡らくもくれなかったことは正直ショックだったけど、でもそういう人なんだって、そう……そう、決めつけて、軽けい蔑べつして終わりだと思ったのに。

「……なに、それ」

「胡桃くるみ?」

「心配って……」

 先ほど父が宣のたまった言葉に不快感すら覚える。

 確かに家族が離はなれる前、母は精神的に少し参っている様子だった。

 でも、心配して連れん絡らくして何度か会って、さらに最近落ち着いている、なんて会話までして。

 それで、私には?

「もう……いや」

 結局それって、私は心配されていなかったってことじゃないの?

「胡桃くるみ? どうかしたのか? とりあえず、どこか雨をしのげるところに移動を──」

 心配げに見つめてくる父に、歯を嚙かみしめ、思う。

 私が苦しんでる時、この人は何をしていたのだろう、と。

 私が家で一人ご飯を食べている時、この人は母とご飯を食べていたのだろうか。

 私が誰だれも居ない部屋にただいまって言っている時、この人は母と会っていたのだろうか。

 私が死ぬ前に飲もうってお酒を買っている時、この人は母と酒を飲んでいたのだろうか。

 それで、その果てで、私が助けて欲しい時に何もしてくれなかったこの人は、母と仲直りして、家族の間の問題を自分たちだけですべて解決した気になっていたのだろうか。

(……もう、ダメだ)

 もう私は、この人を父親として見られない。

 この父親に、なにも期待ができない。

「……いろいろ、あったよ」

「え?」

「問題なんかいろいろ、あった。たくさんあった。仕事はやめて、高校に行くようになって、でも教室には居場所がなくて」

「く、胡桃くるみ?」

 心配げな声をかけてくるが、無視して続ける。

「何回も何回も死にたいって思って、何回も何回も助けて欲しいって泣きながら布ふ団とんの中で丸まって、でも連れん絡らくなんかない。連れん絡らくを貰もらったと思ったら、お母さんと仲直りしたから一いつ緒しよに暮らさないかって、意味がわからない」

「死にたいってお前……なんで連れん絡らくしなかったんだ!」

「……できるわけないでしょ」

 連れん絡らくなんて、できない。できるわけがない。

 死にたいぐらい辛つらいのに、そんな勇気、出るわけない。


 ──自分を置いて出て行った人に、そんな相談ができるわけない。


 ぎりっ、と奥おく歯ばを嚙かみしめる。

「胡桃くるみ」

「……ほんと、なにこれ。なに? ……なんなの? なんで私ばっかりこんな……なんで全部解決したみたいな顔してるの? なんで私にはなにもないって思ってるの? なんでお母さんと仲良くしてるの? なんで、なんで──なんで、あの日出て行ったの?」

 尋たずねると、父は一いつ瞬しゆん言葉に詰つまった後、まっすぐ見つめて──答えた。

「あれが、最善だったからだ」

「……ぁ」

 その瞬しゆん間かん、最後の支えがぽきりと折れた音が聞こえた。

「……ふざけないでよ」

「ふざけていない」

「もう……もういいっ! もう何も聞きたくないっ!」

「胡桃くるみ! 話を聞け! 一体なにが──」

「うるさいっ! もうお父さんなんかっ──」

 カッ──と頭に血が上り、私は感情のままに吐はき捨すてようとして、

「胡桃くるみさん!」

 聞きなれた、私が世界で一番大好きな人の声が聞こえた。

 瞬しゆん間かん、吐はきかけていた言葉を飲み込む。

 驚おどろいて目を見開き、その声の方に視線を向けると、そこには予想通りの人物の姿。

 どこまでもまっすぐな瞳ひとみは私に向けられていて、彼は真しん剣けんな表情のまま告げた。

「それ以上は、言っちゃだめだよ」

 その言葉に、私の荒あらぶっていた感情は冷や水を浴びせられたように落ち着いていく。

 そうだ。

 私はここに喧けん嘩かをしに来たわけじゃない。

 問題を解決しに来たのだ。

「……貴き一いち」

 気付けば、彼の名前を呼んでいた。

 彼は応えるように、先ほどとは打って変わって優やさしい笑えみを浮うかべた。

 それだけで何を言いたいかが分かった。

 バカップルだから、なのかもしれない。

 見つめ返すと、小さく首しゆ肯こうする貴き一いち。

 視線だけで通じ合う。そんな関係性に、とくんと心臓が跳はねた。

 私はキュッと口を結んで気合を入れ直し、真正面から父を見み据すえる。

 いま私がやることは、溜ため込こんでいた鬱うつ憤ぷんを吐はき出だすことじゃない。

 ちゃんと、話し合うこと。

 情けないけど、そのために彼の力を借りさせてもらう。

 降り続いていた雨が、やんだ。


☆


 胡桃くるみさんのあとを追うのは簡単だった。

 何しろ俺にはラブラブセンサーがあるからな。

 見つけてからしばらく、盗ぬすみ聞ぎきということに罪悪感を覚えつつも胡桃くるみさんたちの会話を耳にしていたところ、話し合いは難航しているようだった。

 そしてさすがにこれ以上はダメだと判断し、こうして割り込ませていただいた次し第だいである。

「胡桃くるみさん、落ち着いた?」

「……ん、落ち着いた」

「それは良かった」

「……うん」

 返事をする胡桃くるみさんは確かに落ち着いているし、もう一度父親と向き合おうと決意を露あらわにしていたが、それとは別にポーっと熱い視線をこちらに向けていた。

「いやん、照れちゃうねぇ」

「ば、ばかっ、なに言ってるのよっ」

 見つめていたことに今いま更さらながら気付いたのか頰ほおを染めて顔を逸そらす胡桃くるみさん。

 是ぜ非ひともこのままお持ち帰りしたいところなのだが、その前に射い殺ころさんばかりの殺意の籠こもった視線をどうにかしなければならない。その主は言わずもがな、胡桃くるみさんの父親。

 彼は不快そうに眉み間けんにしわを寄せると、低い声で尋たずねてきた。

「お前は胡桃くるみのクラスメイトか何かか?」

「はい、一応」

 将来の約束をしている恋こい人びと同士ではあるが、クラスメイトであることにも変わりない。

 俺の返答を受けて彼は大きくため息をつくと、頭を抱かかえて告げた。

「これは家族の問題だ。部外者は口を挟はさまないでくれ」

「なら将来的に家族になるのでなんの問題もありませんね! 全力で挟はさませていただきます! お義と父うさん!」

「お、お義と父うさんっ!?」

 素すっ頓とん狂きような声を上げるお義と父うさんは、俺と胡桃くるみさんを交こう互ごに見つめて口をポカンと開けた。

 どうやら状じよう況きようが理解できずにショートしている模様。

 すると、すぐ隣となりからため息が聞こえた。

「……もう、なに言ってるのよ」

「本当のことでしょ?」

「……そ、そうだけど」

 もごもごと口ごもった胡桃くるみさんは誤ご魔ま化かすように話題を変えた。

「そ、それよりっ、どうしてここに居るの?」

「胡桃くるみさんの居るとこならどこへでも」

「……相変わらずバカなんだから」

 そうして言葉を交かわす胡桃くるみさんはすっかりいつも通りに戻もどっていた。

 しばらくイチャイチャしていると、ようやく状じよう況きようを理解したお義と父うさんが慌あわてたように声を荒あらげる。

「ふ、ふざけるな! 胡桃くるみはうちの大事な娘むすめだ! もし何かしたのなら絶対に許さんっ!」

 それは、俺が思わず一歩下がってしまいそうなほどの剣けん幕まくだった。

 胡桃くるみさんも初めて見たのか、目を丸くしている。

 しかし数回瞬まばたきすると、唇くちびるを尖とがらせながら呟つぶやいた。

「別に、そ、そこまで心配しなくても何もないわよ」

「胡桃くるみ……」

「何を言っているんだ胡桃くるみさん! 俺たちの間には愛という名の赤い糸があるじゃないか! いい機会だし是ぜ非ひともお義と父うさんにも認めてもらおう!」

「お前は何を言っているんだ!? 胡桃くるみ! こんなのがクラスメイトなど大変だったろうに! お前が原因かこのストーカーめ! 胡桃くるみ、やっぱりこっちで一いつ緒しよに暮らそう!」

「こ、こんなの!? ストーカー!?」

 さすがに酷ひどくない? 一応初対面なのだけど。

 助けて胡桃くるみさん、と視線を向ける。

「ヤバ宮みやくんはちょっと黙だまってて。はぁ……」

「ため息!?」

 扱あつかいちょっと雑くない? とか思わないでもないが、胡桃くるみさん相手なら雑に扱あつかわれようがご褒ほう美びである。変態じゃないよ、愛の力だよ。

 仕方がないので大人しくしていると、胡桃くるみさんは顎あごに手を当てて逡しゆん巡じゆん。

 お義と父うさんを真正面から見み据すえると言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。

「お父さん、私が思ってること正直に言うから聞いて」

「あ、あぁ」

 お義と父うさんが頷うなずくのを待ってから、胡桃くるみさんは続けた。

「まず、私は一いつ緒しよに暮らせない。その、まだ心の整理がついてなくて二人とは暮らしたくないっていうのもあるけど、それより今は絶対に転校したくないから」

「……こいつか?」

 だからこいつて。

 お義と父うさんの指し摘てきに、胡桃くるみさんの頰ほおが徐じよ々じよに赤くなる。

 耳まで真っ赤になると、熱で壊こわれたロボットのように首を縦に振ふった。

「……ま、まぁ、うん。その……あ、改めて紹しよう介かいすると、彼は笠かさ宮みや貴き一いちくん。一応、私の彼かれ氏しというか、恋こい人びとというか……大切な人」

「この頭のおかしい奴やつが?」

 さっきから失礼じゃない?

 胡桃くるみさんも何とか言ってよ!

「うん、頭おかしいし、変態だし、基本的にばかだよ」

「胡桃くるみさん!?」

 散々な言われようなんだが?

 内心でショックを受けていると胡桃くるみさんは「だけど」と繫つなぐ。

「それでも私が世界で一番大好きな人で……私のために一いつ生しよう懸けん命めいになってくれて、私も、その……この人のために一いつ生しよう懸けん命めいになりたいって思える人。……だから、お父さんと一いつ緒しよに暮らすとか、転校とか、彼と離はなれるのはいや。それに、最近は学校にも友達が出来て……すごく楽しいから」

「胡桃くるみ……」

 お義と父うさんはじっと胡桃くるみさんを見つめると、先ほどの胡桃くるみさんのように顎あごに手を当てて熟考を始める。そして数秒の後、再度口を開いた。

「一応聞くが、そいつがお前を助け──いや、これは野や暮ぼか」

 言いかけるも、最終的には目を閉じて首を振ふるお義と父うさん。

 どうしたのかと思っていると、胡桃くるみさんは俺の腕うでを取って抱だきしめ、お義と父うさんに向かって明るい笑えみを向けた。

「そ、この人が助けてくれたの!」

「……そうか」

 胡桃くるみさんの言葉を聞いてお義と父うさんは小さく頷うなずくと、それまで見せたことのない優やさしい笑えみを浮うかべた。

 その瞬しゆん間かん、二人の間にあったわだかまりが、確かになくなったのを感じた。

 安あん堵どの息をつくと、白くなって空へと昇のぼっていく。

 雲の切れ間から青空が見え始めていた。


☆


「胡桃くるみさん、これどうぞ。お義と父うさんも」

「ありがと」

「悪いな。……が、お前にお義と父うさんと呼ばれる筋合いはない」

 場所を移して濡ぬれてないベンチに腰こし掛かける二人に、俺は近くの自じ販はん機きでココアとコーヒーを購こう入にゆうして手て渡わたした。

「じゃあ俺は少し外すから」

「えっ」

「え?」

 わだかまりもなくなっただろうし、親子の会話の邪じや魔まになるだろうと席を外そうとしたのだが、胡桃くるみさんがキュッと服の裾すそを摑つかんできた。

 お義と父うさんを見ると、ため息をついて頭を搔かいた。

「ま、聞いてどうなる話でもないしな」

 そう前置きし、お義と父うさんは語り始めた。

「正直、言われるまでお前がどれだけ苦しんでいたかなど分かっていなかった。……俺は本当に、お前なら大だい丈じよ夫うぶだとそう思っていたんだ。何しろ中学生で立派に仕事をこなしてお金をもらっているんだからな。きっと俺は、お前のことを成人した大人として見ていたんだと思う」

 その話を胡桃くるみさんはココアの缶かんで手を温めながら聞き届ける。

 次にプルタブを開けて喉のどを潤うるおすと、質問を投げかけた。

「出て行ったのは、正解だったと思う?」

「あの時は、そう思ったよ。いや、ずっと正解だと思っていた。……あまり娘むすめやその彼かれ氏しに聞かせるのもあれなんだが、あの時は夫ふう婦ふ仲なかが良くなかったんだ。だから、『俺が』出て行きたかったというのも大きい」

 苦々しげに告げるお義と父うさんは決して詳しよう細さいを語りはしなかったが、よほど辛つらかったのだろうことは容易に想像できた。邪じや推すいかもしれないが、もしかするとDVに近いものを経験していたのかもしれない。

 胡桃くるみさんも似たことを考えたのか、苦々しげに表情を歪ゆがめる。

「そう……だったんだ。知らなかった」

「知らせなかったからな。お前が気にすることじゃない。……とにかく、そんなわけで別居をはじめてからは、何よりも不安定だった母さんのケアを優先した。胡桃くるみは大だい丈じよ夫うぶだから、こいつを先に落ち着かせないと、と。離り婚こんするつもりはなかったし、早くもう一度一いつ緒しよに暮らしたいとも考えていたからな。……それで胡桃くるみに連れん絡らくを入れるのが後回し後回しになって……そりゃあ、ダメだよな、俺」

 うなだれて頭を抱かかえるお義と父うさん。

「胡桃くるみを傷つけないために上う手まくやろう上う手まくやろうってしてきたつもりだったのに、俺が一番傷つけてた。最初から、空回りしてたんだ。俺は」

 ぼやくと、お義と父うさんはぐいっとコーヒーを飲み干して立ち上がる。

「昼、まだだよな。これ」

 そう言って彼は財さい布ふから三万ほど取り出して胡桃くるみさんに手て渡わたす。

「えっと……」

 困こん惑わくする胡桃くるみさんにお義と父うさんは財さい布ふをポケットにしまう。

「お前の修学旅行を邪じや魔ましてしまったお詫わびだ。他にも友達いるんだろ? これで美お味いしいものでも食べて、気を付けて帰りなさい」

「……ありがと」

 胡桃くるみさんの返事に笑えみを浮うかべると、お義と父うさんは背を向けて去っていった。

「いいお義と父うさんじゃん」

「余よ所そ行いきの顔よ」

 そう言いつつも胡桃くるみさんは遠ざかるお義と父うさんの背を見つめ──

「お父さんっ!」

 呼び止めた。

 半身だけで振ふり返かえる彼に、胡桃くるみさんは迷うことなく告げる。

「毎週土曜、電話するからっ」

 刹せつ那な、彼の顔が初めてくしゃっと歪ゆがんだ気がした。

 遠目でよくわからなかったが、お義と父うさんは胡桃くるみさんに右手を挙げて、もう一度背を向けようとして──踵きびすを返して戻もどってきた。その視線は俺を捉とらえており……え、えっ、なにっ!?

「おい、笠かさ宮みやとか言ったな」

「は、はいっ」

「言い忘れていたが、娘むすめを泣かせるようなことをしたら容よう赦しやしないからな」

 そんな脅おどしのような言葉に、俺は笑え顔がおでもって答える。

「もちろんです。胡桃くるみさんには一いつ生しよう涯がい笑え顔がおで過ごしてもらうつもりですので」

 聞き届けると、彼は不満げに鼻を鳴らして今度こそ去っていった。

 残されたのは俺と胡桃くるみさんだけ。

 自然とお互たがいに顔を見合わせて、笑った。

「じゃあそろそろ二人のところに戻もどろうか」

「そうね。お金も貰もらったし、いいもの奢おごってあげないとね」

 ちらりと時計を見ると、時刻は十一時三十六分。

 長く感じたけれど、たった三十分しか経たっていなかった。


3


 用事が終わった旨むねを桐きり島しまくんに連れん絡らくを入れると、どうやら別れた場所の近くで待っていてくれているらしかった。

 これ以上待たせるのも悪いので急いで戻もどろうと歩き出そうとして──。

「……っと」

 ふらっ、と胡桃くるみさんが体勢を崩くずした。

 手で支えつつ彼女の様子を見ると、足が震ふるえている。

「ご、ごめん。ちょっと、緊きん張ちようが解けたみたいで……」

「大だい丈じよ夫うぶ、支えるから」

「ありがと」

 そう言って手を繫つないで再度歩き出そうとすると、胡桃くるみさんは繫つないでいた手をもぞもぞと動かし、指と指を絡からめるように握にぎり直なおした。恋こい人びと繫つなぎだ。

 ちらりと表情を見やると、満足気に口こう端たんを持ち上げていた。

 あまりの可か愛わいさに内心悶もん絶ぜつしていると、胡桃くるみさんは思い出したかのように突とつ然ぜんスマホを取り出して、インカメを表示させる。

 どうしたのだろうか? と疑問に思っていると、胡桃くるみさんは上うわ目め遣づかいに提案してきた。

「ね、ねぇ、その……せっかくだし二人で、撮とらない?」

「……っ、もちろん喜んで!」

 そうして渡と月げつ橋きようをバックに二人で並ぶ。

 手を繫つないでいるためかなり近くてそれはもう興奮必至の距きよ離りであるが、シャッターを押す寸前、胡桃くるみさんはさらに一歩近付いて俺の腕うでを抱だきしめた。

「ひょっ!?」

 ──瞬しゆん間かん、シャッターが切られる。

 突とつ然ぜんのことに驚おどろいていると胡桃くるみさんはしたり顔でニヤリと笑い、俺の耳元で囁ささやいた。

「大好きだよ」

 こしょこしょと告げて、サッと身を引く胡桃くるみさん。

 いたずらが成功した子どものような笑えみを浮うかべる彼女に俺は……、

「俺も大好きだぁぁぁああああああぁああああっ!!」

 抑おさえきれなくなった愛を叫さけび、抱だきしめるのだった。

「ちょっ、声が……ひゃっ、あ、あわわっ」


☆


 二人の元に戻もどると、向こうもすぐに気付いたようで片手をあげて駆かけ寄よってきた。

「胡桃くるみちゃん、だ、大だい丈じよ夫うぶだった!?」

 まっすぐ胡桃くるみさんに近付いて心配の声を上げる小お倉ぐらに、胡桃くるみさんは笑えみを返す。

「うん、何とか無事解決した、かな。心配かけてごめんね」

「ううん、大だい丈じよ夫うぶだよ」

 手を繫つないで話に耽ふける二人を横目に、桐きり島しまくんが声をかけてくる。

「おかえり。……にしても、また助けたのか」

「別に、俺は特に何もしてないよ。ただ少し話しやすくしただけ」

「そうか……凄すごいよ、お前は」

「そんなことないよ」

 軽く言葉を交かわして、これからどうしようかと話していると、混むだろうからと早めの昼食をとることになった。

 どこにするか話し合おうとして、待ったがかかる。どうやら小お倉ぐらが待っている間に嵐あらし山やま近辺の飲食店を調べてくれていたらしく、「この辺りは少しお値段がねー」と苦く笑しようを浮うかべていた。

 すると胡桃くるみさんが懐ふところから財さい布ふを取り出した。

「そういうことなら任せて。実は──」

 今回抜ぬけ出だした事情を軽く説明し、お義と父うさんからお金を貰もらった旨むねを説明する胡桃くるみさん。

 小お倉ぐらも桐きり島しまくんも最初は「申し訳ないからいいよ」と遠えん慮りよしていたが、結局は胡桃くるみさんの説得の末、首を縦に振ふっていた。

 そうして俺たちが選んだ昼食は──

「これが湯ゆ豆どう腐ふ」

「本当に豆とう腐ふだな」

 俺の言葉に桐きり島しまくんが同意した。

 もっと他にないのかと思わないでもないが、語ご彙い力りよくがなくなるのも無理はない。

 何しろ目の前にあるのは昆こん布ぶだしと豆とう腐ふ、薬味にお吸い物と天ぷらという、とても高校生の修学旅行とは思えないほどの豪ごう勢せいな食事だったのだから。

「お、お豆とう腐ふ、入れていいんだよね?」

 胡桃くるみさんがおずおずと豆とう腐ふを投豆入乳……なんちゃって。

「豆とう腐ふを投豆入乳……ふへ」

 小お倉ぐらがぼそりと呟つぶやいた言葉に、内心で同じレベルなのかと戦せん慄りつした。

「で、これどれくらい茹ゆでるんだろ。そろそろいいかな?」

 しばらくして取り出そうとすると、ぺしっ、と小お倉ぐらに手を叩たたかれた。

「まだダメ。豆とう腐ふが躍おどり出だしてからって書いてある」

 そう言って食べ方の載のったネットの記事を片手に鍋なべ奉ぶ行ぎよう小お倉ぐらが再来した。

「踊おどり出だすの?」

「そうみたい」

 胡桃くるみさんの問いに小お倉ぐらは首しゆ肯こう。

「踊おどり出だすのか」

「うん」

 次いで桐きり島しまくんの言葉にも頷うなずく。

「豆とう腐ふが躍おどるわけ──」

「そう書いてあるから黙だまって見てなさいよ!」

「……なんで俺だけ怒ど鳴なるんだよ」

 愚ぐ痴ちりつつも鍋なべを見ていると……、

「「「「おぉ……」」」」

 踊おどり出だしたよ。ふわふわと。

 小お倉ぐらがそれぞれさらに取り分けてくれたので、感謝を述べつつ手を合わせる。

「「「「いただきます」」」」

 まずは醬しよ油うゆを垂らしてパクり。……美う味まいな。

 正直豆とう腐ふなんて味は変わらないだろうと高たかをくくっていたけれど、全然違ちがう。

 続く二口目、三口目と口に入れ、時には薬味を変えながら、俺たちは湯ゆ豆どう腐ふを堪たん能のうした。


☆


 湯ゆ豆どう腐ふを食べ終え、嵐あらし山やま観光に戻もどる。

 と言っても、すでに名所は大方回っているため土産みやげ物もの店てんを覗のぞく程度なのだが。

「まだ決まらないの? 霞かすみちゃんへのお土産みやげ」

「面めん目ぼくない」

 色々とアドバイスを貰もらって美容系やら和風っぽい簪かんざしやら、扇せん子すやらと見て回っているのだが、果たして喜んでもらえるのかと言われれば……うーん。

「これなんかどうだ?」

「どれ?」

 桐きり島しまくんが店先の木刀片手にどや顔していた。

 胡桃くるみさんもこれには苦く笑しようを浮うかべている。

「さすがにそれは……」

「……でも、霞かすみのやつたまに俺の見てるアニメ横から覗のぞいてくるしな。……意外と好きだったりするのか?」

「迷めい走そうし過ぎじゃない!?」

 もしかするとどこの土産みやげ物もの屋やにもある、龍りゆうの剣けんのキーホルダーが正解の可能性も……。

 考え込んでいると、軽いチョップが飛んできた。

「ど、どうしたの? 胡桃くるみさん」

 痛くも痒かゆくもないし、むしろイチャイチャの波動を感じてむず痒がゆいぐらいだが、ステレオタイプに攻こう撃げきを受けた箇か所しよをさすりつつお尋たずねすると、胡桃くるみさんはぴっと人差し指を立てた。

「私はあんまり難しく考えなくていいと思うわよ」

「そう……なのかな」

「そう。きっとあんたが貰もらって嬉うれしいものは、霞かすみちゃんも嬉うれしいはずよ」

 胡桃くるみさんは「だって」と続けて、微ほほ笑えんだ。

「あんたと霞かすみちゃんって、ほんとよく似た兄妹きようだいだと思うから」

「……そっか」

「そうよ、もう……」

 呆あきれたように息を吐はく胡桃くるみさん。

「よく見てくれているんだね。さすがは未来の姉し妹まい!」

「ち、ちがっ、そういうつもりで見てたわけじゃ……っ」

「違ちがうの?」

「ぐっ、そ、それは……まぁ、ちが、わない、かもしれないけど……」

 顔を真っ赤にして俯うつむいた胡桃くるみさんは、しかしすぐに顔を上げると一言。

「し、調しらべちゃんはなに買うか決まったっ!?」

 そう告げて、てててっと逃にげ出だしてしまった。残念である。

 それにしても『俺が嬉うれしいものは、霞かすみも嬉うれしい』か……。

 兄妹きようだいである前に異性であると判断して胡桃くるみさんや小お倉ぐらに相談したが、そうか。

 異性である前に、兄妹きようだいであることが正解なのかもしれない。

 俺は土産みやげ物もの屋やの中を物色し、いくつか購こう入にゆうしてから三人の元に合流。

 電車に乗り込んで、集合場所である京都駅へ。

 そうして新幹線に揺られ、俺たちは三日間お世話になった京都の街を後にした。


☆


 学校に到とう着ちやくするとその場で解散となる。

 桐きり島しまくんや小お倉ぐらは電車の方向が違ちがうため駅でお別れ。

 胡桃くるみさんと並んで電車に乗り込む。時刻は六時前。窓の外はもう暗い。

 帰宅ラッシュには少し早いのか、車内はそれほど込み合っていなかった。

「……終わっちゃったね」

「そうね……疲つかれた」

「確かに」

「でも、楽しかったわね」

「それも確かに」

 首しゆ肯こうすると、胡桃くるみさんは寂さびしそうな顔を見せる。

 そして指をもじもじと合わせながら、胡桃くるみさんは提案する。

「今度はその……個人的に二人で、ね?」

「新しん婚こん旅行?」

「……新しん婚こんになるまで我が慢まんできるの?」

 正直、その返しは予想できなかった。

「じゃあ、婚こん前ぜん旅行?」

「そうかもしれないわね」

 ちらちらこちらの様子を伺うかがいながら告げる胡桃くるみさん。

 それにしても、二人で旅行か。

「二人で旅行ってなったら、その……さすがに我が慢まんできないと思うんだけど」

「もう、すぐ下世話な話になる」

「だって実際そうでしょ? 年とし頃ごろの男女が旅行で一つ屋根の下、まさかトランプをするわけじゃないよね?」

「それは……そうかもしれないけど……」

 想像したのか僅わずかに頰ほおを朱しゆに染めて視線を逸そらす胡桃くるみさん。

 やがて彼女は逡しゆん巡じゆんしたのち、俺の指先を軽く摘つまみながら、小さな──すぐ隣となりの俺にも聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、ぼそりと囁ささやいた。

「……そろそろ、いいかもね」

「……っ! それって──」

「あ、あーっ! わ、私ここだからっ! そ、それじゃ!」

「え、ちょっと!」

 言葉の意味を聞き終える前に、胡桃くるみさんはカバンを抱かかえて電車を降りる。

 そしてゆっくり振ふり返かえると、小さく笑えみを浮うかべて、

「それじゃあ、また明日」

 と軽く手を振ふった。

 先ほどの発言は非常に気になるけれど、これでも修学旅行帰り。

 無理やり聞き出して、体調を崩くずす結果となっては申し訳ない。

 特に胡桃くるみさんはお義と父うさんのこともあって疲つかれているだろうし。

「わかった、じゃあまた明日学校で詳くわしく聞くよ」

「えっ!? まっ──」

 胡桃くるみさんが慌あわてたように手を伸のばしたが無情にも扉とびらは閉まり、電車が発車した。

 学校で聞くのは冗じよう談だんだけど、はぐらかされるつもりがないのは確かである。


☆


 最も寄より駅えきに到とう着ちやくして、歩きなれた道を見慣れた街を眺ながめながら歩く。

 旅行帰りの地元の景色はどうしてこう懐なつかしく感じるのだろう。

 安あん堵どにも似た不思議な感覚である。

 しばらく歩いて、家に到とう着ちやく。

 鍵かぎを開けて靴くつを脱ぬぐとリビングに顔を出した。

「ただいまー、あったけぇ」

 リビングは暖だん房ぼうがガンガンに効いていて思わず感かん嘆たんの声が漏もれる。

「おかえり、兄貴」

 その快適な空間の中、霞かすみはソファーに寝ね転ころびながらスマホを弄いじっていた。

 両親は仕事なのでまだ帰ってきていない。

「場所を空けーい」

「えー」

 ソファーに近付くと霞かすみは不満を露あらわにしつつも身体からだを起こし、俺が座れるスペースを作ってくれた。

 そんなリトルシスターの視線はすでにスマホからは外され俺が持ち帰ってきた荷物の方へ──より具体的には土産みやげ物もの屋やの紙かみ袋ぶくろに注がれていた。

「お、お土産みやげは?」

「もちろん、買ってきたぞ」

 俺は紙かみ袋ぶくろを手に取ると、中からいくつもの箱を取り出した。

 それは、別になんてことはないお菓か子しの箱。

 生なま八やツ橋はしや、宇う治じ抹まつ茶ちやをつかったチョコレートやクッキーのお菓か子しである。

「おぉー、ふつー」

「まぁ、奇きをてらうよりましだろ。それに──」

 言葉を区切って広げたお菓か子しのひとつを手に取り、続ける。

「試食して気に入ったものを買った。……不満か?」

「別に、もともと不満なんてないし。だけどまぁ……それなら安心かな」

 霞かすみは小袋を開けて中のお菓か子しを取り出すと、ニッと笑えみを浮うかべて、

「ありがと、兄貴。よくやった」

「おう。どういたしまして妹」

 彼女は満足げに頷うなずくと、お菓か子しをパクっと口に放り込んだ。

 その様子に、俺はほっと胸をなでおろす。

 さんざん悩なやんだし、もしかすればもっといいものもあったのかもしれない。

 だけど、こうして笑え顔がおでお礼を言われたのならミッションコンプリートだろう。

「因ちなみに父さんと母さんの分も一いつ緒しよだから一人で全部食べるなよ」

「えぇ!? それは不満! もっと買ってきてよバカ兄貴!」

 うがーっ、と怒おこった霞かすみを宥なだめつつ、俺も一つ食べる。

 うん、やっぱりうまい。

「コーヒー淹いれるけど飲むか?」

「飲む!」

 ──家に帰るまでが修学旅行。

 そんな修学旅行の終わりに、俺は妹とコーヒー片手に休きゆう憩けいすることにした。