懐妊定めの儀から一夜明け、後宮の自分の部屋へ戻った翠鈴は、寝台に寝そべる蘭蘭の指圧をしている。

「ああ~、翠鈴さま。気持ちいいですう。寝てしまいそう」

「寝なさい。蘭蘭、昨日寝なかったでしょう」

「翠鈴さまが倒れられて皇帝陛下の寝所にいらっしゃるという知らせがあったのに、寝られるわけがないですよ。ご懐妊が判明したって話も同時に伝わってきたから、どちらにしてもドキドキして眠れなかったと思いますが。それにしても、翠鈴さまはお世継ぎを宿された大切なお身体なのに、こうしていただくのは申し訳ないですー」

「いいから、いいから。これは私からの命令よ。あなたの仕事なの」

 そう言うと彼女は素直に目を閉じた。

 ここで生きていくしかないのなら、あれこれと思い悩んでも仕方がない。今やれることをやるしかない。とりあえず、指圧の腕が鈍らないように、翠鈴は蘭蘭を揉んでいるというわけである。

 劉弦は翠鈴を翡翠の手の使い手だと断言した。はじめは信じられないと思ったが、龍神である彼が言うならばそうなのだろうと今は思う。

 翠鈴には小さな頃から人の身体に触れるだけで、不調を見抜く力があった。翡翠の手の使い手は龍神だけでなく、人の役にも立つのだ。ならば、その腕を無駄にせぬようにしていたい。

 気持ちよさそうに目を閉じて蘭蘭が口を開いた。

「それにしても昨夜、懐妊定めの儀から戻られたお妃さま方は大騒ぎでしたよ。なかなかお休みになられなくて、女官長さまに叱られてようやく部屋に戻られたんです」

 翠鈴は昨夜の大寺院での様子を思い出す。記憶がやや曖昧だが、確かにあの場も騒然としていた。興奮冷めやらぬまま後宮に戻ったのだろう。

「だけど懐妊なんて、全然実感が湧かないわ。間違いじゃないかと思うくらいよ。自分が子を産むなんて想像したこともなかったから」

 思わず翠鈴は本音を口にする。誰かに聞かれたら叱られそうな発言だが、今は蘭蘭しかいない。

「翠鈴さまはまだお若いですからね。そのように思われても仕方がないでしょう。はじめから覚悟を持って子を作る母親なんてそんなにたくさんおりません。生まれる時までにだんだんと気持ちが定まってくるものにございます……と、昔私の母が誰かに言っておりました」

 わけ知り顔で蘭蘭が言う。そういえば、蘭蘭のお母さんは子だくさんだった。

「ご安心くださいませ、翠鈴さま。私は、弟や妹が生まれるのを何度も経験しております。お産に関しては大抵のことは心得ております」

「そう、頼りにしてるわ」

 出産に関しては知識でしか知らない翠鈴にとってはありがたい話だった。

「ふふふ、きっと可愛いお世継ぎにございますよ。翠鈴さまはお美しいですし、私などお姿を拝見したことはありませんが、皇帝陛下もたいそう精悍でお美しい方だと聞きました」

 その言葉に翠鈴は手を止めた。今朝のあの気持ちがよみがえり、なにやら胸がざわざわとした。

「他のお妃さま方は、それはもう騒いでおられました。目にしただけでぼうっとなってしまうほどだと……。ここにいるお妃さま方は陛下に仕える定めです。陛下は陛下だというだけで、ありがたい存在ですが、それにしても美しい方でよかったとおっしゃっておられる方もいらっしゃいました。女官長さまに、罰あたりだとこっぴどく叱られておられましたが」

 蘭蘭の話を聞くうちに、劉弦の優しい眼差しと頬を包んだ大きな手の温もりを思い出す。頬が熱くなるのを感じた。

 この件に関しては梓萌の言う通りだと翠鈴は思う。相手は龍神さまなのだ。妃になるといっても、人間同士でいう恋愛感情のようなものは不要なはず……。

「あ、あいたた……! 翠鈴さま、少し痛いです」

 蘭蘭が声をあげる。

 翠鈴はハッとして手を止めた。

「あ、ごめんなさい」

 知らず知らずのうちに力を入れすぎていたようだ。ふーっと深呼吸をして心を落ち着けようとしていると。

「なにやつ!」

 蘭蘭が鋭く言って起き上がり、素早く窓を開けて外へ出る。外にいたと思しき人物と揉み合いになっている。慌てて翠鈴も行ってみると、相手は年嵩の女官だった。

「は、離しなさいっ!」

 女官は蘭蘭の手を振り払って一喝した。

「蘭蘭、あなたこんな乱暴なことをしてただでは済みませんよ」

 蘭蘭は相手が先輩女官だと知って驚いたように手を離す。

 代わりに翠鈴が、部屋の中から問いただした。

「手荒な真似をしたことは、謝ります。ですがなぜそのような場所に? 部屋を覗かれていたのでしょう?」

 女官はぐっと言葉に詰まり答えなかった。

「翠鈴さま、女官長さまに報告いたしましょう。翠鈴さまは大切なお世継ぎを宿されておられるのです。なにかあってからでは取り返しがつきません」

 蘭蘭が言うと、女官がギョッとした。

「わ、私はなにもそのような目的で覗いていたわけではございません。ただ……」

 そこで言いよどみ、迷うように視線を彷徨わせている。なにか事情がありそうだ。とりあえず翠鈴は彼女に部屋へ入るよう促した。

「それにしても蘭蘭、あなた素早いわね。まるでかんじゃのようだったわよ」

 部屋の中で女官を座らせてから、翠鈴は蘭蘭に言った。さっきの彼女の動きは、目を見張るものがあった。

「小さい頃から武術の道場に通っていて身の軽さには自信がありますから」

 蘭蘭が胸を張って答えた。

 女官がそんな蘭蘭を訝しむように見て口を開いた。

「いったいどうしてこんなに元気になったのです? つい最近まであんなに青白い顔をしていたのに」

 問い詰めるように言う彼女を落ち着かせて、翠鈴が事情を聞く。

 彼女の名前は、ヤンヤン。九十九の妃、ヤーイー妃付きの女官だという。

 洋洋は芽衣が幼い頃から世話をしていた母親代わりのようなもので、遠く離れた故郷からついてきたそうだ。

 その芽衣が、最近体調が優れないのだという。顔色は悪いし食欲もない。夜もなかなか寝つけない日が続いているというのである。

「蘭蘭だってつい最近まで青い顔をしてふらふらしていたのに、ここ数日はピンピンしています。翠鈴妃さま付きになってからにございますわ。いったいなにがあったのかと、少し覗かせていただいていたのです」

 本当に芽衣のことを思っているのだろう。洋洋は、心底心配そうだった。

「事情はわかったわ洋洋、それは心配ね」

 翠鈴が言うと、洋洋はやや驚いたように目をパチパチさせる。まさか翠鈴が同情するとは思わなかったようだ。寵愛を受けようが懐妊しようが、翠鈴はなんといっても緑族の娘、まさか人間らしい答えをもらえると思っていなかったのだろう。だからこそ、直接相談せずに、こっそり覗いていたのだ。

 まず翠鈴は蘭蘭について説明する。

「蘭蘭は睡眠と栄養が足りていなかったから、青い顔をしてたのよ。たくさん食べて、よく休んだから元気になったの」

「では芽衣妃さまも同じようにすれば……」

「それはわからないわ、洋洋。まずは芽衣妃さまを診察させていただかないと」

 同じような症状でも原因が同じだとは限らない。本人を診てみないと無責任なことは言えなかった。

「診察……にございますか。ですが、直接お会いになるのは、芽衣妃さまがなんとおっしゃるか……」

 洋洋はいまひとつ乗り気ではないようだ。芽衣妃が嫌がることがわかっているからだろう。

 もちろん、本人にその気がないのに無理強いはできない。でも、体調不良だと聞いて、放っておくことはできなかった。

「私、故郷では診療所を開いていたの。直接診せてもらえれば、芽衣妃さまの不調の原因がわかるかもしれないわ」

「え? 診察所を? まぁ、そうなんですか。ならば……」

 診療所という言葉に、洋洋が反応する。意を決したように頷いた。

「ではよろしくお願いいたします。芽衣妃さまは私が説得いたします」


 芽衣妃の部屋は、翠鈴の向かい側である。

 洋洋、翠鈴、蘭蘭が行くと、まだ朝だというのに中は薄暗かった。窓が布幕に覆われているからだ。体調が悪いという話だから、寝ているのだろうか。

 実際、芽衣妃は寝台の上にいた。でも眠ってはいなかった。洋洋の後ろにいる翠鈴を見て「ひっ!」と引きつった声を出した。

「ヤ、洋洋……! なんなの?」

「芽衣妃さま、翠鈴妃さまは故郷で診療所を開かれていたそうです。一度診ていただきましょう」

 洋洋が気まずそうに言う。

 芽衣妃は首を横に振った。

「け、結構よ……! 勝手なことをしないで! 翠鈴妃さま、お引き取りくださいませ」

 予想通りの反応だ。だがそれで引き下がるわけにはいかなかった。洋洋が言った通り、彼女は薄暗い中でもわかるほど顔色がよくない。それにこめかみのあたりがぼんやりと赤く光っていた。

「芽衣妃さま、少しの間です。怖いことはいたしません。蘭蘭、布幕を外してちょうだい」

 にっこり笑って彼女に言い。蘭蘭に指示を飛ばす。蘭蘭が頷いて言う通りにした。

「ちょ……! か、勝手に……!」

「芽衣妃さま、舌を出してくださいませ。このように、べー」

「え? ……べー」

「……あまり血行がよくないわね。月のものは順調に来ているかしら?」

 翠鈴の質問に答えたのは洋洋だ。

「それが、先月は……」

「ちょっと洋洋!」

 芽衣が洋洋を叱る。

「あなた勝手に……!」

「大切なことですよ、芽衣妃さま」

 翠鈴は割って入り彼女を止めた。

「故郷からついてきてくれた女官なんでしょう? あなたさまが小さい頃からそばにいるとか。そういう人の言うことには耳を傾ける方がいいわ」

 芽衣は言葉に詰まり翠鈴を見た。

「寝台にうつ伏せに寝てくださいませ」

 間髪入れずにそう言うと、しぶしぶといった様子で言う通りにする。

 翠鈴は背中に触れていく。目で見て人の不調がわかるようになったとはいえ、念のため指でも確かめておきたかった。

「……身体的な病はなさそうね」

 洋洋がホッと息を吐いた。

「よかったです」

「そうともいえないわ、洋洋。芽衣妃さま、身体を起こして座って手を出してくださいな」

 翠鈴は向かい合わせに座った彼女の腕を取った。

「脈がすごく弱い。顔色が悪いのはこのせいね。病ではないのに、この症状は深刻よ。食欲もなくて眠れていないのでしょう? 以前よりもいらいらすることが増えたりしていない? あるいはなににも興味が湧かなくなったとか……」

 腕と手のひらを指で刺激しながら翠鈴が問いかけると、彼女の目に涙が浮かんだ。

 やはり、と翠鈴は思う。

 彼女の不調の原因は身体の病ではなく心だ。だが芽衣は唇を噛み、なにも言わなかった。

 こういう患者に無理に事情を聞き出すのは逆効果だと翠鈴は知っている。とりあえず簡単にできることを伝えることにする。

「このように部屋を薄暗くされているのはおすすめできません。少なくとも朝は窓の布幕を外して日の光を浴びるようにしてください。それから日中はできるだけ身体を動かすようにして。そうすれば自然と夜は眠くなります」

 翠鈴としては今すぐにでも実行できる簡単なことを助言したつもりだが、芽衣は難しい表情で首を横に振った。

「そんなことできないわ。窓の布幕を開けていたら、梓萌に叱られるもの。後宮の妃は皇帝陛下のために美しくいる義務がある、日焼けしたらどうするのかって」

「日焼けって、そんな……」

 意外な答えに翠鈴が驚いていると、洋洋がさっき開けたばかりの布幕を戻した。

 また薄暗くなった部屋で、芽衣が憂鬱そうに言葉を続けた。

「それに身体を動かすのも無理だわ。妃は後宮から出てはいけない決まりだもの。代わりに中庭があるけれど、あそこは貴妃の方たちが独占していて、貴人の私たちは行くと嫌がらせをされるのよ。そもそも私たちの部屋は中庭に面していないし……」

 そう言われて翠鈴は改めて、貴人の妃たちの住環境を思い出す。長い廊下に並ぶ部屋は頑丈で、故郷の村より格段にいい。なにもしなくとも食事は出る。でも外に出られず、窓の布幕を自由に開けることも許されない。

 籠の中の鳥のようだ。このような生活を続けていたら、あちこちに不調が出てもおかしくはない。

 翠鈴はしばらく考えてから口を開いた。

「では芽衣妃さま、今から私の部屋へお越しくださいませ。私の部屋は夜以外布幕はつけておりませんから。今の時間は、日の光がさんさんと差し込んでおります。布幕を開けているのを見られても、そもそも私の部屋ですから叱られるのは私です」

 おそらく梓萌が翠鈴に布幕のことをうるさく言わなかったのは、寵愛を受けることがないみそっかすの妃だと判断したからだ。

「翠鈴妃さまのお部屋へ? でも……」

 芽衣は気が進まないようだ。

「向かいですから、素早く行けば誰にも見られませんよ。そういえば、蘭蘭、昨日は野のうさぎが近くまで来たって言ってたわね」

 彼女の気を引くためにそう言うと、蘭蘭が心得たとばかりに頷いた。

「珍しい鳥も来ましたよ。さっきこちらへ来る前に、朝食の残りの米粒を少しまきましたから、今頃食べに来てるかも」

「まぁ、兎が? ……珍しい鳥も来るの?」

 少し興味をそそられたように、芽衣が聞き返す。

 洋洋が助け船を出した。

「芽衣妃さま、故郷で兎を飼っていらしたじゃありませんか。思い出しますわね。少しだけ行ってみませんか? 少しなら他のお妃さま方に気づかれませんよ」

 芽衣はしばらく考えていたが、やがてこくんと頷いた。


 少しだけと洋洋は言ったが、翠鈴の部屋の窓辺に腰かけた芽衣は、昼食までずっと窓の外を眺めていた。

 部屋の入口で、洋洋は涙を拭きながら翠鈴にこっそり耳打ちをした。

「私どもの故郷は都から遠く離れたのどかなところにございます。芽衣妃さまは故郷では、活発な方でございました。小さい頃から走り回る姫さまを、私は追いかけてばかりでしたから……。後宮へ来たのは、お姉さまのためなのです。本当はお姉さまが、後宮入りする予定だったのですが、好きな殿方がいらっしゃったので……」

「そう、お優しい方なのね」

 翠鈴は答えて、芽衣に歩み寄る。

 芽衣が窓の外を見つめたまま、口を開いた。

「ここからは山が見えていいわね。私の部屋からは、建物しか見えないの」

 彼女の部屋とここは向かい合わせだから、見える景色が違うのだ。

「草はぼうぼうですけどね」

 翠鈴は答える。貴妃たちの部屋に面している中庭は、草花が整然と植えられて手入れが行き届いている。

 でも翠鈴の部屋から見える場所は特に手入れはされておらずそのままの状態だ。

「このままの方がいい。故郷を思い出すわ。私、暇さえあればこんな野原を走り回っていたのよ。洋洋とござを広げてご飯を食べたりして……」

 そう言って芽衣は笑みを浮かべた。そのことに、翠鈴はホッとする。

「誰かと一緒に食べる方が食事も美味しく感じるものです。私も蘭蘭とこの景色を眺めながら食事をするんですよ」

 翠鈴がそう言うと、芽衣は驚いたようにこちらを見る。

「蘭蘭と?」

 その彼女の反応に、翠鈴はしまったと思う。女官と妃が一緒に食事をとっていると梓萌に告げ口されたら蘭蘭が叱られるからだ。でも芽衣は羨ましそうに、ただ目を細めただけだった。

「いいなぁ、故郷ではみんな集まって食事をしたんだけど、ここではいつもひとりなのよね……」

「芽衣妃さまさえよろしければ、こちらの部屋で一緒にどうですか?」

 思わず翠鈴は問いかけた。

 彼女の不調は、故郷から遠く離れた場所で意に沿わない暮らしを強いられていることからくるものなのだろう。少しでももとの暮らしに近づけることをするべきだ。

 翠鈴からの提案に芽衣は意外そうに首を傾げる。

「この部屋で? 一緒に?」

「はい、ここからは山の景色を眺めることができますし」

「山の景色を見ながら……一緒に……」

 翠鈴からの提案に彼女はすぐに頷かなかった。ただ窓の外を眺めていただけだったが、その表情からは先ほどまでの嫌悪感と戸惑いの色は消えていた。

「お妃さまとはいっても、貴人の方々は都から遠く離れた領地から来た方がほとんどにございます。都での暮らしなど慣れない方がほとんどで……」

 洋洋が憂鬱そうに言った。

 つまりは翠鈴ほどではないにしても、野山を駆け回っていた田舎娘という者も多いのだ。それなのに、こんなところに閉じ込められて実家に帰ることも許されない……。

 彼女の横顔を見つめながら翠鈴は胸を痛めていた。


 その日の夜も翠鈴は皇帝の寝所に召された。

 昼食の後、梓萌にそのことを伝えられ、翠鈴はなんとも言えない気持ちになった。嫌だ、というわけではない。ただ今夜また彼に会うのだと思うと、胸がざわざわと騒いで落ち着かない気持ちになったのだ。

 一方で、梓萌も微妙な表情だった。彼女としては百の妃である翠鈴が、何度も寝所に呼ばれることが納得いかないのだろう。

 だが、蘭蘭の見解は違っていた。

『慣例では懐妊されたお妃さまが寝所に召されることはないそうです。お世継ぎは多い方がいいですからね。別のお妃さまがご寵愛を受ける方が、言葉は悪いですが都合がいいというわけです。それなのに翠鈴さまをお召しになられるということは、陛下がそのくらい翠鈴さまを愛おしく思われているあかしです。ああ、皇帝陛下はやはり立派な方です……! 翠鈴さまがよい方だと誰よりもわかっていらっしゃるんですから』

 つまり梓萌は、皇帝が懐妊中の妃を寝所に呼ぶことを不思議に思っているわけだ。でも蘭蘭の言葉の後半は、間違いであることは確かだった。

 自分と劉弦の間に愛情のようなものはない。

 ないのが正しい関係なのだから。

 彼は龍神らしく慈悲深い心の持ち主だった。自分のせいで翠鈴が故郷の村へ帰れなくなったことを申し訳なく思っている。

 妃として大切にすると言っていた。だから寝所へ呼ぶのだ。

 翠鈴は一生懸命に自分の胸に言い聞かせる。なぜかはわからないけれど、そうしないといけないような気がした。


 ――そして。

 とっぷりと日が暮れた夜の劉弦の寝所にて、翠鈴はひとり彼を待っている。普段の劉弦ならとっくの昔に執務を終えて寝所へ戻ってきている時刻だと女官は言ったが、今宵はまだだった。

 ずいぶん前に『先に休んでいてよい』という伝言をもらったが、そういうわけにもいかず、寝台の上で落ち着かない気持ちで待っているというわけである。

「皇帝陛下、おなりにございます」

 部屋の外から声がして、翠鈴は慌てて背筋を伸ばす。このような場面でどのように振る舞うべきかわからなかった。

 皇帝の待つ寝所へ妃が入室した際の作法は、梓萌から聞いた。が、逆の場合は聞いていないからだ。とりあえず翠鈴は、床へ降りて頭を下げて彼を待つ。

 開いた扉から入ってきた劉弦が眉を寄せた。

「冷たい床に膝をつくな。身体が冷えるではないか。そのようなことをせずともよい。早く寝台へ」

 顔を上げて言われた通りに寝台へ上ると、同じように彼も寝台の翠鈴の隣に腰かける。翠鈴の頬へ手をあてて覗き込むように見た。

「体調はどうだ? 人は懐妊すると気分が優れない日々が続くと聞いた」

 心配そうに自分を見る瞳に、翠鈴の胸がどきんと跳ねる。鼓動が自分の意思とは関係なしに走りだす。朝とまったく同じ反応だ。ほんの少し優しくされて触れられる。それだけでどうしてこんなにも、反応してしまうのだろう?

 自分の身体の変化を不思議に思いながら、翠鈴は口を開く。

「大丈夫です……。確かに懐妊中は体調が優れなくなるという話を聞きますが、懐妊してから大体三月あたりが多いそうです。ですから私はまだ……」

「ならいいが」

 とてもじゃないが、自分を見つめる彼の目をまともに見ることができなくて目を逸らす。と、彼の右肩にぼんやりと光が見えた。

「陛下も遅くまで執務お疲れさまです」

 その光にそっと手をかざすと、光は消える。

 劉弦がふっと笑った。

「名前で呼べと言っただろう。そなたと私は夫婦なのだから。私もこれからは翠鈴と名前で呼ぶ」

「は、はい。劉弦さま」

 戸惑いつつ、翠鈴は答える。

 なんだかふわふわと雲の上を漂っているような変な感じがした。子をなした間柄なのだから名前で呼び合うくらいは普通なのだろう。でも彼に呼ばれるとなんの変哲もない自分の名前が、なにか特別なもののように感じるから不思議だった。

「確かに今日は遅くなった。だが疲れてはいない。翠鈴のおかげで、体調がいい」

 劉弦が優しい目で翠鈴を見た。

 翠鈴はさっき自分がしたことを思い出した。

「翡翠の手……」

 呟くと劉弦は頷いた。

「その手で癒やしてもらったからだろう。だがそもそも翠鈴がただそばにいるだけで私は心地よい。今までの不調が嘘のようだ。嫌でなければ、腕に抱かせてほしい」

 そう言って彼は腕を広げる。また心の臓が大きな音を立てるのを感じて、翠鈴はすぐには答えられなかった。嫌だなどとは思わない。

 でも一昨日のように我を失った状態でも、昨夜のように取り乱した状態でもなく、彼の腕に抱かれるのだと思うと、はいそうですかというわけにはいかなかった。

 そんなことができるほど、翠鈴は男性に慣れていない。そもそも施術以外で男性の身体に触れること自体がほとんどはじめてだったというのに……。

「い、嫌では……でも」

 自分から男性の腕の中へ抱かれに行くということにちゅうちょする翠鈴に、劉弦が安心させるように言う。

「今夜はなにもしない。ただ一緒に眠るだけだ。翠鈴をここへ呼ぶことに反対した家臣たちに、無理はさせないと約束した」

「そっ、そのようなことを心配しているわけでは……!」

 思いがけない言葉に翠鈴は声をあげる。頭から湯気が出るような心地がした。

 あわあわ言う翠鈴に、劉弦がふっと笑った。

「そうか?」

 その眼差しに、翠鈴の鼓動がまた速くなっていく。このままでは心の臓が破れてしまいそうだ。これよりも近くに彼を感じたらどうにかなってしまうと思うが、もちろん拒むことはできなかった。

 そろりそろりと近づくと、ふわりと漂う高貴な香り。それをなぜか甘やかに感じた時、たくましい腕に包まれた。

 膝の上に抱いた劉弦が大きな手で頬を包む。すぐ近くで翠鈴を見つめた。

「今日一日、健やかに過ごせたか?」

「はい」

「なにか不足があればすぐに言え。整えさせる」

「なにも、私はよくしていただいていますから……」

 これ以上ないくらいの胸の高鳴りを感じながら翠鈴は答える。息苦しささえ覚えるくらいだった。

「そうか、ならいいが。後宮では昼間はなにをして過ごすのだ?」

「と、特にはなにも……他のお妃さまとお話をしたり……」

 とそこで、昼間の出来事が頭に浮かび、翠鈴は口をつぐむ。少し考えてから口を開いた。

「あの……劉弦さま、お願いしたいことがあるのですが」

 劉弦がわずかに首を傾げて続きを促した。

「後宮でのお妃さま方……。貴人の方々の日々のことについてでございます。貴人の皆さまのお部屋は中庭へ面しておらず日あたりがよくないのです。それなのに窓の布幕を開けることも許されないようで……。あれでは、日の光を浴びることも身体を動かすこともままなりません。心が病になってしまいます。一日に、二回……朝と夕に宮廷の広いお庭を散歩するお許しをいただくことはできませんか?」

 翠鈴が知らないだけで、芽衣のように気鬱の病にかかりかけている者は他にもいるはずだ。これから彼女たちが長く後宮で生活するならば、どうにかしなくてはと思う。

 翠鈴の願いに、劉弦は驚いたように目を見開いてすぐには答えなかった。

 その反応に、翠鈴は不安になる。

 妃が後宮の外へ出るというのは、やはり許されないことなのだろうか……?

「あの……やっぱり、無理ですよね。変なことを言って申し訳ありませ……」

 そこで。

 劉弦が突然噴き出した。そのままくっくっと肩を揺らして笑っている。

 意外な彼の反応に、翠鈴は首を傾げた。

「あの……。劉弦さま……?」

「願いと言うから、己のことかと思ったが、皆のための願いなのか」

「え?」

「いや、なんでもない。……確かに翠鈴の言う通りだ。日の光は、人には欠かせないもの。許可するように話をしておく」

 なぜ笑っているのかは不明だが、とりあえず聞き入れられたことにホッとして、翠鈴は笑みを浮かべた。

「ありがとうございます!」

「いや。私もこれからはきちんと後宮にも目を配ることにしよう。今までは故あって、なおざりになっていたが……」

 そこで彼は、真剣な表情になった。

「翡翠の手の使い手の件だが。しばらくは私とそなたの間だけの話としておきたい。その時がくるまではこの件は内密に」

 一の妃の華夢は翡翠の手の持ち主だというだけでなく、有力家臣の娘でもある。宰相と皇帝が娘を介して結びつけば国は安泰だと民は安心していた部分がある。それがいきなり、国の端で育った村娘が翡翠の手の使い手だとなれば、混乱し不安になるだろう。

「わかりました」

 頷くと、彼は微笑んで大きな手で翠鈴の頭を撫でる。心地いい温もりに翠鈴の胸がまたとくんと鳴った。

「さあ、今夜はもう休もう」

 そう言って彼は翠鈴を布団の中へ促した。自身も隣に入りそのまま翠鈴を抱きしめて、気持ちよさそうに目を閉じた。

 男性とひとつの寝台でこんな体勢で寝るなんてあり得ない、と翠鈴は思う。でも頬に感じる温もりに心から安心して、だんだんと眠たくなってくるから不思議だった。

 目を閉じたまま、劉弦が言う。

「明日からも私は執務で遅くなる。そなたは必ず先に休むように。私は翠鈴が隣にいるだけで心地よい」

 ということは、明日からも彼は毎日翠鈴を呼ぶつもりなのだ。

 ――私が翡翠の手の使い手で、劉弦さまの体調のために必要だから?

 だとしても、嬉しかった。

 彼のためにできることがあるならば、なんでもしたい。自然とそう思うのは、国を治める皇帝に対する尊敬と感謝の思いからくるものだろう。

 でもそれ以上のなにかもあるような……。

 それがいったいなんなのか、目を閉じたまま、翠鈴は自分の中に答えを探そうとする。けれど心地のいい眠気に襲われて無理だった。

 ――また、明日考えよう。

 自分を包む温もりに頬ずりをして、翠鈴は眠りに落ちていった。


「翠鈴、あそこ! 花がたくさん咲いてるわ! 少しいただいて、部屋に飾ろうかしら?」

 翠鈴の前を軽い足取りで芽衣が行く。笑みを浮かべながら、翠鈴は彼女に続いて歩いている。芽衣の他にも、たくさんの妃たちが思い思いに花を摘んだり、空を見上げたりしながら歩いていた。

 劉弦に許しを得て、妃が朝夕、散歩ができるようになってから十日あまりが経った。

 翠鈴が劉弦に願い出て実現した散歩の権利はすべての妃が利用できるものだったが、初日に参加したのは芽衣だけだった。はじめは皆、そんなことをして本当にお咎めがないのか測りかねていたからだ。

 一方で、もともと活発だった芽衣は二日もすれば、すっかり元気になった。翠鈴の部屋で一緒に食事をするようにもなって、毎日、蘭蘭とお菜の取り合いをしている。

 今や翠鈴と芽衣は、「芽衣」「翠鈴」と呼び合う仲である。

 そしてそんな彼女と翠鈴の様子が他の貴人たちの興味を誘い、散歩の参加者はひとりふたりと増えていったのである。天気のいい今日は、ほとんどの貴人たちが参加している。

 もともと自然の中で育った者が多いせいか、日の光を浴びて自然の風に吹かれるだけで気持ちが晴れるようだ。きゃあきゃあと話しながら楽しそうに歩いている。

「それにしても、しばらく動いていなかったから少し歩くだけでも息が切れてしまうわ」

「本当、実家にいた頃は一日中山菜採りをしてもへっちゃらだったのに」

「私もよ。馬で草原を駆け回っていたくらいなんだから」

 いつのまにか翠鈴のところへやってきた芽衣が囁いた。

「皆さま、お高くとまっているお嬢さまだと思っていたけど、こうやって話を聞いてると私と変わらないお転婆ばっかりだったのね」

 その言葉に翠鈴はふふふと笑って頷いた。

 後宮という籠に閉じ込められて、美と皇帝の寵愛を競わされている中では本当の自分など出せなかったのだろう。でもふたを開けてみれば、皆同じ普通の娘だったというわけだ。互いに互いの話をして、すっかり仲良しになっている。

 翠鈴とはまだ距離はあるけれど……。

 と、そこで妃たちから歓声があがる。どうやら、砂糖菓子を持ってきた者がいたようだ。皆にひとつずつ配っている。

「ありがとう!」

「甘いわ。美味しい」

「ふふふ、だけど食べながら歩くなんて、梓萌に見つかったら叱られるわね」

「あら、帰るまでにはなくなるから大丈夫よ」

 貴妃と違い彼女たちは、梓萌に厳しく監視されている。妃としての振る舞いから外れることをすればようしゃなく叱られる。だから散歩の時くらいは羽目を外そうというのだろう。こうしていると本当に普通の娘たちだ。

 砂糖菓子を配っていた妃が翠鈴の近くにやってきて、遠慮がちにひと粒翠鈴に差し出した。

「翠鈴妃さま。その……もしよろしければ、おひとついかがですか?」

 少し気まずそうに、彼女は言う。

 翠鈴は驚いて聞き返した。

「いいのですか?」

「もちろんです!」

 彼女は頬を染める。

「私……その……翠鈴妃さまにお礼を申し上げたかったんです。そのために持ってきたんです。散歩の許可を皇帝陛下に願い出てくださって、ありがとうございました。こんな小さなもの、お礼にはなりませんけれど」

「そんなことは……。すごく嬉しいです。ありがとうございます」

 そう言って受け取り、口に入れると優しい甘さが口いっぱいに広がった。

「美味しい……」

 七江にもお菓子はあったがこんなにまろやかな優しい甘さのものははじめて食べる。

「私の故郷の特産品ですの。砂糖の原料のキビがたくさん採れるんですよ。それだけじゃなくて、一面のきび畑はそれはそれは美しくて! 翠鈴妃さまにお見せしたいわ」

 生まれ故郷のことを誇らしげに語る彼女の目は輝いていた。

 部族長の娘といっても、地方では都の貴族のようにのんびり暮らしていられない。民と一緒になって田畑を耕したり、特産品の製法を習ったりする。領地を治めるためにはそれが必要だからだ。

 砂糖菓子の話を皮切りに皆口々に、自身の出身地についての話をしだした。

「私の故郷では、香辛料を利かせた料理が美味しいんですよ。ぜひ一度翠鈴妃さまにお召し上がりいただきたいわ」

 別の妃が得意そうに言うと、隣の妃が声をあげる。

「あらでも、辛いものをお食べになったらお腹のお世継ぎがびっくりされるかもしれないわ」

「それが辛くないようにもできるのよ。それに身体が温まるから、懐妊中は特に食べるといいって言われてるの!」

 皆、故郷が懐かしいのだ。翠鈴も同じ気持ちだった。豪華な暮らしはできなくとも故郷は故郷というだけで特別な場所なのだ。帰ることができないなら、せめてこうやって話をしていたいのだ。

「嬉しい、ぜひご馳走になりたいです。私、少しくらい辛くても大丈夫ですよ」

 翠鈴は心から言う。妃が嬉しそうに微笑んだ。

「きっとですよ、翠鈴妃さま」


「ここのところ、体調がよろしいようですね」

 宮廷内の外廊下を玉座の間に向かって歩いていた劉弦は、白菊に声をかけられて足を止めた。

「あの娘とお過ごしになられているからでしょう。まゆつばものだと思っておりました宿命の妃が、本当に存在するとは驚きです」

 劉弦は無言で頷いた。翠鈴と夜を過ごすようになってから十日あまりが経った。

 これまでの不調は嘘のように消え去った。今まで手をつけられず家臣に任せきりになっていた執務を精力的にこなしている。

 寝所へ帰る時間は遅くなり、翠鈴が寝た後だが、それでも彼女がそばにいるだけで信じられないくらいに調子がいい。

「天界へは行かず、この国を末長く治めることを、決意されたということですね?」

 白菊が確認するように問いかける。

 劉弦が口を開きかけた時。

 視線の先に広がる広大な庭の向こうから、きゃあきゃあと楽しそうな声が近づいてくる。後宮にいるはずの妃たちだ。

 翠鈴が願い出て実現した毎日の散歩をしているのだろう。

 彼女たちは、まだ劉弦の存在には気づいておらず、野の花を摘んだり、ひらひら舞う蝶を追いかけたり。中には追いかけ合いをしている者もいる。

 その中には翠鈴もいた。隣の妃と話をしながらゆっくりとした足取りで歩いている。

 皇帝がいることを知らせようとする従者を制し、劉弦は目を細めて、彼女たちを眺める。

 妃の集まりなど、以前の自分なら目を背けていた。が、今は心穏やかだった。

「皇帝陛下?」

 誰かが呟き、皆が一斉にこちらを見る。

 慌てて跪こうとするのを、劉弦は止めた。

「よい、そのまま散歩を続けよ」

 彼女たちにとっては一日に二回だけの出歩ける時間なのだ。堅苦しい思いをさせたくはない。

 すると彼女たちは、驚いたように顔を見合わせ、戸惑いながらも頷いた。

 劉弦が立ち去ろうとすると、ひとりの妃が、意を決したように近づいてきた。

「陛下、お伝えしたきことがございます」

 唐突な彼女の行動に、劉弦のそばに控えている従者が警戒した。

 劉弦も一瞬身構えた。

 翠鈴が懐妊する前は、寵愛を争って彼女たちはあの手この手で劉弦に近づこうとした。だが、自分を見つめるその妃の目は澄んでいる。

「よい」

 劉弦は従者を制し、彼女に続きを促した。

「申してみよ」

「ありがとうございます! あの……昨年、陛下は、ほく地方の干ばつを防いでくださいました。そのお礼を申し上げたかったのです。おかげで民は飢えずに済み、また田畑を耕すことができております。陛下にお会いできたらどうしてもこれをお伝えしたいと思っておりましたのに、いつかの夜は緊張して言いそびれてしまって……」

 するとそれを耳にした他の妃たちも集まってきた。

「私の故郷の一昨年の水害もあと少しのところで水の流れを変えてくださいました。ありがとうございます」

「陛下のご加護で故郷の民は平穏に暮らせております」

 争うように感謝の言葉を口にする。

 彼女たちの目を見つめながら、劉弦は胸が晴れ渡るような心地がする。これが、本来の人の姿なのだ。

 人間は、邪な心を持つのも確かだが、他者を思う純粋な心も併せ持つものなのだ。そして初代皇帝は、この心に応えるために地上に降りた。その彼の気持ちを今、本当の意味で理解する。

 後宮からカーンカーンと鐘が鳴る。昼食の合図だ。

「皆さま、そろそろ参りましょう。陛下、時間ですので失礼いたします」

 付き添いの女官が言い、劉弦が頷くと、彼女たちは頭を下げて歩いていく。

「もうこんな時間なの、あっという間だったわね」

「早く帰らないと、梓萌に叱られるわ」

「ふふふ、皆で叱られれば怖くないわよ」

「あーお腹空いた」

 くすくす笑いながら、去っていく。

 振り返る翠鈴と目が合った。

 本当に不思議な娘だと劉弦は思う。彼女は、劉弦だけでなく他の人の心まで綺麗にするようだ。

 ――彼女がそばにいれば、この国を末長く治めることができるだろう。しかも自分はそれを強く望んでいるのだ。

 人の心に惹かれて人と在ることを決断した初代皇帝の思いが手に取るようにわかるのだから。

 去っていった妃たちの向こう側、青い空のもとに広がる五宝塞の町を見つめて劉弦は口を開いた。

「白菊、私は天界へは行かない。この国を守り、末長く治めることにする」

 言い切ると、白菊がやれやれというようにため息をついた。

「やはりあの娘……いや、これからは翠鈴妃さまと呼ぶべきでしょう。翠鈴妃さまは、ただものではありませんでしたね」

 ただものではないという言葉に劉弦は問いかける。

「……白菊、そなたは翠鈴が翡翠の手の使い手だとはじめから気がついていたのか? なぜ言わなかった?」

「あるいはと思っていただけです。あの娘、故郷の村では診療所を営んでおりまして、後宮へ入ってからも病になる寸前だった女官の世話をしておりました。妃たちの散歩の件も、向かいの部屋の妃が青い顔をしていたのを見かねてのことのようですよ。自分もとらわれの身同然だというのに人の不調ばかり気になるのは、翡翠の手を持つ者のさがでしょう」

 ――翡翠の手を持つ者の性。

 本当にそれだけだろうか、と劉弦は訝しむ。

 診療所も女官の件もはじめて聞く話だが、妙にしっくりくる。そして彼女のそういった部分に、劉弦の中のなにかが強く引きつけられるのを感じている。彼女を思い浮かべるだけで胸のあたりが温かくなるのだ。

「まぁ、翡翠の手の使い手は、龍神の宿命の妃といいますから、あなたさまには必要な娘だったということでしょう。こうなるのは決まっていたということです」

 確かにその通りだ。劉弦にとって彼女が必要不可欠なのは間違いない。

 昼間、どのように澱んだ空気の中で執務をこなしても、寝所にて彼女のそばにいれば本来の自分を取り戻すことができる。それにより国を滞りなく治めることができている。

 ――だがそれだけではない。

 例えば彼女が、翡翠の手の持ち主でなかったとしても、劉弦は彼女をそばに置き、あの目を見つめていたいと強く思う。

 ――この気持ちは……。

 人と龍神である自分の間に本来は存在するはずのない、生まれるはずのない感情だ。だが確かに今、自分の心を支配している。

「彼女がこの地に存在する限り、私は地上にとどまり、国を治めることにする。白菊、私の目が届かない間は翠鈴を守るよう」

「御意にございます。……後宮の妃たちの部屋替えの件ですが、どうやら貴妃の父親たちがぐずぐずと理由をつけて引き延ばしているようです。十日あまりが経った今もまだ、完了しておりません。急がせましょう」

「ああ、頼む」

 頷いて劉弦は歩きだした。


 後宮にて、妃たちの部屋替えが言い渡されたのは、朝、宮廷にて劉弦に会った日の午後のことだった。

 すべての妃が中庭へ集められて、新しい部屋割りを言い渡される。翠鈴は、華夢の向かいの二の妃の部屋へ引っ越し、あとはひとつずつずれるようにという話だった。その内容に貴妃の妃たちは騒然となった。

「華夢さまの向かいのお部屋に、緑族の娘が入るなんて!」

「懐妊したとはいえ、田舎育ち丸出しのあの娘が?」

「ねえ、本当に疑問だわ。いったい陛下はあの娘のなにが気に入ったのかしら? 今だってろくに着飾りもしないで変な服着てるのに」

 一方で、貴人の妃たちと芽衣は、やや寂しそうに翠鈴を見ている。

「翠鈴妃は、皇帝陛下の一番のご寵姫さまなんだもの。当然だわ。でも部屋が遠くになってしまうのが少し寂しい。もう一緒にご飯を食べることはできなくなるかしら……」

 芽衣の問いかけに、翠鈴は首を横に振った。

「これまで通り遊びに来て。……でも私、本当は引っ越しなんてしたくない」

 せっかく慣れた部屋から移るのは嫌だった。思わず本音が口から出てしまう。

 芽衣が首を横に振った。

「それはダメよ翠鈴、陛下は翠鈴をそばに置いておきたいとお思いなのよ。そのお気持ちにお応えしなくては。それに、あのお部屋を私に譲ってよ。翠鈴のお部屋から見える景色が私大好きなんだもの。毎日見られるようになるなんて嬉しいわ」

 翠鈴のためにわざと明るく言ってくれているのだ。

 それを聞いた他の妃たちもせきを切ったように口を開いた。

「散歩には参加されますわよね?」

「まだお料理をご馳走させていただいていないわ」

 翠鈴は彼女たちに向かって約束する。

「もちろん、散歩は参加します。それからお料理も楽しみにしています」

 一方で貴妃たちは、眉を寄せて嫌そうしている。数人が、中庭の中心にある長椅子に座り事態を見守っている華夢のところへ行ってヒソヒソとなにやら耳打ちをした。

 華夢が頷いて、艶のある桜色の唇を開いた。

「陛下のご寵愛を受けられた翠鈴妃さまがお部屋を移られるのは当然です。なれどこの辺りに、貴人の方々が気安く来られるのは差し障りがありますわ。お控えくださいませ。翠鈴妃さまはご寵姫さまなのですから、お付き合いになる相手をお選びになるべきです」

 華夢の言葉に、貴妃たちが当然だというように頷いて、貴人たちは残念そうな表情になる。この後宮で華夢の言うことは絶対だ。

 それに翠鈴は反論した。

「妃同士のお部屋の行き来は自由なはずです」

 余計な揉め事は避けたいが、黙っていられない。せっかくできた彼女たちとのよい関係をここで断ち切るなんて嫌だった。

 今回の部屋替えでも、華夢は一の妃の部屋のまま。ということは、華夢が皇后候補であることには変わりない。後宮で彼女の意向に逆らうことは危険だとわかっている。指輪で手を刺された時のことが頭を掠めるが、口は止まらなかった。

「私は、どなたと一緒にいるかは、自分で決めます」

 いくら彼女が皇后候補でも、誰と一緒にいるかまで口出しされる筋合いはない。

 華夢が首を傾げて立ち上がった。その場が、緊迫した空気になる。皆黙り込み息を呑んで、翠鈴と華夢を見ている。

「後宮の秩序を守るのも妃の役目ですわ、翠鈴妃さま。陛下のご寵愛が深くともそれは変わりません。好き勝手はよろしくなくてよ」

 もっともらしく華夢は言う。貴妃たちが、そうだというように頷いた。

 言葉だけをなぞればそうだろう。寵愛の如何いかんにかかわらず決まりは守るべきだ。でも寵愛を受けたからといって貴人の妃たちと仲良くできないというのは納得できなかった。彼女は、翠鈴と皆を引き離し、翠鈴を孤立させようとしているのだろうか。

「私は決まりに背くつもりはありません。でも妃同士、交流することのなにが問題なのですか? 私は私の好きな方とお付き合いいたします。それについて、お咎めがあるというならば、部屋替えは結構です!」

 華夢を睨んでそう言うと、彼女は目を細めて、再び唇を開きかける。

 その時。

「それはならん」

 中庭によく通る低い声が響く。

 渡り廊下へ続く赤い扉の前に、劉弦が立っていた。純金の糸で刺繍が施された黒い衣装を身につけている。正装姿ということは、執務からそのまま来たのだろう。

 その場にいる者は皆、目を剥いて息を呑んだ。彼が後宮へ来るのがはじめてのことだからだ。後宮が開かれてから翠鈴が来るまで一貫して妃を拒み続けてきた彼は、後宮という場を遠ざけていた。

「部屋替えは私の指示だ」

 言いながら、黒い石の床の上を靴音を鳴らして中庭の中央へやってくる。皆が跪く中、翠鈴のすぐそばに立ち腰に腕を回した。

「なるべくそなたをそばに置きたいのだ。わがままは許さぬ」

 よく通る声でそう言った後、耳に唇を寄せて翠鈴にだけ聞こえるように囁いた。

「部屋替えが発表されたら、このようなことになるのは予想していた。はじめからいるつもりであったが執務が立て込み遅くなった。すまない」

「劉弦さま、そんな……」

「部屋替えは受け入れてくれ。今後無事に世継ぎが生まれるまで、翠鈴を狙う者がいないとも限らない。なるべく目の届くところへいてほしい」

 つまりは世継ぎを宿した翠鈴になにもないように、目の届くところへ置いておきたいということだ。

 皆の手前、寵愛が深くそばに置きたいということにしておけば自然だ。

「……わかりました」

 胸がちくりと痛むのを感じながら、翠鈴は頷いた。

 彼は翠鈴自身に愛情を感じているわけではなく、世継ぎを宿した翠鈴の身体が大切なのだ。そんなことはあたりまえで考えるまでもないことなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう?

 劉弦がまた皆に聞こえる声を出した。

「妃同士、揉め事もなく仲良くしてくれていることを私は嬉しく思う。ここにいる者は皆、誰と親しくしようが問題はない」

 そして貴人たちがいる辺りに視線を送り付け加えた。

「部屋替えにより、困ることがあれば女官長に言うように。すぐに対処させる。それから窓の布幕を開けることを禁じられているそうだな。日の光は人にとってなくてはならないもの。その決まりは今この時をもって解く。自由に開けてよい」

 彼は以前、翠鈴が散歩の話を願い出た時に、これからは後宮のことにも心を配ると言っていた。その言葉を実行しているのだ。

 貴人の妃たちが互いに顔を見合わせて微笑んだ。一方で、翠鈴と貴人の妃たちの交流を容認した劉弦に、貴妃たちが悔しそうに唇を噛む。

 華夢だけが、そんな様子は微塵も見せずに優雅に微笑んだ。

「ありがとうございます、陛下。後宮のことにも心を砕いてくださること、とても嬉しく思います。本日は顔色もよろしいようで安心いたしました。ですが念のため、診察いたしましょう。よろしければ私の部屋へ」

 後半は、翡翠の手の使い手としての言葉だった。

「いや、その必要はない」

 劉弦は断るが、彼女は引き下がらない。

「なれど、陛下に万が一のことがありましたら、皆不安になります。国のためと思い御身を大事に……」

 そう言われて、劉弦はふたりのやり取りを見守る妃たちを見回す。劉弦の健康は国中の民の関心事だった。

 彼は仕方がないというように、ため息をついて頷いた。

「……わかった。皆解散するように」

 言い残して、一の妃の部屋へ向かって歩いていく。華夢が後に続いた。

 貴妃たちが、ヒソヒソと話しだした。

「お似合いね。やっぱり陛下の隣は華夢妃さまでなくちゃ」

「陛下の体調は、華夢妃さまのお力で整っているのよ。夜の相手しかできないどこかの妃とは大違い」

 翠鈴の胸がまたちくりと痛んだ。

 なぜか、劉弦が彼女と並んでいるのを見たくなかった。今この時を同じ部屋でふたりで過ごしているのだと思うだけで、胸の中が灰色の雲でいっぱいになるようだ。

 ここにいるのは皆、彼の妃。

 今夜、別の誰かが彼の寝所に召されても全然おかしくないのだ。

 そんなことわかっていたはずなのに。

 ――どうしてこんな気持ちになるの?

 静かに閉まる一の妃の部屋の扉を見つめながら、翠鈴は胸のもやもやの正体を探していた。


 翠鈴の懐妊を祝う宴が行われると知らせを受けたのは、部屋替えから三日目の朝だった。日時はその日の夕刻、宮廷の大広間で宮廷のすべての家臣と妃が出席するという盛大なものだ。

「皆さま大広間にてお待ちにございます。早くなさいませ翠鈴妃さま」

 日が傾き、辺りが暗くなりはじめた宮廷の外回廊。翠鈴は、まるで罪人を引っ立てるかのように急かす従者の後について、大広間を目指して歩いている。不安で胸がいっぱいだった。

 宴の会場に向かっているというのに、相応しい装いをできていないからである。

「でも、私、準備が整っておりません……。陛下か白菊さまにお取次願えませんか? このようななりでは……」

 翠鈴は、もう何度目かになる言葉を口にする。が、従者は聞き入れなかった。

「陛下はすでに大広間にてお待ちです。私は急ぎ翠鈴妃さまを大広間へご案内するようにと言われただけにございますゆえ」

 にべもなく言って、彼は足早に前を行く。

 今夜の宴で翠鈴が身につける衣装は、劉弦から届けられると聞いていた。翠鈴と蘭蘭はそれを待っていたのに、届かなかったのだ。

 はじめて召された夜、衣装をダメにされてしまったことが頭に浮かび、梓萌に問い合わせるため蘭蘭を使いに出している間に、この従者が迎えに来たのである。

 いつもの作務衣姿の翠鈴を見ても不思議そうにするわけでもなく、有無を言わせず大広間へ連れていこうとする彼に、翠鈴はもしやと思う。

 衣装が届かなかったのも、それを訴える機会を与えられないのも、おそらく誰かの差し金だろう。なにせ、前例がある。

 でも前回と違うのは、今回は国中の主だった家臣が集まる重要な場だということだ。しかも翠鈴の懐妊を祝う宴で、皆が翠鈴に注目しているのだ。このような格好のまま大広間へ行けば、自分だけでなく劉弦にまで恥をかかせることになるだろう。

「あの、やっぱり私、気分が優れないので一度部屋へ戻ります」

 かくなる上は、少し強引な手段を使ってでも大広間へ行くことを回避しなくてはと翠鈴は思う。懐妊中の身体の不調を訴えればなんとかなると思ったのだ。嘘はよくないのは承知だが、背に腹は代えられない。

「なりません」

 従者が足を止めて振り返った。

「すでに皆さまお待ちなのです。翠鈴さまをお連れできなかったら、私の首が飛びます。さあ着きました。この扉の向こうが大広間にございます」

 この強引さはやはり異常だった。翠鈴をよく思わない何者かによって仕組まれたことなのだろう。でも首が飛ぶ、とまで言われては、振り切ることはできなかった。

 こくりと喉を鳴らして、大きな扉を見上げる。ゆっくりと開くと同時に従者が声を張り上げた。

「翠鈴妃さま、おなりにございます!」

 扉が完全に開くと同時にざわざわとしていた大広間が、水を打ったように静まり返った。

 大広間は、豪華絢爛な壁画と高い天井が目を引く広い空間だった。繊細な飾りの灯籠がいくつも下がり、昼間かと見まごう明るさだ。たくさんの馳走が並べられている。

 扉から一番遠いところに設けられた玉座に、深い緑色の正装姿の劉弦が座っている。銀髪を後ろでひとつにまとめて肩から流していた。他の者たちも皆、この場に相応しい装いだった。

 そんな彼らが注目する中、翠鈴は、劉弦の隣に用意された自分の席を目指す。身の置きどころがないような気分だった。

 案の定、貴妃たちからはくすくすと笑い声が聞こえている。家臣たちは眉をひそめて、なにやら囁き合っていた。

 唯一の救いは、劉弦の表情が普段と特に変わらないことだろうか。とはいえ、彼は皇帝で、他の者とは心構えが違うのだ。たとえ不快に思っていても表に出さないだけかもしれないが。

 翠鈴が着席すると、家臣のひとりが立ち上がった。

「皆さま、おそろいになられました。これより、翠鈴妃さまご懐妊の宴をはじめます。……ですが、その前に」

 彼は、翠鈴に視線を送った。

「翠鈴妃さま、そのお衣装はいかがなされました? 陛下より今宵のお衣装は用意されていたはずですが」

 首を傾げて問いかける。痛いところを的確に指摘されて、翠鈴は真っ赤になった。

「それが、届かなかったのです。代わりの衣装を準備することもできなくて……」

「黄福律。大事ない。衣装などなんでもよい」

 玉座から劉弦が口を挟む。だが黄福律と呼ばれた家臣は引かなかった。

「なりません、陛下。この宴は私的なものではございません。国をあげてのものなのです。そのような大事な場に正装して出席いただくのは、陛下の妃としての最低限の務めにございます」

 そして侮蔑の目を翠鈴に向ける。妃失格と言わんばかりの言葉に、翠鈴の胸はひやりとした。

「ならば宴など、不用。もともと私はそう申したではないか。妃の衣装に口出しするな」

 劉弦が不機嫌に言い返し、両者の間に緊張が走る。

 皆かたを呑んで、事態を見守った。

 その張り詰めた空気を破ったのは華夢だった。

「なれど、陛下、そういうわけには参りませんわ」

 妃の中で一番皇帝に近いところにいて、薄い桃色のひらひらした衣装を身につけている。今宵も匂い立つような美しさだ。扇で口もとを隠して眉を寄せ、不安げな表情を浮かべていた。

「陛下からのたまわりものがきちんと届かないなんて、本来ならあり得ないことですもの。一の妃としては見過ごせません。後宮の秩序に関わりますから。翠鈴妃さまの女官は以前にも翠鈴妃さまが白菊さまから賜ったお衣装をダメにしたことがありました。その者をよく取り調べてみなくては」

「にょ、女官がやったことではありません。彼女に責任はありません」

 翠鈴は思わず口を挟んだ。万が一にでも蘭蘭が咎められることになってはいけない。

「あら、そのようなこと、どうして言い切れるのでしょう? 同じことが続いているというのに」

 華夢が眉を寄せると、それに同調するように頷いて、黄福律が声を張り上げた。

「そもそも、女官の不始末はその女官を管理する妃の不始末。そのあたりのことわりを、翠鈴妃さまはまだ理解されておられないようですな。こちらに来られて、日が浅いとはいえ、陛下の寵愛を受けるならばご自覚くださらないと」

 翠鈴に、というよりは見守る家臣と妃たちに向かって言う。家臣たちは納得だというように頷き、貴妃たちはヒソヒソと囁き合う。

 どこか得意そうに翠鈴を見る華夢妃に、やはりこの件は仕組まれたことなのだと翠鈴は確信する。でもなんの証拠もない状況で言い返すことはできなかった。

 唇を噛み黙り込む。そこで。

「衣装は、届けなかったのだ」

 劉弦が立ち上がった。

「え? へ、陛下……? しかし、翠鈴妃さまには手持ちのお衣装がないゆえ、手配するようにと陛下が……」

「気が変わったのだ。そなたたちの預かり知らぬところでやめさせた」

 言いながら翠鈴のところへやってきて、翠鈴を抱き上げた。

「つっ……!」

 唐突な彼の行動に、翠鈴は目を白黒させて彼の首に腕を回す。彼は事態を見守る聴衆に向かって言った。

「彼女の美しく着飾った姿を皆に見せるのが惜しくなったのだ。罰せられるは私の彼女を愛おしく思う心」

 そう言って、これ以上ないくらいに優雅に微笑んだ。皆その笑顔に魅了され、微動だにできなくなる。

 彼らをいちべつして劉弦が歩きだし、皇帝専用の扉の前まで来たところで、ようやく黄福律が口を開いた。

「へ、陛下……! どちらへ……?」

「彼女がこの場に相応しくないというならば、やはり誰にも見せず私の部屋へ隠しておくことにする。私はすぐに戻るゆえ、宴は続けているように」

 言い残して、大広間を出る。そこは皇帝の控えの間だった。中央の長椅子に下ろされてようやく翠鈴は口がきけるようになる。

「このような格好のまま来てしまい、申し訳ありませんでした。私……」

「よい。このようなことになるのは予想できたのに、対処しなかった私の落ち度だ。不快な思いをさせたな、申し訳なかった」

 そこで言葉を切って、劉弦は翠鈴を見つめた。

「それに、その格好を恥じることなどない。そなたらしくて私は好きだ」

「劉弦さま……」

「故郷では診療所を開いていたのだろう? ならばそれが翠鈴の正装だ」

 翠鈴は心の臓が止まりそうなほど驚いて同時に温かい気持ちになる。誰かに陥れられたとはいえ、宴に相応しくない格好で現れたことは、咎められてもおかしくはない。こんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。

 劉弦が身を屈めて、声を落とした。

「だが、厄介事に巻き込みたくないゆえ、あの場から連れ出した。許せ」

「そんな……ありがとうございました」

「怖がらせるつもりはないが、先ほどの男には気をつけるように」

 先ほどの男とは、翠鈴を糾弾していた黄福律と呼ばれていた人物だろう。

「宰相だ。一の妃の父親で、彼女を皇后にしたがっている。彼女を遠ざける私との関係は、はじめからあまりよくない。今宵のことは間違いなく奴が一枚噛んでいる」

 華夢と一緒になって翠鈴を責めていたのは、そのような動機があるからなのか。

「わかりました」

 劉弦が翠鈴の頬に手で触れて、申し訳なそうに眉を寄せた。

「争い事に、巻き込むことになって申し訳なく思う。生まれ故郷にいたなら、こんな思いをすることはなかったのに。そなたは、私が必ず守ると約束する」

「そ、そのように言っていただく必要はありません」

 翠鈴は慌てて答える。皇帝の口から出たとは思えないほどまっすぐな謝罪だ。

「む、村に帰れなくなったことは、劉弦さまだけのせいではありませんし……その……」

 頬が熱くなるのを感じながら翠鈴は、一生懸命に言葉を紡ぐ。

「私がここにいることで劉弦さまの不調を軽くできるなら、私はここにいたいと思います。少しくらい意地悪されたって……なんとも思いません」

 彼の中の罪悪感を少しでも、軽くしたいという一心だった。どうしてかはわからないけれど、彼にそんな風に思い続けていられるのは嫌だった。

 でも口に出してみれば、これが本心なのだと確信する。ここにいたいなんて、思ったこともなかったけれど、それが彼のためになるならばそうしたい。

 それは、彼がこの国を治める、皇帝だからだろうか?

 自分自身に問いかけながら、翠鈴はすぐそばにある優しい色を浮かべた漆黒の瞳を見つめる。

 ……そして、それは違うと確信する。

 彼はこの国を統べる龍神で、翠鈴にここにいろと命令するのが当然の立場にいる。それなのに、こんな風に気遣ってくれる。翠鈴がつらい思いをしないよう心を砕いてくれるのだ。

 そんな彼だからこそ、翠鈴は彼のそばにいたいと願うのだ。

 この気持ちは……。

「ここにいたいと思う……それは翠鈴の本心か?」

 その問いかけに翠鈴は迷わず頷いた。

「はい」

「そうか、ならいい。私も翠鈴に、そばにいてほしいと願う」

 劉弦がふわりと微笑んだ。

 その眼差しを見つめながら、翠鈴はとくとくとくと速度を上げる自分の鼓動を聞いていた。彼の手が頭を優しく撫でるのを心地よく感じている。

「この後は私だけが宴に戻る。そなたは寝所で待っていよ」

 そう言って、劉弦が立ち上がった時。

「陛下、お取次ぎ願いたいという者たちが」

 従者が遠慮がちに声をかけた。

「芽衣妃さまと、いく人かのお妃さまにございます。翠鈴妃さまにお目通り願いたいと……」

 劉弦が確認するように翠鈴を振り返る。

 翠鈴が頷き、劉弦が「通せ」と答えると、芽衣と数人の妃が入ってきた。芽衣は衣装を、その他の妃は髪飾りや首飾りなどを手にしている。

 劉弦に跪き、芽衣が口を開いた。

「皇帝陛下、翠鈴妃さまのお支度を私たちにお任せいただくお許しをくださいませ」

 意外な申し出に、劉弦が目を見開く。

 翠鈴は思わず口を開いた。

「芽衣、……その衣装は?」

 芽衣が顔を上げて翠鈴を見た。

「私のものよ、翠鈴。宴の衣装がないなら、どうして言ってくれないの? 言ってくれればなんとかするのに。水臭いじゃない」

 別の妃も芽衣に同意する。

「私たちだってたくさんではないけれど、実家から持ってきたものがあります。皆さんで持ち寄れば翠鈴妃さまを綺麗にして差し上げるくらいはできましたわ」

 隣の妃が唇を噛む。

「翠鈴妃さまがあんな風に言われるなんて悔しくて……」

「あ、ありがとう」

 皆の剣幕に、やや戸惑いながら翠鈴は答える。すると皆に取り囲まれた。

「髪はまとめ上げた方が可愛らしいわね。その髪飾りはどうかしら?」

「いいと思うわ。翠鈴妃さまのお髪の色にぴったりだし。それにしても、細くて羨ましいわ。このお衣装がお似合いになるわ」

「ああ、爪も染めて差し上げたかった! 時間がないのが口惜しいわ」

 まだ劉弦からの許しも出ていないのに、翠鈴を飾り立てる相談をしはじめる。もはやこのまま作務衣を脱がされそうな勢いである。

 翠鈴はあたふたとして皆を止めようとする。

「あ、あの……! 私、宴には戻らな……」

 ――と、そこで劉弦が噴き出した。そのまま、くっくと肩を揺らして笑っている。

 その彼の反応に、ようやく彼女たちは自分たちが暴走していたことに気がついて、再び劉弦に向かって跪こうとする。それを、劉弦は止めた。

「よい。そのまま続けてくれ」

 妃たちに向かってにっこりと微笑んだ。

「そなたたちの心遣いに感謝する。私は先に宴に戻るが、彼女を頼めるだろうか?」

 感謝するという言葉と笑顔に、一瞬皆固まる。が、すぐに、芽衣が答えた。

「は、はい! きっと陛下も夢中になられるくらいお美しくして差し上げます!」

「では、頼む」

 そう言い残して、劉弦は大広間に戻っていく。

 同時に、その場の空気が一気に緩んだ。

 妃のひとりがうっとりとしてため息をつく。

「あのような陛下ははじめてだわ。すごく素敵……」

 でもそこで翠鈴を見て咳払いをした。

「とはいえ、私は翠鈴妃さまと陛下の仲に割って入ろうなどとはもはや思いません。おふたりが末長く仲睦まじい夫婦でいていただけるよう、応援いたしますわ」

 別の妃が同意した。

「陛下は素敵な方だけど、恐れ多くて遠くから拝見するくらいがちょうどいいわ。私たち、もともと寵愛を受けることはない数合わせの妃なんだもの。田舎娘だし、教養もないのに寵愛を受けるなんて恐れ多くて」

「そうそう。後宮へ行けば働かずにのんに暮らせるよって言われて来たんだもの。どうせなら、楽しく仲良く暮らしたいわ」

「だから、皆で翠鈴を応援しようって決めたの。他の貴人たちも同じ気持ちよ!」

 得意そうに言って、芽衣がニッと笑った。

「翠鈴が来てから、ここの暮らしが楽しいって思えたんだもの」

「芽衣……。皆さま……」

 翠鈴の胸に温かいものが広がった。

 翠鈴がしたことなんて、本当に些細なことだ。それなのにこんなに感謝されるのは、それだけが過酷な場所だからだ。こうなったのは翠鈴の功績ではない。

 それでもこんな風に言ってもらえるのが嬉しかった。ここへ来たばかりでひとりぼっちだった頃が嘘みたいだ。皆の笑顔がじわりと滲む。

「私も、皆とお話しできるようになってから、ここの暮らしが楽しくなりました。なにがなんだかわからないままに、こうなってしまいましたけど……」

 つられるように皆涙を浮かべる。

 そこへ、芽衣が手をぱんぱんと叩き明るい声を出した。

「しんみりするのは、後ほどよ。ぐずぐずしていられないわ。なんとしても翠鈴を水凱国一の美女にするわよ!」

 その言葉と共に、妃たちが心得たとばかりに、翠鈴を取り囲んだ。


 大広間にて、劉弦は玉座に座り酒を片手に、順番にやってくる家臣からの祝いの口上を聞いている。

 丁寧ではあるがじくじたる思いを隠しきれていない黄福律からはじまったそれは、だんだんと様子が変わるのを感じていた。意外なことに貴人の妃の父親たちは、翠鈴の懐妊を心から喜んでいるように思えた。

「陛下のお世継ぎが生まれましたら、この国は安泰にございます。領地の民も喜びましょう」

「翠鈴妃さまに健やかにお過ごしいただけるよう、娘にもよく言ってきかせます。近頃は共に散歩をさせていただいているようで」

「私どもの領地の特産品は身体を温めて懐妊中に飲むとよい茶がございます。娘に持たせますゆえ……」

 国のため民のために、世継ぎの誕生を心から願う彼らの穏やかで澄んだ目を見つめながら、劉弦はさっき翠鈴を取り囲んでいた妃たちを思い浮かべていた。

 互いに互いを思い合い、足りないところは補い合う。初代皇帝が惹かれただろう人の姿。その心を取り戻す者が、じわりじわりと増えている。翠鈴が来たことによって。

「陛下、翠鈴妃さまのご懐妊を心よりお祝い申し上げます」

 最後に祝いの口上をあげに来たのは、九十九番目の妃の父親だった。

「翠鈴妃さまは、慣れない環境で気鬱の病に罹りかけていた娘を救ってくださった恩人です。これからは私も翠鈴妃さまを娘と思いお支えしたいと思います。娘からも手紙でそうするよう言われておりますゆえ」

 都から遠く離れた領地を治めるその家臣は、民思いの穏やかな人物として知られている。劉弦はさっき、翠鈴を着飾らせてみせると張り切っていた芽衣を思い出しながら頷いた。

「そうしてもらえるか? 彼女には身寄りがない。急にここへ連れてこられて寂しい思いをしていたのだ。芽衣妃の心遣いをありがたく思う」

 素直な思いを口にする。

 彼女を大切にするとはいっても、皇帝である劉弦はずっとそばにいられるわけではない。ひとりでも味方がいてくれると心強い。

 感謝の言葉を口にした皇帝に、芽衣の父親が驚いたような表情になり、次の瞬間破顔した。

「これはこれは……! お熱いですな。よほど翠鈴妃さまを愛おしく思われているようだ」

「あ……、いや」

 その彼の反応に、むずがゆいような気持ちになって、劉弦は咳払いをする。

 芽衣の父親が柔和に微笑んだ。

「よいことにございます、陛下。娘からは翠鈴妃さまのお人柄はよくよく聞いております。もう娘は、翠鈴妃さまに夢中のようでして、その翠鈴妃さまをご寵愛される陛下を心から尊敬しているようです。……末長く、仲睦まじくいらっしゃるよう親子共々願っております」

 そう言って彼は下がっていった。

 落ち着かない気持ちを抱えたまま、劉弦はその彼を見送った。

 ――愛おしく思う。

 それは、本来であれば人と人との間に存在する感情で、彼らはその気持ちをなによりも大切にする。だからこそ劉弦は、さっき衣装のことで揉めている場を収めるためにその言葉を使ったのだ。便宜上、彼女を愛おしく思うと言えば、人である彼らは納得する。

 そのはずだったのだが……。

「翠鈴妃さま、おなりにございます!」

 妃用の扉の向こうで従者の声が聞こえる。大広間が静まり返った。素早く視線を走らせると、翠鈴妃の支度をすると張り切っていた妃たちはいつのまにか席に戻っていた。互いに顔を見合わせて嬉しそうに微笑んでいる。

 ――そして。

 ゆっくりと開いた扉の向こうに現れた翠鈴の姿に、思わず劉弦は息を呑み立ち上がりそうになる。

 彼女は、ほっそりとした薄緑色の飾り気のない衣装を身につけて、髪をひとつにまとめ薄化粧を施していた。白い鈴蘭の髪飾りと、耳飾り、細い金の首飾り。少し控えめなのは、それほど裕福ではない家柄の貴人たちが持ち寄ったものだからだろう。それでも翠鈴が纏う清廉さにはぴたりと沿っているように思えた。

 今まで劉弦は、人が綺麗な衣装を身に纏い自らを美しく見せることにまったく興味が湧かなかった。神にとっては外見などどうでもいいことだからだ。でも今は、どうしてか彼女から目が離せない。

 ――美しいと、心から思う。

 戸惑いながら周囲を見回す澄んだ瞳、羞恥に染まるふっくらとした頬。今すぐそばへ駆け寄って抱き上げたいという衝動を肘置きの上で拳を握りなんとか耐えた。

 一歩一歩、ゆっくりとこちらへやってくる彼女に、大広間の者たちも皆、驚き感嘆のため息をついている。自信なさげな彼女を、着飾らせた妃たちが励ますように頷いたり、手を叩いたりしていた。

「翠鈴妃さま、ご懐妊おめでとうございます!」

「健やかなお世継ぎの誕生を心よりお待ち申し上げます」

 黄福律と華夢、貴妃たちがにがりきったような表情でそれを見ているが、貴人の妃たちと彼女らの父親たちの祝福の声はやまなかった。

 少なくない自身への温かい言葉に、翠鈴が、安堵したようにわずかに笑みを浮かべる。そして、劉弦を見た。

 その視線に、劉弦は息を呑む。胸が焼けるように熱くなった。

 ――愛おしい。

 それは、神である自分にはなかったはずの感情で、はじめて感じる想いだった。

 それでも、はっきりとわかる。

 彼女にそばにいてほしいと願うのは、彼女が翡翠の手の使い手だからではなく、ただ愛おしいからなのだ。

 ひと筋だけ首にかかる翠鈴の黒い髪。その艶のある黒を見つめて、劉弦はそう確信していた。


「今宵は、疲れたであろう。ゆっくり休め。朝は起こさぬように言っておく」

 宴が終わり、劉弦の寝所に戻ってきた翠鈴を寝台の中へ促して劉弦も隣に入る。

 ふわりと感じる彼の香りに翠鈴の胸はドキドキとした。毎夜を同じ寝台で過ごしているとはいえ、こうやって同時に入るのはずいぶんと久しぶりのこと。彼は毎日夜遅くまで執務に勤しみ、部屋へ来るのは翠鈴が寝た後だからだ。

「寒くないか? 夜は冷える」

 かぶせられた布団を頬まで上げて、翠鈴は口を開いた。

「今宵はありがとうございました。はじめはどうなることかと思いましたが、滞りなく終わって安堵しました」

 当初の予想に反して、半分ほどの者から祝福の言葉をかけられた。なにより芽衣たちの言葉が嬉しかった。

「皆、翠鈴の力だろう。どうやら、そなたに心惹かれるのは、私だけではないようだ」

 肘をつきすぐ近くで翠鈴を見つめて劉弦が言う。

 翠鈴の頬が熱くなった。

 どうやら神である彼も人と同じように酒には酔うらしい。

 そうでなければ『心惹かれる』などという言葉を使うはずがない。

「私はなにも……」

「いや、他の妃たちがあのように助け合い、手を取り合う姿を私は今まで見たことがない。翠鈴がここへ来てからだ」

「そんな……。皆さまがもともといい方たちなのです。ただそれだけで……。でも着飾ったのは恥ずかしかったです。あのような格好、私には似合わないのに……」

 芽衣たちは褒めてくれたが、自分のような田舎娘には、分不相応なんてものではなかった。大広間に戻るなどとんでもないと思ったが、一生懸命支度をしてくれた彼女たちの気持ちに応えたくてそうしたのだ。

「美しかった」

 劉弦が目を細めた。

 その言葉に翠鈴は目を見開いた。

「着飾ることは、神である私にとっては、本来は無意味なことだ。外見の美しさでは私の心は動かない。だが今宵は着飾るそなたを誰よりも美しいと思った」

 やはり彼は酔っているのだと翠鈴は思う。あるいはよほど世継ぎができたことを嬉しく思っているか……。

 だって、美しいなど翠鈴にはあまりにもそぐわない言葉だ。それでも、嬉しいと思う気持ちを止めることができなかった。

 翠鈴だって今までは着飾ることに興味はなかった。ずっと生きることに必死だった自分には関係ないことだったから。

 それでもあの時は、自分が着飾ったのを彼がどう思うかが気になったのだ。

 その彼に褒めてもらえただけで、まるで雲の上をふわふわと漂っているような気分になる。

 この気持ちは……?

「さぁ今日はもう休め」

 劉弦が言って、布団の中で翠鈴を抱き寄せた。

「翠鈴を抱くと心地よい。私ももう休むことにしよう」

 すぐ近くから聞こえる彼の声音が、甘く甘く耳に響いた。同時に、翠鈴の胸が複雑な色に染まってゆく。

 尊敬と信頼、自分が彼に抱いてよい思いはそれだけなのに、それ以外の想いが確かに胸に存在するのを感じたからだ。

 ――それは神と人との間には、存在しないはずのもの。

 宿命という名のきずなで結ばれていれば十分なはずの自分たちには、必要のないはずの想いだ。

 ――劉弦さまが愛おしい。

 頭の中でもうひとりの自分が呟く。それから目を背けるように、翠鈴はギュッと目を閉じた。