書き下ろし番外編 とある公爵令嬢の初恋
──それはブラットが前世の記憶を取りもどす前、そして引きこもって〝黒豚〟と呼ばれるようになるよりもさらに前の、まだ
「マリー……なぜこれぐらいのことができないの!?」
ピシュテルの王都フォールフラット、フォークタス公爵家の邸宅。
その
声の主は、フォークタス公爵の妻ユリア・エル・フォークタス夫人。〝ピシュテルの至宝〟と
「……もうしわけありません、おかあさま」
マリーは涙をこらえて唇をきゅっと引きむすび、うつむく。
「いえ、奥さま……マリーさまはこの
レミリアが苦笑まじりにそうフォローする。
マリーのミスは、客観的に見れば大したミスではなかった。
そもそもマリーはまだ八歳。このぐらいの年齢の子であれば、ダンスとして見られるものになっている時点で優秀である。細かいミスをとがめるのは、酷と言えた。
しかし、ユリアは納得しなかった。
「上手なほう……では問題なの。この子はいずれ王妃となるのよ。このぐらいのことはすべて
「お……奥さま、それはさすがに酷です!」
「お黙りなさいレミリア、そもそもいまだにマリーがこの程度のダンスも完璧に踊れないのは、教えている貴女の責もあるのよ。いますぐ出ていってもらってもよいのだけど?」
「そ、それは…………それでも!」
レミリアは一瞬言いよどむが、それでも気丈に反論しようとする。
だがマリーはそこでレミリアの
「おかあさま……おどれないのは、わたくしがだめなせいなのです。れみりあはわるくないですわ。ぜったいにかんぺきにこなしますので、おゆるしください」
深々と頭をさげるマリー。
ユリアはしばしそれを厳しい目で見やり、それから鼻を鳴らす。
「……完璧に踊れるようになったら呼びなさい」
ユリアはそう言いのこし、さっさと中庭から立ちさってしまった。
マリーは母の背が見えなくなったところで、ホッと胸をなでおろす。
「マリーさま……ありがとうございます。しかし、大丈夫ですか? 今朝からずっと練習をしておられるのに、これ以上はさすがに倒れてしまうのでは……」
そうなのだ。すでに日が暮れはじめているのだが、マリーは今朝から満足に食事もとらず、ずっとダンスの練習ばかりしている。実際、疲労は限界に達していた。
「だいじょうぶ、すぐにおどれるようになるわ」
だが安心させるようにレミリアに笑いかけ、マリーはすぐに練習を再開する。
(いたい……やめたい……)
確かに疲労で脚はすでにガクガクだったし、腕もあげるだけで筋肉と関節が悲鳴をあげていた。
だがそれでも、続けなければならないのだ。
もしも完璧に踊れなかった場合、自分だけでなくレミリアまできつく叱責されること、そしてユリアが本当に食事を許さないことを知っているからだ。
今回ばかりではなく、ユリアはいつもあの調子だった。
ダンスだけでなく、勉強や礼節を教わっているときも頻繁に様子を見にくる。そしてマリーがミスをするたびに怒鳴りちらし、できなければ罰を与えるのだ。
(おうひさまになんて……なりたくないのに)
ユリアや周囲のものは、それが大変名誉なことだと言う。茶会で友人の令嬢と言葉を交わしたときも、みな口をそろえてうらやましいと言っていた。
実際に、そうなのかもしれない。
だが有力な公爵家の娘であるマリーは、王子であるブラットの婚約者となることが生まれながらにほぼ確定していて、そうなるべくして育てられてきた。
望んでもいないのに、王妃教育としてふつうの貴族子女の何倍もの苦労を強いられてきたのだ。
(ごほんを読んでいるほうが……ずっとたのしいわ)
それがどれだけ崇高なものか、マリーにはわからない。
だがこれほどにつらい
しかし、自分は公爵家の娘。
そのようなわがままがまかりとおるわけもない。そのこともマリーは幼いながら理解していた。
「……」
だからマリーは文句も言わず、完璧に踊れるまで淡々とダンスの練習を続けるのだった。
結局ユリアから食事の許可が出たのは、日付が変わる
*
「マリー、殿下にくれぐれも粗相のないように」
「はい、おかあさま」
マリーが相変わらず、厳しい王妃教育を受けていたある日のこと。
ユリアに見送られ、マリーは馬車で王宮へとやってきていた。
ブラットとともに森に遠乗りに行く約束をしていたためだ。マリーとブラットの乗馬の練習にくわえ、婚約者同士の
もちろん精鋭の騎士たちが護衛についてくるし、一方で今回はユリアはついてこないということもあり、マリーは気持ち的にはとても楽であった。
だが──
「あ、まりー! ひさしぶり!」
満面の笑みの
「……おひさしぶりでございます、でんか」
自分はこのブラットの婚約者だから──言うなればブラットのせいで、毎日涙を流さねばならないほどにつらく苦しい努力を強いられているのだ。
にもかかわらずこのブラットは顔を合わせると、いつもいつもヘラヘラと楽しげな表情をしている。それがマリーはなんだか妙に気に食わなかったのだ。
その顔を見るだけで、正直イライラしてしまう。
簡単に言えば、マリーはブラットが嫌いなのだった。
「たのしみだね! 森でやくそういっぱい見つけようね!」
「……やくそうなんて、わたくしべつにすきじゃありませんわ」
マリーの冷たい返しに、まわりの大人たちの空気が凍りつく。
だがブラットは底なしの能天気なのか、マリーの言葉の
その反応がまた気に食わず、マリーはふんっとそっぽを向いた。
そんなふうに先が思いやられる気まずい空気のなか、二人は遠乗りへと出発したのだった。
「一休みしましょうか」
森に到着してしばらく乗馬の練習をしたあと、騎士隊長が言った。
疲労がたまっていたこともあり、マリーも異論はなかった。
だが休憩が始まるとなんの余計なお節介か、騎士たちはいそいそと離れた場所に移動し、マリーとブラットは二人きりにされてしまう。
もともと親睦を深めるという名目だったからだろう。そうするようにどちらかの親から命じられていたのかもしれない。面倒なことである。
「あ、まりー見て! れいせんかずらだよ! こっちはあぶらりあだ!」
「……」
ブラットは目をきらきらとさせ、草木を物色して薬草採集を始める。
マリーはただそれを冷めた目で見ていた。
「まりー? どうかしたの?」
マリーがなにも言わないのを見て、ブラットはいぶかしげに
「でんかは……なやみもなさそうでいいですわね。いつもこうやってたのしくおすごしになっているのでしょうね。わたくしは毎日毎日だんすのおけいこをしたり、おべんきょうをしたりしてたいへんですのに。まったくのうてんきでうらやましいですわ」
「? ありがとう!」
皮肉を言ってしまうものの、ブラットは褒められたと思ったらしい。
その無邪気さが、マリーをさらに
「はっきりともうしあげます。わたくし、あなたがきらいなの」
歯止めが効かなくなったマリーは、思わずそう言ってしまう。
「ぼくはまりーのことすきだよ。お花みたいにきれいだもん」
だがブラットは気にした様子もなく、満面の笑みでそう返してくる。
マリーはその直球の褒め言葉に少し当惑し、だがこの状況でそんな言葉を返してきた能天気なブラットへの不快感がふつふつと
「なんで……そんなにへらへらしてらっしゃるのかわかりませんわ! わたくしは……きらいです。でんかのそういうとこが……とってもとっても、だいきらいなのですわ!」
マリーが声を荒らげると、ブラットはそこでようやくマリーが本気で怒っていることを理解したのだろう。これまでになく悲しげな表情を浮かべた。
(なんですの……そのかおは)
彼にそんな顔をさせたことに罪悪感を覚えるマリー。
だがそのあとには、いまさらそんな表情を浮かべるのは
「もう……いいですわ!」
いろいろな感情がないまぜになって自分でも制御が効かなくなり、彼の顔を見ているとさらに
「あ……まって! まりー、そっちは……!」
ブラットが制止するが、マリーはとまらない。
ブラットが見えなくなるまで、森の奥へ奥へと走っていった。
(でんかが……わるいんですわ、ぜんぶぜんぶ)
ひとり木陰にしゃがみこみ、
ぜんぶ、あのブラットのせいなのだ。
ブラットの婚約者でなければ──ブラットがいなければ、自分は毎日つらい想いをして勉強やダンスをしなくてもいい。ブラットがいるから自分はこんなにも苦しいのだ。
なのに、当の本人はそんなこと考えもしていないようで、いつもヘラヘラと笑っている。そんなことが許せるわけがない。自分が怒るのは当然なのだ。自分は悪くない。
(もう、このままどこかへ行ってしまおうかしら)
頭が冷えてきたところで、ふとまわりを見る。
だがそこがまったく知らない森のなかであり、あらためて自分がひとりぼっちになっていることに気づくと、とたんにさみしさが襲ってくる。
さきほどまでの威勢はどこへやら、もう皆のところに戻ろうかと思った──そのときだった。
「……!?」
キイイイイ!! という甲高い声が響きわたる。
振りかえると、そこにはゴブリンの姿があった。
「いや……」
まったく気づかなかった。
いつもマリーのそばには護衛の騎士がいて、もしも魔物が出てもすぐに討伐してくれた。だから魔物への警戒心が薄れてしまっていたのかもしれない。
「いや……いや……!」
邪悪な笑みを浮かべて近づいてくるゴブリンを見て、震える声を絞りだす。
悲鳴をあげたかったが、恐怖で大声が出なかった。
だが、いままさにゴブリンがマリーに襲いかかろうとしたとき──
「まりー!」
小さな人影が飛びこんできて、ゴブリンへと剣を
剣がゴブリンの腕を斬りつけ、ゴブリンはその痛みにあえいでのけぞる。
「で、でんか……?」
見ると飛びこんできたのは、ブラットだった。
マリーが
「にげるよ!」
「は、はい……!」
その後、二人が逃げるのと入れ違いで騎士たちがやってくる。
そしてあっというまに、ゴブリンは討伐された。
*
いつも温和な騎士隊長に鬼の形相でこっぴどく
「……」
マリーは護衛に見守られ、ブラットと並んで木陰に腰かけていた。
もしかするとほかにも魔物がいるかもしれないとのことで、騎士たちが周囲を見回りにいくことになり、そのあいだ二人は留守番していることになったのだ。
「なんで……たすけてくれましたの?」
おもむろに、マリーはブラットに訊ねた。
安心したところで、すぐに湧いてきた疑問だった。
ゴブリンに襲われる前、マリーはブラットにひどいことを言ってしまった。にもかかわらず、ブラットはマリーのことを助けにきてくれた。
剣術の
ゴブリンはきっと怖いはず。逃げだして騎士を呼んでくることだってできたはずなのに、ブラットは危険をかえりみずに助けに入ってくれた。それはいったいなぜなのか。
そんなマリーの疑問に、しかしブラットはきょとんと首をかしげる。
「なんでって……?」
「わたくし……あなたに、あんなにひどいことをゆったのに」
マリーがそう言うと、ブラットは思いあたったようにうなずく。
それから少し気まずそうに、
「それはだって……ぼくがまりーをいやなきもちにさせちゃったから。だからまりー、おこっちゃったんでしょう? ぼく、あやまらなきゃっておもって」
(……ちがう)
申し訳なさそうなブラットに、内心で首を振るマリー。
「ごめんね。いやなきもちにさせないようにがんばるから、ぼくまりーとなかなおりしたい」
(……ちがうの、そうじゃない)
冷静になれば、あきらかなことだった。
悪いのはぜんぶマリーで、謝らなければいけないのもマリーなのだ。マリーは自分がつらいのをブラットのせいにして、八つ当たりしただけなのだから。
にもかかわらず、彼から仲直りをしたいと言わせてしまっている。
それだけではない。
マリーはブラットが助けてくれなければ、ゴブリンに食べられていたかもしれない。彼に命を救われたのだ。だから謝って、それから感謝も伝えなければいけない。
そうは思うのだが、幼いマリーにはどうすればそんな自分の気持ちがしっかりと伝えられるのかがわからなくて、言葉の代わりに涙があふれてきてしまう。
「ごめん、なさい……っ、ごめん、なさい……」
涙声でやっとそれだけ絞りだすと、マリーが苦しんでいると勘違いしたのだろうか。
ブラットは慌ててマリーの顔をのぞきこんでくる。
「え、え!? どこかいたいの!?」
「……ちがい、ます……ちがい、ますの……っ」
自分なんかを気遣う彼を見て、もっと涙がとまらなくなってしまう。
この心優しい少年に自分はなんて態度をとってしまったのか、なぜ罵声を浴びせてしまったのか。
ブラットはなにも悪くないのだ。
自分が毎日毎日ダンスの稽古をしたり、勉強をしたりさせられているのも、それでつらい
今日のことだけでなく、これまでブラットに対して思っていたこともふくめて、マリーはあらためて心から彼に申し訳ないと思った。謝りたいと思った。
そんなマリーを見て、なにをどう勘違いしたのか──
「……だいじょうぶ、もうなにもこわくないよ。ぼくがまりーをまもるから。おとうさまがゆってたんだ。おとこはすきなこをまもるものだって。だからぼく、毎日けいこしてるんだ。いまはまだまだよわっちいけど、すぐすっごくつよくなる。だからだいじょうぶだよ」
ブラットはそう言い、自身の胸をどんと
それからマリーの頭をよしよしと優しくなでてくれた。
幼いブラットがそういったことに慣れているわけもなく、正直そのなでかたは上手とは言えないものだったが、それでもマリーはあたたかい気持ちになった。
(……?)
ふとそこで、ブラットの手のひらがボロボロなことに気づく。
まめがつぶれ、皮がめくれ、血が出た
(そっか……)
自分を助けてくれたときの斬撃──あれはとてもきれいな太刀筋だった。
ブラットやマリーぐらいの
にもかかわらず、彼が見せた見事な太刀筋。彼はたぶん、あれができるようになるまでに何時間何十時間も血のにじむ稽古をしてきたのだ。
(わたくし……ほんとばか)
冷静になれば、わかることだった。
たかが国王の妃候補にすぎない自分が、あれだけのことをさせられているのだ。国王候補の彼がただ楽しいことだけをして、毎日暮らせているわけがないではないか。
ふと、彼の披露した薬草の知識を思いだす。
薬草の名前をマリーの何倍もたくさん知っていた。きっと剣術だけでなく、勉強だってマリーよりも──マリーの何倍もたくさんしているのだろう。
そんな自身の愚かさに気づくと、マリーの
「ごめ、ん……なさい……ご、めんっなさい……ひぐっ」
号泣して謝罪しつづけるマリーにさすがに当惑していたようだったが、それでもブラットはずっとそばにいて無言でマリーの頭をなでつづけてくれた。
しっかりといろいろな気持ちを伝えなければと思いつつも、彼にそうされているのが心地よくて、マリーは彼の手のぬくもりにしばし身をゆだねてしまう。
「……」
このときのマリーは、まだ気づいていない。
罪悪感や感謝といった大きな気持ちの陰に隠れてしまっていたものの、心の片隅に彼への特別な感情──ほのかであたたかな感情が、確かに芽吹いていたことに。
この事件のあと──
マリーはこれまでと比較にならないぐらいに、王妃教育に自分から取りくむようになった。