布を敷いた寝台の長椅子に横たわる妃の身体に転々と光る赤い光、そこ中心に翠鈴は揉みほぐしていく。
「胃の腑が疲れているようです。食事には気をつけてください。青菜を中心に食べると調子がよくなります」
最後にそう助言をして翠鈴は施術を終える。隣で蘭蘭が茶を差し出した。
「薬湯です。お飲みください」
「ありがとうございます。食べすぎなのは自分でもわかるんですけど。
「食べる量を制限するのはあまりよくありません。どちらかというと身体を動かすことを意識してくださいませ。ぜひ朝夕の散歩に参加を」
翠鈴が言うと薬湯を飲み終えた妃は、素直に頷いた。彼女は貴妃で、今までは散歩に参加していない。
「わかりました。ふふふ、でも散歩じゃなくて、本当は私走る方が好きなんですよ。はしたないと言われてここへ来てからはしてませんが、実家では弟よりも速くて、父からは男だったらよかったのにって言われていたくらいなんです」
「あら、意外です」
翠鈴が言うと、妃はにっこりと笑った。
「誰にでも特技はあるものですわ。翠鈴妃さまこそ、このように得意なことがおありになるなんて思ってもみませんでした」
「私のは、生きるための術です」
話しながらふたりは、部屋の外へ出る。
「それにしても翠鈴妃さまに施術をしていただくとそれまでの不調が嘘みたいに身体が軽くなるんですね。本当は、翠鈴妃さまこそが、翡翠の手の使い手なんじゃないかって他の皆さまとお話ししていたくらいなんですよ」
ズバリのことを指摘されて、翠鈴はどきりとした。もちろん彼女は冗談として言っているのだが。
「ま、まさか……。あり得ないことです。恐れ多いですわ」
ごまかすためにそう言うと、妃は少しムキになった。
「でも、翡翠の手の使い手は陛下の宿命の妃と言うじゃありませんか。実際、陛下のご寵愛を受けられているのは翠鈴妃さまですし……」
とそこで、なにかに気がついたようで気まずそうに口を噤む。翠鈴の部屋の向かい側、一の妃の部屋から華夢が出てきたからだ。一番聞かれてはならない相手だ。
以前ならこんなことがあったら華夢は黙っていなかったはずだ。でも今はこちらを軽く睨んだだけで、女官を連れてどこかへ去っていく。
「ではまた……」
妃がホッと息を吐いて、自分の部屋へ戻っていった。
翠鈴はそのまま、遠ざかる華夢の背中を見つめた。
芸汎の一件からひと月が経った。
あの夜は熱を出した翠鈴だが、その後は問題なく回復し、体調も万全になった。食欲も戻り、ここのところなにを食べても美味しく感じられる。どうやら赤子もすくすく成長しているようで、お腹も少し膨らみだした。
身体を動かすことは、懐妊中もよいことという蘭蘭と宮廷付き医師の助言を受けて、散歩も再開して他の妃たちとの交流を楽しんでいる。
散歩には、貴人たちだけでなく貴妃たちも参加するようになった。翠鈴が芸汎を庇った一件がきっかけになったのは間違いない。
芸汎が翠鈴にしていた嫌がらせは華夢の意思だというのは、後宮中の者が知っていた。それまで散々彼女を思うままに操っていたのに、簡単に切り捨てたところを皆見ていたのだ。あの日から貴妃たちは、華夢を立てるのをやめて、翠鈴と貴人たちと交流するようになったのだ。
そしてある日の散歩終わり、腰のあたりが赤く光っているひとりの妃に気がついて翠鈴は施術をした。それをきっかけに、毎日時間のある時に、身体に不調を抱える後宮内の妃たちを部屋で診るようになったのである。
これは翠鈴としてもありがたいことだった。指圧の腕が鈍らぬよう蘭蘭や芽衣の身体を借りて施術は続けてはいたものの、若くて健康なふたりは、あまり練習台にはならなかったからだ。
翠鈴の診療室は、今や妃たちに大人気である。毎日行列を作るので、蘭蘭が張り切って一日に五人までと決めて表を作って管理している。予約はひと月先までいっぱいだ。
部屋へ戻ると、蘭蘭が施術する時に使っている敷布を畳んでいた。
「本日のお方は、先ほどのお妃さまでお終いにございます」
「あら? まだあと三人診るんじゃなかった?」
翠鈴が言うと、蘭蘭は首を横に振った。
「本日はこれから、翠鈴妃さまが宮廷医師さまの診察を受けることになっております」
そういえばそうだったと思い出して、翠鈴は自分の寝台に座る。そして先ほどの華夢を思い出した。
「蘭蘭、華夢妃は毎日どこへ行かれているのかしら?」
ここのところ彼女は毎日どこかへ出かけている。それが翠鈴は気になった。
蘭蘭が手を止めた。
「女官長さまの話ではご実家に行かれているそうですよ」
「ご実家に? そうなの……」
後宮の妃たちはそう頻繁に実家に帰ることは許されない。そもそも実家が遠い場所にある妃がほとんどだ。でも宰相の娘である彼女の実家は宮廷のすぐそばにある。また、翡翠の手の持ち主としてある程度の自由が許されているようだ。
「ご実家にあんなに頻繁に戻られるということは、やっぱり
「そうですね……。でも仕方がないですよ。あんなことがあった以上、皆さまお近づきになりにくいですから」
中庭での出来事を見ていた蘭蘭が言う。翠鈴としてもそれはまったく同意見だった。芸汎に対して彼女がしたことは、簡単に許されることではない。一時期は、後宮の中心にいた彼女が、今は完全に孤立している。なにか嫌なことが起こりそうな予感がして、それが翠鈴は心配だった。
「お腹の子は順調にございます。たくさん食べて、適度に身体を動かしてください」
お腹の子の診察は、翠鈴の部屋へ医師が訪問する形で行われる。
翠鈴の身体をひと通り確認した女性宮廷医師の言葉に、翠鈴はホッと息を吐いた。
「よかった……」
「もう少ししたら、お腹の中で子が動くのがわかるようになりますよ」
「え? もうですか?」
医師の言葉に、腹部を出していた衣服を整えていた翠鈴は、驚いて手を止める。
村でも赤子が生まれることはよくあった。お腹が大きくなった後は、外からでも赤子が動くのがわかったけれど、こんなに早くわかるとは思わなかったからだ。
医師がにっこりと微笑んだ。
「ええ、まだ外からはわかりませんが、母親は感じます。ポコポコと中から叩くような感じがしたらそれがそうです」
「ポコポコと……」
お腹に手をあてて翠鈴は呟いた。想像するだけで胸が温かいもので満たされる。その時が楽しみでたまらなかった。
懐妊が発覚してからの翠鈴は、お世辞にも安静にしていたとはいえない。そんな状況で元気に育っているか不安は尽きないけれど、少なくとも動いてくれれば安心できるだろう。
こんな風に思えることが嬉しかった。
子がお腹にいると知った時は、それによって変わってしまった自分自身の運命に悲観して、出産を怖いとすら思ったのに。今は健やかに生まれてくることを楽しみにしている。
他でもない子の父親である劉弦と生涯を共にする覚悟ができたからだ。今は世継ぎを生むという重圧よりも、彼と自分の子が生まれるのだという喜びに満たされている。
「ではまた三日後の同じ時間に参りますので……」
そう言って医師は、片付けをはじめる。が、部屋の外が騒がしいことに気がついて手を止めた。
「どうしたのでしょう?」
「なにかあったのでしょうか?」
翠鈴も首を傾げ、そう呟いた時。
「翠鈴!」
少し息を切らして、劉弦が入ってきた。
純金の糸で刺繍が施された黒い衣装の執務中の格好だった。
「りゅ……陛下!?」
翠鈴は、目を丸くして声をあげた。
毒蜘蛛の一件以来、ふたりは夜を翠鈴の部屋で過ごしている。翠鈴が皇帝の寝所へ行くために肌寒い夜に長い廊下を歩くのを、彼が嫌がったからだ。夜、執務が終わったら、彼の方が翠鈴の寝所へやってくるのは、もはや誰もが知るところで後宮に彼の姿があることには皆慣れた。けれど、昼間にやってくるのは珍しい。
先ぶれがなかったため、蘭蘭があたふたと玉座代わりの椅子を持ってくる。それを断り、彼は寝台に座る翠鈴の隣に腰を下ろした。
「陛下、執務中では……?」
尋ねると、大きな手で翠鈴の髪を撫でた。
「午前中の分は急ぎ終わらせた。今日は翠鈴の診察の日だと聞いていたから。気になったのだ」
診察に立ち会うために来たのだと言う劉弦に、翠鈴の頬が熱くなった。
一方で女性医師は眉を寄せる。診察中に、先ぶれもなく部屋へ入ってきたことに苦言を呈する。
「陛下……。お産の診察中にございますよ。お産は女人の仕事と古来から決まっております。陛下といえども診察に立ち会うなど……」
彼女は宮廷でも堅物として知られている。相手が皇帝とはいえ、お産のことに関しては黙っていられないのだろう。母親の身体が第一ということだ。
彼女の言う通り、水凱国の伝統ではお産に男性は手を出すべきではないとされている。出産は、本人の母親や産婆たちの領域で、子の父親は
だが劉弦は意に介さない。
「子と翠鈴が健やかであるかどうかは、今の私にとって最大の関心事だ。古来からの決まり事などどうでもいい」
決まり事などどうでもいいと言い切る劉弦に、医師が面食らったように瞬きをする。国の決まり事を重んじて政を行う皇帝の姿とはやや外れる発言だ。
「な、なれど、翠鈴妃さまとお世継ぎに関するご報告は、毎回この後、玉座の間にてきちんと……」
「それよりも早く知る必要があったのだ」
そう言って彼は、優雅に微笑んだ。その笑みに、もうなにを言っても無駄だと思ったのか、医師がため息をついて頭を下げる。
「翠鈴妃さまのお身体は健やかにございます。お世継ぎもまったく問題なく健やかにお育ちにございます」
それに劉弦が安堵したように頷いた。
翠鈴も追加で嬉しい報告をする。
「もう少ししたら、お腹の中で赤子が動くのがわかるようになるそうです。そしたら、私にも子が元気だとわかるので嬉しいです」
「子が動くのがわかるのか?」
劉弦がさっそく翠鈴を抱き寄せてお腹に手をあてて、首を傾げた。
「今は動いていないようだが」
「陛下、まだ外からはわかりませんよ。母親にわかるだけです。外からわかるようになるのはもう少し先です」
医師が、また少し驚いたように言う。こんな風に早合点するのも、普段の劉弦の姿とはかけ離れている。
「そうか」
少し残念そうにするその姿に、翠鈴はくすりと笑ってしまう。国を治める皇帝であり、龍神さまと崇められている彼のこのような姿を誰が想像できるだろう。
「動いた時は、一番に劉弦さまにお知らせします」
劉弦を落胆させないようにそう言うと、彼はにっこりと微笑んで、翠鈴を見た。
「必ずだぞ」
「で、では、私はこれで」
医師が、気まずそうに咳払いをして片付けをし、そそくさと帰っていく。
蘭蘭もにんまりと笑って、後に続いた。
ふたりきりになった部屋で、翠鈴は口を開いた。
「お世継ぎが健やかかどうかは、政にも影響しますからね」
医師と蘭蘭は別の意味に捉えたようだが、世継ぎの誕生は民の最大の関心事。彼が執務を抜けてまで、確認しに来たとしても不思議でないと思う。
だがそれに劉弦は、首を横に振った。
「政は関係ない。私と翠鈴の間にできる子だから心配なのだ。誕生を心待ちにしている」
甘い声音とまっすぐな言葉に、翠鈴の胸は高鳴って、幸せな思いでいっぱいになる。たとえこれが愛情でなくても、彼が自分を大切にしてくれるだけでいいと思えるようになったからだ。
でも翠鈴がこう思えるようになったのは、もうひとつ理由があって……。
――あの夢のおかげ。
翠鈴は心の中で呟いた。
毒蜘蛛に刺されて熱に浮かされていたあの夜に見た幸せな夢である。劉弦が頭を撫でて『私はそなたが愛おしい』と言ってくれたのだ。
もちろんそれは夢の中の出来事で、現で言われたわけではない。でもまるで本当に言われたかのように、甘く耳に残っていて、思い出すたびに幸せな気持ちになる。
「さて、報告を聞いたら安堵した。私はまた執務に戻る」
そう言う劉弦を、名残惜しい思いで翠鈴は見つめた。
「あまり無理をなさりませんよう」
そう言って、彼の耳のあたりの赤い光に手をかざす。光が消えると劉弦が心地よさそうに翠鈴の手に頬ずりをした。
「午後からは、皇后の選定の儀だ」
「皇后さまの?」
「ああ。本当は、子が生まれてから議題にあげるつもりであった。その方が家臣たちには受け入れられやすいからな。だがそれより早く、家臣たちより翠鈴を推挙するとの進言があったのだ」
そう言って劉弦は、心あたりがあるだろう?というような目で翠鈴を見た。
翠鈴は以前、貴人の妃たちが〝皇后は翠鈴がいいと父親に言う〟と言っていたことを思い出した。あの時は、ただ重たく感じた言葉だが、彼の皇后になる決意をした今は心強くて嬉しかった。
「でも、まだ世継ぎが生まれていないのにすんなりいくでしょうか」
「……まぁ、無理だろう。少なくとも黄福律は反対する。宰相で力もある奴が反対している限り強行するわけにはいかないな。国が乱れ、ともすれば内戦になりかねない」
「内戦に……」
恐ろしい言葉に、翠鈴はぶるりと震えた。
「劉弦さま、無理はなさらないでください。私は、早く皇后さまになりたいと思っているわけではありません」
国の平穏と、故郷の村の人たちの幸せ、後宮の妃たちの明るい未来。
望むものはたくさんある。でもそのために、なにかを犠牲にするのは嫌だった。
劉弦が微笑んだ。
「私としては翠鈴を早く私の皇后にしたい気持ちはあるが、国が乱れぬように皆が納得する形を模索する。だが、黄福律に関しては……」
そこで言葉を切って難しい表情になった。
彼は最後まで言わなかったが、翠鈴にその続きはわかった。
――おそらく説得は難しいだろう。
それは、彼の娘の華夢を見ていればわかることだった。皇后になることを使命として生きてきたであろう彼女を……。
先ほどの華夢の後ろ姿が目に浮かび、翠鈴の胸が痛んだ。
翠鈴が皇后になり、後宮の妃たちが自由になれば、彼女たちには明るい未来が訪れると確信している。
でも華夢に関しては、どうしてもそう思えないのがつらかった。
翠鈴を皇后へ推挙するとの家臣からの進言を受けて開かれた評議の場は、白熱した議論が交わされていた。
「翠鈴妃さまは、後宮の妃たちにも慕われているご様子、妃たちに皇后さまを選ぶ権利はないが、実際に後宮を取りまとめられるのは皇后さま。彼女たちの意見は重んじるべきかと」
「ですが皇后さまは、場合によっては、政にも携わることのあるお立場です。それだけでは……」
玉座に座る劉弦にとっては、
皇后は、常にその座にいるわけではない。龍神である皇帝と人の子である妃の間には、生きる期間に差があるためだ。だが国の安定のためにはいた方がいいのは事実だった。
民に慕われる皇后と、世継ぎがいれば民は安心する。だからこそ皇帝の寵愛のみで決めるわけにいかないのだ。多数の家臣の了承を得ることが必要とされる。
「陛下、陛下のご意見を伺いたく存じ上げます」
意向を尋ねられた劉弦はちらりと黄福律に視線を送る。彼は気持ち悪いくらいに無表情だった。
とりあえず劉弦は自らの思いを口にする。
「私は、私の皇后に翠鈴妃を所望する。彼女には他者を思う心がある。これこそが皇后にとってなくてはならぬものだ」
その言葉に、ある者は納得し、ある者は懐疑的な表情になる。
黄福律は相変わらず眉ひとつ動かさなかった。
ある家臣が心配そうな表情で口を開いた。
「ですが、言い伝えでは翡翠の手の使い手であり宿命の妃とされる方が皇后になられれば国が栄えるとあります。そうではない方が皇后さまになられると、民が不安になりませぬか?」
翡翠の手の使い手は皇帝にとって必要不可欠な存在だというのがこの国の常識で、だからこそ華夢が皇后になることが当然とされてきた。
「宿命の妃か……。黄福律、そなたの意見は?」
劉弦が水を向けると、彼はしばらく沈黙してから口を開いた。
「お世継ぎをお生みになられる翠鈴妃さまを皇后さまにと推す者がいるのは道理にございます。ですが翡翠の手の使い手が陛下のおそばにいられなくては、民は不安がりましょう」
「翡翠の手の使い手、……華夢妃のことだな」
劉弦が確認するように言うと、彼は劉弦の目をジッと見て頷いた。
「私どもの家に伝わる古文書には、代々翡翠の手は黄家の娘に引き継がれる、歴代皇帝の皇后さまは皆翡翠の手をお持ちだったとあります」
彼の言葉に、何人かの家臣がヒソヒソと囁き合う。
「やはり、前例通りにいくのがよいのでは?」
「ご寵愛はまた別だ」
彼らをちらりと一暼し、黄福律が挑むように劉弦を見た。
「むろん、陛下のお気持ちを第一に考えるべきにございますから、ご寵愛の深さのみに従って皇后さまをお決めになられたとしても、臣下としては従うしかございません」
『寵愛の深さのみ』という部分に力を込めて、わざと挑発するように彼は言う。民を不安に陥れ国を乱しても自らの思いを貫くのかと、暗に言っている。
皇帝に向かって宰相が
劉弦はため息をついた。
「民を不安にしてまでも私は結論を急ごうとは思わぬ。この議題は後日へ持ち越す」
今出せる結論を出し、劉弦は立ち上がり家臣を見回した。
「だが、翠鈴妃を皇后にという私の思いは変わらぬ。彼女は皇后に相応しい唯一の女人だ。いずれはそなたたちも、それを認める時がくるだろう」
そう宣言する劉弦を、黄福律が鋭い目で見ていた。
夜半過ぎ、自室の寝台にて翠鈴は目を覚ます。隣に、劉弦がいないのを確認して自分自身に呆れてしまう。毎夜ふたりは同じ寝台で寝ている。そのことに慣れすぎて、隣にいないだけで寂しくて目覚めてしまうのだ。
今夜彼がここへ来られなかったのは、国の端で嵐を伴う雷雲が発生したからだ。深刻な事態にならないよう念のため現地へ行くと伝言をもらった。だから彼が来ないのはわかっていて眠りについたというのに、たったひと夜のことでも寂しく思う自分がおかしかった。
寝台を出て窓際に立ち、布幕をそっと開ける。彼に会えないのは仕方がないけれど、せめて彼を彷彿とさせる月を目にしようと思ったのだ。
でも残念ながら窓の外に月は浮かんでいなかった。
翠鈴はしばらく考えてから寝所を出る。控えの間で気持ちよさそうに寝息を立てている蘭蘭のそばを通り部屋を出た。
今が何刻かはわからないが月が傾いているのだろう。中庭からなら見られるかもしれない。
途中廊下で、人の話し声がするのを耳にして足を止める。首を傾げながら行ってみると、普段から人が行かない廊下の突きあたりに、華夢と彼女の父親、黄福律がいた。
「わざわざなんだ? このような場に呼び出して」
黄福律が不機嫌な声を出した。
「お父さまは、いつも屋敷にいらっしゃらないじゃないですか。私の部屋は女官がおりますし」
「……で、話とはなんだ?」
秘密めいたふたりのやり取りに、翠鈴の胸がひやりとする。人目を憚る黄親子の話が、穏やかな内容でないのは確かだった。
「お父さま、どうにかしてください! このままではあの女が皇后さまになってしまいます。もうすでに後宮内では、あの女で決まりという雰囲気なんですよ。私、そんなの耐えられない。お父さまは宰相でいらっしゃるんだから、その力で早く私を皇后さまにしてください」
華夢が苛立った声で訴える。なるほど、ここのところ彼女がしょっちゅう実家に帰っていたのは、後宮にいたくないからという理由の他に、父親にこのことを言いたかったからなのだ。
福律が苦々しげに口を開いた。
「政はそのように単純なものではない。そもそもの原因は、お前があの小娘に先を越されたからだろう? 翡翠の手の使い手であり宿命の妃でありながら、陛下の寵愛を受けられなかった自分を恥じよ」
「それは……」
父親からの冷たい言葉に華夢は口ごもる。そこへ福律は畳みかける。
「陛下は今珍しいおもちゃに夢中になっていらっしゃるだけのこと、そのうちに飽きるだろう。そしたら今度こそ陛下の寵愛を勝ち取るのだ。そうすればすべてがうまくいく」
「でも……」
華夢は自信なさげに言って沈黙する。
はっきりと返事をしない華夢に、福律が舌打ちをした。
「使えん娘だ。今まで最高の教育を施したというのにすべて無駄にしやがって! だがそうだな……」
そこで言葉を切って思案する。しばらくしてなにかを思いついたように口を開いた。
「私に考えがある。成功すればお前は永遠に陛下の皇后でいられるだろう」
「お父さま、本当ですか?」
父親からの言葉に華夢が弾んだ声を出した。
「ああ、だからお前は私の言う通りにするのだ。詳細は追って伝える」
「わかりました、お父さま」
その言葉を聞いて、翠鈴は慌ててその場を後にした。
足音を立てないようにして、自分の部屋の寝所へ戻り、心を落ち着けるため窓の布幕の間から月のない夜の空を見上げた。
鼓動が不吉な音を立てていた。福律が口にした『考え』がいったいどのようなことなのか、見当がつかなくて不安だった。なにかとても嫌な予感がした。
地方から戻り翠鈴と再会し彼女の部屋で一夜を過ごした次の日の朝、劉弦を迎えたのは、家臣たちからの奇妙な祝福だった。
「陛下、私ども家臣一同は全会一致で翠鈴妃さまを皇后さまへ推挙いたします」
玉座の間にて宮廷のすべての家臣を背にした黄福律が平伏する。
劉弦は眉を寄せた。
「黄福律、そなたなにを考えているのだ?」
なにを企んでいるのだ?と聞きそうになるのをこらえて、劉弦は彼に問いかけた。
華夢と福律のやり取りについては、昨夜翠鈴から聞いている。華夢を皇后にすることを彼がまだ諦めていないのは確かだ。
次にどう出るか、注視しなくてはと思っていた矢先の出来事だった。満面の笑みを浮かべる福律の考えが読めない。
「私は、結論を急がないと言ったはずだ」
黄福律が面を上げた。
「娘から聞いたのでございます。翠鈴妃さまがいかに寛容な心の持ち主で、皇后さまに相応しい方なのかということを。もとより私は、国の平穏のみを望む身にござりますれば、翠鈴妃さまに立后いただくのが国のためと判断いたしました。他の者にもその旨伝えましてこのような結論と相成りました」
翠鈴の立后に反対していたのは福律と彼と親しい家臣たち。福律さえ賛成すれば否とは言わないだろう。
「つきましては、国の平穏と安定のため、翠鈴妃さまの立后の儀を急ぎ執り行いましょう。民を早く安心させなくては」
翠鈴の立后に賛成するだけでなく、急ぎことを進めようとする福律は、明らかになにかを企んでいる。このまま、彼の思惑に乗せられるわけにいかないと、劉弦は首を横に振る。
「翠鈴妃は世継ぎの出産を控えている。立后は生まれてからでも……」
「ですが陛下、後宮の妃たちは翠鈴妃さまの立后を心待ちにしておる様子。民にとっても皇后さまの立后は、喜ぶべきことにございます。急ぐにこしたことはございません」
福律の言葉に同調するように、家臣たちが「陛下、おめでとうございます!」と声をあげはじめた。
「翠鈴妃さまの立后を心よりお祝い申し上げます!」
福律の思惑はともかく、他の家臣たちは本心からの言葉だ。
後宮の妃たち、民のためだと言われたらそれ以上拒むこともできなくて、劉弦は仕方なく頷いた。
立后の儀は、日柄のよい日が選ばれて、夕刻大寺院にて執り行われた。
天候は荒れ模様、黒い雲がとぐろを巻く空のもと、天界へ続くと言われている断崖絶壁の崖のそばに設けられた祭壇にて、華夢が祈りを捧げている。翠鈴は祭壇のそばで跪き彼女を見ていた。
立后の儀にあたり、華夢が翡翠の手の使い手として祈りを捧げると提案したのは黄福律だ。あの夜彼は『私に考えがある』と言っていた。
これがその考えなのだろうか? 立后の儀という国家行事で大役を果たせば、翡翠の手の使い手として盤石な地位が築けると?
それにしても、それだけのために翠鈴の立后に賛成するだろうかと、翠鈴は訝しむ。
この件の詳細を聞かされているのだろうか、華夢がどこか得意げに祈りを捧げている。
「……緑翠鈴が皇后として、末長く在るよう祈りを捧げます」
祈りの言葉を終えて、華夢が祭壇の上にひれ伏した。
ずらりと並ぶ家臣たちの中から黄福律が立ち上がる。劉弦と翠鈴、それからこの儀を見守るすべての家臣と妃を見回し、口を開いた。
「翠鈴妃さまの立后を心よりお喜び申し上げます。黄一族は、皇帝陛下と皇后さまに永久に忠誠を誓います」
そう言って頭を下げる。その彼の言動に一同息を呑んだ。玉座に座り事態を見守っている劉弦も意外そうに眉を上げている。
娘を皇后にするということにつき、対立してきた皇帝とのやり取りに終止符を打つということだ。本当ならばよい話だが……。
福律が、祭壇の上の自らの娘に視線を送った。
「忠誠の証として、黄一族は、翡翠の手の使い手である華夢を、陛下の
その言葉に翠鈴はハッとする。劉弦が眉を寄せ、家臣がざわざわとしはじめる。
――黄泉の国の皇后。
つまり
思いもしなかった彼の言葉に、翠鈴が華夢を見ると彼女は驚愕し目を見開いていた。
「お父さま……?」
福律が歩きだし、祭壇に上がる。華夢が恐怖に顔を引きつらせた。
「華夢、お前の望みを叶えてやる。陛下の皇后になりたかったのだろう?」
福律の言葉に首を横に振った。
「そんな……。私……」
劉弦が立ち上がり声を荒らげる。
「福律!! やめろ! 私はそのようなことを望んでいない!」
玉座を下りて祭壇の下までやってくるが、すでに華夢のそばまで来ている福律に迂闊に近寄ることができない。
「ダメ! やめて!!」
翠鈴も劉弦の隣に駆け寄った。
福律が振り返り、劉弦に向かって両腕を広げた。
「陛下、古来より祈りを捧げる際の生贄はなくてはならないもの。願いが深ければ深いほど高貴な生贄を捧げるべきにございます。……寵愛のない宿命の妃にはぴったりの役割。翠鈴妃さまの立后につき私ども黄一族がどれほどのものを差し出したのか、よく覚えていてください」
残酷な言葉を口にして、翠鈴に向かって頭を下げた。
「翠鈴妃さま、私どもは華夢の代わりにあなたさまを娘とし、末長く後見することをお約束いたします」
つまり華夢を切り捨て、翠鈴を娘に挿げ替えて、権力を誇示しようというわけだ。
信頼していた父親に裏切られた華夢は、色を失っている。その彼女に福律が頭を下げた。
「黄泉の国の皇后さま、彼方の世界で陛下をお支えください。あなたさまは、黄一族の誇りにございます」
にやりと笑みを浮かべる福律に、翠鈴の背中がぞくりとする。考えるより先に、祭壇の床を蹴った。
「ダメー!!」
「翠鈴!!」
劉弦の声も耳に入らなかった。
父親に肩を押されて真っ暗な崖に倒れ込む華夢が妙にゆっくりと見えた。ひらひらと舞う彼女の長い袖を掴もうと手を伸ばし、翠鈴も祭壇から身を乗り出す。
ぐらりと身体の均衡が崩れ、翠鈴も真っ暗な崖の向こうへ……。
ひゅおおお、という谷から吹き上げる雄叫びのような風の音を聞き、恐ろしさに目を閉じる。谷底へ落ちてゆくのを覚悟した時――。
柔らかいものに受け止められたのを感じて目を開くと、華夢と共に銀色の龍に抱かれていた。
「劉弦さま!」
「……無茶をするな。そなたは無理のできない身体だというのに」
安堵したように劉弦が言う。群衆からどよめきがあがった。
「皇帝陛下!!」
「龍神さまだ……!」
真っ黒な空に輝く美しい龍の姿に、跪きひれ伏して涙している者もいる。皆、劉弦の本当の姿を見るのははじめてなのだ。
劉弦がゆっくりと夜空を飛び、崖から離れた安全な場所へ翠鈴と華夢を降ろした。
呆然として座り込む華夢が無事だということに安堵して、翠鈴はホッと息を吐いた。
「華夢さま……よかった」
とにかく助かったのだ。これだけ崖から離れていれば、もう安心だ。
「陛下……? 翠鈴妃さま……」
劉弦と翠鈴を交互に見て、ぼんやりとしている。この状況をまだよく理解できていないようだ。
――そこへ。
「ああああああ!」
雄叫びをあげて走りだしたのは、黄福律だ。彼はそのまま龍の姿の劉弦に突進した。
「ぐっ!」
劉弦の顔が苦痛に歪み、夜の空に飛び上がる。彼の前脚に短剣を突き立てたままの福律も一緒だった。
「陛下……!」
「宰相さま!!」
国の宰相が皇帝に剣を突き立てるという状況に、皆驚愕して動揺する。
福律は劉弦の上に馬乗りになり、突き刺さったままの短剣を引き抜く。ギラリと光る冷たい刃物は、赤い血に染まっていた。劉弦が苦しげに口を開いた。
「無駄なことだ、もはや諦めよ」
「くそお! すべてうまくいっていたのに。皇帝陛下! あなたが、華夢を寵愛しさえすれば! あの娘が来なければ!」
やけになった福律が喚いた。
「翠鈴が来なくても私は華夢妃を寵愛しなかった。彼女は私の宿命の妃ではない。福律、おぬしはそれを知っていたのであろう? 古文書の話は眉唾物だな」
劉弦の言葉に、翠鈴のそばで華夢が「え……?」と掠れた声を出した。
「はっ! 面白いことをおっしゃる。まさか陛下ともあろうものが、宿命の妃などありもしない存在を信じておられるのですか? 翡翠の手も宿命の妃もただの言い伝えでしょう! そんなものはこの世に存在しない。だったら家柄のいい私の娘がなるのになんの問題があるのです?」
すべてを暴露しはじめる福律の言葉に群衆がどよめいた。
「
不穏な言葉に群衆が静まり返ると、福律は鼻を鳴らした。
「先の皇帝の治世で反逆罪に問われた緑族は、ただ我ら黄族に濡れ衣を着せられただけのこと。皇帝は我らの言うことを信じて宰相に重用した。つまり騙されていたのです。なにが神だ! なにが皇帝だ!」
「なるほど、それが古文書に書かれていたことだな」
劉弦の問いかけに福律が弾かれたように笑いだした。
「はははは! 民も富も権力も、すべて私のものにございます、皇帝陛下。以前の弱りきったあなたさまのままであられたら、こんなことしなくて済んだのです。もはやこの国にあなたさまは、不要にございます!」
そう言って憎しみのこもった目で劉弦を睨む。身体を大きく反らして、再び短剣を振りかざす。
「陛下! ご覚悟!」
真っ黒な雲に真っ白な光が走り、雷鳴が
「あ、ああー!」
短剣を振り上げた格好のまま、崖の下の谷底へ消えていった。
「劉弦さま!!」
翠鈴が彼を呼ぶと夜空の上で苦しげに一回転した後、地上に降り立ち人の姿に戻る。純金の刺繍が施された外衣の肩のあたりがどす黒い血の色に染まっている。
「陛下!」
「龍神さま……!」
あまりのことに近づけずにいる群衆を背に、翠鈴は駆け出した。
愛おしい人が流す血に気が動転する。
「劉弦さま! 血が……!」
「翠鈴、走るな。無茶をするなと言っただろう。そなたは無理のできぬ身体。これくらいは大事ない」
大事ないと言いながら彼は地面に膝をつく。額に汗が浮かび、息が荒い。
血の上の真っ赤な光に、翠鈴は考えるより先に手をかざす。彼の傷と苦痛を少しでも和らげたい一心だった。
途端に、劉弦がまばゆい緑の光に包まれる。
群衆から、「おおー!」という声があがった。
光が消えると同時に、傷は塞がったのだろう。劉弦の表情が楽になる。そのまま翠鈴を抱きしめた。
「無茶をするなというのに」
耳元の声音に力強さを感じて翠鈴はホッと息を吐く。大きな背中に腕を回した。
「このくらい、なんでもありません。劉弦さま、よかった……」
一連の出来事を、固唾を呑んで見守っていた者たちから、誰ともなく声があがる。
「傷が消えた?」
「翡翠の手だ……」
「翠鈴妃さまが……?」
「皇帝陛下の傷を癒やしてくださった。翠鈴妃さまが、翡翠の手の使い手だ」
「宿命の妃だ!」
その中から、悲痛な声があがる。
「そんな……! 嘘、嘘よ……!」
華夢だ。彼女は古文書の本当の内容は知らなかったのだろう。父親に騙されていた事実を受け止めきれず、首を振っている。
「華夢妃を安全な場所へ連れていき、手当てするように」
劉弦が指示すると、数人の従者が彼女を抱えるように連れていった。
劉弦が見守る人々に向かって宣言した。
「私は、翠鈴妃を皇后とする。私は彼女を唯一の妃とし、彼女がこの地に在る限り、末長くこの国に平穏と繁栄をもたらすと約束しよう!」
――その瞬間。
どどどと夜空を揺るがす歓声が、群衆からあがる。空を覆っていた厚い雲の隙間から月明かりが差し込んだ。
「翠鈴妃さま!」
「皇后さま!!」
「おめでとうございます!」
広大な国土を持つ水凱国で、長きにわたり続いた民の憂いが、今完全に晴れていく。
水凱国の新しい時代が幕を開けた。
「まったく……。なにもなかったからいいものの、無茶をするなと言うのに……。崖の向こうへ翠鈴の身体が倒れ込むのを目にした時は肝が潰れそうな心地がした」
夜更けの皇帝の寝所にて、寝台に入り身体を起こした翠鈴を後ろから抱いている劉弦が、ぶつぶつと小言を言っている。眉を寄せ、厳しい表情ではあるが、その手には温石が握られていて優しい手つきで翠鈴の身体を温めている。
「申し訳ありませんでした……」
背中に感じる彼の身体を心地よく感じながら翠鈴は謝った。
「私のお腹にはお世継ぎがいることを、これからは肝に命じます」
今までも自覚していたつもりだが、翠鈴の周辺が騒がしくて自分の身体を第一に考えられていなかった。でも立后の儀を終え、翠鈴に反対する勢力もなくなったこれからは、大切にできると思う。
劉弦がため息をついた。
「だから、世継ぎうんぬんは関係ないと申しておるのに……」
そう言って劉弦は翠鈴の顎に手を添えて優しく振り向かせる。自身も覗き込むようにして、すぐ近くからジッと見つめた。
「私は、翠鈴自身が大切なのだ。お腹の子も世継ぎだからではなく翠鈴との子だから心配なのだ。これからは自分を大切にすると約束してくれ。そなたを想う私のために。でなければ、ずっとここに閉じ込めておかなくてはならなくなる」
熱のこもった眼差しに翠鈴の頬が熱くなる。鼓動が速くなるのを感じながら、翠鈴は頷いた。
「こ、これからは自分の身体を第一に考えるとお約束します……。世継ぎを宿しているからではなく、私を想ってくださる劉弦さまのために」
「ん、よろしい」
劉弦が微笑んで翠鈴の頬に口づける。その笑顔と甘い感触に、どうにかなってしまいそうになる。心を落ち着けるために、少し関係のない話題を口にする。
「皆落ち着いたでしょうか?」
波乱の立后の儀が終わった後、身重の翠鈴はすぐに医師のもとへ運ばれた。そのまま診察を受けて劉弦の寝室へ落ち着いた頃、彼がやってきたのである。
あの後、大寺院に残っていた皆がどうしたのか知らないのだ。
「ああ、妃たちは後宮に帰し、家臣たちもそれぞれの屋敷で待つよう命じた」
「華夢妃さまは?」
「身柄を拘束された。明日以降事情を聞かれることになるだろう。だが、あの状態では……」
自分が翡翠の手の使い手ではないと知った彼女の嘆きはすごかった。ずっと信じてきたことが根底から崩れ落ちたのだ、当然だろう。
「華夢妃さま、おつらいですね」
翠鈴が言うと、劉弦がふっと笑みを漏らした。
「そなたは、また……。人のことばかりだな」
そして翠鈴を包む腕に力を込めて、耳元で囁いた。
「だが、だからこそ、私は翠鈴に惹かれるのだ。愛おしいと思うのだな」
「……え?」
その言葉に、翠鈴は目をパチパチとさせた。
「どういうことですか? 劉弦さま」
思わず聞き返してしまう。聞き間違いじゃないかと思うくらいだった。だって、神である彼の口から愛おしいという言葉が出るなんて。
劉弦が眉を寄せた。
「どういうこととは、どういうことだ。そのままの意味に決まっているではないか。いつかの夜にも言ったであろう? 私は翠鈴が愛おしい」
「愛おしい……いつかの夜って……」
混乱しながら翠鈴は記憶を手繰り寄せる。
そして熱が出ていた夜の夢に思いあたった。
「まさかあれ、夢じゃなかったの……?」
唖然として呟くと、劉弦が頷いた。
「そうか、翠鈴は眠りに落ちていたのだな。ならもう一度言おう。いや何度でも繰り返そうか。私は翠鈴を愛おしく思う」
「そんな……だけど、劉弦さまは……」
神だから、そのような感情はないと思っていた。
翠鈴の言いたいことがわかったのだろう。劉弦が目を細めた。
「神が人を愛さないと誰が言ったのだ? いや私もはじめはそう思っていたのだが……。だが翠鈴を誰よりも大切に思い、ずっとこうしていたいと願う。これが人で言う愛おしいという感情ではないのか?」
自分を見つめる熱のこもった眼差しを、信じられない思いで翠鈴は見つめる。
慈しむような視線。自分を包む温かい腕……。
そして、彼が自分に向ける気持ちの正体をはっきりと、理解する。なぜなら、自分も同じ気持ちを抱いているから。
「……はい。そうだと思います」
翠鈴も、彼を誰よりも大切に思い、ずっとこうされていたいと願う。
「私も劉弦さまを愛しく思います」
胸をいっぱいに満たしている温かな想い、それを飾ることなく口にする。今までは言えなかった気持ちだ。
劉弦が目を細めて翠鈴の頬を手で包む。その感覚を心地よく感じながら翠鈴は目を閉じた。
愛おしい人と、心を通わせてはじめての幸せな口づけだった。