1


 酷ひどい空腹と共に目が覚めた。

 昨日の晩ばん御ご飯はんが早すぎたんだよなぁ、なんて寝ね惚ぼけ眼まなこを擦こすりつつ大きく伸のび。

 部屋をぐるりと見まわすと、同室の男子は雑ざ魚こ寝ね部屋と勘かん違ちがいしたのではないかと思うほどに適当な位置で寝ね転ころがっていた。

 思い起こせば昨夜は何かと騒さわいでいた気がする。

 俺は胡桃くるみさんとの突とつ発ぱつ的てきキスでドキドキしていたので、話半分にしか聞いていなかったが。

 あくびを嚙かみ殺ころしながら洗面所へ行き顔を洗う。

 寝ねぐせを整えたところで桐きり島しまくんがやって来た。

「うっす」

「おはよう桐きり島しまくん。眠ねむそうだね」

「いつもは朝練があるから気にしないんだが、ないと思って寝ねるとダメだな。無限に寝ねれる」

 普ふ通つうはない日でも早起きしてしまうと後こう悔かいしそうなところだが、彼は逆らしい。

 歯を磨みがいてから洗面所を後にして、何気なく外を見ると本日もいい天気。

 太陽も燦さん々さんと輝かがやいていて……って、あれ? ちょっと明るすぎない?

 確か朝の六時半には朝食の会場に集合と予定表に書かれていた気がするが。

 プチっとテレビのスイッチを入れると朝のニュース番組が放送されていた。

 関西ローカルの見慣れないスタジオである。そして画面左上には時刻の表示。

「ふむ……」

「どうしたぁ?」

「いやぁ、その──」

『時刻は七時をお伝えします! 今日も元気に、いってらっしゃい!』

 にこやかな女子アナの笑え顔がおと共に、遅ち刻こくの事実が周知された。


☆


 朝食会場に到とう着ちやくすると同時に物もの部のべ先生からのお説教。

 遅ち刻こくするようじゃ、社会に出たらやっていけないぞ云うん々ぬん。

 いやぁ実に申し訳ないと謝罪を重ねると、さっさと食べてこいと呆あきれられた。

 会場での食事は基本的に自由な席に着いて問題ない。

 そうと決まれば胡桃くるみさんの隣となりを狙ねらうのは必然である。

 本当は昨夜の夕食の際も胡桃くるみさんと食べようと思ったのだが、彼女は同室と思われる女子と食べていたので、しぶしぶ俺は阿あ坂さかくんたちと食べたのだ。果たして本日は……と。

 会場を見み渡わたすと遅ち刻こくしてきたこともあってか、すでに食事を終えた生徒もそれなりに居たようで席はまばらに空いていた。それは胡桃くるみさんの隣となりも同様の様子。

「おはよう、胡桃くるみさん!」

「……おそい。待ってたのに」

 そう語る彼女の皿は半分を少し過ぎた頃ころ。

 すでに食事が始まって三十分以上も経たつだろうから、かなり待っていてくれたのだろう。

「ごめんね。胡桃くるみさんとの逢おう瀬せが非常に刺し激げき的てきだったもので、目がギンギンに冴さえてなかなか寝ね付つけなかったんだ。これってつまり胡桃くるみさんが寝ねかせてくれなかったと言いい換かえてもいいね!」

「ば、ばかじゃないの!?」

「男というのは好きな女の子の前では馬鹿になってしまう生き物なんだよ」

「あんたはいつもだと思うんだけど……」

「いつも見てくれているだなんて……っ! 嬉うれしいよ胡桃くるみさん!」

「ちょっ、ちょちょ! 昨日言ったこともう忘れたわけ!? もうっ!」

 ふんっ、と顔を逸そらしてベーコンを口に運ぶ胡桃くるみさん。

 因ちなみに朝食はバイキング形式。胡桃くるみさんは洋食中心のようだった。

 もぐもぐよく嚙かんで食べる胡桃くるみさんに相変わらず行ぎよ儀うぎがいいなぁ、と見み惚とれていると、彼女の横合いから低い声が掛かけられた。

「早く取ってきたら?」

「……わかってるよ」

 至し極ごく当たり前のことを告げたのは今朝もどこかローテンションの小お倉ぐらだった。

 やはり朝にめっぽう弱いのだろう。彼女の言う通りに行動するのは癪しやくだが、腹が減ったのも事実。早さつ速そく並んでいる料理の下へと向かおうとして──。

「あ、それと」

「なんだ?」

「……おはよ」

「…………お、おう」

 うーむ、やはり何だか調子が狂くるうが……まぁいいか。

 俺は大きく息をつくと、気を取り直して料理の下に向かった。

 とりあえずは胡桃くるみさんの食べていたベーコンを確保するとしよう。


☆


 食事を終えると、一度部屋に戻もどって本日の準備を行う。

 修学旅行二日目はそれぞれの班に分かれての自由行動だ。行く場所も各おの々おので決定することが出来るという、まさにクラスメイトとのプチ旅行である。

 浴衣ゆかたから制服に着き替がえを終え、桐きり島しまくんと共にロビーに下りる。

 玄げん関かん口ぐちにはすでに胡桃くるみさんと小お倉ぐらが待機していた。

 二人仲良く話す姿に、どことなく心が温かくなるのを感じた。

「お待たせ!」

「ううん、待ってないよ」

「十分は待たされた」

「小お倉ぐらは先に行ってくれてよかったのに」

「だからあたりが強いって。冗じよう談だんじゃん!」

「ははは、俺のも冗じよう談だんだ!」

 互たがいに棒読みで愚ぐ痴ちり合あう。

 すると桐きり島しまくんが手を叩たたいて注目を集めて告げた。

「そこまでにしろー。とにかく、時間も有限なことだし、さっさと行こうぜ」

「「「おぉ~!」」」

 そんな感じで修学旅行二日目の幕が上がった。


2


 ホテルを後にした俺たちが足を向けたのは駅。

 目的の路線を確かく認にんして電車に乗り込む。

 途と中ちゆう一度乗のり換かえを挟はさみつつ電車に揺ゆられること約一時間。

 見知らぬ景色が窓の外を流れていくのを見たり、本日の行き先について話したりしていると、すぐに目的地に到とう着ちやくした。

 胡桃くるみさんは目の前の光景を見て、

「……事前に決めてたからわかってはいたけど……修学旅行でここ?」

 と首をかしげて呟つぶやいた。

 確かに、修学旅行と言うにはいささか疑問が残る目的地である。

 何な故ぜなら、俺達が本日やって来たのは関東の某遊園地TDLと並び立つ、日本のもう一つの有名なテーマパーク──某遊園地USJだったのだから。

 わびさびの景色はどこへやら、昨日の京都とは似ても似つかぬ同所が本日の目的地であった。

「まぁまぁ、細かいことは気にしない方向で! 今日も楽しもうよ!」

「……そうね。でも、こういうところはあんまり来たことないからリードはお願いできる?」

 そう言って胡桃くるみさんはいたずらっ子のような笑えみを浮うかべて手を差し出した。文字通りリードして欲しい、ということなのだろう。

 なので俺は彼女の手をゆっくりと取って、

「もちろん。一いつ生しよう涯がい胡桃くるみさんをリードしていくつもりだよ!」

「遊園地だけでいいんだけど!?」

「またまた~照れちゃって!」

「て、照れてないけど!? あ、あと──」

 息を荒あらくして否定の言葉を紡つむいだ彼女は、しかし一度深呼吸して落ち着くと上うわ目め遣づかいに俺を見て。

「……や、やっぱりなんでもない。行くわよ」

「え、ちょ、ちょっと! すごい気になるんだけど!?」

 踵きびすを返して遊園地の入場ゲートへと向かう胡桃くるみさんの手を引いて尋たずねる。

 すると彼女は下した唇くちびるを嚙かみしめ逡しゆん巡じゆんし、意を決してこちらを振ふり向むくと、耳元に口を近付けて俺にだけ聞こえる程度の声量で囁ささやいた。

「……い、一いつ生しよう涯がいに関してはリードじゃなくて、支え合う方向で」

「……っ!?」

「わ、わかった!? そ、それじゃあ行くわよっ!」

 突とつ然ぜんの告白に茫ぼう然ぜんとしていると、胡桃くるみさんは逃にげるようにいそいそと入場ゲートへ足を向けた。一方の俺はすぐに軽いトリップ状態から抜け出せるわけもなく……ガシッと誰かに右みぎ肩かたを摑つかまれ、現実に引ひき戻もどされた。

 どちら様かなと視線を向けると、そこには渋しぶい顔の桐きり島しまくん。

「何を言ってたのかは知らんが朝からはやめてくれ。胸焼けする」

 いや、申し訳ない。

 胸中で謝罪していると、今度は左ひだり肩かたに小お倉ぐらが手を置いた。

「胡桃くるみちゃんが可か愛わいかったから、許す」

 何をだよ。つーか肩かた痛い。力入れ過ぎなんだよ。

 俺は一度大きく深呼吸して落ち着くと、胡桃くるみさんの後を追って入場ゲートへと向かった。


☆


 ゲートを潜くぐると園内は平日にも関わらず人でごった返していた。

 俺たちと同じような高校生から大学生、大人に小学生ぐらいの子供まで。大だい盛せい況きようだ。

 マップを広げて四人で話し合った結果、まずはコースター系から制せい覇はしていくことになった。

 と言っても、一日では到とう底てい回り切れないので、その都度取しゆ捨しや選せん択たくしていく必要はあるだろうが。

 なに、別に今日一日で回り切る必要はない。

 また胡桃くるみさんと二人で……いや、四人で来ればいいだけの話だ。

「また、来たいね」

「今着いたばかりなんだけど!?」

 まったくである。

 なんで終わりの雰ふん囲い気きを出してるんだ俺は。

 とにかく俺たちは一番近いコースター系のアトラクションに向かった。

 到とう着ちやくしたのはドーム型の建物の中をジェットコースターが走るアトラクション。

 混んではいるが一番人気や二番人気に比べるとそこまでではない。

 待ち時間も、胡桃くるみさんたちと話しているとすぐに過ぎ去っていった。こういうところ、遊園地はぼっちお断りだよなってつくづく思う。きっと暇ひまで仕方がないだろう。

 しばらくして俺たちの番が回ってくると、係員に案内されてコースターに乗車。

 お隣となりには少し緊きん張ちようした面おも持もちの胡桃くるみさんが座った。

「緊きん張ちようしてる?」

「ま、まぁ。遊園地に来るの子供の頃ころ以来だし、その頃ころは身長的な問題でこういうのはまだ乗れなかったから」

 口をキュッと結ぶ胡桃くるみさん。

 実質初めてということらしい。

「じゃあ初体験ってわけだねっ!」

「確かにそうだけど、言い方!」

「大だい丈じよ夫うぶ! 実は俺も初めてだけど、二人一いつ緒しよなら怖こわくないよ! 仲良く一皮むけようね!」

「だから言い方!」

 顔を赤くして吠ほえる胡桃くるみさん。

 そうこうしているうちに安全バーが下りてくる。

 もう間もなく出発だ。

「も、もう……昨日も言ったけど、そういうのは二人きりの時に──っ」

「胡桃くるみさん」

 若じやつ干かん震ふるえていた彼女の手を握にぎり、名前を呼ぶ。

 驚おどろいてこちらを見る胡桃くるみさんに俺は笑いかけた。

 すると彼女は小さく嘆たん息そくして、ぎゅっと握にぎり返かえしてくれる。

「もう」

 そんな風に呟つぶやく彼女は、すっかり安心したように笑えみをこぼしていた。

『では、出発します! 行ってらっしゃい!』

 係員の声と同時にコースターは出発した。


☆


「も、もう一回! もう一回乗らない!?」

 アトラクションの出口から出てくるなり鼻息荒あらく告げた胡桃くるみさんは、まるで子供のようにテンションが高かった。昨日も昨日で京都の街並みに興奮していた様子だったが、それとはまた違ちがった興奮の仕方である。

「ま、まぁまぁ胡桃くるみちゃん。アトラクションは他にもあるから、ね?」

「あっ、そ、そう、だね……」

 小お倉ぐらがジェットコースターでぼさぼさになった胡桃くるみさんの髪かみを整えながら告げると、胡桃くるみさんは僅わずかに落ち込んだ様子で首しゆ肯こうした。まるで楽しみにしていた遠足が雨で中止になった小学生のようである。可か哀わい想そうかわいいというやつだろうか。庇ひ護ご欲よくがビシバシと刺し激げきされる。

 そんな姿に、小お倉ぐらは俺と桐きり島しまくんを振ふり返かえると、潑はつ剌らつとした声で告げた。

「もう一度乗ろっか!」

「大賛成だ」

「……お前ら古こ賀がに甘すぎないか!?」

 呆あきれたようなため息をつきつつも、しっかり付き合ってくれるあたり桐きり島しまくんもたいがい甘い性格をしていると思う。

 そんな感じでもう一周を終えると今度こそ別のアトラクションへと移動。

 コースター系を攻せめるとは言ったが、それだけに決めているわけではなく、途と中ちゆう面おも白しろそうだと思ったところに片かたっ端ぱしから並んでいく。

「ね、ねぇ! 次はアレにしない?」

 そう言って袖そでをクイクイと引っ張ってアトラクションの入口に向かう胡桃くるみさんに、俺の口角は上がりっぱなし。ただ気分的には恋こい人びとと言うより娘むすめとお父さんって感じ。

「ん~? もう仕方ないにゃあ!」

「え、気持ち悪いんだけど」

「いきなり辛しん辣らつ過ぎない!? ……まさかこれが反はん抗こう期き? 反はん抗こう期きの娘むすめってこんな感じなのか?」

 息むす子こだったらまだましなのだろうか。

 ぼんやり考えていると、胡桃くるみさんのジト目が飛んできた。あらかわいい。

「いったい何の話してるのよ」

「いずれ生まれてくる胡桃くるみさんとの子供について……かな?」

「まるで意味わからないんだけど!?」

「大だい丈じよ夫うぶ、子どもが出来ても俺の一番はいつまでも胡桃くるみさんだから」

「そ、そんなこと聞いてないし心配もしてないから! むしろあんたの頭の方が心配なんだけど!?」

「そう? 結構近い将来だと思うんだけど」

「ち、ちか、近くないけどっ!?」

 何な故ぜかめちゃくちゃ動どう揺ようしていた。

 顔を耳まで真っ赤にして、今までにないほど動どう揺ようしていた。

 いったいどうしたというんだろう。

 まぁ、確かに『近い』か『近くない』で言えば俺たちはまだそういうことをしていないので、『近くない』が正しいのだが……あっ、そうか!

「……なるほど! 結けつ婚こんしてしばらくは二人の生活を楽しみたいってやつだね!」

「そっ……う、かも……」

 だからどうして口ごもるのか。

 顔を真っ赤に納なつ得とくするように首しゆ肯こうする胡桃くるみさん。

 すごく可か愛わいいからいいのだけど……はて、そこまで動どう揺ようする話題だっただろうか?

 割といつもと変わらないと思ったけれど。

 どこか後こう悔かいするように頭を抱かかえる胡桃くるみさんを眺ながめつつ考えていると、それまで傍ぼう観かんしていた桐きり島しまくんが小さくぼやいたのが耳に入った。

「……楽しめてるよな? 俺。このバカップルに付き合わされてる状じよう況きようだけど、本当に楽しめてるんだよな?」

 いや、本当に申し訳ない。

 胸中で深く謝罪しつつ、俺はまだ若じやつ干かん顔が茹うだっている胡桃くるみさんの手を取って次のアトラクションの順番待ちの列に並んだ。


☆


 しばらくして順番が回ってきたので、アトラクション用のボートに乗り込む。

 席は二つ並びではなく複数人が横に座るタイプのものだった。

 並びとしては胡桃くるみさんが一番外側で、次いで俺、小お倉ぐら、桐きり島しまくん。

「実はこの映画見たことないのよね」

 ぽつりとこぼした胡桃くるみさんは、どこかそわそわとした様子でボートの縁へりから水面を覗のぞき込こむ。

 今回乗るアトラクションはとある映画がモチーフとなっており、そこに登場する化け物たちの間を流れる川をボートに乗って遊覧する、というものだ。

 感覚的にはコースター系とは違ちがい、息いき抜ぬきのつもりで胡桃くるみさんは選んだらしい。

 係員の合図でボートが出発してしばらく。

 最初は化け物を遠巻きに眺ながめつつ、時たま入るギャグ付きの解説にほんわかしていたのだが、アトラクションが後半に差さし掛かかったところで何やら雰ふん囲い気きが変わった。

「ひゃっ!」

 可か愛わいらしい声を上げて胡桃くるみさんが俺の腕うでに抱だき付ついてくる。

 服ふく越ごしでも女の子らしい柔やわらかい肢し体たいが感じられてドキドキ。童どう貞ていかな? 童どう貞ていだわ。

「胡桃くるみさん大だい丈じよ夫うぶ? いくらでも抱だき付ついていいからね!」

「べ、別に何も問題は……わひゃっ」

「……っ! か、かわ、かわいい……っ」

 びくっ、と肩かたを揺ゆらして、身を寄せてくる胡桃くるみさん。

 というのも、実はこのアトラクション、最初は遊覧船のようなゆったりとした雰ふん囲い気きで森の中を進むだけなのに対し、途と中ちゆうからは化け物の研究所らしき場所に入っていき、それまで遠巻きに見ているだけだった化け物たちが襲おそってくるようになったのだ。

 しかもホラーと言うよりびっくり系で。

「安心して、胡桃くるみさんのことは俺が守るから!」

「いや、びっくりしただけで怖こわいわけでは──はわわっ」

 どうやら胡桃くるみさんはびっくり系がよほど苦手な模様。

 化け物が出てくるたびにびくっと身体からだを震ふるわせ、抱だき付ついてくる。

 怯おびえる胡桃くるみさんには悪いけど、可か愛わいすぎてずっと見ていたいぐらい。

「……チッ」

「まぁ、落ち着けって」

 胡桃くるみさんの反対側では、俺に鋭するどい視線を送ってくる小お倉ぐらを桐きり島しまくんが宥なだめていた。

 もうほんと、桐きり島しまくんには頭が上がらない。お昼ご飯は俺がご馳ち走そうすることにしよう。

 そんなことを考えているうちにアトラクションも終しゆう盤ばん。

 ボートは化け物から逃にげるように研究所の中を昇のぼっていき、やがて追いつかれる──と思った瞬しゆん間かん、目の前が開けて一気に外へと滑すべり落おちた。どうやらこのアトラクションのラストは急流すべりのようで……って、待って? 急流すべりってことは──。

「きゃっ」

「ぬおぅ!」

 俺たちは頭から水をかぶることになった。


☆


 濡ぬれた、と言ってもずぶ濡ぬれというほどではなかったのは不幸中の幸いか。

 それぞれハンカチで濡ぬれた箇か所しよを軽く拭ふいて、近場のお土産みやげ屋やの中に入った。

 外だとさすがに寒い。その点、店内は空調がよく効いて助かった。

 土産みやげ物ものを見ながら体を温めていると、

「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」

「私も、お手洗いに」

 と言って、桐きり島しまくんと小お倉ぐらは店内のトイレへと向かって行った。

 俺は店内でぬいぐるみをもふもふしている胡桃くるみさんに近付いて声をかける。

「それ気に入ったの?」

「ん……アトラクションの方は怖こわかったけど、ぬいぐるみだと可か愛わいいかも」

 彼女が抱かかえていたのは先ほどまで俺たちを襲おそっていた化け物のぬいぐるみだった。

 デフォルメされて確かに可か愛わいい。

 胡桃くるみさんは尻しつ尾ぽの感かん触しよくが気に入ったのか、もふもふもふもふ。

 何だこの可か愛わいい生き物。

「よかったらプレゼントに俺が買おうか?」

「別にいいわよ。それにまだ悩なやみ中だし」

「そっか。……それにしても、できれば夏に乗りたいアトラクションだったね」

「ふふっ、そうね」

 さすがに冬や寒い季節はキツイ。合かつ羽ぱの販はん売ばいもあったのでそれを羽織ればいいだけの話ではあるのだが、今回は気付かなかった。それに水をかぶるのも醍だい醐ご味みのひとつというやつだろう。

「その時は是ぜ非ひ薄うす着ぎで」

「……この変態」

 鋭するどい視線が飛んできた。ぞくぞくしちゃう。

「我々の業界ではご褒ほう美びです」

「変態」

「あひん」

「……はぁ、ほんとバカなんだから」

 胡桃くるみさんは大きくため息をつくと、ぬいぐるみに視線を落として僅わずかに微ほほ笑えみながら続けた。

「──でも、また夏に来るのはいいわね。薄うす着ぎは絶対しないけど」

「そんなに嫌いや?」

「い、嫌いやって言うか、何て言うか……」

 胡桃くるみさんは一いつ瞬しゆん口ごもると、手にしていたぬいぐるみで顔を隠かくすようにして、ぼそぼそと呟つぶやいた。

「……あ、あんた以外に見られるのが……い、いやなのよ」

 その言葉を理解するのに数秒を要したのは仕方のない事だろう。

 俺はぬいぐるみの後ろで恥はずかしがる胡桃くるみさんを見て、視線を逸そらし、天てん井じようでファンのようなものがくるくる回ってるな、なんて思ってからもう一度胡桃くるみさんを見る。

 やがてすべてを理解した脳みそが、一つの答えを導き出した。

「それはつまり、逆説的に言えば俺には見てもらいたい、と?」

「なんでそうなるわけ!?」

「俺はいつでも構わないよ!」

「私は構うんだけど!? こ、この変態っ!」

 ぺしっ、とぬいぐるみのパンチが飛んできた。可か愛わいい。

 ぬいぐるみを抱かかえて顔を赤くしつつ怒おこる胡桃くるみさんを何とか宥なだめていると、トイレに旅立っていた二人が帰ってきた。

「わりぃわりぃ。ちょっと混んでてさ。っと、次はどこに行く?」

 マップを広げる桐きり島しまくんに、小お倉ぐらはお腹なかを押さえながら答えた。

「そろそろお腹なか空いたかも。いい時間だしお昼にしない?」

 言われて時計を確かく認にんすると、時刻は十二時を少し過ぎていた。

 朝ごはんが早かったというのもあって、腹の具合は丁度いい塩あん梅ばいだ。

 特に反対意見も上がらず、次の目的地はレストラン街に決まった。

 早さつ速そく移動を開始しようとして、

「あっ、ちょっと待って」

 と言って、胡桃くるみさんは先ほどからずっと抱かかえていたぬいぐるみを持ってレジへ。

 てててっ、と小走りで向かい、待たせている俺たちをちらちら見て、気持ち急ぎ目にお金を払はらい終おえると、また小走りで戻もどってきた。

「ご、ごめんね」

「全然、胡桃くるみさんのためなら何年だって待てるよ!」

「あんたは迎むかえに来るタイプの人間でしょ」

 ぬいぐるみの入った袋ふくろを抱かかえ、至し極ごく当然といった目でこちらを見つめてくる胡桃くるみさん。

 いや、まったくもってその通りだ。その通りなのだが……ふむ。

 自分のことを言い当てられるというのは嬉うれしいような恥はずかしいような、むず痒がゆい感じだ。

 でも、決して悪い気分ではない。

 まぁ、胡桃くるみさんが関係することで悪い気分になることなどないのだが。

「ほら、早く行くわよ」

 そう言って手を取る胡桃くるみさん。

 俺も握にぎり返かえして、レストラン街へと向かうのだった。


☆


 昼食を終えて約一時間後、事件はとあるアトラクションを乗り終えた時に起こった。

「……あぁ、俺はもう無理かもしれない。胡桃くるみさん。さ、最後に……旅立つ最後に胡桃くるみさんの美しい顔を見たい。是ぜ非ひともその世界一綺き麗れいな顔を、俺の目に……」

「なんか思ったより元気っぽいんだけど?」

「いやぁ、でもマジでちょっとしんどい」

 俺は園内のベンチに腰こし掛かけ、空を見上げるように背中を預けていた。

 気分は最悪。正直、吐はきそうである。

 ぼんやりと空を眺ながめて気を紛まぎらわしていると、視界にイケメンが入ってきた。

「まさかお前がここまで4Dに弱いとはなぁ」

「自分でもびっくりだ。そして胡桃くるみさんの顔を要求したのになぜ桐きり島しまくんが」

「ひでぇ」

 けらけら笑う桐きり島しまくん。

 俺がこうなっているのは、4Dと呼ばれるタイプのコースターに乗ったのが原因だった。

 3D眼鏡を掛かけて、映像を見ながら縦に横に、上に下に、前に後ろにとぐるぐる回転しながらぐわんぐわん動き回り、ぎゅんぎゅん巡めぐる映像に俺の三さん半はん規き管かんは音を上げたのである。

 つまりは、酔よった。

「って、あれ? 胡桃くるみさんは?」

 先ほどから胡桃くるみさんの声が聞こえないと思って視線を空から地上に移すと、飲み物を手にした胡桃くるみさんが丁度こちらに駆かけてくるのが目に入った。

「もう……大だい丈じよ夫うぶ? これ飲んで? ……気分、落ち着かない?」

 心配げな表情で俺の隣となりに座ると、ぺたぺたと首やおでこを触さわられる。

 それは熱が出た時の触しよく診しんでは?

 藪やぶ蛇へびになったら最悪なので、何も言わないけど。むしろ一生触さわっていて欲しいまである。

「だ、大だい丈じよ夫うぶだよ。少し休きゆう憩けいすれば落ち着くから」

「そう? それ飲んでね。お金は気にしなくていいから」

 胡桃くるみさんが渡わたしてきたのは市し販はんのペットボトル飲料。

 テーマパークの中だと割高だろうに、申し訳ない。

 お金は後で返すとして、今は遠えん慮りよなく飲ませていただく。

「ありがとう、胡桃くるみさん」

「べ、別にこれくらい……気持ち悪いなら横になる? い、今なら、膝ひざ貸すけど……」

「……っ! それはもう全力でお借りしたい! ……けどっ」

 俺は口元を押さえる。

「ごめん胡桃くるみさん。ちょっと今横になるのはしんどくて……今度二人きりの時に、もう一度誘さそってくれないかな。一いつ緒しよに大人の階段を昇のぼろう」

「やっぱり元気なんじゃないの!?」

 顔を真っ赤にして立ち上がる胡桃くるみさん。

 彼女は心配そうに俺を見つめていて──。

「乗りたかったら、乗ってきても大だい丈じよ夫うぶだよ。俺はここで少し休きゆう憩けいしてるから」

「っ、い、いいわよ。あんたが心配だし」

「それは嬉うれしいけど……胡桃くるみさん楽しそうだったしさ。きっと他にも乗りたいのいっぱいあるでしょ?」

 そう、4Dアトラクションを終えてすぐ俺はバタンキューしてしまったが、それでもしっかり両の眼めで胡桃くるみさんがすごく楽しそうにしていたのは捉とらえていた。

 普ふ通つうのコースター系のアトラクションより、殊こと更さらにはしゃいでいたのだ。

「…………で、でも」

「時間は有限だし、俺はまだもうちょっと動けそうにないからさ。それに……俺にとって、胡桃くるみさんが楽しんでくれているのが、一番の薬なんだよ」

「…………」

 それでもまだ僅わずかに渋しぶる胡桃くるみさんは、俺の頰ほおに手を当てて、

「ほ、ほんとに大だい丈じよ夫うぶ?」

「まぁ、酔よっただけだしね。あとで話を聞かせてよ」

 告げると、彼女はしぶしぶといった様子で首しゆ肯こう。

「…………ん、じゃあ、行ってきてもいい?」

「楽しんできてね」

「わかった」

 胡桃くるみさんは小さく告げると、俺から離はなれる。

 俺は桐きり島しまくんに視線をやると、

「じゃあ桐きり島しまくん、お願いできる?」

「おっけー、任せろ」

 ドンと胸を叩たたいて任されてくれた。ありがたい。

 相も変わらず頼たのもしい友人だと思っていると、ふとそれまで黙だまっていた小お倉ぐらが大きく息を吐はいて俺の隣となりに腰こし掛かけた。

「何してんの?」

「いや、実は私もちょっとしんどくて……こっちで残ってていい?」

「し、調しらべちゃんも!?」

 俺だけならまだしも、小お倉ぐらもとなれば胡桃くるみさんはやっぱり行くのをやめると言うだろう。

 胡桃くるみさんが一いつ緒しよに居てくれるのはとても嬉うれしいが、個人的には胡桃くるみさんが楽しんでくれている方がもっと嬉うれしい。

 余計なことをと流し目で小お倉ぐらを見ると、彼女は苦く笑しようを浮うかべて胡桃くるみさんに告げた。

「大だい丈じよ夫うぶ、私のはそこまで辛つらくないから。胡桃くるみちゃんは楽しんできて」

「で、でも……」

 胡桃くるみさんは俺と小お倉ぐらを交こう互ごに見やる。

 まぁ、俺たちの関係はお世辞にもいいとは言えないからな。

「私としても、胡桃くるみちゃんが楽しんでくれている方が嬉うれしいなって」

「う、うん……そう、かな? ……わかった。それじゃあ一時間ぐらいで戻もどるから、ここに集合ね」

「おっけー」

 小お倉ぐらは胡桃くるみさんの言葉に軽く答え、二人を見送った。

 俺も胡桃くるみさんの姿が人ごみに消えるまでしっかり見送る。

 気分はさながら今生の別れである。

 そうして取り残されたのはクラスでも頭がおかしいと有名な男子生徒と、金きん髪ぱつ巨きよ乳にゆうの元いじめっ子。

「……」

「……」

 周囲からレールを走るコースターの音や、アトラクションの音楽、客の楽しそうな声が聞こえて騒そう音おんに包まれる中──俺と小お倉ぐらの周りだけ、まるで切り取ったかのように異質に静せい寂じやくが支配していた。

 胡桃くるみさんから貰もらったペットボトルの蓋ふたを開けて、中身を口に含ふくむ。

 静かに飲み込み、何か話した方がいいのか? と考えていると小お倉ぐらが先に口を開いた。

「……覚えてる?」

「何が」

「修学旅行に行く前、言ったこと」

「修学旅行に行く前?」

 何だったか、と記き憶おくを遡さかのぼり一つ思い出す。

「……あぁ『時間を作ってくれ』とか、そんな感じだったか?」

「そう」

 小お倉ぐらは短く返事をすると、スッと真しん剣けんな表情でこちらに向き直り、静かに淡たん々たんと、今までに聞いたことのない、真しん剣けんな口調で告げた。

「いま、時間ある?」

「……そりゃあ、あるけど」

「だったらさ、ちょっと歩きながら話さない?」

 小お倉ぐらは返事も待たずにベンチから立ち上がって、さっさと歩き始めてしまった。

 別に後を追わなくてもいいのだが……。

「おい、待てよ……くそ」

 脳のう裏りにこびりつく彼女の真しん剣けんな表情が、それを許さなかった。


☆


 歩くことしばらく、俺たちがやって来たのはコラボエリアだった。

 このテーマパークは自社のキャラだけではなく、日本の有名なアニメや漫まん画が、ゲームとよくコラボしては、それに応じたエリアを展開するという少し変わった特とく徴ちようがあった。

 俺たちが訪おとずれたのはまさにそこ。

 現在は有名なロボットアニメとコラボしていた。新とか旧とか映画の頭についてるやつだ。

 ただ、正直世代が少し古いので、オタクの俺でも内容は大まかにしか知らない。

 そのような場所、オタクでもなくコミュ強きようのバリバリ元陽キャの小お倉ぐらからすれば、殊こと更さらに無む縁えんに思えたのだが……。

「す、すごっ! でかっ、かっこいいっ!」

「お、小お倉ぐら?」

「見て見て! これ主人公が乗ってる機体! 有名だから見たことぐらいはあるでしょ? って、細か! この駆く動どう部ぶめっちゃ凝こってる!」

「……あー、良かったら写真撮とろうか?」

 等身大ジオラマを前に目を輝かがやかせる小お倉ぐらに、俺は思わずそう尋たずねていた。

「い、いいの!? ……んっ、んん! じゃ、じゃあお願いしてもいい?」

「まぁ、それぐらいなら」

 というわけではいチーズ。

 金きん髪ぱつギャルとロボの異色なツーショットの完成である。似合わねぇ。

 しかし、出来上がった写真を確かく認にんする小お倉ぐらは何とも笑え顔がおだった。

「好きなのか?」

「ん、ま、まぁ」

「お前が好きなのはバイクに乗る変身ヒーローじゃなかったか?」

「あ、あれも好きだけど……言わなかったっけ? お父さんの影えい響きようで好きになったって。これもそうなの」

「なるほどね」

 確かに、俺たちの親ならちょうどリアタイしていた世代だろう。

「中、入らない?」

「話は?」

「……その、まっすぐ伝えられる自信ないから。見ながらでもいい?」

「お前がそれでいいならいいけど」

 中はアトラクションになっているわけではなく、アニメで出てきた武器や衣い装しようなど、ファン向けの資料がずらりと並んでいた。一応、4Dのアトラクション的なのがあるみたいだが、とてもではないが無理だ。

 酔よい醒ざましついでにぼんやりと眺ながめつつ、帰ったらこの作品見てみるかなぁ、なんて考えていると、とつとつと小お倉ぐらが語り始めた。

「昔、好きだったモデルの子がいたの。綺き麗れいでなんでも着こなして、すごいなぁ、なんて漠ばく然ぜんと思って。しかも同い年。……憧あこがれって言うのかな。近付きたくて、真ま似ねして、真ま似ねして……ほんとに、強く憧あこがれてた」

「……」

「その子はどんどん有名になっていって、女優にならないか、なんて話が持ち上がるくらい成功してた。僻ひがみなんてない。さすがだ、って。やっぱりすごい子なんだ、みんなやっと気づいたんだって……」

「古参面だな」

「そうかもね。……でも、その子はある日突とつ然ぜん活動を休止して、SNSなんかも全部止まって、消息が分からなくなって──私の目の前に現れた」

 小お倉ぐらは目の前の展示物を見ているようで、だけどどこか遠くを見つめていた。

「高校の入学式の日、すぐにわかった。あの子だって。話しかけようかな、どうしようかなって一週間ぐらい……ううん、もっと悩なやんだかも。こんなに緊きん張ちようしたの初めてってぐらい緊きん張ちようしたし、いつも以上に身なりに気を付けて、話しかけた。モデルやってた胡桃くるみさんですよね、って」

「……」

「そうです、って返してくれて、私もう嬉うれしくって……たくさん話した」

 それは、俺の知らない話だった。

 胡桃くるみさんと小お倉ぐらはそんなに早く接点を持っていたのか。

「それで、どうしてそれがああなったんだ?」

 人の目もあるためぼやかして尋たずねると、小お倉ぐらは苦しそうに吐はき出だした。

「……憧あこがれの人が目の前に現れて、僻ひがんじゃった」

「……」

「きっとすごい努力をしてその体型を維い持じしてるんだろうなとか、食べ物はどんな感じで気を使ってるんだろうとか、肌はだの手入れは? 髪かみの手入れは? どんな化け粧しよう水すいを? ……とか。聞いて、いっぱい、迷めい惑わくかなとか、うん。思ったけど……で、聞いて、それで私……」

「落ち着け。ゆっくりでいいから」

 段々と支し離り滅めつ裂れつなことを口にする小お倉ぐらの肩かたに手を置いて、一度会場を出る。

 外の生いけ垣がきのふちに腰こし掛かけさせると、ようやく落ち着いたようだった。

「……ごめん」

「問題ない」

 小お倉ぐらはしばらく俯うつむいた後、自分の顔を両手で押さえつけながら、吐と露ろを続けた。

「なんだっけ。……あ、そうそう、聞いたのよ。どんなふうにして綺き麗れいに保ってるのかって。いきなり失礼だとは思ったけど、でもずっと聞きたかったことだから」

 それは分からないでもない。

 俺も好きな漫まん画がやラノベの原作者が目の前に居たら作品について色々と聞くだろう。

「そしたら胡桃くるみちゃんね、特に努力はしてない、って」

「……まぁ、そうかもな。胡桃くるみさんとは中学からの付き合いだけど、モデルになる前から可か愛わいかったのは覚えてる」

「……だよね。うん、知ってる。……でも、その時の私は謙けん遜そんなのかなって思って、結構監かん視しって言うか、まぁ学内だけだけどストーカーってぐらい見てたの」

 マジかよ。俺以外にも胡桃くるみさんのストーカーが居たのか。

「それで?」

「それで、胡桃くるみちゃんの言ってることってなにも間ま違ちがってないんだなぁって。確かに体型維い持じで多少運動してる感じはあったけど、朝からガッツリ走ったり、食事制限したりはしてなかった。私より、全然努力してないのに私よりすごいんだなぁって、まじまじ見せつけられた気がして──僻ひがんだ。嫉ねたんだ」

「……」

「もしこれが、雑誌の向こうやテレビの向こうならそうはならなかったかもしれないけど、目の前で天そ才うであることを見せつけられたら、もう……おかしくなっちゃった」

 聞こえるか聞こえないか、魂たましいを絞しぼり出だすように吐はき出だした小お倉ぐらは下を向いたまま頭を抱かかえ込こむ。朝からセットしていたであろう金きん髪ぱつがぐしゃっと崩くずれ、その努力が水すい泡ほうに帰す。

「……」

 小お倉ぐらは胡桃くるみさんに憧あこがれていた。

 それも他の人よりも強く憧あこがれていたのだろう。

 だからこそ、自身の理想である憧あこがれの胡桃くるみさんと現実の胡桃くるみさんのギャップに耐たえられず、失望し──そして自分には無いものを持っている彼女に嫉しつ妬とした、と。

 つまりはそういうことなのだろう。

「……ってことを、あんたに伝えときたかった。ごめん、今こんな話して」

「まったくだ。楽しい楽しい修学旅行がしんみりしたじゃないか」

「うぐっ。……そ、それで?」

 気まずそうな表情で、こちらを見つめてくる小お倉ぐら。

「は? なにが?」

「いや、だから……そ、それで? 何か言わないの? そんな自分勝手な理由で、とか、やっぱりお前は糞くそアマだ、とか。……っ、な、殴なぐるのは、やめて欲しいけど……でも、い、一発までなら……」

 ぎゅっと目を瞑つぶる小お倉ぐら。

 いや、そんな卑ひ屈くつなことを言われても。

「……別に、何もないよ」

「で、でも……わた、私は……」

「胡桃くるみさんにはもう伝えてるんだろ?」

「そりゃあ、うん。あの、あの日に……助けてくれた日の夜に、電話で」

「胡桃くるみさんはなんて?」

「そうだったんだ、って。……あ、あと」

 小お倉ぐらは一度言葉を区切ると、僅わずかに口こう端たんを持ち上げる。

「使ってる化け粧しよう水すい、教えてもらった」

「……」

「そんな感じ」

「そうか。……なら、それでいいんじゃないか?」

 ことはすべて小お倉ぐらと胡桃くるみさんの間で完結している。

 俺が口を挟はさむようなことは何もない。

「でもあんたは、私にすごい怒おこってたし、怒おこられて軽けい蔑べつされる自覚もあるし……」

 だから理由を聞いてもっと怒おこると思ったのだろうか。

「馬鹿か。俺が怒おこっていたのはお前が行った行こう為いに対してだ。理由は関係ない」

「そ、そっか……そうだよね」

「だが──まぁ、なんだ。納なつ得とくはしたよ。許せる許せないは別として」

「……うん」

 小お倉ぐらは小さく首しゆ肯こうすると、大きく息を吸い込んで、一言。

「ごめん」

 と告げたのだった。

 それを静かに受け止めつつ、俺は空を見上げた。

 大きく吐はいた白い息が、からっと晴れた空へと昇のぼっていった。


☆


 まだ時間があったので近くのカフェに入る。

 さすがに外に出ずっぱりでは身体からだが冷えてしまった。

「俺コーヒー」

「飲み過ぎると身体からだに悪いんだって」

「コーヒー好きを前になんてことを言うんだ」

「……別に。胡桃くるみちゃんの彼かれ氏しならちょっとでも健康でいて欲しいだけ」

 そう言って自分は砂糖たっぷりのココアを頼たのむ小お倉ぐら。

「胡桃くるみさんの友達やるならデブるなよ」

「女子に向かってなんてこと言うのよ」

 キッと睨にらみつけてくる小お倉ぐらに嘆たん息そくしつつ、俺はふと思ったことを尋たずねた。

「そう言えば、どうして今だったんだ?」

「なにが?」

「さっきの話だよ」

 告げると彼女は机に肘ひじを置いて、窓の外を睥へい睨げいする。

「別に、学校じゃ胡桃くるみちゃんがいるから二人になれないし、かと言って電話をするのもなんか違ちがう。休日に会うのはもっと違ちがうし……このタイミングなら、修学旅行中なら話せる機会もあるかな、って。そう思ったのよ」

「なるほどな」

 短く返し、俺も背もたれに背を預けて窓の外を見つつ、思う。

 だからと言って、こんな楽しそうな場所でする話でもなかったのでは? と。

 まぁ、もう済んだことだし別にいいのだが。

「楽しい雰ふん囲い気き壊こわしたのは……うん、ごめん」

「別にいいよ。……つーか、前から思ってたんだけどさ。お前は……胡桃くるみさんが好きなんだよな? そういう意味で」

「何、いきなり」

「いや、はっきりと言葉で聞いたことはなかったなと思って」

 尋たずねると小お倉ぐらは若じやつ干かん居い心ごこ地ちが悪そうに身じろぎして、頰ほおを染めて答えた。

「……まぁ、好き。……そういう意味で」

「ふむ……ならもっとココア飲め」

「はぁ!? あぁ、もう。なんで胡桃くるみちゃんはこんなデリカシーの無い男を……」

「なんか言ったか小お倉ぐらァ」

「別に?」

 などと口論しつつ、到とう着ちやくしたコーヒーを一口。

 仄ほのかな苦みと深いコク、どこかフルーティな口当たりが飲みやすい。

 なるほど、一いつ般ぱん受うけしやすい飲み口だ。

「何考えてんのよ」

「いや、なに。胡桃くるみさんと一いつ緒しよならもっと美う味まかっただろうなって、そう思っただけだ」

「ふーん」

 小お倉ぐらもココアの入ったマグカップを手にして啜すする。

 小さく嚥えん下げすると、満足そうに息を吐はいた。

「それには同意」

 以降は特に言葉を交かわすこともなく、窓の外をぼんやり眺ながめつつ飲み干した。

 そして身体からだが温まったのを確かく認にんしてから、俺たちはカフェを後にした。


☆


 待ち合わせの場所で小お倉ぐらと待っていると、数分もしないうちに胡桃くるみさんと桐きり島しまくんは戻もどってきた。

「あっ、おーい、胡桃くるみさん」

「ごめんごめん、待った? と言うかもう大だい丈じよ夫うぶ?」

 こちらに気付くや否いなや小こ走ばしりで近付いてきた胡桃くるみさんは、そのまま再度触しよく診しんを始めた。

 されるがままになっていると、彼女は早々に切り上げて、お次は隣となり金きん髪ぱつギャルを診みる。

「調しらべちゃんも大だい丈じよ夫うぶ? 気持ち悪くない?」

「胡桃くるみちゃんに触さわってもらってるだけで体力が回復していくよ♡ もっと触さわって♡」

「なんかヤバ宮みやくんみたいになってるんだけどっ!?」

「それは心外」

「おいこら」

 このアマ。さっきまでのしおらしい様相はどこに行ったんだ。

 内心で呆あきれていると、少し遅おくれて桐きり島しまくんが戻もどってきた。

「どうだった?」

「楽しそうにしてたよ。変な輩やからに絡からまれることもなかった」

「それは何より」

「お前らの方は、何かあったのか?」

 桐きり島しまくんは俺と小お倉ぐらを交こう互ごに見やる。

 何かあったかと聞かれれば、答えはただ一つ。

「特に何もないよ。少し話をしただけ」

「そうか」

「そうそう。……さて、それじゃあもう時間もないし、次のアトラクションに行こっか」

 じゃれていた二人に告げると、彼女たちは笑えみを浮うかべて頷うなずいた。


 そんな感じで時間いっぱい遊園地を満まん喫きつ。

 遅おそくなる前に、電車に乗ってホテルへと戻もどるのだった。


3


 ホテルに着くと、すぐに夕食の時刻となった。

 時計を見ると六時半。だから早いんだって。

 席は自由で、今回は胡桃くるみさんの隣となりを無事確保。

 が、四人並んで座れるところは空いておらず、小お倉ぐらと桐きり島しまくんは少し離はなれた席である。

 胡桃くるみさんが少し寂さびしそうな表情を見せるあたり、二人にはかなり心を許しているようだ。

 それはともかく、本日の料理は和食。

 目の前には色とりどりの季節のお野菜に白ごはん、汁しる物もの、鉄板焼きに刺さし身みと、なんだとっても豪ごう華かじゃないか。一人感心していると、お隣となりの胡桃くるみさんが震ふるえた声で呟つぶやいた。

「ま、マグロがある」

「あれ、胡桃くるみさんマグロ苦手?」

「いや、そうじゃなくてむしろ……」

 ごくり、と喉のどを鳴らすところを見るにかなりの好物のよう。

 ならば俺が行うべきはただ一つ。

「はい、あーん♡」

「なんで!?」

「もちろん胡桃くるみさんの喜ぶ顔が見たいからだよ! 胡桃くるみさんが未来永えい劫ごう隣となりで笑っていてくれることこそが、俺の何よりの望みだからね!」

「マグロ一切れにそこまで考えてるの!?」

「胡桃くるみさんとの将来設計は常つね日ひ頃ごろから考えてるよ!」

「もっと別のことは考えられないの!?」

 胡桃くるみさん以外のことか。

「子供の教育方針……とか?」

「バカなの!?」

「まぁ、親バカにはなりそうかな」

「聞いてないんだけどっ!?」

 わいわい言い合っていると、胡桃くるみさんはハッと我に返ったように周囲を見み渡わたし、顔を赤くして俯うつむいてしまった。俺も倣ならって周りを見ると、なるほど同じクラスの連中が『またか』といった様子でこちらを見ていた。

 確かに、学校でも似たようなものだしな。

「はい、あーん♡」

「少しは空気を読んで欲しいんだけど!?」

 何て言いつつも、胡桃くるみさんは口を開いて俺の箸はしからマグロをパクり。

 もぐもぐと小動物のように咀そ嚼しやくしてごっくん。

 口をへの字に曲げて俺を睨にらむとぼそりと愚ぐ痴ちった。

「温ぬるくなってる」

「あちゃー、愛の炎ほのおであったまっちゃったかー」

「あちゃーじゃないわよ! ……でも、ありがと。代わりにこれあげる」

 胡桃くるみさんが差し出してきたのは白い刺さし身み。イカだ。

 彼女は箸はしで挟はさむとそのまま俺の皿へ──。

「食べさせてくれないの?」

「く・れ・な・い・わ・よっ! ばかっ!」

 べっ、と舌を出した胡桃くるみさんは、自らの皿に向き直って食事を再開した。

 本当に食べさせてはくれないらしい。残念だ。

 しかし、おいしそうに自分の分のマグロを口に運ぶ姿に、自然と笑えみがこぼれてしまう。

 行ぎよ儀うぎいい所作で食べる彼女に見み惚とれつつ、俺も頂ちよう戴だいしたイカをパクり。

「……おいしい」

「そう? よかった」

「うん、胡桃くるみさんの味がするよ」

「何もよくなかった。病院行く?」

「胡桃くるみさんとならどこへでも」

「あんたは無敵なの!?」

 本心なんだけどなぁ。


☆


 食事も終えて部屋に戻もどろうと館内を胡桃くるみさんと歩く。

 食事会場は一階にあり、俺たちが泊とまっている部屋は男子が四階、女子が五階。

 それぞれエレベーターでの移動となる。

 食事が終わった者から部屋に戻もどって構わないと言われていた為ため、帰る時間はバラバラ。

 エレベーターの前には俺と胡桃くるみさんの姿しかなかった。

「それにしても、今日は疲つかれたわね」

「そうだね。かなり遊んだし……胡桃くるみさんもはしゃいでたしね」

「は、恥はずかしいから忘れて……」

「胡桃くるみさんの笑え顔がおを忘れるなんて無理な話だよ!」

「う、うぅ……ばかぁ」

 赤面して頰ほおを搔かく胡桃くるみさん。

 改めて心のメモリーにしっかり刻み込んでおこうと決意していると、胡桃くるみさんはエレベーターの階層表示を眺ながめながら大きくため息をついた。

「どうしたの?」

「ん? あぁごめん。疲つかれたからこそ、また部屋風ぶ呂ろかって思って。男子もそうなんでしょ?」

「まぁ、先生にはそう言われたね」

 答えると、胡桃くるみさんは眉まゆをひそめた。

「もしかして……」

「昨日は大浴場の方に行かせていただきました」

「ルールはちゃんと守らないとだめでしょ!」

 怒おこられちゃった。胡桃くるみさんらしい。

 なのでこちらは仲間を売らせていただく。

「いや、俺以外にも桐きり島しまくんや同室の阿あ坂さかくんも一いつ緒しよで──!」

「言い訳しない!」

「はい!」

 仲間の売ばい却きやくはなんの意味もなかったし、ただ共犯者の名前を喋しやべっただけだった。

 俺と一いつ緒しよにお酒を飲もうとしたり、授業をエスケープして屋上に向かったりしている胡桃くるみさんであるが、それにはそれ相応の理由があり、基本的に彼女は真面目な人なのだ。

 そういう凜りんとしているところが最高に孤こ高こうで惹ひかれるのだけども。

「……ち、因ちなみに、ほんとにバレなかったの?」

 ……おっとぉ? さすがの胡桃くるみさんも背に腹は替えられなかった模様。

 そりゃあ大浴場があるならのんびり足を伸のばしてくつろぎたいよね。特に女の子なら。

 真面目なところも最高に魅み力りよく的てきだけど、ちょっとずる賢がしこいところが出てくる胡桃くるみさんも、それはそれで非常に愛おしい。ギャップ萌もえというやつか。

 なので俺は親指を立てて胡桃くるみさんに答えるのだった。

「もちのろんよ」


☆


 胡桃くるみさんと話しているとエレベーターが到とう着ちやく。

 早さつ速そく乗り込もうとしたところで──。

「な、なぁ小お倉ぐら。少し話があるんだけど、今時間いいか?」

「……っ、な、なに?」

 聞き覚えのある声と、耳なじみのある名前が聞こえてきた。

 胡桃くるみさんも気が付いたのか、エレベーターに向けていた足を止めて声の方に視線を向ける。

 そこには小お倉ぐらを呼び止める阿あ坂さかくんの姿があった。

「ここじゃあれだからさ、少し移動していいか?」

「……わ、わかった」

 場所を移動する二人。

 それを見て、俺は理解した。

(昨日のこと、早さつ速そく行動に移すのか)

 昨日のこと──とは阿あ坂さかくんが大浴場で相談してきたことだ。

 つまるところ小お倉ぐらへの謝罪である。てっきり修学旅行が終わってから謝罪するものだと思っていたのだが……まぁ個人的にすぐに動いたことに関しては好感度が高い。

 二人の間でどのようなやり取りがなされるのかは気になるが、覗のぞくのはさすがに阿あ坂さかくんに対して失礼だろう。

 俺は再度エレベーターに乗り込もうとして。

「あ、あれっ! ……っ!」

「ちょ、胡桃くるみさん!? ま、待って!」

 どういうわけか慌あわてて二人の方へと向かおうとする胡桃くるみさんの手を取って制止する。

「と、止めないとっ!」

「どうしたの胡桃くるみさん。止めるって何を──」

「ま、また調しらべちゃんが、傷つけられる!」

 その言葉を聞いて、合点がいった。

 阿あ坂さかくんはかつて小お倉ぐらを虐いじめる空気を作り出した張本人であり、そのことを後こう悔かいして俺に相談を持もち掛かけてきた。

 その結果として小お倉ぐらに対し真しん摯しに謝罪するということを決めたが、当然胡桃くるみさんはそのことを知らない。だから『また』と焦あせっている。

「ま、待って、待ってって胡桃くるみさん!」

「ど、どうしてっ?」

「とにかく落ち着いて。……それから、静かについて来て」

 俺は逡しゆん巡じゆんした後、阿あ坂さかくんには申し訳ないと思いつつも、見せた方が早いと静かに二人の後を追った。

 二人が行きついたのはロビーの隅すみ。

 というか、俺と胡桃くるみさんが昨日乳ちち繰くり合あっていた現場である。

 そんな場所で真しん剣けんな話をしようとする二人。

 何というわけではないけれど、阿あ坂さかくんに対する申し訳ない気持ちが倍プッシュ。

 今度学食で焼き肉定食でもご馳ち走そうしよう。

 俺は、下した唇くちびるを嚙かんで今にも飛び出しそうな胡桃くるみさんを押さえながら二人の話に耳を傾かたむけた。

「……は、話って、なに?」

 小お倉ぐらの声は僅わずかに震ふるえていた。

 小お倉ぐら自身も、阿あ坂さかくんに対して相応の苦手意識を抱いだいているのだろう。

 そういう意味では、人気のないここは悪手だったと言える。

 静かなカフェとか、そんなところが良かったのではなかろうか。

 いまさらどうなるわけでもないが。

 阿あ坂さかくんもきっとそれに気付いていたのだろう。

 だからこそ彼は安心させるように一歩足を退いた。

「話っていうか……その……」

 阿あ坂さかくんは僅わずかに言いい淀よどんだけれど、一度大きく息を吸い込むとまっすぐ頭を下げた。

「あの時は、ごめん」

「……え?」

「あの席せき替がえの時、俺は小お倉ぐらに対して酷ひどいことを言って傷つけた。そのことを改めて謝罪したい。……本当に、申し訳なかった」

 その言葉に小お倉ぐらは明らかに動どう揺ようしていた。

 どうすればいいのだろう、と頭を下げる阿あ坂さかくんを見て唇くちびるを嚙かみしめる。

 静せい寂じやくは十秒もなかったように思える。

 けれど、どこまでも張はり詰つめて、当事者にとっては数分や数十分にも感じられるだろう。

 その中で、小お倉ぐらは俯うつむいて自じ嘲ちようを浮うかべた。

「……あれは、私が悪かったから」

 確かに元を辿たどれば、小お倉ぐらが胡桃くるみさんを虐いじめていたのが原因だ。

 けれど、だからと言って関係の無い人間が小お倉ぐらを糾きゆう弾だんするのはまったく別の問題なわけで。

 ──『私が悪かったから、別に気にしないでいい』

 なんて答えは、必ずと言い切っていいほど間ま違ちがっている。

 俯うつむき、前まえ髪がみで表情の伺うかがえない小お倉ぐらに対し、何と声をかけていいのか逡しゆん巡じゆんする阿あ坂さかくん。

 しかし、それよりも先に小お倉ぐらが小さく横に首を振ふった。

「ううん、そうじゃない。──あれは、私も悪かったから。って言うほうが正解なのかな」

 その独白は、静かな当所によく響ひびいた。

 隣となりで息を飲む音が聞こえる。

 視線を向けると、胡桃くるみさんが目を見開いて二人をじっと見つめていた。

 何を思っているのだろうか。残念ながら俺には分からない。

 けれど、彼女はまっすぐ二人を見つめていた。

 小お倉ぐらは一つ深呼吸して言葉を続ける。

「私は、ああいうことをされて当然の人間だった。それだけのことをした自覚もあるし、後こう悔かいもある。その償つぐないで、あの子のためなら何でも、本当に何でもしてあげたいって思う。それぐらい、あの時の私は最低最悪で、本当に気持ち悪くて、自己嫌けん悪おで死にたく──ううん」

 小お倉ぐらは一いつ瞬しゆん言葉に詰つまり、震ふるえた声で告げた。

「私みたいな人間死んでしまえ、って。そう思うぐらい、私は酷ひどいことをした」

 もしかしたら彼女はあの日──屋上に駆かけあがった日。

 本当にその先へ足を進めるつもりだったのかもしれない。

 ちらりと隣となりの胡桃くるみさんを見ると、拳こぶしを強く握にぎり締しめていた。

「だから阿あ坂さかにされたことは自じ業ごう自じ得とくだと思ってる。……でも、阿あ坂さかが言いたいのはそういうことじゃないんだよね」

「……あぁ。俺が、俺がやったのは、誰だれが相手でもしちゃいけないことだ。小お倉ぐらがどういう人間だったかは関係ない。結局のところ、俺が行ったのは他人を傷つける行こう為いだから……。本当に申し訳なかった」

 改めて深々と頭を下げる阿あ坂さかくん。

 そんな彼を複雑な瞳ひとみで見つめた後、小お倉ぐらは彼に顔を上げさせる。

「正直、阿あ坂さかのことは最低だと思う。それはきっと今後も変わらない。……ごめん」

「──っ」

「で、でもっ! だけど、あんたより最低の私を、見捨てないでくれた人がいた。その人は、私の憧あこがれで尊敬している人で──だから、今すぐはまだ心の整理がつかないけど、謝罪は受け止めとく」

 必死に絞しぼり出だしたであろうその言葉を受け、阿あ坂さかくんは暫しばし瞑めい目もくすると小さく息を吐はいた。

「あぁ、わかった。……話はそれだけだ。改めて本当に、申し訳なかった」

 もう一度深く頭を下げると、彼は踵きびすを返してその場を後にした。

(って、こっち来る!)

 慌あわてて胡桃くるみさんの手を取り場所を移動。

 幸い阿あ坂さかくんは外の空気でも吸いに行ったのか、玄げん関かん口ぐちへと歩いて行った。

 俺たちはエレベーターホールに戻もどってくると、上じよう昇しようボタンを押して二人並んで待つ。

 会話はない。ただ摑つかんだ手は離はなさず、俺はぼんやりと変化する階層番号を眺ながめる。

 しばらくして胡桃くるみさんが小さな声で話しかけてきた。

「……阿あ坂さかくん、調しらべちゃんに謝るつもりだったんだ」

「そうだね」

「知ってたの?」

「相談は受けてた」

「そっか……。また調しらべちゃんに何かするのかも、なんて酷ひどいこと考えちゃったな」

「知らなかったんだから仕方ないよ」

 エレベーターが到とう着ちやくする。

 人は乗っておらず、乗り込んで四階と五階のボタンを押した。

「調しらべちゃんも、あんなに悩なやんでるなんて知らなかった」

 まぁ、小お倉ぐらの性格からして誰だれかに相談することはないだろうしな。

 特に相手が胡桃くるみさんならなおさら。

 気取られることすら嫌いやがっただろう。

「知らなかったなら、知ればいいだけだよ」

「……そうね。それとなく聞いてみる。……その、友達として」

「そうだね、それがいい。俺も何かあったらいつでも手を貸すから。嫁よめの頼たのみなら何でも聞くよ!」

「まだ彼女よ、ばかっ! ……でも、ありがと。期待してる」

 胡桃くるみさんは笑えみを浮うかべる。よかった。

 辛しん気き臭くさい雰ふん囲い気きのまま別れるのは嫌いやだったからな。

「もちろん! 期待通りちゃんと嫁よめにするから!」

「そっちじゃないんだけど!?」

 そうこうしているうちに四階に到着し、俺たちはそれぞれの部屋に戻もどった。


4


「お前は馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だと常つね日ひ頃ごろから思っていたが、まさかここまで馬鹿だとは」

「いや、ほんと申し訳ないです」

 俺は目の前でお冠かんむりの物もの部のべ先生に平ひら謝あやまりしていた。

 時刻は八時半を少し過ぎた頃ころ。場所は夜空を望む露ろ天てん風ぶ呂ろの中。

 何な故ぜこうなったのか。それは遡さかのぼること約一時間前。


☆


 胡桃くるみさんと別れて部屋に戻もどった俺は、本日も桐きり島しまくんと大浴場へと向かうことにした。

 昨日のこともあり阿あ坂さかくんも誘さそおうと後から帰ってきた彼にも声をかけたのだが、少し一人で考えたいことがある、とのことで本日は部屋風ぶ呂ろを選せん択たく。

 先ほどの一件の後だから、それも仕方ないだろう。

 というわけで桐きり島しまくんと大浴場を訪おとずれ、本日の疲つかれを癒いやしていたのだが……。

「んじゃ俺は先あがるわ」

「うい~、俺は露ろ天てんでもう少しゆっくりしてから戻もどるよ」

「おっけー」

 露ろ天てん風ぶ呂ろに浸つかり、外気の肌はだ寒さむさと温泉の温かさのはざまで極限の快楽に文字通りその身を沈しずめつつ、満天の星々を眺ながめていた俺は──爆ばく睡すいした。それはもうぐっすりと。

 自宅の風ふ呂ろ場ばで寝ね落おちしてしまうことがあるが、旅先ではさすがに初めてだ。

 それだけ疲つかれていたということなのだろう。

 寝ね落おちすること自体はしばしばあるので溺おぼれる心配はなかったが……問題はその後だった。

「……ぉい、おい」

「……んぇ?」

「なにが『んぇ』だ。起きろ笠かさ宮みや」

 誰だれかに名前を呼ばれた気がして重たい瞼まぶたを持ち上げると、そこには物もの部のべ先生の姿。

 俺は目をこすり、周囲をきょろきょろ。

 露ろ天てん風ぶ呂ろ──桐きり島しまくんと別れてから約一時間が経過した時計──全ぜん裸らの物もの部のべ先生。

 そこから導き出される結論はただ一つ──。

「ごめんなさい」

「寝ね起おきでよくそこまで頭を回せたな。ったく」

 そして、現在に至るというわけだ。

 物もの部のべ先生は露ろ天てん風ぶ呂ろの淵ふちにゆったり背中を預け、タオルを頭の上に載のせて息を吐はいた。

「はぁ……。まぁ、なんだ。いろいろと言いたいことはあるが、修学旅行中に怒おこるのもあれだしな。今回は大目に見よう」

「ありがとうございます。……でも、ふと思ったんですけど、生徒は部屋風ぶ呂ろで先生は大浴場なんですね」

「……」

「視線逸そらさないでくださいよ。まるで脅おどしてるみたいじゃないですか」

「……なにが望みだ」

「ほんとに脅おどしてるみたいじゃないですか!?」

 物もの部のべ先生はクツクツ笑うと、湯船から出ていた肩かたに湯を掛かけた。

 十一月末の夜ともなるとかなり冷える。

 俺は一時間近くも寝ね落おちしていたので若じやつ干かんのぼせているが。

 露ろ天てん風ぶ呂ろの湯気が夜空に昇のぼっていくのをぼんやり眺ながめる。

「笠かさ宮みや、修学旅行はどんな感じだ?」

「楽しんでますよ。何枚か結けつ婚こん式しきの時のスライドショーで使えそうな写真も撮とれましたし」

「お前って素でそれなんだな」

「それってなんですか、それって」

 失礼な。俺は胡桃くるみさんを世界の何ものよりも愛しているだけだというのに。

 物もの部のべ先生は、こちらの内心などまるで気にしないで続ける。

「でも、そんな写真が撮とれるくらい楽しんでるのなら……そりゃあよかったよ」

「それに関しては同意ですね。……っと、すいません。そろそろのぼせそうなのでお先に失礼します」

「おう。……あっ、そうだ。俺は風ふ呂ろ上あがりにビール飲んで爆ばく睡すいするつもりだが、夜はあんまり騒さわぎ過すぎるなよー」

 適当にひらひらと手を振ふりながら一応といった風に告げる物もの部のべ先生。

 まったく、それでいいのか教師よ。

 呆あきれつつも露ろ天てんを後にしようとして、背中に声を掛かけられた。

「あと一日。最後まで楽しめよ」

「……はい、それはもう全力で楽しませていただきますよ」

 端たん的てきに返しつつ、俺は風ふ呂ろを上がった。


☆


 脱だつ衣い所じよで身体からだを拭ふいて浴衣ゆかたに着き替がえ、ドライヤーで髪かみを乾かわかしてから大浴場を後にする。

 暖簾のれんをくぐって廊ろう下かに出ると、同タイミングで女湯の暖簾のれんの向こうから二人の少女が出てくるのが視界に入った。……あれはっ!

「胡桃くるみさん! ……と、小お倉ぐら」

 そこに居たのは愛するマイハニーとその友人。

 こちらに気付いた二人は驚おどろいた表情を見せる。

「あんたもちょうどお風ふ呂ろ上あがり?」

「そうだけど……、っ」

 近付いて小首を傾かしげ尋たずねてくる胡桃くるみさん。

 その表情は弛し緩かんしきっており、とろんとした目がこちらを見つめていた。

 頰ほおは風ふ呂ろ上あがりのためか僅わずかに上気していて、しっとりとした髪かみが妖よう艶えんな雰ふん囲い気きを醸かもし出だしている。正直、浴衣ゆかた姿すがたの胡桃くるみさんというだけでも興奮が止まらないのに、そこに加えて風ふ呂ろ上あがり。──一いつ瞬しゆん、息をするのも忘れて見み惚とれてしまうのも無理からぬことだった。

「どうしたの?」

「胡桃くるみさんが魅み力りよく的てき過すぎて見み惚とれてた。新しん婚こん旅行は温泉もいいね」

「い、いきなり何なの!?」

「嫌いやだったりする?」

「い──や、では、ないけども……」

 もごもごと答えた後、口を結んで恥はずかしそうに睨にらんでくる胡桃くるみさん。

 申し訳ないとは思いつつ、しかし彼女への愛情を抑おさえられないのだ。

 すると一部始終を見ていた小お倉ぐらが呆あきれを多分に含ふくんだため息をついた。

「はぁ……、あんまりそういうこと人前で言ってると本格的に嫌きらわれちゃうわよ? ──はっ! そうじゃなくてもっと言っていった方が愛が伝わるわよ!」

「調しらべちゃん!?」

「本ほん性しようを取とり繕つくろえていないにもほどがあるだろ、お前」

 その言葉に小お倉ぐらは舌打ちをして返した。

 彼女もまた風ふ呂ろ上あがりのため頰ほおは朱しゆ色いろに染まり、普ふ段だんきつめの瞳ひとみも目じりが垂れ下がっていた。髪かみは緩ゆるやかに下ろされていて、いつもと異なる雰ふん囲い気きを纏まとっている。豊満な胸は浴衣ゆかたを持ち上げ、帯で強調されたくびれに、彼女もまた胡桃くるみさんとは別種のスタイルの良さを持つ少女なのだと再さい認にん識しきさせられた。

 こちらの視線に気付いた小お倉ぐらはふんっと鼻を鳴らす。

「なに?」

「いや、別に。……それより胡桃くるみさん、お風ふ呂ろの方はどうだった?」

「部屋風ぶ呂ろで済ませろって言った先生を恨うらむ程度にはよかったわよ」

 まったくもって同意だ。

「それはよかった。是ぜ非ひとも今度は一いつ緒しよに入ろうね!」

「あれ!? そんな話だったっけ!?」

「私はもう胡桃くるみちゃんと一いつ緒しよに入ったけどね」

「なんで張り合ってるの!?」

 突つっ込こみ魔ま人じんと化した胡桃くるみさんにすり寄る雌めす猫ねこ。

 そりゃ、一いつ緒しよに大浴場から出てきたところを見るにそうなのだろうけども。

「……待て、つまりお前は胡桃くるみさんの裸はだかを見たと?」

「お風ふ呂ろに入ったんだから当たり前でしょ?」

「お、俺もまだ見てないのに!」

「ば、ばか! 何言ってるの!?」

「えへへ、胡桃くるみちゃんスタイル良過ぎ。マジで目の保養になった」

「これが……寝ね取とられ?」

 脳が破は壊かいされそう。

「背中流してあげるときに少し触さわったけど、肌はだもすべすべで──」

「ぐあぁああああああっ!」

 完全な寝ね取とられにより脳が破は壊かいされてしまった。

「くそっ……! 胡桃くるみさん!」

「な、なに!?」

「お風ふ呂ろに行こう!」

「今出てきたんだけど!?」

「家族風ぶ呂ろ的なやつがあるかもしれない。一いつ緒しよに入ろう!」

「家族でもないんだけど!?」

「将来的に一いつ緒しよになるから大だい丈じよ夫うぶ! ホテルの人も分かってくれる!」

「ぜ、絶対に無理だから! っていうか、入らないから!」

「小お倉ぐらとは入ったのに!? どうして!」

「どうしてもこうしても調しらべちゃんは女の子だし! ……うぅ、あーもうっ!」

 嘆なげいていると、胡桃くるみさんは呆あきれた表情を見せつつも吹っ切れたように声を上げた。

 そして顔を真っ赤にしながら俺の耳元に口を寄せると、小さく囁ささやく。

「か、帰ってから……水着ありなら、一いつ緒しよに入ってもいいわよ……っ」

「っ! よ、よし! 帰りの新幹線は何時かな?」

「まだ帰らないけど!?」

 スマホを取り出して調べようとしたら奪うばわれてしまった。

「……ねぇ、二人で何の話してるの?」

「べ、別になんでもないわよ?」

 訝いぶかし気げな目を向けてくる小お倉ぐらに対し、胡桃くるみさんはしどろもどろになりながらも誤ご魔ま化かしていた。

 きっと何も誤ご魔ま化かせてはいないのだろうけど。


☆


 小お倉ぐらの追つい及きゆうを回かい避ひしつつ部屋に戻もどろうと歩いていると、ある物を見つけた。

「ここ、卓たつ球きゆう台だいもあるんだ」

 エレベーターホールへと向かう道すがらに娯ご楽らく室しつがあり、その中央に本格的な卓たつ球きゆう台だいがドンと鎮ちん座ざしていた。近くにはラケットもあり『ご自由にお使いください』の文字も拝見できる。

「せっかくだしやってみる?」

 とは胡桃くるみさんからのご提案。

 もちろん拒きよ否ひなどしない。胡桃くるみさんと卓たつ球きゆうなんて最高。

 当然と言うか何と言うか、小お倉ぐらも二つ返事で参加を表明してきた。

「……小お倉ぐらは帰ってもいいのに」

「なんでよ。私も胡桃くるみちゃんと卓たつ球きゆうしたい。キャッキャうふふしたい」

「それは彼かれ氏しの俺がするから」

「……」

「……」

「ぼこぼこにしてやる」

「絶対負けない」

 というわけで、第一回戦は俺と小お倉ぐらの対戦となった。

 卓たつ球きゆう台だいを挟はさんで金きん髪ぱつギャルと対たい峙じ。

「じゃ、私は審しん判ぱんしてるね~」

 胡桃くるみさんは近くのベンチに座り俺と小お倉ぐらの両方にがんばれー、と声せい援えんを送っていた。

 かわいい。

「俺は経験者だからサーブはそっちからでいいぞ」

「……ふん」

 ピンポン玉を手にして小お倉ぐらが構える。

 その立ち姿を見るに、彼女もまた卓たつ球きゆうの経験がありそうだった。

 ところで、俺がわざわざ小お倉ぐらに勝負を仕し掛かけたのには単純にムカついた以外にも理由がある。

 それすなわち、胡桃くるみさんの前で小お倉ぐらを打ち負かしていいところを見せたいという純度百パーセントの下心だ。言われたい、胡桃くるみさんにきゃーきゃーと。

 言っているところは欠かけ片らも想像できないけれど。

 とにかく小お倉ぐらには悪いが、踏ふみ台だいになってもらうとしよう。

 ぎゅっとラケットを構え直すのと、小お倉ぐらがサーブを放ったのはほぼ同時だった。

 カンッカンッ、と乾かわいた音と共にピンポン玉が飛んできたので、救い上げるように打ち返す。

 すると小お倉ぐらも難なく打ち返し、しばらくラリーが続いて──。

「……っ」

 俺が空から振ぶり、小お倉ぐらに点が入った。

「二人とも卓たつ球きゆうできるんだ」

 にこやかな胡桃くるみさんの声に、しかし小お倉ぐらはじっと俺を見つめていた。

「……ねぇ、卓たつ球きゆうやってたんだよね?」

「そうだが?」

「……? そう」

 小お倉ぐらは不思議そうに小首を傾かしげた後、再度サーブ。

 それは強い下回転がかかっていた。

「っ、くそ!」

 手を出すも球ははじかれネットに引ひっ掛かかり、またもや小お倉ぐらの得点。

 すると小お倉ぐらが再度同じ質問を投げかけてきた。

「……ねぇ、卓たつ球きゆうやってたんだよね?」

「だからそうだって言ってるだろ? お前もなかなかやるようだな」

「な、なかなか……? まぁ、中学生の時は卓たつ球きゆう部ぶだったし。一年でやめたけど。そういうあんたはどこでやってたの?」

「俺は去年、体育の選せん択たく種目で卓たつ球きゆうを選んだ」

 因ちなみにほかの選せん択たく種目はバスケとサッカー。

 求められる運動神経の質が高すぎるんだよ。

「……それだけ?」

「あぁ、それだけだ。──さぁ、こい!」

「サーブはあんたからよ」

「おっとそうだった。せいっ」

 そうして放った俺のサーブは、

「──って言うか、そんな付つけ焼やき刃ばで敵かなうわけないでしょうがッ!」

 恐おそろしい速度のスマッシュにより容易に打ち返されてしまった。

 壁かべに当たり床ゆかを転がるピンポン玉。

 俺はそれを拾い上げるともう一度構えて──。

「そんなの、やってみないと分からないだろ!」

 スポコン主人公みたいな台詞せりふを吐はいたのだった。


☆


 ──負けた。

 得点は十一─三、完敗である。

「調しらべちゃん、凄すごいね!」

「え、えへへっ、そ、そう?」

 よいしょする胡桃くるみさんに、デレデレする小お倉ぐら。

 くそう、本当なら俺が褒ほめられたかったのに。

 しかし実力差があったのは事実。

 と言っても、最後の方はなんとか三点取り返したので頑がん張ばった方だろう。

 小お倉ぐらも本気で悔くやしがっていたので、情けを掛かけられたということもなさそうだし。

 そんなわけで負けた俺が胡桃くるみさんと場所を入いれ替かわり、二回戦は小お倉ぐらvs胡桃くるみさんのマッチが執とり行おこなわれる。

「よろしくね、胡桃くるみちゃん!」

「う、うん。お手て柔やわらかに……」

 対たい峙じする二人。

 小お倉ぐらが卓たつ球きゆう強かったのは正直意外だったが……、俺は知っている。

 ──胡桃くるみさんが運動神経抜ばつ群ぐんの完かん璧ぺき美少女であるということを。

 彼女は顔が良く、スタイルも良くて、性格もいい。加えて運動神経もいいのだ。

 思い出すのはアミューズメント施し設せつでバスケをした時のこと。

 サクサクと点を取られたのはいい思い出だ。

「ふっ、胡桃くるみさんは強いぞ」

 俺は胡桃くるみさんの後方のベンチに腰こし掛かけ、腕うでを組みながら告げる。

「へぇ、それはちょっと楽しみかも」

 ぺろりと唇くちびるをなめる小お倉ぐら。

「ちょ、ちょっと! ほんとにお手て柔やわらかにね?」

「がんばれ胡桃くるみさん! 胡桃くるみさんなら勝てる! 小お倉ぐらなんてやっつけろっ!」

「いくら彼かれ氏しだからって贔ひい屓きしすぎじゃない!?」

 小お倉ぐらが喚わめくが気にしない。

 俺はただ胡桃くるみさんを全力で応おう援えんするのみだ。

 サーブは胡桃くるみさんから。

「じゃ、じゃあ行くわよ……っ、えい!」

 ……掛かけ声ごえ可か愛わいすぎない?

 見事なフォームで放たれたピンポン玉は美しい曲線を描えがき──まっすぐネットに収まった。

 これがサッカーなら先制点だ。しかし困ったことにこれは卓たつ球きゆう。

「……」

「……」

 どうしたんだと俺と小お倉ぐらが視線を向けると、胡桃くるみさんは耳まで真っ赤にしながら再度構え直していた。

「……っ、も、もう一回っ、……んっ♡」

 今度は何な故ぜか色っぽい声だった。助かる。ありがとう。

 しかし胡桃くるみさんの放った球は、またもや綺き麗れいな曲線を描えがいてネットに一直線。

 これには小お倉ぐらも困ったようで、気まずそうに視線をそらす。

「あー、えっと……じゃ、じゃあ次私のサーブ……い、いくね?」

「……」

 顔を真っ赤にして返事もできない胡桃くるみさんに、小お倉ぐらがサーブを出す。

 ふんわりふわふわ、小学生でも簡単に返せる優やさしいサーブボール。

 胡桃くるみさんはジッと凝ぎよ視うししてラケットを握にぎりしめ、渾こん身しんのスイング。

 果たして──ボールは無情にも俺の足元に転がった。

 それはもう見事な空から振ぶり。

 コンコンとボールのはねる音だけが気まずい空気の中に響ひびく。

 すると、とうとう我が慢まんの限界が来たようで……胡桃くるみさんは赤くなっていた顔を手で覆おおうと、声を絞しぼり出だすように告げた。

「……じ、実はラケットとか道具とかを使う系のスポーツは苦手なのよっ」

 恥はずかしそうにする胡桃くるみさん。

 ここは彼かれ氏しとして慰なぐさめるべきだろう。

「そんな胡桃くるみさんも、たまらなく愛おしいよ」

「フォローになってないんだけど!?」

「大だい丈じよ夫うぶ、俺が教えるから」

「あんたも調しらべちゃんに負けてたじゃない」

「それでも一応勉強はしたから問題ないよ」

 小お倉ぐらを倒たおしてかっこいいところを見せよう作戦は失敗したので、変へん更こうである。

 今度は大学のテニサー所属のチャラ男が如ごとく、手取り足取り指導させていただくとしよう。

 俺は胡桃くるみさんを後ろから抱だきしめるように腕うでを取った。

「まず構え方はこう」

「……んっ、ちょ、ちょっと? ち、近いんだけど」

「そんなことないよ!」

「は、恥はずかしいし、離はなれてよ」

「離はなれたら教えられないじゃん」

「~~~~っ!」

 正直自分で言っていて意味が分からないが、反応が可か愛わいいので続けさせていただく。

「このラケットはペンホルダーだから、握にぎり方かたはこうじゃなくて、人差し指と親指でペンを持つみたいにして……そう、そんな感じ」

「も、もう、それくらい言葉だけでもわかるってば」

「……まぁ、本音を言うと好きな人と一分一秒でも触ふれ合あっていたいという下心なだけなんだけど。……そんなに嫌いやだった?」

 尋たずねると、胡桃くるみさんは顔を真っ赤にしたまま、小さく首を横に振ふる。

「べ、別に嫌いやだとは……もう、ずるい」

 その言い方が一番ずるいと思うのだけど。

 これはもういけるところまでいけるのではないだろうか?

 修学旅行中だとか、ここはホテルはホテルでもラブホじゃないよ? とか関係ない。

 暴走する愛は止められないのだ。

 なんて思っていると、

「だ、ダメダメダメ! せめて目の前はやめてっ!」

 悲ひ壮そうな声が聞こえて来た。

 誰だれだと思って視線をやると悔くやしそうな表情の小お倉ぐらの姿。やっべ、完全に忘れてた。

 胡桃くるみさんも同じだったのか、慌あわてて居住まいを正そうとして──しかしその前に小お倉ぐらは卓たつ球きゆう台だいを回り込んでこちらにやってくると、ラケットを持つ胡桃くるみさんの手を取った。

「わ、私も教える!」

「いや、問題ない。胡桃くるみさんには俺が手取り足取り教えるから!」

「ダメ。私の方が卓たつ球きゆう上う手まいから!」

「ちょ、ちょっと二人とも!?」

 慌あわてる胡桃くるみさんをサンドイッチにする形で小お倉ぐらと睨にらみ合あう。

 すると小お倉ぐらは俺が教えている途と中ちゆうだったラケットの握にぎり方かたを引ひき継つぐ形で教え始める。

「胡桃くるみちゃん! このタイプのラケットは裏を使わないから中指なんかで後ろを支えるようにすると打ちやすいよ!」

「し、調しらべちゃん!?」

 言いながら小お倉ぐらはその豊満な胸を胡桃くるみさんに押し付ける。

 人によっては嫌けん悪お感かんを抱いだいてもおかしくないだろうが、胡桃くるみさんはどっちもいけちゃう系女子。そのアピールは間ま違ちがってないだろう。

「胡桃くるみさん! ボールを打つ時はまず軽く向こうに届けることを意識して打つとやりやすいよ!」

「ちょ、ち、ちかっ……、ふ、二人とも、近いって! はわ、はわわわっ!」

 前門の巨きよ乳にゆう、後門の彼かれ氏しという状じよう況きように、あわわと顔を真っ赤に混乱する胡桃くるみさん。

 しかしここで引くわけにはいかない。

 胡桃くるみさんとイチャイチャするのは俺なのだからっ!

「胡桃くるみさん!」

「胡桃くるみちゃん!」

「わ、あわわわわわっ!」

 結局それから約三十分。

 指導という名のセクハラは、我が慢まんの限界を迎むかえた胡桃くるみさんが逃にげ出だすまで続くのだった。

 因ちなみに、混乱しつつも胡桃くるみさんの口角が少し上がっていたのを俺は見み逃のがさなかった。

 やはり小お倉ぐらは要注意人物かもしれない。

「胡桃くるみちゃん、めっちゃいい匂においだったんだけど」

「お前、中身おっさんなのか?」

「うるさい、変態」

「鏡見ろ鏡」

 胡桃くるみさんが逃にげてしまったこともあり、突とつ発ぱつ的てきに開かい催さいされた卓たつ球きゆう大会はお開きとなった。


5


「たけぇなぁ」

 夜も完全に更ふけて現在時刻は十時半。

 消灯時間も過ぎて、部屋の外に出ることを禁止されている時刻であるが、俺は廊ろう下かの突つき当あたり──立ち並ぶ自じ販はん機きを眺ながめて愚ぐ痴ちをこぼしていた。

 何てことはない、喉のどが渇かわいたので買いに来ただけだ。

 しかし流石さすがはホテル価格。どれもお高い。

(……そう言えば、売店は安かったな)

 一階までの移動となると先生に見つかる可能性もあるが……まぁ、いいか。

 いざとなれば物もの部のべ先生に頼たのむとしよう。一人のびのびと大浴場で疲つかれを癒いやしていたことを持ち出せば、きっと穏おん便びんに済ませてくれるはずだ。

 というわけでエレベーターに乗ってサクッと移動。

 売店で京都ブランドのお茶を購こう入にゆう。

 ついでに霞かすみへのお土産みやげをもう一度確かく認にんしておこうかな、なんて思い店内をぶらつこうとして俺の耳が聞きき逃のがすはずのない声を捉とらえた。

 しかし、どうしてこんな時間にこんなところで?

 疑問に思いつつ声の方へと向かうと、人気のない隅すみで胡桃くるみさんがスマホを耳に当てていた。

 それにしても、本当にこの場所とは縁えんがあるな。

(相手は気になるけど……盗ぬすみ聞ぎきはさすがに失礼だよな)

 だがそれとは別に折せつ角かくだし部屋まで一いつ緒しよに戻もどろうと、彼女の電話が終わるまでお茶を飲んで待っていると──俺のラブラブイヤーが思いとは裏腹に彼女の美しい声を拾ってしまった。

「それは……うん……いや、無理かなって……っ、う、うん」

 困ったような胡桃くるみさんの声。

 覗のぞく彼女の表情には、卓たつ球きゆうをしていた時のような笑え顔がおなど欠かけ片らも存在していない。

 胡桃くるみさんは下した唇くちびるを嚙かみ締しめて、電話の相手に何かを告げようとしては、飲み込むことを繰くり返かえしていた。

 修学旅行が始まってから、そんな雰ふん囲い気きは欠かけ片らも見せていなかったと思ったが……。

 そう言えば昨日の朝──つまりは修学旅行初日、集合場所の学校に向かう電車の中でも彼女は浮うかない表情を見せていた。

 それはまさしく今、目の前で見せているのと同じようなもので──。

「……でもっ、……うん、いや……あ、うん。──わかった。じゃあ、明日」

 思考している間に電話は終わったらしい。

 浮うかない表情の胡桃くるみさんはスマホを浴衣ゆかたの袖そでに戻もどすと、しばらくその場に立たち尽つくす。

 大きく息を吐はいて、もう一度スマホを取り出して操作。

 少しの間画面をじっと見つめると、小さく首を振ふって、スマホを再度袖そでに戻もどそうとしながら踵きびすを返して──そこでようやく俺に気が付いた。

「ぇ、ええ!? な、なな、なんでいるの!?」

「喉のどが渇かわいたからお茶を買いに来たんだ。つまり運命だね!」

「そ、それは偶ぐう然ぜんでしょうが」

「愛し合う二人が意図せず出会ったのなら、それは運命と呼ぶんだよ!」

「本質的には偶ぐう然ぜんも一いつ緒しよでしょ。……はぁ」

 胡桃くるみさんは大きくため息をつくと、ちらりと自らのスマホを見る。

 そこにはどういうわけか俺の連れん絡らく先さきが表示されていた。

 胡桃くるみさんは慌あわてて画面を消すと、浴衣ゆかたの袖そでに戻もどして咳せき払ばらい。

「ん、んんっ。……それより、聞いてた?」

「まぁ、少し。でも誰だれと何を話していたのかは聞こえてないよ」

「…………そう」

 小さく呟つぶやいて俯うつむいてしまう胡桃くるみさん。

 その表情はやはり、先ほどまでの浮うかないものだ。

 ──だからこそ、俺がやるのはただ一つ。

「胡桃くるみさん。何があったのかは分からない。だけど、俺は胡桃くるみさんの味方で、胡桃くるみさんが笑え顔がおになってくれるためなら何でもする。文字通り何でもだ。だから、何か悩なやみがあるのなら相談して欲しい。だって、俺は胡桃くるみさんの未来の夫だからね!」

 告げると、胡桃くるみさんは唇くちびるを尖とがらせて、

「……最後のは余計だと思うけど……でも、ありがと」

 少しだけ、笑えみを浮うかべてみせてくれた。

 正直、無理をしているのはまるわかりだったが。



 話を聞くため、場所を移して売店横のソファーに腰こし掛かける。

 時間も時間なので周りに人はおらず、穏おだやかなBGMだけが館内をゆるやかに流れていた。

 隣となりに腰こし掛かける胡桃くるみさんとの距きよ離りは近く、拳こぶし一つ分って感じ。

「お茶いる?」

「……そうね、貰もらってもいい?」

 腰こし掛かけてしばらく。無言でなんと切り出せばいいのか悩なやんでいる様子だったので、緊きん張ちようをほぐすためにと差し出すと、思いのほかすんなりと胡桃くるみさんは受け取った。

「ちなみに間接キスだね」

「そうね」

「……!?」

「……なに驚おどろいてるのよ」

 気にした様子もなく、キャップを開けてペットボトルに口を付ける胡桃くるみさん。

 コクコクと飲み込み、ありがと、と言って返してきた。

「……胡桃くるみさんから、照れが消えた?」

 いつもなら間接キスなんて言うと顔を真っ赤にしていたというのに。

 返していただいたペットボトルを眺ながめつつ呟つぶやくと、胡桃くるみさんがゆったりとこちらに寄りかかってくる。こ、これもどうしたというのか。いつもより積極的だ。

 しかし俺はクールな男。落ち着いて対処できるはずだ。

「く、くりゅ、くりゅみしゃんっ、どどど、どうしたの?」

 ね?

「あんたこそ……き、貴き一いちこそ、どうしたのよ」

「きっ──」

 名前まで!?

 以前一度呼んでくれたきり、全然呼んでくれなかったというのに!

 状じよう況きように付いていけずおろおろしていると、胡桃くるみさんがクスリと笑う。

「もう付き合い始めて半月以上よ? 間接キスだって気にしないし、名前も……うん。頑がん張ばってみた感じ」

「き、気にしないって……でも夕食のときはあーんですごい恥はずかしがってたじゃないか!」

「……っ、あれは! ほ、他の人が見てたから……それに言ったでしょ?」

 胡桃くるみさんは言葉を区切ると、俺の目をまっすぐ見つめて続けた。

「二人きりの時なら、素す直なおになれるって」

「~~っ」

「あっ、照れたぁ。私最近になってだんだんあんたのこと分かってきたけど、貴き一いちってば自分はぐいぐい押してくるくせに、自分がされるのは弱いわよね」

「そ、そんなことは」

「ん~?」

「ひょっ!?」

 否定しようとすると、胡桃くるみさんがさらに体重をかけて手を握にぎってくる。

 すべすべとした手は冷ひえ性しよう気味なのかひんやりとしていて、暖だん房ぼうが効いて温かい当所において、とても気持ちがいい。

 それは彼女も同じなようで……。

「手、すごい熱いね♡」

「愛の炎ほのおが燃え上がっているからね」

「そうなの? 気持ちいい」

 ダメだ! まったく効いていない!

 結局イケイケな胡桃くるみさんが落ち着くまで、俺は翻ほん弄ろうされっぱなしになった。


☆


 一ひと息いきついたところで、さてどうしたものかと考える。

 出来うることならこの弛し緩かんした空気のまま胡桃くるみさんに話してもらいたいものだけれど……あまり期待することは出来ないだろう。時間を掛かければ彼女は教えてくれるだろうが、長居していると教師陣じんに見つかる可能性も高くなる。

 そうなってしまえば本ほん末まつ転てん倒とうだ。

 なのでここは俺から尋たずねることにした。

「……それで胡桃くるみさん。何があったの?」

 迂う遠えんな問いに意味などない。

 単刀直入に切り込むと、胡桃くるみさんは一いつ瞬しゆん肩かたを強こわ張ばらせた。

 しかし、ぎゅっと拳こぶしを握にぎるとぽつぽつ話し始める。

「……お父さんがね、京都に居るの。それで明日の十一時、場所はこっちで指定していいから久しぶりに会えないかって」

 それが先ほどの電話だったのだろうか。

 別に会えばいいじゃないか、とは考えるまでもなく口に出来なかった。

 何な故ぜなら、俺は胡桃くるみさんが一人暮らしをしていることを知っているから。

 そしてそれが家族と上う手まくいっていないからこその結果だということも。

 だけど、具体的にどのような事情があったのかは当然ながら知らない。

 俺が知っているのは、何かがあって、胡桃くるみさんは一人で暮らすようになった。

 ただそれだけなのだから。

「会いたくないの?」

「……そうね。会いたくない。きっと会わなくちゃいけないんだけど……でも、どんな顔をして会えばいいのか分からない。──いえ、どんな顔をして会いに来るのかが分からなくて、会いたくない」

 初めて聞く、底冷えするような声。

 俺が驚おどろいたことに気付いたのか、胡桃くるみさんは自じ嘲ちようを浮うかべた。

「ごめんね。こんな顔、見せたくなかったのに……」

「何があったか聞いてもいい?」

「……聞いてもらってもいいの?」

「胡桃くるみさんのことで聞きたくないことなんて何一つないよ。それだけ俺は、古こ賀が胡桃くるみという女の子を愛しているからね」

「……ん」

 胡桃くるみさんはくすぐったそうに瞑めい目もくして首しゆ肯こうすると、ゆっくり昔のことを話し始めた。


 ある日、モデルとしてスカウトされた。仕事をこなしていると自分でも驚おどろくほどに成功した。するとある時から母親が、仕事の成功を自分のことのように、自分のこと以上に喜び始めた。

 そこから何かがおかしくなり始めた。

 順じゆん風ぷう満まん帆ぱんな仕事は、しかしあまりにも上う手まくいきすぎていて、怖こわくなって一度休もうと思っても母親のことを考えればそうもいかない。そうしてズレた歯車を回し続けた結果、古こ賀が家けは壊こわれてしまった。

 父親が「一度距きよ離りを置いた方がいい」と口にして家を出て行き、胡桃くるみさんも後を追うように家を出て、母親の元を離はなれ一人暮らしを始めた。

 そして、それからはどちらとも連れん絡らくを取っていなかった、と。

「……それで、一年ぶりに電話をかけてきたのが、二日前」

 二日前と言えば、修学旅行出発の前日だ。

「なるほど、それで元気がなかったんだね?」

「ん、まぁ、そんな感じ」

 話を聞く限り、会いたくないと語る胡桃くるみさんの気持ちが分かった気がした。

 同時に、会ってきちんと話をしないと、この問題の根本的解決にはならないということも。

 胡桃くるみさんの様子を見るに、気まずいから会いたくないといったような、単純な問題ではないことはわかる。隣となりに座る胡桃くるみさんは、どこか怯おびえているように見えた。

 父親が怖こわいのか、それとも……。

「胡桃くるみさんは、なにが怖こわいの?」

「……っ、わかるんだ」

「愛しているからね」

「もう。……でも、何だろ、今はまだ言葉に出来ない。ごめん」

「別に謝ることじゃないよ。胡桃くるみさんはどうしたいの?」

「……会いたくない」

 きゅっと、俺の浴衣ゆかたの袖そでをつかむ胡桃くるみさん。

 だから一々行動がかわいいんだって。

 俺は怯おびえる彼女を安心させるようにその手を握にぎりながら告げる。

「でも、胡桃くるみさんは会わなくちゃいけないって、そう言ったよね?」

「……ん。……会わないと、たぶん何も解決しないってことは、分かってる」

 でも、と彼女は不安に揺ゆれる瞳ひとみで俺を真正面から捉とらえて、

「怖こわいよ」

 と蚊かの鳴くような声で絞しぼり出だした。

 すっかり憔しよう悴すいしきっている様子の胡桃くるみさんだが、それも仕方がないだろう。

 胡桃くるみさんは中学生の時に俺を助けてくれたり、クラスの悪意が小お倉ぐらに集中した際に、すべてを投げ出してでも助けたりと、普ふ通つうの人なら怖こわくて出来ないことをできる人である。

 しかしそれは誰だれかを助けるため、という理由があってこそ。


 ──そもそも古こ賀が胡桃くるみという少女は、自分のことに関してはめっぽう弱いのだ。


 何せ、一度は飛び降りる直前まで追おい詰つめられたほどなのだから。

 むしろこうして誰だれかに相談してくれていることは大きな成長と言えるだろう。

 ならば俺がしてあげられることなんて一つしかない。

 それ即すなわち、胡桃くるみさんの背中を押すことだ。

「逃にげることも必要だ、なんて俺は言わないよ」

「……っ」

「進んだ先の結果はわからないけれど、逃にげた先の結果はわかるからね」

 例えばそれは、先ほどの小お倉ぐらと阿あ坂さかくんの一件。

 彼もまた悩なやんでいた。許してもらえるかどうかわからないけど謝罪するか、それとも逃にげるか。結果として彼は謝罪し、許してはもらえなかったけれど、それでもいい方向に進んだのは間ま違ちがいない。だが逃にげていれば……。

 俯うつむいて下した唇くちびるを嚙かみしめる胡桃くるみさんに俺は続ける。

「怖こわいのはわかる。でもやらなきゃいけないなら、やるしかないんだ」

「……だけどっ」

 胡桃くるみさんの怯おびえはまだ拭ぬぐえない。

 否、拭ぬぐうことなど無理なのかもしれない。

 ならば発はつ破ぱをかけるしかない。

「胡桃くるみさん。夕食の後のこと、覚えてる?」

「……えっと、調しらべちゃんのこと?」

「そう。あの時、阿あ坂さかくんは小お倉ぐらに謝罪した。許してもらえるか分からないけど、それでも」

「で、でも、あれは、彼が悪くて……」

「そうだね。悪いから謝罪するのが道理。しないことが間ま違ちがっているのは分かっていた。つまり、阿あ坂さかくんもまた逃にげた結果はわかっていたから、謝罪したんだ。まぁ、結果はあまり芳かんばしくはなかったけど、それでも以前よりはいい方向に進んだと俺は思ったよ。……胡桃くるみさんはどう思った?」

「……私もそう思った。けど……」

「俺は思うんだ。……どれだけ怖こわくても、しなきゃいけないことはある、って」

 やるしかないから、やる。

 結局のところ、それだけなのだ。

「……」

 俺の言葉を受け、胡桃くるみさんは俯うつむき黙だまり込こむ。

 十秒、二十秒と経過して、緊きん張ちようからか背中に嫌いやな汗あせをかき出した頃ころ──彼女は顔を上げた。

 その瞳ひとみはまだ不安に染まっていたけれど、胡桃くるみさんはゆっくりと声を絞しぼり出だす。

「あ、会いに行く前……一回抱だきしめて。……そ、それで、頑がん張ばるから」

 口をきゅっと横に結び、俺の手を握にぎる胡桃くるみさん。

 返す言葉は決まっていた。

「一回だけじゃなくて何回でも抱だきしめるよ」

「……ううん、一回だけで大だい丈じよ夫うぶ」

「いやいや、遠えん慮りよしなくても」

「遠えん慮りよとかそういうのじゃなくて」

「……」

「……」

「……えい」

 ぎゅっと抱だきしめる。

「なんで今!?」

「胡桃くるみさんに勇気を送り込んでいるんだ」

「下心しか感じないんだけど!?」

「そんなことはない! 愛情も感じるはずだ!」

「やっぱり勇気はないじゃない! もー!」

 ぷんぷんと可か愛わいらしく『私、怒おこってます』みたいな表情を見せる胡桃くるみさん。

 文句を口にしつつも、しかし離はなれようとするどころか大人しく収まっているあたり、嫌いやなわけではないのだろう。

「がんばって、胡桃くるみさん」

「……むしろ、最初からその一言だけでよかったのに」

 案外、俺が思っている以上に胡桃くるみさんの心は強くなっているのかもしれない。


☆


「さて、たっぷりイチャイチャしたことだし、そろそろ部屋に戻もどろうか」

 先生に見つかる前に早く帰らねば。

 ソファーから立ち上がって胡桃くるみさんを見やると、彼女は両手で顔を隠かくしながらぼそぼそと何事かを呟つぶやいていた。

「……もう、私はなんであんな……はぁ、確かに二人きりだったけど、修学旅行先のホテルよ? あぁ、もう。ほんと、疲つかれがたまってるから……?」

 どうやらいまさらながらに羞しゆ恥うちが顔を出したらしい。

 相も変わらず可か愛わいいなとほっこりしていると、

「……あ~? お前らこんな時間に何やってんだぁ?」

 どこか間延びした、そして聞きたくない声が聞こえてきた。

 振ふり返かえった先に居たのは見慣れた担任教師の姿。

「あー、こんばんは、物もの部のべ先生」

「おう、さっきぶりだな……じゃなくて、生徒は部屋にいる時間のはずなんだがなぁ?」

 暗にどういうことかと尋たずねてくる彼に、俺は躊ちゆう躇ちよなく答えた。

「逢あい引びきってやつですよ」

「ち、違ちがうけど!?」

「さっきまでそれはもう二人だけの空間を形成してイチャイチャしてました」

「はぁ……いつものやつか。ほどほどにしろよ、お前ら」

「私も!?」

 呆あきれたようにため息をつく物もの部のべ先生に、胡桃くるみさんは嘆なげく。

 そんな照れなくてもいいのに。

「ったく、ほんとこれだからバカップルは! 俺だって可か愛わいい彼女と旅行に行きてぇよ!」

「せ、先生……?」

 愚ぐ痴ちるように語る彼は平素とは様子が異なって見えた。

 いつもあけっぴろげではあるが、さすがにここまでぶっちゃけたりしない。

 彼は生徒に対しても比ひ較かく的てきフランクな対応をするが、それでも生徒と教師の線引きはきちんと考えているタイプの人間だ。

 どうしたのか……って酒くさ!

 胡桃くるみさんも気付いたのか鼻を押さえつつ、物もの部のべ先生に尋たずねていた。

「先生、酔よってます?」

「まぁ、強したたかにな。っと、そうだ。足りなくなったから買いに来たんだった」

 ふう、と大きく息を吐はいて物もの部のべ先生は売店の方へ。

 何とはなしに付いていくと、彼は京都の地ビールを三缶かんも購こう入にゆうしていた。おい教師。

「そんなに飲んで大だい丈じよ夫うぶなんですか?」

 胡桃くるみさんが再度尋たずねると、物もの部のべ先生は購こう入にゆうしたビールを大事そうに抱かかえながら答える。

「まぁ、大だい丈じよ夫うぶだ。学年主任にばれると怒おこられるだろうが……あの人もビール好きだし、いざとなればよいしょしながら奢おごれば許してくれるだろ」

 大人の酒への愛情を垣かい間ま見みた瞬しゆん間かんだった。

 その答えを受け、胡桃くるみさんは顎あごに手をやり彼の抱かかえるビールに視線をやる。

 物もの部のべ先生も気付いたのか、抱かかえ直なおしながら告げた。

「未成年は飲むなよ」

「の、ののの、飲まないですよ! 飲んだこともないですよ! ただ、どんな味なのかなぁ、って。大人がそんなに好きになるほどおいしいんですか?」

 その質問に、物もの部のべ先生は手元のビールに視線を落としつつ、そうだなぁ、と口にする。

「確かに、美う味まいっていうのもある。旨うまい飯食って、美う味まい酒を飲む。そういう楽しみ方もある! ……だけど、俺は酒の良さは酔よいにあると考えている」

「酔よい?」

「そうだ。何しろ、酔よっぱらうといろんなしがらみから解放されるからな。めんどくさいことを考えなくて済むし、悩なやんで眠ねむれなくなることもない。まさに魔ま法ほうの飲み物なんだよ」

 飲み過ぎると翌朝が辛つらいけどな、と苦く笑しようしながら付け足して、物もの部のべ先生はエレベーターの方へと踵きびすを返した。

「まっ、酒の味は二は十た歳ちになるまで我が慢まんするんだな。酔よっぱらうのは楽しいぞー。……それじゃ、他の先生方に見つかる前にさっさと部屋に戻もどれよ~」

 物もの部のべ先生はいつもより間延びした声で言い残し、どこか機き嫌げんよく鼻歌を歌いながら背を向けて去っていった。知らない人が見れば、とてもではないが修学旅行の引いん率そつ中ちゆうの教員だとは思わないだろう。……それにしても。

(酔よっぱらうのは楽しいぞ、か)

 思い出すのは初めて胡桃くるみさんの家にお邪じや魔ました日のこと。

 酒を口にこそしていないけれど、あの日俺たちはべろんべろんに酔よってしまった。

 ちらっと胡桃くるみさんを見ると、彼女も思い出していたのか顔を赤くしている。

「……確かに、楽しかったね」

「っ! ……そ、そう、だった?」

「えっ、覚えてないの!? 胡桃くるみさんが俺のファーストキスを奪うばったあの日のことを!」

「う、うるさい! 覚えてない! 全部忘れた!」

「それじゃあもう一度酔よっぱらって思い出そうじゃないか! 大だい丈じよ夫うぶ! 飲まなくても酔よえることは実証済みだから!」

「し、しない! 絶対しないからっ!」

「どうしてだ! 今はあの時とは関係性も違ちがうし、少し酔よいが回ったところで二人仲良く大人の階段を昇のぼろうじゃないか!」

「……っ」

 告げると彼女は押し黙って気まずそうに視線を逸そらした。

 たまにそうするけど、一体どういう意味なのだろうか。

 そろそろ聞いてみようかな、と思ったところで──足音。

 まさか別の先生が来たのではと一いつ瞬しゆん焦あせったが、そこに居たのは小お倉ぐらだった。

「胡桃くるみちゃん? 電話長いけど何か──って、なんで笠かさ宮みやもいるの?」

「運命だな」

「偶ぐう然ぜんよ」

 小お倉ぐらは俺と胡桃くるみさんを交こう互ごに見やり、やがて大きくため息を吐はく。

「はぁ……。とにかく遅おそかったのは逢あい引びきしてたってこと? 別に、付き合ってるし二人きりで会うのは何も言わないけど……でも、心配だからせめて遅おそくなるって連れん絡らくぐらい欲しかったな」

 どうやら小お倉ぐらは、なかなか帰ってこない胡桃くるみさんを心配して様子を見に来たらしい。

 それはなんと言うか、申し訳ない気もしないでもない。

「ご、ごめんね調しらべちゃん!」

「……ん、別にいいけど」

「ほ、ほんとにごめん!」

 拗すねる小お倉ぐらに謝罪の言葉を口にする胡桃くるみさん。

 まぁ、これに関しては悪いのは胡桃くるみさんなのだから仕方ない。

「……じゃあ、今日一いつ緒しよに寝ねてくれたら許してあげる」

 前言撤てつ回かい。こいつは悪だ。

「ほんと? いいよそれくらい」

「胡桃くるみさん!?」

「そ、それじゃあ早く部屋に戻もどろ! うん、すぐに戻もどろう!」

「え、あ、う、うんっ」

 そうして胡桃くるみさんの手を取ってエレベーターの方へと向かおうとする小お倉ぐら。

 俺は堪たまらず、そうはさせるかと小お倉ぐらが握にぎっているのとは逆の手を取ろうとして──、その前に胡桃くるみさんは小お倉ぐらに一声かけてから立ち止まる。

 そのままこちらに駆かけ寄よってくると、胡桃くるみさんは上うわ目め遣づかいに見つめて告げた。

「話、聞いてくれてありがと。おやすみ」

 それだけ言って、胡桃くるみさんは小お倉ぐらと部屋に戻もどっていった。

 個人的には仲良く二人で部屋に戻もどりたかったのだが……まぁ、行ってしまったものは仕方ない。スマホの画面を見るとすでに十一時を回っていた。

 今日はテーマパークに行ったり卓たつ球きゆうをしたりと忙いそがしかったうえに、修学旅行はまだ一日残っている。

「俺も、寝ねに戻もどるかな」

 一人ぼやいて部屋に戻もどろうとして、ぐぅ、と腹が鳴った。

 夕食が早い弊へい害がいだ。いや、卓たつ球きゆうをしたからか?

 兎とにも角かくにもカロリー消費の多い一日だったことには間ま違ちがいない。

 俺はホテルに併へい設せつされていたコンビニに入っておにぎりを購こう入にゆう。

 一人ゆっくり部屋に戻もどると、電気が明々と点ついた中で桐きり島しまくんや阿あ坂さかくんたちが雑ざ魚こ寝ね同然の様相で爆ばく睡すいしているのを発見した。辺りにはトランプが散らばっている。

 そう言えば俺も参加していたのだが、途と中ちゆうで飲み物を買いに出たのだったか。

「仕方ないな」

 途と中ちゆうで抜ぬけた申し訳なさもあるので散らばったカードをケースに戻もどしてから電気を消す。

 寒くないように暖だん房ぼうの温度を確かく認にんし、空気が乾かん燥そうしないよう加か湿しつ器きのスイッチも入れる。

「んぁ、戻もどったのか?」

「ごめん、起こした?」

「いや、問題ない。……何か手伝うか?」

「寝ねてていいよ」

「うい~」

 一いつ瞬しゆん顔を起こした桐きり島しまくんだったが、数秒の後にこてんと眠ねむりに落ちた。

 彼もかなり疲つかれていたのだろう。

 俺は部屋の奥にあるテーブルと椅い子すが置かれた謎なぞスペースに赴おもむき、買ってきたコンビニ飯を広げた。それにしても、ここなんていう名前なんだ?

 調べると広ひろ縁えんと言うらしい。

「なーんか、落ち着くんだよなぁ」

 なんて独り呟つぶやき、おにぎりを頰ほお張ばる。具は鮭さけ。

 重くないチョイスである。

 窓の外に視線を移すと、京都の街が一望できた。

 と言っても、時間も時間なので綺き麗れいというほど明かりはついていないが。

「……さて。明日どうなるか。だな」

 お茶を飲み、おにぎりを食う。

 何気なく見上げた夜空は、雲が星を覆おおい隠かくしていた。