夜は毎日、劉弦の寝所で過ごす翠鈴だが、朝食は決まって自分の部屋でとることにしている。芽衣と蘭蘭と一緒に食事をするためである。

 宴から半月が経った日の朝、肉入り饅頭を手に翠鈴はため息をついた。

 隣に座る蘭蘭が心配そうに眉を寄せた。

「食欲がないようですね、翠鈴さま。昨日も饅頭をお食べになっていませんでした」

「そうなの。ちょっと饅頭は食べられそうにないわ」

 皿に戻して答えると、彼女は心得たとばかりに頷いて、果物の皿と交換した。

「この時期は、体調が悪くなって食べられるものが限られてくるものです。果物はどうですか?」

「……果物なら食べられそう」

 答えて、ようで桃を刺し、口に運ぶ。冷たくて美味しかった。

「でも、果物だけじゃ、お腹の中のお世継ぎが大きくなれないんじゃないかしら」

 向かいに座る芽衣が、心配そうに眉を寄せる。蘭蘭が答えた。

「お腹に子がいるということに、翠鈴さまの身体が慣れるまでは仕方ないんですよ。ご心配には及びません、私の母は弟がお腹にいる時は、毎日うりしか食べませんでしたけど、弟は町いちの暴れん坊に育ちましたから」

 その言葉に、芽衣は安心したように頷いた。

 彼女の後ろで給仕をしている洋洋が張り切った声を出した。

「ならば、翠鈴妃さまが食べられそうなものをお屋敷からどっさり届けていただきましょう」

「そうね、そうするわ。食べられそうなものがあったら教えて、翠鈴」

 翠鈴は慌てて首を横に振る。

「そういうわけにはいかないわ」

 屋敷とは芽衣の実家のことだ。芽衣が食べるものならともかく、翠鈴のために食べ物を送ってもらうわけにはいかない。仲良しだからといってそこまで頼るわけにはいかないだろう。

 でもそれを芽衣が一蹴した。

「あら、いいのよ翠鈴。お父さまは、翠鈴のためならなんでもするのよ。ねえ、洋洋?」

「はい、芽衣妃さま。翠鈴妃さまは芽衣妃さまの恩人にございます。私からも旦那さまによーくお伝えしてございますから、ご遠慮はなさらないでくださいまし」

「それにねえ、翠鈴」

 芽衣がふふふと笑った。

「実はお父さま、陛下から直接頼まれたらしいのよ。身寄りのない翠鈴の後ろ盾になってやってほしいって。本当に、陛下は翠鈴にぞっこんよね。んふふふふ」

 からかうように言って笑っている。

「ぞ、ぞっこんって……そういうわけじゃないと思うけど……」

 翠鈴は言って、楊枝を置く。そして複雑な気持ちになった。

 あの宴の夜から、このようなことを周囲からたびたび言われるようになったのだ。おそらく、劉弦が翠鈴を『愛おしく思う』と皆の前で口にしたからだ。

 あの言葉はあの場を収めるための方便で、彼の本心ではない。神である彼が翠鈴にそのような感情を抱くわけがないのだから。でも他でもない彼自身が口にした言葉を否定するわけにもいかなくて、翠鈴は困ってしまう。

「陛下は龍神さまなんだから、人と同じように考えるべきじゃないと思うけど……」

「えー、そうかな? 陛下が翠鈴を寵愛してるのは確かでしょ? そうじゃなきゃ、皇帝がいち家臣に『頼む』なんて言う? あり得ないよ。これでお世継ぎが無事に誕生して、翠鈴が皇后さまになったら、この国は安泰ね」

 芽衣がそう言って、にっこりと微笑む。

 その時。

 ――バシャン!

 入口の方で水音がする。同時に扉の下から大量の泥水が部屋へ流れ込んできた。

「やだ! なに!?

 芽衣が立ち上がる。

「翠鈴妃さまと芽衣妃さまは、長椅子の上に」

 洋洋が蘭蘭と共に扉を開け、水の正体を確かめる。外にいたのは、華夢つきの女官だった。泥水が入っていたと思しきおけを手にしている。華夢本人はおらず、代わりに華夢の取り巻きの妃たちが笑みを浮かべて立っていた。

ズーハン妃さま、これはいったい……」

 その中のひとりに、洋洋が問いかける。

 チョウ芸汎が口を開いた。

「なにって掃除をさせていたのよ。汚れてるみたいだから」

 彼女は言って、長椅子に避難している翠鈴と芽衣を見る。まるで汚れているのはそこだというかのようだった。周りの妃がくすくすと笑った。

「この辺りは本来貴妃しかいちゃいけないのに、卑しい出自の者がうろうろするなんて嘆かわしいわ」

「だからこまめにお掃除しなきゃ」

 どうやら掃除という名目で、泥水を流し入れたようだ。

「す、翠鈴は、お世継ぎを身ごもっているのよ。なにかあったらどうするおつもり? ただでは済まないんだから!」

 憤る芽衣を、芸汎が鼻で笑った。

「世継ぎを身ごもられたとしても出自は変えられないわ、芽衣妃さま。……本当なら華夢妃さまが身ごもられるべきだったのよ。翠鈴妃さまが身ごもられたのはただの間違い。さすがは卑しい出自の者、陛下をたぶらかす術をお持ちなのね」

 たまりかねたように洋洋が口を挟んだ。

「芸汎妃さま、このようなことは今後お控えくださいませ。華夢妃さまの品位に関わりますよ」

 今回に限らず同様の嫌がらせは、ここのところ頻繁に起きていた。おそらくはこれも、宴での劉弦の発言が引き金なのだろう。彼の翠鈴への寵愛を目のあたりにした貴妃たちは、あの手この手で翠鈴を攻撃している。

 特に一番ひどいのがこの芸汎で、彼女の後ろには華夢の存在があることは、後宮内では周知の事実だった。

 それなのに彼女はわざとらしくとぼけてみせた。

「あら、この場にいらっしゃらない華夢妃さまは、預かり知らぬことよ。……それに私たちは女官に掃除をさせていただけのこと。その水が少し流れ込んだくらいで、罰を受けるというのかしら? さすが、ご寵愛の深いお妃さまですこと。怖いわね、行きましょう、皆さま」

 そう言って、彼女たちは去っていった。

 蘭蘭に床を拭くための掃除道具を取りに行かせて扉を閉め、洋洋がため息をついた。

「お妃さま方のなさりようは、ひどくなる一方ですね……。一度女官長さまに、ご相談しなくては」

「無駄よ、洋洋。梓萌は貴人には厳しいけど、貴妃には強く言えないわ。……それにしても、華夢妃さまって本当にしたたかな方。芸汎妃さまが、華夢妃さまの腰巾着なのはみんな知っているのに、ご自分は手を汚さないなんて」

 芽衣が軽蔑するように言う。

 翠鈴はため息をついた。

「宴での一件で、私と華夢妃さまは本当に対立してしまったのね」

「だけどそれは向こうから仕掛けたことじゃない、翠鈴。貴妃の方たちは、まだ陛下のご寵愛を諦めていないのよ。華夢妃さまだけじゃなく他の方たちも、翠鈴になにかあれば、次は自分の番だとでも思っているんじゃない? ……まぁ、あれはあれで可哀想だとも思うけれど」

 最後は少し声を落とす芽衣に、翠鈴は首を傾げた。

「可哀想?」

「うん、貴妃の方々はね、実家の期待を背負って後宮へ入っているの。なんとしても陛下のご寵愛を受けろってきつく言われているはずよ」

「実家の期待を……?」

「そう、私たち貴人は順位も低いし、もともと寵愛を受ける可能性なんてほとんどないって親もわかっているから、気楽なものなのよ。のんびり暮らせって言われている人もいるくらいだもの。……でも彼女たちは違う。有力家臣の娘として、陛下の寝所に召されるための教育を受けてきたの。寵愛を受けたのが華夢妃さまならともかく、順番が下の翠鈴だったことで実家から責められている方もいるんじゃないかしら? お前はなにをしてたんだって」

 はじめて聞く話だが納得のいくものだった。一の妃の華夢が寵愛を受けるのは、ある意味当然なのだから、それで彼女たちが叱られることはない。でも百番目の妃の翠鈴が寵愛を受けたなら話は違う。怒りが翠鈴に向くのは当然だ。

「皆さま、華夢妃さまがご寵愛を受ける方がいいのね。だから私に嫌がらせを」

「それだけじゃないわ。皆が彼女に取り入ろうとするのはもうひとつ理由があるの。皇后になられたお妃さまは、〝ご指名〟ができるようになるの。芸汎はそれを狙っているのよ」

 耳慣れない言葉に翠鈴は首を傾げる。

「ご指名?」

「皇后さまは、体調が優れない時なんかに、自分の代わりに皇帝のねやの相手をする妃を指名できるのよ。華夢妃の取り巻きたちは、それを期待してるの。翠鈴が来るまでは華夢妃さまが皇后さまになられると皆思っていたんだもの、一生懸命、取り入ろうとしていた。それなのに今さら翠鈴にお世継ぎができて皇后になられたら困るのよ。だから躍起になって翠鈴に嫌がらせをしてるってわけ」

「ご指名……。そんな決まり事があるのね」

 そういう事情があるのなら、貴妃たちの行動は納得だ。芽衣が言う通り、彼女たちを可哀想だと思うくらいだった。

「ま、でも、そんなくだらない争いも、翠鈴がお世継ぎを産んで皇后さまになったら解決だわ。……翠鈴、どうしたの? 顔色が悪いわよ」

 芽衣が心配そうに翠鈴を覗き込んだ。

「医師さまを呼んでもらう?」

「大丈夫、蘭蘭の言う通り、懐妊中の体調不良よ。……でも少し横になろうかな。申し訳ないけど散歩には……」

「大丈夫、大丈夫、ゆっくりと寝てて。皆残念がるとは思うけれど、翠鈴が健やかなお世継ぎを産むためだもの。仕方がないわ」

 そう言って、芽衣は部屋を出ていった。

 食事をしていた居間の隣の寝室で翠鈴は寝台の上にゴロンと横になって目を閉じた。

 気が滅入ってしまいそうだった。重たいものがのしかかっているかのように、身体がだるい。

 自分が皇后になるなんて、恐れ多くてあり得ない話だった。翠鈴は世継ぎどころか自分が子を産むという覚悟すらまだできていないのに。それなのに身体だけがどんどん変化していて、それが不安でたまらない。お腹の子に申し訳ないと思いつつ、翠鈴はまだその存在を認められてはいなかった。

 愛し合ってできた子ならば、こんなに不安に思わないのだろうか?

 得体の知れないなにかに押しつぶされるように感じながら、翠鈴は目を閉じた。


 国中の領地を治める部族長から献上された品々が玉座の間に並べられている。役人が目録を読み上げるのを玉座に座り劉弦は聞いている。

 どれも一般の民には手が届かない高級品ばかりだが、神である劉弦には必要ない。これらはすべて金子に換えて、貧しい者たちの施しにするのが慣例だ。

 だから正直なところ献上品の内容には興味がない。ただ皇帝の役目として聞いているだけだった。だが役人が読み上げる目録の中の『茶』という言葉に引っかかりを覚えて、劉弦は眉を上げた。

「茶……か」

 さまざまな植物を乾燥させて作る茶は、こうひんというよりは薬の役割を果たすことがほとんどで、原料の種類や組み合わせによって人の体調を整える効果がある。

 そのことを思い出し、劉弦は役人に問いかけた。

「そなた、その茶は、胃の腑の調子を整えてすっきりさせると言ったな」

「はい。効果は抜群にございます」

「その……。それは身ごもっている者が飲んでもよいものか?」

 劉弦からの質問に、役人は不意をつかれたように瞬きをする。だが、すぐに笑顔になった。

「もちろんにございます! こちらの茶はいい効果こそあれ、悪い作用はございません。懐妊初期の胃の腑の不快感を取り除いてくれるので、産地では懐妊の祝いとしても喜ばれる品です。ぜひご寵姫さまに差し上げてくださいませ!」

 嬉しそうに声をあげる。劉弦はおもはゆい気持ちで、頷いた。今彼が言った通り、劉弦が献上品の茶に興味を持ったのは、翠鈴のことが頭に浮かんだからだ。

 彼女は、ここのところ体調が悪く食欲がないと聞いている。懐妊中、特にはじめの頃には珍しくないことだと周りは言う。だがそれでも心配だった。

「ご寵姫さまはなんと申しましてもお世継ぎを身ごもられておられるのですから、陛下がご心配されるのも無理はありません」

 役人の言葉に劉弦は一応頷く。本当のところ、世継ぎが心配というよりは翠鈴自身を心配しているという方が正確だった。自分の子が彼女のお腹にできたということを、まだはっきりと実感できていないのが正直なところだからだ。

 だがとにかく彼女を愛おしいと思うのは紛れもない事実なのだ。彼女の不調をなんとかしてやれるなら、なにをしてもかまわないという気分だった。

「ご寵姫さまのお好きな果物の砂糖漬けを浮かべてもよろしいですよ。陛下の深い愛情に、ご寵姫さまが元気になられることをお祈り申し上げます」

 役人が言って目録を閉じ、下がっていく。

 その言葉をこそばゆく感じながら、劉弦は彼を見送った。


 泥水が流し込まれたその夜、翠鈴が劉弦の寝所へ行くと、珍しく彼が翠鈴を待っていた。

 彼は驚く翠鈴を寝台に座らせて、自分も隣に座り湯呑みを持たせる。

「これは?」

「茶だ。飲めそうなら飲んでみよ。胃の腑の調子がよくなり、すっきりするという話だ。今朝、東北地方から献上品として宮廷に届いた」

 確かそういう茶があったと翠鈴は思い出す。祖父から聞いたことがあるが本物を見るのははじめてだった。なにしろ民には高価すぎて手に入らない代物だ。

「こんな貴重なものを……」

 もちろん翠鈴の体調を気遣ってくれてのことだろう。こんな高級品を口にするなど恐れ多いが、すでにれてしまっているのを無駄にするわけにいかない。

 恐る恐る口に含むと、すっきりとした香りで飲みやすい。ひと口、ふた口飲んでいると、馬の上で揺られているような不快感が少し楽になった。

 劉弦が翠鈴の頭を優しく撫でた。

「少しでも楽になればよいのだが」

 まるで心から翠鈴を思いやっているようにも思える優しい声音。その眼差しに、翠鈴の胸が甘く切なく締めつけられた。

 彼に大切にされるのは嬉しい。でもその反面、これが愛情からくるものではないことがつらくて苦しかった。

 彼にとって翠鈴は宿命の妃であり、大切な世継ぎを宿した唯一の妃。だからこそ、こうして優しくしてもらえるのだ。

 ――誰かを愛おしく思う気持ちは、こんなにも欲張りで卑しいものなのだ。

 彼の優しさには、感謝こそすれ寂しく思うなどあってはならないことなのに。

 自分を見つめる漆黒の瞳と身体に回された逞しい腕、高貴な甘い香り。すべては国の民のためにあり、自分だけのものではないことくらいわかっているはずなのに。

「……ありがとうございます。劉弦さまのお慈悲に感謝いたします」

 飲み終えた湯呑みを台に置き、翠鈴は彼を見つめる。どうしてか、彼のそばにいる間は少し身体が楽になる。でも心はじくじくと痛かった。

 もういっそ彼を愛おしく思う気持ちなど、なくなってしまえばいいのに、と翠鈴は思う。

 尊敬と感謝の念だけを抱いていた頃に戻れればどんなにか楽だろう。けれど、どうしたらそうできるのか、見当もつかなかった。彼の目をまともに見られなくてうつむくと、劉弦が静かに口を開いた。

「翠鈴」

「はい」

「そなたを私の皇后にしようと思う。世継ぎが生まれたら、立后の儀を執り行う」

 突然の彼の宣言に、翠鈴は顔を上げて目を見開いた。

「私を皇后さまに……?」

「ああ、翠鈴は私の唯一無二の存在だ。皇后はそなた以外あり得ない。私には翠鈴が必要だ」

 まっすぐな言葉と、熱い視線に翠鈴の胸が震える。まるでそこに愛情があるかのようだった。

 でもすぐに、これは幻想だと自分自身に言い聞かせた。彼が自分を大切にするのは、翡翠の手を持つ唯一の存在だから。

「翠鈴、私の皇后になってくれ」

 低くて甘い彼の声音に、翠鈴の背中がぞくりとする。自分を見つめる真摯な眼差しに、都合のいい夢を見てしまいそうで怖かった。

「恐れ多くて……」

 それだけ言って目を伏せた。

 愛情という絆で結ばれていない夫婦の間の、皇后という役割は重たすぎて受け入れることができなかった。

「大丈夫だ。翠鈴は皇后に相応しい」

 彼の言葉も素直に受け止められなかった。

 ――それは私が、翡翠の手の使い手だから。彼は私自身を愛しているわけではない。

 宿命の妃という役割からも逃げ出したいくらいだった。

 彼に愛されているならば、こんな風に思わなかったのだろうか?

 どんなに重たい役割も耐えられる?

 目を伏せたまま答えられない翠鈴を、劉弦は急かさなかった。

「まだ時間はたっぷりある。ゆっくりと心の準備をすればいい。まずは身体を労り出産に備えよ」

「はい……少し気分が優れません。今宵はもう休んでもいいですか?」

「ああ、ゆっくりと休むがいい」

 翠鈴は、布団の中に潜り込み、布団を頭までかぶった。

 世継ぎを産んだ妃が立后する。それが国にとっては自然なことなのだろうか。

 ……たとえそこに愛情がなかったとしても。

 ゆっくりと心の準備をすればいいと彼は言うが、ことは皇后に関することなのだ。いつまでもぐずぐずと考えているわけにはいかないだろう。

 ――少なくとも子が生まれるまでに覚悟をしなくてはならない。

 ――覚悟なんて、いつまでたってもできそうにないのに。

 生まれるまでに覚悟しなくてはならないなら、子が生まれるのが怖かった。

 その恐怖から目を逸らすように翠鈴は目を閉じた。


 劉弦に愛されていないけれど、皇后にならなくてはならない。

 その事実は、翠鈴の心に重くのしかかった。

 彼の顔を見るのも、その優しさに触れるのもつらくて、体調が優れないのを理由に、夜寝所へ行くのも断り自室へこもるようになった。

 体調は日に日に悪くなる一方だった。

 散歩にも行かない翠鈴を中庭へ誘ったのは芽衣だった。

「中庭ならすぐにお部屋へ戻れるし、安心でしょ。日の光を浴びないとおかしくなると教えてくれたのは、翠鈴よ」

 それもそうだと考えて、芽衣と共に何日かぶりに中庭へ行く。長椅子に腰かけると、途端に貴人の妃たちに囲まれた。皆一様に心配そうな表情だ。

「翠鈴妃さま……。お顔を見られなくて寂しかったです」

「お会いできて嬉しいですが、あまり体調はよくなさそうですね」

「蘭蘭、この香を翠鈴さまに炊いて差し上げて。懐妊中の不快感を抑えてくれるの。実家から取り寄せたのよ」

「皆さま、ありがとうございます」

 翠鈴は心から言う。皆の気遣いが嬉しかった。久しぶりに見知った顔に囲まれて、少し気分が晴れていく。芽衣の言葉の通りにしてよかったと思う。

 一方で、彼女たちの向こうでは貴妃たちが嫌そうにこちらを見ている。中庭に彼女たちが来ているのを不満に思っているのだろう。

「翠鈴妃さま、そこは華夢さまがいつもお座りになっておられる場所ですよ」

 きつい表情で、咎めるように言ったのは、張芸汎だ。

 すかさず芽衣が答えた。

「華夢妃さまは今お部屋にいらっしゃるじゃないですか。ですから……」

「いついらっしゃってもお座りいただけるよう空けておくのが、後宮の妃の務めにございます」

 芸汎の言葉に他の貴妃たちも頷いている。

「おのきくださいませ」

 詰め寄る芸汎から翠鈴を庇うように芽衣が立ち上がった。

「そのような決まりはありませんわ。それなのに、そのようななさりよう……。妃同士仲良くするのをお望みだと陛下はおっしゃったのを芸汎妃さまもお聞きになられていたでしょう?」

 毅然として言い返す芽衣に、貴人たちがそうだというように頷いた。

 芸汎が、弾かれたように笑いだした。

「まぁ、おかしい! お優しい陛下の建前を本気になさるなんて……!」

 扇子で口もとを隠して、笑い続けている。貴妃たちもくすくすと笑いだした。

「これだから教養のない方は」

「少し考えたらわかるのにね」

 こちらに聞こえるように嫌みを言い合っている。

「華夢妃さまは、皇后さまになられる方なのですよ? 私たちと同じに考えるべきではありません。そのくらいわからないのですか?」

 勝ち誇ったように芸汎が言う。それはそうかもしれないが、そのような言い草はないと、翠鈴は思う。でも言い返す気力が湧かなかった。

「将来の皇后さまに逆らうなんて、あなたたちいい度胸ね!」

 芸汎は、高飛車に言ってぐるりと貴人たちを見回す。貴人たちは気まずそうに顔を見合わせた。でもその中のひとりが、ぽつりと呟いた。

「……そんなのわからないわ。翠鈴妃さまが皇后さまになられる可能性もあるじゃない」

 その言葉に、貴人たちがハッとしたような表情になり、同調した。

「そうよ。翠鈴妃さまは、お世継ぎをお産みになられるのよ。それにお人柄もお優しいし……私は翠鈴妃さまが、皇后さまになられる方がいいわ」

「私も、皇后さまは翠鈴妃さまがいいってお父さまに申し上げるわ」

「私も!」

「私もそうする」

 そう言って手を取り合い盛り上がっている。彼女たちの気持ちはありがたいが、翠鈴の胸は重くなった。

 どう考えても買いかぶりすぎだ。翠鈴には、皇后に相応しい器量も教養もない。ただの田舎娘だというのに。

 芸汎が鼻を鳴らした。

「馬鹿馬鹿しい。あなたたちの父親にいったいなんの権限があるというの? 華夢妃さまのお父さまは宰相さまなのよ。宰相さまは、陛下をお支えする重要なお方、あなたたちの父親とは立場が違うんだから。教養のない方が皇后さまになるなんて、それこそ国はお先真っ暗よ!」

 ひどい言葉だがその通りだと翠鈴は思う。国の中枢を担う家臣の家柄に生まれて、高い教育を受けてきた彼女と翠鈴はうんでいの差だ。

「それに華夢妃さまは、翡翠の手の持ち主なのよ。宿命の妃なんだから」

 これで決まりだというように芸汎は言うが、芽衣が反論した。

「翠鈴だって不調を見抜く目があるわ。私はそれで病にならずに済んだんですもの」

「そうよ! 蘭蘭だってびっくりするくらい元気になったじゃない。華夢妃さまより翠鈴妃さまの方がよっぽど……」

「皆さま」

 不毛なやり取りを遮る声がして、皆そちらへ注目する。華夢妃だった。

「騒ぐのはおやめなさい。妃としての振る舞いではありませんよ」

 そう言って、皆の中心へやってくる。突然の彼女の登場に、貴人も貴妃も皆、黙り込んだ。

「どなたが皇后さまになられるかは、私たちが決めることではありません」

 言い切って、ぐるりと皆を見回した。

「お世継ぎをお産みになられる方を皇后さまにと考えるのは当然です。皆さまのお気持ちはわかりますわ。……なれど」

 華夢は言葉を切り、翠鈴を見た。

「翠鈴妃さまが来られてからこのようなことばかりにございます。以前は保たれていた後宮の秩序がここのところ乱れっぱなし。しかもいつもその原因は翠鈴妃さま」

 手にしていた扇をパチンと閉じた。

「皇后さまになられるというならば、もう少しご自身の振る舞い方をご自覚くださいまし。皇后さまはこの後宮を治める方なのでございますよ」

 鋭く言って踵を返す。透ける素材の長い袖をひらひらさせて去っていった。慌てて芸汎が後を追いかけていく。

 その後ろ姿を見つめながら、翠鈴は暗澹たる思いになっていた。

 皇后になりたいなどとは思わない。そのための教養も自覚もないのだから。それでも、彼女の言葉は翠鈴の胸に突き刺さり、じくじくと痛んだ。


 華夢が去った後は、その場は解散になる。

 翠鈴も芽衣と別れて自室に戻ることにした。

 途中、一の妃の部屋の前を通りかかると、開きっぱなしの扉の向こうから、華夢の苛立った声が聞こえた。

「私の名前をあんな風に出さないで。万が一にでも陛下のお耳に入ったらどうするのよ」

「も、申し訳ありません。ですがあの場所から翠鈴妃さまにおのきいただくようにせよとおっしゃられたのは、華夢妃さまで……」

 答える芸汎の声は、さっきとは打って変わっておどおどしている。それに華夢がげっこうする。

「だから、もう少しうまくやりなさいって言ってるの! あんなやり方、私の品位をおとしめるやり方だわ。芸汎、あなたがこんなに無能だとは思わなかった。できないならいいわ、他の者に頼むから。もちろんその場合は、私が皇后になっても指名の話はなしよ。そしたらあなたなんて一生陛下に寵愛してもらえないわ。その見た目じゃね!」

 よほど苛ついているのだろう。扉を閉めるのも忘れて芸汎を罵っている。

 芸汎が慌てて声をあげた。

「華夢妃さま……! そんなことをおっしゃらないでください。もっとちゃんとやりますから」

「そう? ならもう少しだけ、機会をあげる。でももう今日みたいな手ぬるいのは見たくないわ」

「手ぬるいって……。今よりももっと……にごさいますか?」

「そうよ、あの女が自らここを出ていきたくなるくらい、追い詰めるのよ。わかったわね?」

 華夢の言葉を聞いて、翠鈴と蘭蘭はそっとその場を後にした。

 自室へ戻りしっかり扉を閉めてから、椅子に座りため息をついた。

 やはり芸汎が行っていた翠鈴に対する嫌がらせの数々は、華夢の差し金だったのだ。それをはっきりと目のあたりにして暗澹たる思いになる。翠鈴が皇后に相応しくないのは確かだが、彼女が皇后になるのだと思うと複雑だった。

「どうしてあんなことを言われてまで、華夢妃さまのそばにいるのかしら……」

 人間なのだから相手の好き嫌いは仕方がない。でもあそこまで言われて、それでも彼女に従うのが理解できなかった。

「指名していただくためだからって……」

「芸汎妃さまは、実家からの期待が他の方より大きいのです」

 まるでなにかを知っているかのような口ぶりの蘭蘭に、翠鈴は首を傾げた。

「蘭蘭、あなた芸汎妃さまを個人的に知ってるの?」

 蘭蘭が少し気まずそうに、首を横に振った。

「いえ、そうではなくて……以前、芸汎妃さまのご実家からのお手紙を拾ったことがあるんです。も、もちろん、中を読むつもりはなかったんですが、どなたのものか確認するために仕方なく……。そしたら翠鈴妃さまの名前が書いてあったのでつい……」

「私の名前が?」

「はい。芸汎妃さまのお父上さまは、翠鈴妃さまがご寵愛を受けられたことを怒っていらっしゃいました。お前は役立たずだ、器量の悪い娘を持って自分は不幸だと、それはそれはひどい言葉で」

 器量が悪いだなんて、父親が娘に使う言葉ではないと翠鈴は思う。しかも実家を離れて後宮でひとり暮らしている娘に……。

「自力では寵愛を受ける可能性はないんだから、華夢妃さまに取り入って、指名してもらうようにと書いてありました。失敗したら、お前なんていらない、張家の恥さらしだ、とまで……娘にあんな手紙を送る父親がいるんですね」

 蘭蘭が憂鬱な表情でため息をついた。

 温かい家族で育った、家族思いの彼女からしたら考えられないことなのだろう。

 翠鈴にとっても同じだった。だけど父親からそんな風に言われているのなら、躍起になって翠鈴を追い出そうとするのも頷ける。

 華夢に許しをうていた芸汎妃の悲痛な声が耳から離れず、胸が痛かった。

 彼女は、ただの意地悪で嫌がらせをしているわけではない……。

 貴人の妃たちだって、打ち解けてみれば普通の心優しい娘たちだった。おそらくは貴妃たちも……。

 繊細な作りの赤い灯籠がいくつも下がる天井を翠鈴は見上げた。

 ここは、美しく豪華な造りの大きな鳥籠。本当なら自由なはずの鳥たちを閉じ込めているのだ。

 自分と、彼女たちの行末に思いを馳せて、翠鈴はため息をついた。


 一日の終わり、赤い灯籠が下がる長い外廊下を劉弦は寝所へ向かって歩いている。

「劉弦さま、少しお疲れのご様子ですね」

 どこからともなく白菊が現れて、劉弦に寄り添うように歩きだした。

「翠鈴妃さまが、寝所へのお召しを拒まれているからにございましょう」

 白菊が言う通り、ここ数日の劉弦は疲労を感じている。翡翠の手の癒やしを受けられていないからだ。

 だがそれだけではない、と劉弦は思う。

 彼女の顔を見ていない。それをなにより物足りなく寂しく感じているのだ。

 寝所に彼女がいないと思うだけで、足取りが重くなる。もぬけのからのあの部屋に帰ることに、なにも意味がないように思えた。

 白菊が苦々しい表情で口を開いた。

「翠鈴妃さまには、夜のお召しを断ることがないよう女官長に伝えましょう。宿命の妃としての役割をきちんと果たすようご自覚いただき……」

「その必要はない。少しくらい彼女と離れても十分に動ける。無理をさせるな」

 劉弦は彼を遮って立ち止まり、夜空に浮かぶ青白い月を眺めた。澄みきった清らかな光は翠鈴をほう彿ふつとさせた。ここのところなにを見ても彼女を思い出すようになっている。

 ……ただ、会いたいのだと劉弦は思う。

 例えば彼女が、翡翠の手の使い手ではなくただの村娘だったとしても、自分はこの腕に抱きたいと願うだろう。

 劉弦が触れると、ほんのり染まる柔らかい頬。

 長いまつ毛と澄んだ瞳。

『劉弦さま』と自分を呼ぶ、桜色の唇……。

 なにもかもが恋しくて、愛おしくてたまらなかった。

 本心では夜だけでなくずっと自分の宮へ置いておきたい。長い廊下を歩いてこちらへくるのが負担だと言うならば、常にそばに置いて、なににも触れさせず。自分だけのものに……。

 神が人の子に、このような想いを抱くなどあり得ないことだが、もう劉弦は驚きはしなかった。

 それほど自分の心は、彼女に囚われているのだから……。

 今宵翠鈴は、ゆっくりと休めているだろうか?

 ここのところ思わしくない状況が続いている彼女の体調に思いを馳せる。

 この時刻ならば、もう眠っているだろう。自分はそれに満足して、誰もいない寝所でひとり休むべきだ。それはわかっているのだが……。

 自分を照らす青白い月に、まるで誘われているような気分になって、劉弦は再び歩きだした。


 夜半すぎ、肌寒さを感じて翠鈴の意識が浮上する。自室の翠鈴用の寝台は、いつも寝ている劉弦の寝台の半分以下の大きさだ。それなのに、妙に広く感じて心細かった。寝返りを打ち、目を閉じてもう一度眠ろうと試みる。だがうまくいかなかった。

 昼間の出来事が頭の中をぐるぐる回り、また心が重くなる。

 皇后という役割と、後宮の妃たちの苦悩……。

 このまま寝るのは難しそうだと、一旦諦めて寝台を出る。窓の布幕を開け、夜空に浮かぶ青白い月を見上げた。

 なにものも寄せつけない清く気高い存在感は、愛おしい劉弦を彷彿とさせる。翠鈴の胸は切なく締めつけられた。

 会いたいと、心から思う。

 彼が翠鈴を愛していないことをつらく感じて、寝所へのお召しを拒んでいるのは翠鈴だ。けれど、今はただ遠くからでもその姿を見たかった。

 ――劉弦さま。

 胸の中で、月に向かって呼びかけた時。

「起きていたのか」

 思いがけず返事があって、翠鈴は声をあげそうになってしまう。窓の外、月明かりの下に、劉弦が立っていた。

「りゅ、劉弦さま……!」

 名を呼んだ次の瞬間、彼の姿は部屋の中にある。身につけていた皇帝用の外衣で窓辺に立つ翠鈴を包むように抱き込み、向かい合わせで翠鈴を見つめた。

「夜は冷える。暖かくしていろ」

「劉弦さま……どうして?」

 会いたいと思った人が突然現れて驚きながら翠鈴は問いかけた。

「皇帝は、気に入った妃を寝所へ呼ぶこともできるが、妃の部屋へ来ることもできるのだ」

 そう言って彼は額と額をくっつけて、優しい眼差しで翠鈴を見た。

 その温もりに、さっきまでの不安が少し和らいでいく。まったくなにも解決していないのに。

 こんなにも自分は彼を愛しているのだ。顔を見てすぐ、まだほとんど言葉を交わしていないのに、こんな気持ちになるなんて。

「額から、清らかな空気が流れ込むような心地がする」

 劉弦が息を吐いて目を閉じた。彼の身体の赤い光に目を留めて、翠鈴はハッとする。翠鈴が彼に会いに行かなかったから、彼は不調を感じている。慌てて手をかざそうとするが、劉弦に手首を取られて止められた。

「よい、そなたの身体に負担がかかる」

 意外な彼の行動に、翠鈴は瞬きをして首を傾げた。彼は不調を感じ、翡翠の手を求めて、ここへ来たのではないのか? なのに、どうして止めるのだろう?

「今宵は、そなたの顔を見に来ただけだ。寝ているなら、起こすつもりはなかった」

 その言葉に、翠鈴はあることに気がついて、自分の腹部に手をあてた。

「あ……お世継ぎが、ここにいるからですね……。でも、大丈夫で……」

「違う」

 劉弦が少し強く言葉を遮り、翠鈴を見つめた。

「翠鈴自身を私は大切に思っている。世継ぎも、翡翠の手も、関係ない」

「劉弦さま……」

 思いがけない彼の言葉に、翠鈴は目を見開いた。まっすぐな眼差しに胸が打ち抜かれるような心地がして、熱い想いが胸に広がっていく。

 考えるより先に口を開いた。

「光を消させてくださいませ、劉弦さま。身体に負担はかかりません」

 劉弦が訝しむように目を細める。負担がかからないというのが本当か、測りかねているのだろう。

「私も……劉弦さまが大切でございます。劉弦さま自身が……」

 今自分を満たしている熱い想いをそのまま口にすると、劉弦が手首を掴む手を放す。翠鈴は手をかざして赤い光を消していく。

 すべての光が消えた時、頬を大きな手に包まれた。

 親指が唇をゆっくりと辿る。

 それだけで、甘やかな吐息が漏れ出てしまいそうだった。あの夜のような荒れ狂う衝動ではなくとも、ただ触れてほしいと強く思う。

 背中に回した手で彼の衣服をキュッと握ると、それが合図になったようだ。

 ゆっくりと近づく彼の視線。

 ――唇に、彼の唇が触れたその瞬間、翠鈴の背中が甘く痺れる。喉の奥が熱くなって頭の中は幸せな思いでいっぱいになった。

 劉弦の翠鈴に対する想いと、翠鈴の彼への愛情は、同じ種類のものではない。神が人を愛するなどあり得ないのだから。

 だとしても。

 それでいい、と翠鈴は思う。

 彼が翠鈴を大切に思ってくれるなら、それだけで満足だ。

 だって自分はもう、どうやっても彼を愛する前の自分には戻れない。彼を愛するこの想いと共に生きていくしかないのだから……。

 唇が離れたのを寂しく感じて目を開くとすぐそばで彼が見つめている。

「劉弦さま……」

「翠鈴」

 再び、ゆっくりと近づいて唇が触れ合う寸前で。

「つっ……!」

 右脚のすねに刺すような痛みを感じて翠鈴は顔を歪める。

 劉弦が眉を寄せた。

「いかがした?」

「なにかが脚に……」

 翠鈴がそう言った時、劉弦が右手を暗い足元に向かって振りかざす。緑色の小さな炎があちらこちらであがった。

 そのひとつを引き寄せて確認した劉弦が低い声で呟いた。

どくか」

 同時に翠鈴を抱き上げ寝台へ寝かせる。蜘蛛に刺された翠鈴の脛をあらわにして迷うことなく口づけた。

「りゅ、劉弦さま……!」

「動くな。毒を吸い出しているだけだ」

 彼はそう言って床へ毒を吐く。そしてまた脛に口づける。何度か繰り返した後、控えの間へ行き寝ている蘭蘭を起こした。

「起きろ、翠鈴妃が毒蜘蛛に刺された。医師を呼んでまいれ」

「へ? こ、へ、陛下……? え?」

 きょうがくした蘭蘭の声が聞こえる。寝ているところに誰かが現れただけでも驚きなのに、相手が皇帝なのだから無理はない。

「医師を呼べ、翠鈴妃が毒蜘蛛に刺された」

 劉弦が繰り返す。

「毒蜘蛛に……翠鈴妃さまが! は、はい! すぐに呼んで参ります!」

 蘭蘭が部屋を出ていく気配がした。途端に後宮内が騒がしくなる。蘭蘭が誰かを呼ぶ声と、複数の女官がバタバタと走る音がした。

「翠鈴、大丈夫だ。すぐに医師が来る」

 劉弦が戻ってきた頃には、脚が焼けるように熱くなっていた。刺すような痛みに、翠鈴は恐ろしくなる。思わず腹部を守るように手をあてた。

「劉弦さま、私の脚を切り落としてください。お腹に毒が回る前に……!」

 劉弦を見上げてとっさにそう声をあげた。

 彼と自分の間にできた小さな命に、なにかあったらと思うと胸が張り裂けそうだった。そのためならば、脚を失ってもかまわない。

「大丈夫だ」

 劉弦が寝台に腰かけて翠鈴を落ち着かせるよう抱き寄せた。

「この種の蜘蛛は刺されても患部が腫れるだけだ。熱が出ることもあるが、命を落とすことはない。子は大丈夫だろう」

 そう言われて、翠鈴はホッと息を吐く。

 同時に不思議な気分になった。つい先ほどまで、お腹に子がいることに戸惑い、生まれることを怖いとすら思っていたのに、毒蜘蛛に刺されたと知ったあの瞬間は、なににおいても守りたいと強く感じたのだ。

「よかった……」

 呟くと、劉弦の手が額とお腹に添えられた。

「怖い思いをさせてすまない。翠鈴と子は、私が必ず守る」

 厳しい表情で劉弦が言う。部屋の中に複数の毒蜘蛛がいたことを不審に思っているのは明らかだ。

「このようなことははじめてか? 以前にも同じようなことがあったのではないか?」

 劉弦の問いかけに翠鈴は答えられなかった。

 翠鈴とて、これが自然なことではなく誰かの差し金であることくらいはわかった。

 ここへ来てから受けた嫌がらせは数知れず。でも寝ている間に毒蜘蛛が放たれるなど、今までとは質が違っているように思える。

 頭に浮かぶのは、昼間華夢の部屋の前で聞いたあの会話だった。

「翠鈴? すべて私が対処するから申してみよ」

 安心させるように劉弦は言う。

 これ以上、ひどくなる前にそうしてもらうべきなのかもしれないけれど、芸汎の悲痛な声が頭に浮かび、翠鈴は口を噤んだ。

 できそうにないことを期待されて、苦しむ彼女が、今の自分と重なった。翠鈴も皇后になることを望まれて、その重圧に苦しめられている。

「……心あたりはありません」

 答えると、劉弦が眉を寄せる。この言葉が本心でないと見抜かれているのかもしれない。それでも彼は、それ以上追及しなかった。


 部屋に蜘蛛が放たれた夜、翠鈴は熱を出した。蜘蛛の毒性が弱いのは劉弦の言った通りだったが、国の端から来た翠鈴には耐性がなかったからだ。とはいえ一時的なもので、お腹の子に影響はないと宮廷医師に言われ安心して眠りにつき、目覚めたらもう日が高かった。

「翠鈴妃さま、お目覚めになられたんですね。ああ、よかった!」

 少しぼんやりとしたまま、身体を起こした翠鈴にそう言ったのは、洋洋だった。翠鈴の額に手をあてる。

「少し熱は下がりましたね。まだありますが……。まずはお水をお飲みください。蘭蘭、翠鈴妃さまの着替えの準備を。それから宮廷医師さまに翠鈴妃さまがお目覚めになられたことをお知らせして」

 隣にいる蘭蘭にテキパキと指示をしていた。

「どうして洋洋がここにいるの?」

 部屋を見回して、翠鈴は尋ねる。彼女が仕えているはずの芽衣の姿はなかった。

「翠鈴妃さまが熱を出されておられる間、お世話させていただく女官を増やすようにと陛下がおっしゃったのです」

 洋洋が言い、蘭蘭が頷いた。

「でも、昨夜のことがありますから、信用できる者でないとダメだとおっしゃったので洋洋さんにお願いしたんです。陛下も芽衣妃さま付きの女官だと伝えたら安心されたようです」

 それで翠鈴は状況を理解する。同時に申し訳ない気持ちになった。

「洋洋には芽衣がいるのに、ごめんね。芽衣にも謝っておかなくちゃ」

 洋洋が首を横に振った。

「それには及びませんわ、翠鈴妃さま。芽衣妃さまはお部屋におられません」

「部屋にいないって……どういうこと?」

 翠鈴は窓の外をちらりと見て問いかけた。もうずいぶんと日が高い。散歩の時間ではないはずだ。

 すると洋洋は困ったように蘭蘭を見る。蘭蘭がためらいながら口を開いた。

「陛下が後宮中のすべての妃を中庭へお集めになられたんです。今皆さま、中庭へいらっしゃいます」

「すべての妃を中庭へ……?」

「はい。昨夜ここへ蜘蛛が放たれたことについての詮議を行うと……」

 その言葉に、翠鈴は身体を起こした。

「大変……! 私も行かなくちゃ」

「翠鈴妃さまは、被害を受けられた方ですから、行かなくても大丈夫です! まだ熱も下がっておりませんし」

 蘭蘭が慌てて翠鈴を止めるが、翠鈴は首を横に振った。

「そうじゃなくて。このままじゃ、どなたかがお咎めを受けることになってしまう」

 おそらく実行したのは芸汎だ。でも彼女は自分の意思でやったわけではない。

「翠鈴妃さまに危害を加えた方がお咎めを受けるのは当然ですわ、翠鈴妃さま」

 少し厳しい表情で洋洋が言う。翠鈴に対する数々の嫌がらせを見てきた彼女は、犯人に対して憤りを感じているようだ。

 やったことの咎めを受けるのはあたりまえ。

 それはそうかもしれないが、それではあんまりだと翠鈴は思った。昨夜の劉弦の怒りを考えれば、お咎めは厳しいものになるだろう。

「私、陛下にお話ししなくちゃいけないことがある。蘭蘭、お願い……!」

 蘭蘭が複雑な表情で頷いた。

「洋洋さん、私がお付き添いいたします。翠鈴さま、手を」

 彼女の手を取り、翠鈴は寝台を出た。


 中庭はものものしい空気に満ちていた。

 皇帝の宮へ続く赤い扉を背に、厳しい表情の劉弦が椅子に座り、彼と少し距離を空けて、すべての妃が対峙する形で座っている。皆一様に不安そうだ。

 翠鈴は蘭蘭に支えられて、劉弦と妃たちのいる中庭へ歩み寄った。劉弦が詮議するのを離れたところから窺う。

 劉弦が皆に向かって口を開いた。

「昨夜の夜半過ぎ、翠鈴妃の寝所へ毒蜘蛛が放たれるという出来事があった。翠鈴妃は刺され療養中である。今から蜘蛛を放った者を探し出す」

 妃たちがなぜ集められたのかを知り、その場がざわざわとなった。

 華夢が手を上げる。劉弦が彼女を見て首を傾けると、立ち上がり口を開いた。

「翠鈴妃さまにお見舞い申し上げます。なれど陛下、蜘蛛はこの辺りにはたくさんおりますわ。部屋へ入り込み刺すこともございましょう。何者かが放ったと決めつけるのは早計では? 翠鈴妃さまはご懐妊中で、少し気が立っていらっしゃるのではないでしょうか」

 ただの事故を翠鈴が大げさに騒いでいるのだと主張する。それを劉弦が一蹴した。

「翠鈴妃が刺された場に私もいた」

 劉弦が答えると、その場がまたざわざわとなった。皇帝が夜に後宮の妃のもとに来ることがあり得ることとは知っていても、はじめてのことだったからだ。

「蜘蛛は即座に始末したが、あの場には、少なくない数がいた。どう考えも不自然だ」

「……仮にそうだとしましても、後宮内で起こったことは、後宮内で収めるのが慣例にございます。陛下自ら詮議など大げさな……」

「あの場に私もいたと申しただろう。寵姫の寝所に皇帝がいるかもしれぬということくらい後宮の者ならば予測できたはず。翠鈴妃の寝所に毒蜘蛛を放つのは、私に対する反逆だ」

 劉弦が言い切ると、その場が張り詰めた空気になる。翠鈴の部屋への嫌がらせは日常茶飯事だ。それが反逆だと言われて身に覚えのある者たちは、真っ青になっている。

「後宮の秩序に誰よりも心を砕くそなたも、黙ってはいられぬはずだ」

 そう言って、劉弦が華夢を睨むと彼女は眉を寄せて口を閉じた。

 劉弦が皆に視線を戻した。

「昨夜から今までの間に、秘密裏に後宮の人の出入りを確認した。そなたたちも知っているように後宮の警備は厳重だ。昨夜、日が暮れてからこの建物に出入りした者はいない。すなわち、蜘蛛を放った者はこの中にいるということだ」

 劉弦の言葉に、一同息を呑む。それを一暼してから劉弦が合図をすると、控えていた従者がひとりの女官を連れて現れた。女官は顔面蒼白で歩くのもままならないほどおぼつかない足取りだ。劉弦と妃の間まできて、玉座に向かって平伏した。遠目にもわかるほど、肩が震えている。

 劉弦が、声を少し和らげた。

「そなたは、ここでは妃たちに従わねばならぬ立場にいる。正直に申せば、罪には問わない。あったことを申せ」

 女官が蒼白の顔を上げて、恐る恐る口を開いた。

「昨日の夕暮れ、原っぱへ行き蜘蛛を二十ほど用意いたしました」

「それは、この種の蜘蛛か?」

 劉弦が合図をすると、従者が彼女の前に蜘蛛のがいを指し示す。女官が頷いた。

「……はい」

「なるほど。そしてそなたはその蜘蛛をどうした?」

「や、夜半過ぎ、す、翠鈴妃さまの寝所の扉の下から放ちました……!」

 気の毒なほど、震える声で女官が答える。

 劉弦が頷き、間髪入れずに問いかけた。

「それはそなたの独断か?」

「い、いえ……! ち、違います……。わ、私はそのようなこと、自らは……」

 彼女はわなわなと首を振った。

「ではそなたにそうするよう指示した者がいるのだな?」

「は、はい……私は指示されて……」

「では、その者の名を申せ」

 劉弦が命令すると、女官は沈黙した。女官の息遣いが聞こえてきそうなほど、その場が静まり返る。

 女官が意を決したように口を開いた。

「わ、私が、指示を受けたのは……。芸汎妃さまにございます……!」

 その場が、騒然となった。

 もっとも翠鈴への嫌がらせについて、彼女が先頭に立ってしていたことは皆知っている。だから驚きというよりは、女官が妃を裏切ったことに動揺しているのだろう。

「あい、わかった」

 劉弦が頷いて、そばに控えている梓萌に視線を送る。

「この女官は保護するため、後宮の役目から解く。別の働き先を世話するよう」

 女官が涙を流しながら下がっていった。

「芸汎妃をこれへ」

 劉弦が指示すると、妃の席に座っていた芸汎を従者が取り囲む。両脇を抱えられるようにして立たせた。

「華夢妃さま……」

 彼女は、か細い声で華夢に向かって助けを求めるが、華夢は彼女を見なかった。

 劉弦の前に引きずり出された芸汎は、もはや口もきけないほど顔色を失っている。翠鈴の胸が締めつけられた。

 劉弦が問いただす。

「芸汎妃、翠鈴妃の寝所に蜘蛛を放つよう女官に指示したのはそなたか?」

「わ、私は……」

 芸汎が翠鈴への嫌がらせを繰り返していたのは後宮内の誰もが知るところ。女官の証言もある以上言い逃れはできない。

「私は……」

 芸汎が振り返り、華夢を見た。芸汎が華夢の腰巾着で常に華夢の意思によって行動している、それもまた皆知っていることだった。

 劉弦が彼女の視線を追って、問いかけた。

「そなたもまた、誰かに指示されたのではないか? 正直に申してみよ」

「私は……」

 芸汎は口を開こうとするが、怯えすぎてうまく言葉が出てこないようだ。

「わ、私は……」

「残念だわ、芸汎」

 華夢が立ち上がった。

「あなたが、ご実家から陛下の寵愛を受けられないことを責められているのは知っておりました。それについて胸を痛めておりましたが、だからといって、こんな卑怯な真似をするなんて。許されることではありません」

 そう言って、汚らわしいというように芸汎を見た。

 芸汎が目を見開いた。

「華夢妃さま……」

 唇が震えている。その目が絶望の色に染まるのを見て、翠鈴の胸は締めつけられた。今この瞬間に彼女は信じていた相手から切り捨てられたのだ。

「私は、華夢妃さまが、お、おっしゃった通りに……」

 完全に裏切られたことを悟った芸汎の口からようやく言葉が出はじめる。それを華夢は遮った。

「私が? 私が指示したというの? 蜘蛛を翠鈴妃さまの寝所へ放つようにと、私が言ったっていうの?」

 芸汎が言葉に詰まった。そうだとは言えないのだ。

 それは昨日、華夢との会話を聞いていた翠鈴にはわかった。華夢はただ彼女に、生ぬるいことをするなと言っただけだ。

「そ、それは……」

「言いがかりはやめてちょうだい。往生際が悪くてよ。自分でやったことの罪は自分で償いなさい」

「そんな、華夢妃さま……!」

 耳を塞ぎたくなるようなふたりのやり取りに、翠鈴は腹の底から怒りの感情が湧き起こるのを感じていた。あんなに頼りにされていた相手をこんなに簡単に切り捨てるなんて、これが教養のある者のすることだろうか。

 なにが一の妃だ、なにが皇后候補だと思う。

「あなたたち、早く芸汎妃を連れていきなさい。しかるべき罰を受けさせるように」

 勝手に事態の幕引きをはかろうと、従者に指示をする華夢を、劉弦が止める。

「待て。まだ結論は出ておらん」

 その言葉を聞いたと同時に翠鈴は床を蹴る。従者に脇を抱えられている芸汎と劉弦の間に駆け出した。

「お待ちください!」

 芸汎を背にして、劉弦に向かって腕を広げた。

「芸汎妃さまに、蜘蛛を部屋へ持ってくるようにお願いしたのは私です!」

 熱がある状態で勢いよく駆け出したことに身体が耐えられず、ぐらりと体勢を崩してしまう。

「翠鈴!!

 劉弦が立ち上がり翠鈴を抱きとめた。

「寝ているように言っただろう!」

 珍しく声を荒らげる劉弦に、翠鈴は訴えた。

「芸汎妃さまが罪に問われるのをそのままにしておくわけにはいきません!」

 劉弦の服を握り翠鈴はかぶりを振った。

「昨夜は叱られるのを恐れて本当のことをお伝えできなかったこと、お許しください。芸汎妃さまに、蜘蛛を部屋へ持ってくるようお願いしたのは私です」

 駆け出しながら頭に浮かんだことを一生懸命口にした。

 芸汎に命じたのは間違いなく華夢だが、それを訴えたところで彼女は絶対に認めないだろう。実際、具体的なやり方を口にしていなかったのも事実だ。このままでは芸汎が断罪されてしまう。

 皇帝への反逆罪は、流刑あるいは死罪だ。

「あの種の蜘蛛は干して飲めば、身体の浮腫むくみを取る良薬になります。毎日散歩をする貴人の方々の中には足が疲れる方もいるようですから、差し上げようと思ったのです。瓶に入れて蓋をしたつもりでしたが、重石を置くのを忘れていました。それが逃げ出してしまったのです! 陛下、芸汎妃さまに罪はありません。どうか、どうか……!」

 そもそもが作り話なのだ。熱のある頭では順序立ててうまく説明できなかった。嘘をつくのはよくないとわかっている。それでもこうせずにいられなかった。

 できそうにないことを期待されて、押しつぶされそうになり、もがいていた彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。どうすればいいかわからないままに、間違った道に足を踏み入れてしまったとして、それを責める気にはなれなかった。

 崩れ落ちそうになる翠鈴を危なげなく支えて、劉弦は逡巡している。翠鈴の言うことが事実でないとわかっているのだろう。

 翠鈴は、思いを込めて、漆黒の瞳を見つめた。

「劉弦さま」

 劉弦が息を吐いて目を閉じた。そして、腰が抜けたように床にへたり込み、唖然としている芸汎に向かって問いかけた。

「芸汎妃、今の話は真実まことか?」

 芸汎が翠鈴を見る。なにかのわなかと疑っているのかもしれない。安心させるように頷きかけると、その目に涙が浮かぶ。そしてその場に平伏し頭を床に擦りつけた。

「す、翠鈴妃さまのおっしゃる通りにございます……!」

 翠鈴が劉弦を見上げると、劉弦が仕方ないというように息を吐いた。

「……ならば、誰も罪に問うことはできぬな」

 その言葉に、その場の空気が緩んだ。

 劉弦が一同を見回し、最後に華夢に視線を送り、口を開いた。

「だが、翠鈴妃の身体には私の子がいることを忘れぬよう。彼女への無体な振る舞いは私への反逆とみなす」

 華夢はその劉弦から目を逸らすことなく見ていた。

 貴妃たちが顔を見合わせている。

 今回の件をどう捉えるべきか測りかねているようだ。

 なにはともあれ、悲しい結末にならずに済んだと安堵して、翠鈴の身体から力が抜ける。無理をしたせいで熱が上がってしまったようだ。熱い息を吐く翠鈴を劉弦が抱き上げた。

「今回のことは私の思い違いにより騒ぎを大きくしてすまなかった。皆、解散するように」

 そう言い残して、中庭を横切り翠鈴の部屋へ行く。妃たちが心配そうに見ていた。


「あれで、よかったのか?」

 窓の外はとっぷりと日が落ちて夜空に月が輝いている。寝台に寝ている翠鈴の頭を、劉弦が撫でて問いかけた。

 詮議の後、劉弦に抱かれて部屋へ戻った翠鈴はまた眠りに落ちた。どうやら劉弦も一度は執務に戻ったようだが、日が落ちてから翠鈴が再び目覚めた時はそばにいた。

「毒蜘蛛に刺されたのは翠鈴だ。翠鈴の思う通りにしてやりたいと思ったのだが」

 やはり彼は翠鈴が芸汎を庇ったことを見抜いていたのだ。それでも翠鈴の気持ちを思い、今回の件は不問に付した。

 また熱がぶり返している熱い頭で、少しぼんやりとしながら翠鈴は口を開いた。

「ここのお妃さま方は、皆悲しい存在のように思います。働かずとも食べるに事欠くことはないけれど、劉弦さまの寵愛を受けることのみを目的として生きる定めなのですから。互いに嫉妬して、足を引っ張り合うのも無理はありません」

 こんなこと、彼に言うべきではないという考えが頭の片隅に浮かぶ。でも熱を持った思考で、口が止まらなかった。

「私も劉弦さまの子を身籠らなければ、どのような心持ちになっていたかわかりません」

 彼女たちと自分は背中合わせだと翠鈴は思う。この美しくて頑丈な鳥籠に閉じ込められて、寵愛を受けない鳥は意味のない存在だと言われ続けたら、芸汎のように道を踏み外してもおかしくはない。

 自分がそうならないという自信はなかった。

「翠鈴は、彼女たちをどうするべきだと考える?」

 劉弦からの問いかけに、翠鈴はしばらく考える。頭に浮かんだ考えは少し罰あたりなことだった。彼に向かって口にするべきではない。

 でも今日のようなことを繰り返さないために、悲劇を生まないように思い切って口を開いた。

「彼女たちが望むなら、故郷へ帰らせてほしいと思います。自由に生きるのが、人の幸せだと思います」

 劉弦は、静かな眼差しで翠鈴を見ていた。

「寵を争うだけの一生は、幸せとは思えません。ましてやここでその望みがかなうのはほんのひと握りの者だけ。……芸汎妃さまは、ご実家から寵愛を受けられないことをひどく責められていたそうです。それで思い余ってあんなことを……。私も芸汎妃さまのお気持ちが、少しわかるような気がします」

「翠鈴が?」

 劉弦が撫でていた手を止めた。翠鈴は唇を噛み、声を絞り出した。

「私、皇后さまになる自信がありません」

 目を閉じて、翠鈴はここのところずっと考えていたことを口にした。

「劉弦さまだけでなく、貴人の皆さまも私に皇后さまになってほしいとおっしゃいます。私はお世継ぎを身籠りはしましたが、ただの村娘です。教養も後ろ盾もありません。恐れ多くて……。できそうにもないことを期待されて苦しまれた芸汎妃さまのお気持ちが……」

「翠鈴」

 名を呼ばれて目を開くと、劉弦が柔らかな笑みを浮かべていた。

「皇后に必要なのは、教養でも後ろ盾でもない」

「劉弦さま……?」

「少なくとも私は、私の皇后にそのようなものを求めない。皇后に必要なのは他者を思う温かい心。翠鈴、そなたそのものだ」

 劉弦の大きな手が、翠鈴の頬を優しく撫でた。

「皆がそなたを皇后にと願うのは、そなたにはその心があるためだ。世継ぎを宿したからではない。なにも気負わずそのままのそなたでいればいい」

「そのままの私で……?」

 そのままでいいという言葉に、翠鈴は目を見開いた。意外すぎる言葉だった。

「ああ、翠鈴には皆を思う心がある。だからこそ皆そなたを好きになるのだ」

 そう言って彼は、部屋の隅に山積みになっている見舞いの品に視線を送った。すべて、熱を出した翠鈴を心配した妃たちからのものだ。貴人たちだけではなく貴妃たちからのものもある。しかも一番先に届けに来たのは芸汎だという。

「夕刻、私がこの部屋へ来た時は、まだ部屋の前に列ができていた。皆翠鈴が心配で具合はどうだと女官に尋ねるから、女官が往生していた。私から大丈夫だと説明してようやく安堵して皆自分の部屋へ戻った」

 その時のことを思い出したのか、劉弦がくっくっと肩を揺らして笑った。

「あ、ありがたいです……」

 驚きつつ翠鈴は答えた。

 その頃、翠鈴は熱が上がっていて夢の中。よもや部屋の前でそのようなことが繰り広げられていたとは知らなかった。

「国を治めるには常に民を思うことが必要だ。私は翠鈴に出会い、その気持ちを取り戻した。私が末長くこの国を治めるために、翠鈴にそばにいてほしい。私の皇后は翠鈴しかいない」

 まっすぐな言葉に、翠鈴は、胸の中の重たいものが少し軽くなるのを感じていた。恐れ多いことであるのは変わらないけれど、彼とならばやれるかもしれないという思いが生まれる。

「皇后になることが、そなたにとって重荷だということはわかっている。その代わりにはならぬが、私は生涯そなたを唯一の妃とすることを約束する」

「私、ひとりを……?」

 これも意外すぎる言葉だった。

 彼が翠鈴を大切に思ってくれているとは知っていた。でもそれはたくさんいる妃の中のひとりとして。他の妃はいらないとまで彼が言うとは思わなかった。

「ああ、私の妃は翠鈴ひとりとし、他の妃は故郷へ帰そう」

「故郷へ……? いいのですか?」

 彼の口から出た驚くべき言葉に翠鈴は目を見開いた。さっき自分で口にしたことだがまさか実現するとは思わなかった。

「もちろん今すぐというわけにはいかない。私に皇后がおらず世継ぎもいない状況では民が不安になるだろう。翠鈴が世継ぎを生み、立后したその後に」

「私が皇后さまになれば……」

 翠鈴は呟いた。まだ自信はない。けれどそうすれば、この悲しい争いに終止符を打つことができるのだ。

 目の前が明るくなるような心地がした。

 水凱国すべての民を思う。そこまでの気持ちが自分にあるかはわからないが、少なくとも目の前の彼女たちのことは大切だ。

「劉弦さまは、私にできるとおっしゃるのですね」

 信じてみようかと翠鈴は思う。愛おしいこの人の言うことを。

 劉弦が、身を屈めて翠鈴の熱い額に、自らの額をくっつけた。

「この国を末長く平穏に治めるのが私の定め。もはやそれに迷いはないが、それには翠鈴が必要だ。私の皇后になってくれ」

 至近距離で自分を見つめる漆黒の瞳に、翠鈴の胸は熱くなる。彼とならば、その道を歩んでいけると確信する。

 まだ少し怖いけれど。

「はい、劉弦さま。私を劉弦さまの皇后にしてください。生涯を共にいたします」

 言葉に力を込めて翠鈴は言う。

 もう、迷わない。

「ありがとう」

 そして熱い口づけを交わす。心地いい幸せな思いで、翠鈴は目を閉じた。

 唇を離して髪を撫で、劉弦が囁いた。

「私は翠鈴にそばにいてほしいと願う。そなたに出会ってから、私はこの想いの正体を探していた。神である私と人であるそなたを繋ぐ想いは、一筋縄ではいかないはず……。だがそうではなく単純なものだった。私はそなたが愛おしい。愛おしく思う唯一の存在なのだ」

 神である劉弦が紡ぐ、人と同じ愛の言葉。

 ――だがそれは、すでに眠りに落ちていた、翠鈴の耳には届かなかった……。