知らない場所へ行く夢を見た。
そこは綺麗な色の雲の上で、身体が驚くほど軽いのだ。翠鈴は男性と手を繋いで雲の上をゆっくりと歩いている。
相手が誰かはわからない。顔が見えるようで見えないからだ。けれど心の底から安心できる相手だというのは間違いない。
やがてふたりは、雲の泉から七色の水が湧き出る泉へと辿り着く。
男性が大丈夫というように頷いて、泉に視線を送る。柔らかな微笑みに導かれるようにして泉へ足を踏み入れると、七色の光に包まれた。
ぼんやりと目に映る、生まれ育った自分の家でも後宮に与えられた部屋でもない光景に、ハッとして目を開き思わず翠鈴は声をあげる。
「きゃっ……!」
すぐに口を両手で押さえて瞬きをした。
窓から差し込む朝日の中で、自分がくっついて寝ていた〝あるもの〟に驚いたからである。
天蓋付きの寝台から、はみ出るような形で翠鈴を包んでいたもの、それは銀色に輝く龍だった。とぐろを巻くように翠鈴を包んでいる。
言葉もなく翠鈴はその美しい龍を見つめた。黄金色の長い
とそこまで考えて、翠鈴はまた声をあげそうになってしまう。自分がなにも身につけていないことに気がついたからだ。
慌ててかけ布を引き寄せて裸の身体に巻きつける。寝台のそばに丸まって落ちている自分の作務衣を直視することができない。昨夜起こったことを思い出して、頭から
眠る銀色の龍は間違いなく皇帝だ。昨夜は人の姿だったが、彼は龍神なのだからこれが本来の姿なのだ。
それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
翠鈴が寵愛を受けることはないと白菊は言い切った。
それなのに、この部屋で一夜を過ごしてしまうなんて……。
医療を施す者の心得として、男女のことは知識としては知っていた。でも経験はまったくなく、それどころか今後経験する予定もないと思っていたのに。はじめて顔を合わせた男性と、すぐに深い仲になってしまったことが信じられなかった。
もちろん相手は皇帝なのだから、たとえ嫌でも断ることはできなかった。翠鈴がなにより不思議なのは、術にでもかかったように、彼に触れられることを少しも嫌だと思わなかったことだ。
それどころか……。
銀色の龍は、相変わらず穏やかな寝息を立てている。長い銀色のまつ毛が差し込む朝日に反射してキラキラと輝いていた。
その身体に、ところどころに赤く光る箇所がある。耳の後ろ、首、背中……。人でいうとちょうど、ツボがあるあたりだ。
首を傾げて、翠鈴はその光に手をかざす。どうしてか、そうするのが正しいことのように思えたからだ。
かざしたその手が温かくなり、同時に赤い光がすっと消えた。他の箇所へも手をかざしてみる。本当にどうしてかわからないけれど、そうするべきだと思ったからだ。
そうして翠鈴が最後のひとつを消した時――。
「なにをしている」
声と共に風がびゅっと吹いて翠鈴を包む。窓がガタガタと大きな音を立てた。目を閉じて開いた時には龍は消え、代わりに皇帝に腕を掴まれていた。鋭い視線で彼は翠鈴を見ている。
翠鈴はなにも答えられなかった。
「あの……」
なにをしていたか自分でもよくわからなかったからだ。ただ、なにかに導かれるように手をかざしていただけで……。
鋭い視線に、恐る恐る口を開く。
「赤い光を消していました」
「光?」
「陛下のお身体のあちこちに……」
それ以上は説明できずに口を閉じる。
皇帝が「身体の?」と呟いて眉を寄せた。そしてハッとしたように首の後ろに手をあてて、訝しむように目を細めた。
「……そなた、名は?」
「緑翠鈴と申します」
「翠鈴……」
皇帝が繰り返した時。
「皇帝陛下! 陛下! 騒がしいですが、いかがされました?」
扉の向こうから、呼びかける声がする。さっきの風が窓枠を揺らしたことを不審に思って駆けつけたのだろう。
翠鈴はハッとして、身体に巻きつけた布の胸もとを握りしめた。声の主が男だからだ。なにも着ていないのに入ってこられるのは嫌だった。
彼らが扉を開ける前に服を着たい。でも皇帝の目の前で身体に巻きつけた布を解き、作務衣を着る勇気もない。
そんな翠鈴をちらりと見て、皇帝が扉に向かって口を開いた。
「大事ない。百の妃を下がらせる。女官のみ入室するように」
「御意にございます」
翠鈴がホッとした時、ゆっくりと扉が開いて、女官が数名部屋へ入ってくる。その中に梓萌もいた。素肌に布を巻いただけの翠鈴を見て、一瞬信じられないという表情になるが、皇帝の手前、なにも言わなかった。
「翠鈴妃さま、こちらへ」
寝台のそばまで来て、翠鈴に手を差し出した。混乱しながらも翠鈴はその手を取った。とにかく早くこの状況から逃れたい。
寝台を下りると、皇帝が梓萌に向かって口を開いた。
「湯浴みをさせて、身体をいたわるように」
その言葉に、翠鈴の頬が熱くなる。翠鈴のことを思っての慈悲深い言葉だ。が、否が応でも昨夜のことを連想させられてしまい、耳を
梓萌も瞬きをして一瞬固まったが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました。翠鈴妃さま、参りましょう。段差がありますから、お気をつけくださいませ」
昨夜までとはまったく違う、へりくだった態度だった。そのことが翠鈴を余計に混乱させる。
大変なことになってしまった、という考えが頭の中をぐるぐる回るのを感じながら、翠鈴は部屋を後にした。
紅禁城の玉座の間にて、劉弦は九十九人の家臣と
「皇帝陛下、おはようございます」
ずらりと並ぶ家臣の中から黄福律が歩み出る。残りの者も頭を下げた。
「昨夜は、後宮の妃に情けをくださりまして、ありがとうございました。家臣一同お礼を申し上げます」
そう言う彼の表情がどこか苦々しく感じられるのは、劉弦の思いすごしではないはずだ。後宮が開かれてから昨夜までずっとどの妃にも手を出さなかったのに、どうしてよりによってはじめて寵愛を与えたのが百の妃なのだと思っているに違いない。
玉座に肘をついて劉弦は家臣たちを見渡した。劉弦が翠鈴を後宮へ下がらせたのが半刻ほど前、もはやすべての者に昨夜のことは伝わっているようだ。
皆、釈然としない様子だった。
「たとえどのような出自の妃でも、寵愛をくださるのは、ありがたいことにございます。どのような出自でも……なれど」
「それよりも、福律」
劉弦は彼の言葉を遮った。
「南西地方で豪雨が発生し堤が決壊した。作物に影響が出ているようだ。すぐに堤を作り直し、税は向こう二年免除だと伝えよ」
「堤が……それは」
福律が目を見開いた。天候だけでなく被害状況まで言及した劉弦に家臣たちがざわざわとした。
「皇帝陛下、国土が、お見えになるのですか?」
「お加減がよくなられたのですか?」
彼らからの問いかけに、劉弦は頷いた。
今朝起きた時よりいつもの頭痛は消えていて、目を閉じると以前のように国の隅々まではっきりと見渡せた。
「華夢妃さまの治療の効果にございますね!」
誰かが言い、それに応えるように別の誰かが声をあげる。
「さすがは黄族の姫君、翡翠の手の使い手にございます」
この現象が華夢のおかげではないことははっきりしている。彼女の診察を受けるようになってからずいぶん経つが、その間体調は悪くなる一方だったのだから。
だが劉弦は否定はしなかった。代わりに福律をちらりと見る。その表情からはなにも読み取れなかった。
立ち上がり、宣言する。
「私は執務室にて国を見る。なにかあれば追って指示する」
そのまま玉座の間を後にした。
玉座の間から短い廊下で繋がった部屋が、劉弦が執務室として使っている空間だ。特殊な結界が張ってあり、劉弦以外は白菊しか入れない。雲が渦巻く天井の下、なにもない空間に椅子がひとつ置いてある。
扉を閉めると同時に、白菊が姿を現した。
「劉弦さま、いったいどうされたんです? 昨夜、なにがあったんですか?」
開口一番問いかける。
劉弦は答えなかった。答えられなかったのだ。昨夜起きたことの説明をうまくできる自信がない。
「まさか、あの娘に手をつけたのではないでしょうね? もしそうであれば、天界へ戻ることはできなくなりますよ」
咎めるように白菊は言う。
「もう時間がないというのに、このままではあなたさまは邪神に……」
「それは大丈夫だ。私は邪神にはならない」
気色ばむ白菊の言葉を遮って、劉弦は言い切った。
今朝目覚めた時から、視界の曇りは晴れ、心は澄み渡っている。昨夜までの自分とは違うと明確に言い切れた。今すぐに邪神に成り果てることがないのは確かだった。
「頭痛も消えた、目もよく見える」
とりあえず、白菊の懸念を取り払うためそう言うと、彼は切れ長の目を見開いた。
「それは……」
「もうよい、下がれ。少しひとりで考えたい」
それが今の自分には必要だった。自分の体調はすなわち国の状態。状況がよくなったようにも思えるが、それがいったいなぜなのか、はっきりわからなければ手放しでは喜べない。
「……御意」
白菊が消えると、劉弦は目を閉じる。意識を雲の上までもってくると、やはり国の隅々まで綺麗に見渡せた。
目を開き、劉弦はこの現象の原因に思いを
――昨夜は不可解なことの連続だった。
そもそもはじまりからしておかしかったのだ。
寝室にて、妃を待つあの時間。
後宮と寝所を繋ぐ渡り廊下を、ひたりひたりと近づいてくるあの足音は、普段なら憂鬱でうっとうしく感じるはずなのだ。それなのに昨夜に限っては妙に心地よく耳に響いた。
足音の主が一歩一歩近づいてくるたびに、空気が澄んでゆくような心地がしたのもいつもとまったく逆の感覚だ。
そして現れた娘は質素ななりをしていた。およそ皇帝の寝所に召されたとは思えない格好のその娘に、劉弦の視線は吸い寄せられ逸らすことができなかった。
彼女の纏う清廉で
――あのような人間ははじめてだ。
いつも劉弦は、入室した妃を近寄らせることはせず、そのまま下がらせる。それなのに昨夜は強く惹きつけられるような奇妙な衝動に襲われて、立ち上がり自分から歩み寄ってしまったのだ。
そして指先がほんの少し触れたその瞬間、はじめからこうなることが決まっていたのだという強烈な想いが胸を貫いて、彼女を腕に抱き上げた。すぐ近くにある彼女の柔らかそうな唇にまるで誘われているような心地がして、迷わずそこへ口づけた。
そして目覚めたら、この状況……。
首の後ろに手をあてて、劉弦は朝の翠鈴を思い出した。
『赤い光を消していました』
劉弦を悩ませていた頭痛が消えたのは、彼女が言ったことと無関係ではないだろう。
劉弦は目を閉じて、深呼吸する。
そもそも、龍の姿で眠っているところを見られてしまったこと自体あり得ない。
神は本来の姿を人に見せるものではないからだ。よほど気を許した相手、信頼できる者にしか、龍に戻った姿を見せたことはなかったというのに……。
「緑翠鈴、か」
天井の雲を見上げて劉弦は呟いた。
皇帝と一夜を共にした妃は、後宮の湯殿ではなく皇帝の宮にある湯殿で、湯浴みをする決まりだという。
「皇帝陛下の寵愛をお受けになられたお身体を、みだりに他人に見られないためにございます。このためだけに雇われた女官がお身体を洗わせていただきます」
梓萌の言葉に、翠鈴は抵抗した。誰かに身体を洗われるなど恥ずかしくて嫌だった。赤ん坊じゃないのだから、自分で洗えると何度も主張したが、結局押し切られすべて洗われることになってしまった。
頭のてっぺんから爪の先までぴかぴかになった翠鈴は、真新しい白い衣装を着せられて、後宮へと戻るため長い渡り廊下を梓萌に続き歩いている。
「朝食をお部屋にご用意してございます。お部屋までご案内いたします」
案内など不要とわかっているはずなのに、気持ち悪いほどにこやかに言う。本当に昨日とはまったく違う態度だった。
廊下の先の赤い扉まで辿り着き、扉が開く。
ちょうど朝食を終えた頃で、妃たちは中庭で思い思いの時を過ごしている。皇帝の寝所から戻ってきた翠鈴に、その場が静まり返った。
今まで皇帝は、寝所へ召された妃をすぐに下がらせていたという話だから、夜のうちに後宮へ戻ってくるのが普通なのだ。それなのに朝になるまで帰ってこなかった翠鈴を、どう捉えるべきかわからないのだろう。
異様な空気の中、翠鈴は廊下を進む。
「翠鈴妃さま」
呼びかけられて、梓萌が足を止める。華夢だった。
彼女は朝日が差し込む中庭で、妃たちに囲まれて長椅子に座っていた。薄紫色の衣装を身につけて優雅に微笑んでいる様は、まるで花の上を飛ぶ
「翠鈴妃さまが、皇帝陛下にご寵愛いただいたこと、心よりお喜び申し上げます」
一点の曇りもない笑顔を見せる。
でもそこで、手のひらにちくりと痛みを感じて、翠鈴は顔を歪めた。華夢がはめている純金の指輪が鋭い針のように
「私はなにも……」
痛む手をもう一方の手で
華夢が眉を寄せた。
「なれど翠鈴妃さま、昨夜は黙っておりましたが、あのお衣装は感心できません。なんといっても陛下の御前にお伺いするのですから。あのような衣装を準備した女官には罰をお与えくださいませね?」
女官に罰をと言う華夢に、翠鈴は首を横に振った。
「女官のせいではありません。白菊さまが用意してくださったお衣装が、私の部屋へ届くまでに泥まみれになっていたのです。だから……仕方なく」
女官とはすなわち蘭蘭のことだ。なんの落ち度もない彼女を罰するなどしたくない。
「なれば衣装をダメにした罪で、やはり女官を罰するべきだわ。それが後宮の秩序を守るということよ」
そう言い残し、袖をひらひらさせて去っていった。
「参りましょう」
梓萌が歩きだし、翠鈴は後に続いた。頭の中は、不安でいっぱいだった。
昨夜まで翠鈴の存在は、招かれざる客ではあるものの取るに足らない存在だった。寵愛を受ける可能性はない妃だったから。
だからこそ、華夢は翠鈴に親切にしてくれた。
だが予想に反して、翠鈴が寵愛を受けたことで、そうではなくなったということだ。
――尖った指輪の件は、宣戦布告なのかもしれない。
唯一親切に声をかけてくれていた華夢まで敵に回ってしまったら、ますますここでの翠鈴の立場は危ういものになる。
……だとしても、大丈夫。私はすぐにここを去るのだから。
明らかな敵意を滲ませる妃たちの視線を感じながら、翠鈴は一生懸命自分自身に言い聞かせた。
部屋へ戻ると、梓萌が言った通り朝食が準備されていた。
「翠鈴さま、おかえりなさいませ!」
部屋の中にいた蘭蘭が誇らしげに笑顔を見せた。
「あれ……? なんだか随分豪勢ね」
机の上に所狭しと並べられた皿と茶碗の数々に、翠鈴が首を傾げると、背後で梓萌が口を開いた。
「寵愛をお受けになられた翌朝の朝食は、お妃さまの位に関係なく十品と決められております」
「そうなの」
本当になにもかもが寵愛ありきなのだと、呆れてしまうくらいだった。
「では、翠鈴妃さま。私はこれで」
頭を下げて梓萌が下がる。
翠鈴は朝食を見てため息をついた。
「こんなのとても食べきれないわ。蘭蘭あなた朝食は? まだなら一緒に食べましょう。……ふたりでも多いくらいだけど」
そう言って蘭蘭を見ると、彼女の目にみるみる涙が溜まっていく。ついには溢れてぼろぼろと泣きだした。
「翠鈴さまぁ」
「ど、どうしたの? 蘭蘭。私がいない間になにかあった? また嫌がらせされたのね?」
翠鈴が尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「違いますう。これは嬉し涙ですう。ご寵愛をお受けになられたこと、おめでとうございます」
そう言って、腕で顔を覆い、おいおいと泣いている。
「翠鈴さまは、どのお妃さまよりも心が温かい方です。皇帝陛下は龍神さまですから、それがおわかりになったんです。私……私、う、嬉しいです」
「あ、ありがとう……」
戸惑いながら翠鈴は答える。正直言って、寵愛を受けたことが自分にとって喜ばしいことなのかはわからなかったが、彼女の気持ちは素直に嬉しかった。
「とりあえず、食べてしまいましょう。冷めないうちに」
翠鈴がそう言うと、蘭蘭は鼻をすすりながら素直に向かいの席に座る。妃である翠鈴と一緒に食事をとることに、抵抗はなくなったようだ。
その蘭蘭の手首に赤い光があることに気がついて翠鈴は手を止めた。
「蘭蘭、あなたその光はなに? 左の手首の」
赤い光を見つめたまま翠鈴は尋ねる。
蘭蘭が首を傾げた。
「光……でございますか? 手首に? なにもありませんが」
蘭蘭が手首を見て首を傾げた。とぼけているようには思えない。蘭蘭には見えていないのだろうか?
翠鈴はジッと光を見つめる。赤い光は色も大きさも、さっき皇帝の身体にあったのと同じように思えた。
――なんとなく、本当になんとなくなのだが、赤い光が彼女の不調を教えてくれている気がして翠鈴は問いかける。
「蘭蘭、左の手首を痛めたの?」
蘭蘭はぎくりとした。
「ええ……まぁ、ちょっとぶつけてしまいまして」
気まずそうに言う。おそらく他の女官に嫌がらせでもされたのだろう。
「でも大したことないですよ。こうしていればそのうち治りますから」
そう言って手をぶんぶんと振るのを翠鈴は慌てて止める。
「ダメ、動かさないで!」
とりあえず、その辺りにあった適当な棒を添え木代わりにあて、布でぐるぐると巻いた。
「痛みがなくなるまではこのままよ。取ってはダメ、わかった?」
「わかりました。それにしても翠鈴さまには痛いところや悪いところが、すぐにわかるんですね。すごい目をお持ちです。まるで術みたい」
蘭蘭が感心したように言う。
彼女はたとえ話で言ったのだが、その通りだった。どうやら翠鈴は人の身体の悪いところが見えるようになったらしい。以前も、身体に触れれば大体のことはわかったけれど、見ただけでわかるというのが驚きだ。
心あたりがあるとすれば、昨夜の出来事だろう。
きっと相手が神さまだったから。
この変化は、いわゆるご利益のようなもの……?
「……りんさま。翠鈴さま?」
考え込む翠鈴を蘭蘭が不思議そうに見ている。
「あ、ごめんなさい。食べようか」
そう言って自分の椅子に座ると、蘭蘭も箸を取った。
「翠鈴さま、このお菜をお食べください。身体が温まると言われております」
「じゃあ、蘭蘭も食べなくちゃ」
「ですが……」
――その時。
シュッとなにかを擦ったような音がして、突然、白菊が姿を現した。
「きゃあ!」
翠鈴は思わず声をあげる。
蘭蘭は「ひぇ!」と言って、慌てて箸を置いた。そのまま真っ青になっている。妃と一緒に食事をしているところを誰かに見られたら叱られるからである。
「し、白菊さま……! ああ、驚いた」
「食事中でしたか」
「は、はい。……蘭蘭、大丈夫よ。白菊さまは、人間同士のことにご興味はないの」
震えている蘭蘭を庇うために翠鈴は言う。
蘭蘭を咎めないでほしいという目で彼を見ると、白菊が「ええ、まぁ」と答えた。
蘭蘭はホッと息を吐く。
白菊が翠鈴に視線を戻した。
「私はあなたに話があって来たのです」
村へ帰る話だ。
「蘭蘭、ちょっと外で待っていてくれる? 大切なお話なの」
「かしこまりました」
素直に部屋を出ていく蘭蘭に、翠鈴の胸が罪悪感でいっぱいになった。せっかく親しくなれたのに、もうすぐお別れなのだ。いじめられるかもしれない場所に置いていかざるを得ない彼女が
扉が閉まったのを確認して翠鈴は口を開いた。
「白菊さま、お願いがあります」
白菊が眉を上げた。
「さっきの女官のことです。彼女、ここでひどくいじめられていたみたいなんです。たくさん働かされていてろくに食事もとれていないようでした。病になる一歩手前だったんです。私が帰った後も不当な扱いを受けないように目配りしてくださいませんでしょうか?」
当初、白菊から言われていた、ここでの役割を終えた今、気がかりはそれだけだ。
「病に……健康そうに見えましたが」
「しっかり食べさせて休ませたら元気になりました。でもまた同じような扱いを受けたらもとに戻ってしまいます」
「食べさせて休ませた……」
蘭蘭が座っていた椅子を見て、白菊が呟いた。
「はい。ですから……」
「なるほど。ですがあなたはまずご自分のことを心配するべきです」
白菊の言葉に、翠鈴は首を傾げた。
「私のこと?」
「ええ、昨夜の話を聞かせてください。皇帝陛下の寝所でなにがあったのか」
「なっ……! なにがって……!」
ズバリ核心をつく問いかけに、翠鈴は真っ赤になってしまう。あやかしに気遣いを求めるのは無理な話なのかもしれないが、それにしても女人相手に不躾な質問だ。
それなのに白菊は平然として続きを促した。
「陛下に聞いても、だんまりで
赤い目でジッと見つめられては嘘をつくことはできない。
翠鈴は真っ赤になったまま頷いた。
「……受けました」
「なんてことだ……」
白菊が手で顔を覆い、深いため息をついた。
「し、仕方がなかったんです……! 私にお断りすることはできませんし」
断りたいという気持ちは微塵もなかったがとりあえずそう言い訳をする。同時に昨夜の出来事が頭に浮かび、身体が熱くなった。
有無を言わせず寝台の上で組み敷かれたはずなのに、翠鈴に触れる彼の手は驚くほど優しかった。熱い吐息が身体中を辿る感覚に、今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えたのだ。
はじめて異性と身体を重ねる時は、苦痛も伴うものと聞いていたが、ただ満たされた一夜だった……。
うつむく翠鈴に、白菊がため息をついた。
「ですがこれであなたは村へ帰れなくなりました」
「え? ど……どうしてですか?」
「あたりまえでしょう? 皇帝の寵愛を一度でも受けた妃は、生涯後宮の中で暮らす決まりです」
「そんな……!」
白菊の口から出た無情な言葉に、翠鈴は絶句する。
一方で白菊は翠鈴に背を向けて腕を組み、ぶつぶつと言い出した。
「それにしても陛下はいったいなにを考えているのか。私がなんのためにこの娘を連れてきたと……」
「約束が違うじゃありませんか!」
彼の背中に翠鈴が訴えると、白菊が振り返った。
「約束? 妙なことを言いますね。私が村へ帰すと言ったのは寵愛を受けないことが前提の話です。裏を返せば、寵愛を受ければ帰すことはできないのはあたりまえでしょう」
「そんな……」
「それに、いったいなにが不満なのです? 寵愛を受けた妃は、後宮での待遇は格段によくなります。村での暮らしとは比べものにならないくらい贅沢ができますよ」
そう言って彼は、机に並ぶたくさんのお菜に視線を送った。
確かにここにいれば食べるのに困ることはないのだろう。その日暮らしだった村の生活とは比べものにならない。でもそれを翠鈴は望んでいないのだ。
「贅沢なんて興味ない。私は村に帰りたかっただけなのに……」
呟いて寝台に座り込む。
あまりの出来事に頭がついていかなかった。呆然とする翠鈴を見下ろして、白菊がため息をついた。
「贅沢なんて興味ない……人間のくせに、妙なことを言いますね。いずれにせよ、あなたには夕刻、〝懐妊定めの儀〟を受けていただきます。その先の話はその後です」
耳慣れない言葉に、やや放心状態の翠鈴はゆっくりと顔を上げた。
「懐妊定めの儀?」
「そうです。寵愛を受けた妃は次の日の夕刻に受ける決まりになっています。皇帝陛下のお子を宿していないかを確認するために」
「お子を?」
ぼんやりと聞き返す翠鈴に、白菊が呆れたような声を出した。
「そうですよ。まさか、どうやって子ができるか知らないわけじゃないでしょう? やることをやったら子はできます」
「そっ……! それはそうですが。そんなに早くわからないでしょう?」
確か村の産婆は、赤子ができたかどうかは三月しないと確かなことは言えないと言っていた。翠鈴が皇帝と一夜を共にしたのは昨夜のことなのだ。わかるはずがない。
白菊が鼻で笑った。
「相手は龍神さまにございます。人相手とはわけが違う。次の日の夕刻には子ができたかできていないか判明いたします。それを定めるのが懐妊定めの儀です。宮廷内のすべての家臣と後宮のすべての妃が証人となるため、皆が見守る中で行われます」
翠鈴はぶるりと身を震わせた。今さらながら大変なことになってしまったと気がついたからだ。
昨夜のことを、ご利益を受けたくらいに思っていた自分はなんて
「……とはいえ、陛下のお子ができる可能性は極めて低いと思われます。神の子を宿すことのできる人間は限られておりますから」
翠鈴はホッと息を吐いた。
「そうですか……。よかった」
白菊がうっすらと笑った。
「本当に変な娘だ。皇帝の子を産めばあなたは皇后になれるかもしれないのですよ。権力を思うままに操りたいとは思わないのですか?」
「そんなこと、私は望んでおりません」
翠鈴が望んでいるのは静かな暮らし、村に帰りもとの生活に戻ることだけだ。
白菊がやれやれというように肩をすくめた。
「……まぁ、そういうことなら、子ができていなければ、秘密裏に帰すよう取り計らってみましょうか。陛下のお許しが出ればの話ですが」
「お願いします!」
勢い込んで翠鈴は言う。
一夜を共にしたとはいえ、皇帝にとって自分は百人いる妃のうちのひとりなのだ。帰さないなどとは言わないだろう。子ができている可能性も低いというならば希望の光が見えてきた。
「では、懐妊定めの儀を終えたらまた詳細をお知らせします」
そう言ってシュッと音を立てて、白菊は消えた。
翠鈴は蘭蘭を呼ぶために扉を開ける。蘭蘭は少し不安そうに部屋の前に立っていた。開いた扉にホッと息を吐いて部屋の中に入ってくる。
廊下に、数人の妃たちが集まってヒソヒソと囁き合っていた。
「いったいどうやって、陛下をたぶらかしたのかしら」
「緑族の娘だもの、私たちにわからないような卑しいやり方じゃない?」
「どう考えても華夢さまの方がお美しいのに」
その言葉を聞きながら翠鈴は改めて決意する。
こんなところに一生閉じ込められてはたまらない。懐妊定めの儀を終えたら皇帝の許しをもらって、なんとしても村に帰らなければ。
懐妊定めの儀は、紅禁城の裏にある大寺院で行われる。
底の見えない深い谷と、小さな泉に挟まれた大寺院は、石造りの簡素な建物である。重要な儀式の時にだけ人が入ることが許される広い境内に、夕刻、宮廷のすべての家臣と後宮の妃が集められた。用意された椅子に座り、泉を取り囲んでいる。大寺院の中にある儀式用の玉座には、皇帝が鎮座していた。
白い衣装を身につけた翠鈴は震える足で泉の前に立っていた。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
国の隅ののどかな村で、静かに暮らしていた田舎娘が、こんなところにいるなんて、どう考えてもあり得ない。恐ろしくてたまらなかった。
「術者が合図をしたら、泉にお入りくださいませ」
そばにいる梓萌の言葉に、無言で頷く。今は彼女ですら、そばにいてくれてよかったと思うくらいだった。
この場の一番高いところから玉座に座る皇帝が、自分をジッと見つめている。昨夜は肌を重ねてこれ以上ないくらい近くにいた相手のはずなのに、やはり遠い存在だ。
「天におわす
術者が、空に向かって
この場にいるすべての者から注目されている状況に、気が遠くなりそうだ。でもここで気を失うわけにはいかなかった。
しっかりしろ、これが済んだら村へ帰れる、と自分自身に言い聞かせる。
やがて術者は祝詞をやめて翠鈴に視線を送る。梓萌に背中をトントンと
石畳で囲まれている泉は、翠鈴の前だけが石の階段になっている。階段は泉の中へ続いている。
ひやりとした石の感覚を感じながら、翠鈴は階段をゆっくりと下りる。膝まで水に浸かり、術者が空に向かって手を振り上げた時――。
風が吹き、水面が七色の光を放つ。その光に翠鈴は見覚えがあった。昨夜夢で見たのと同じ光だ。
「おおー!」
術者が声をあげ、見守る人たちがどよめきだす。いったいなにが起こったのかがわからなくて、翠鈴の胸は不安でいっぱいになった。
「ご、ご懐妊……緑翠鈴妃さま、ご懐妊にございます!!」
術者が声を張り上げると、その場が騒然となった。
顔を見合わせわーわーとなにかを言い合う家臣たち。妃からは悲鳴があがっている。
翠鈴は言葉もなく立ち尽くした。
悪い夢を見ているような気分だった。
だって、子ができていたらもう村へは帰れなくなってしまう。
祖父から受け継ぎ一生懸命切り盛りしていた診療所。
気のいい村人たち。
のどかで穏やかな暮らし。
帰りたいのに。
帰りたいのに……!
頭の後ろがちりちりと痺れて、きーんという耳鳴りがする。周りの音が遠ざかっていく……。
目を閉じたら故郷の村の自分の家にいるはず。そう思ったのを最後に、翠鈴の意識は真っ暗な闇に閉ざされた。
七色に光る泉の中で立ち尽くす翠鈴を、劉弦は玉座から見下ろしている。場は騒然としていた。
当然だ。
たった一度の寵愛で妃が懐妊したのだから。しかも彼女は、呼び寄せる価値もないと捨て置かれていた百の妃。黄福律が、忌々しげに奥歯を噛みしめている。
劉弦も驚きはした。
だが一方でどこか納得している自分もいる。
自分と人間との間に子ができにくいとされているのは、人の心の中にある邪な部分を神の子が拒否するからだ。実際、寝所を訪れた九十九人の妃たちは、どのように純朴そうな娘でも野心が垣間見え、嫌悪感を覚えた。
だが彼女には、そのような部分を微塵も感じなかったのだ。彼女の中にあるのは心地のよい澄んだ空気だけだった。
玉座に肘をつき、事態を見守っていた劉弦は、翠鈴の様子に眉を寄せる。
顔色がすこぶる悪かった。そもそもここへ来た時からいいとは言えなかったが、今は真っ青だ。おそらくこのような場に、慣れていないせいだろう。
周囲は、懐妊という事実に本人そっちのけで大騒ぎだ。彼女の様子に誰ひとり気がついていない。
劉弦は立ち上がり玉座を下りる。
「陛下?」
すぐそばに控えていた従者数人が劉弦に気がついて問いかけるが、かまわずに急ぎ泉の中の翠鈴のもとへ向かう。
手が届くところまで来たその時、彼女は糸が切れたように体勢を崩した。水面に倒れ込む寸前で抱きとめ、そのまま抱き上げると、ようやく皆が翠鈴の様子に気がついた。
皇帝が玉座を下り、妃を抱いているという状況に再びどよめきが起こる。妃たちから悲鳴のような声があがる中、劉弦は彼女の様子を確認する。呼吸は乱れておらず、ただ気を失っているだけのようだった。
「こ、皇帝陛下……。百のお妃さまは私どもでお運びいたしますので、どうか」
集まってきた従者たちが翠鈴に向かって手を伸ばす。それに、劉弦は言いしれぬ不快感を抱いた。腕の中の清らかな存在を、汚れた手で触れるなと怒りを覚えるくらいだった。
「無用だ。下がっていよ」
眉を寄せて一喝するとその場が静まり返った。突然の劉弦の行動に皆目を剥いている。後宮が開かれてから今まで一貫して妃を拒み続けてきた劉弦が、彼女を抱いているという光景が信じられないのだろう。
劉弦とて、まったく予想していなかった展開だ。それでもこうするべきだと強く思う。自分を見つめる一同を、ぐるりと見渡し口を開く。
「彼女は私の妃。私の子を宿した大切な身体だ。お前たちが触れることは許さない。……このまま私の寝所へ運ぶ」
泉を出て皆の前を横切り建物へ向かう。皇帝の意向に逆らえる者はいなかった。翠鈴の身の回りの世話をする女官だけがついてくる。長い廊下を歩きながら、劉弦は彼女たちに指示を飛ばす。
「水と着替えを準備してくれ。それから身体を温めるために私の寝所に火鉢を増やせ。温石も持ってきてくれ」
「かしこまりました」
答えて女官が下がっていった。
静かになった廊下で立ち止まり、劉弦は腕の中の翠鈴を見下ろした。
閉じたまつ毛と白い頬、腕に流れる黒い髪は柔らかく艶やかだった。
眠る彼女を吸い寄せられるように見つめながら、劉弦は奇妙な感覚に陥っていた。
たくさんの家臣と妃が詰めかけた大寺院は欲望と嫉妬が入り混じる澱んだ空気に満ちていた。朝には治った頭の痛みがまたぶり返しているのを感じていた。それが今、彼女を抱いているだけで、痛みがすっと引いていく。それどころか妙な心地よさすら感じるくらいだった。
昨夜のような荒れ狂う衝動はもはやない。それでもこうやってずっと腕に抱いていたいと強く思う。この気持ちがどこからくるものなのか、劉弦は考えを巡らせる。
だが、よくわからなかった。
「不思議な娘だ」
呟いて、また廊下を歩きだした。
母の膝にいるような心地のいい感覚に、翠鈴はゆっくりと目を開く。見慣れない天井が目に飛び込んでくる。不思議に思って瞬きを繰り返していると頭を大きな手が撫でた。
「目覚めたか、気分はどうだ?」
ハッとして目を開くと、漆黒の瞳をした男性が覗き込んでいる。彼の膝を枕にしているのだと気がついて、慌てて翠鈴は起き上がろうとする。それを彼は止めた。
「急に起き上がらない方がよい。倒れたのはつい半刻ほど前だ」
そして背中に腕を回してゆっくりと身体を起こすのを助けてくれる。湯呑みを翠鈴に持たせた。
「水を飲め」
とりあえず翠鈴は言われた通りにする。ごくごく飲むと冷たい水は、カラカラに渇いている身体に染み渡るようで
「ここは……?」
「私の寝所だ」
翠鈴は記憶を辿る。確かに壁や窓、天井や床などは昨夜過ごした彼の寝所と同じに思えた。でも趣は昨夜とずいぶん違っている。
部屋を照らす灯籠がいくつも下がり、火鉢が部屋の四隅と寝台の両脇に置いてある。寝台の布もふかふかで部屋全体が暖かく心地いい。
さらに記憶を辿り、翠鈴は儀式の途中で記憶が途切れていることに思いあたる。
「私、儀式の途中で……?」
「そうだ、気を失った。だからここへ連れてきた」
「気を失って……? も、申し訳ありません……!」
翠鈴は真っ青になった。
梓萌からは大切な儀式だから決して粗相のないようにと繰り返し忠告されていた。途中で倒れてしまうなんて、大失態だ。
「いや、気を張っていたのだろうから仕方がない。儀式自体はあれで終わりだったのだから問題はない」
皇帝が言う。意外なほど優しい言葉と声音だった。
「今夜は、このままここで休め。後宮にもそう伝えてある」
「ここで、このまま……?」
ここで休めという言葉に、昨夜の出来事を思い出して、翠鈴の頬が熱くなる。
皇帝が
「……今夜はなにもせぬ。ゆっくりと眠るだけだ」
「わ、わかりました……」
その彼を見つめていた翠鈴はあることに気がついた。
彼の首筋にまたあの赤い光ができている。朝ほどは濃くないけれど……。
「頭痛がしますか?」
思わず翠鈴は問いかけた。この状況で、と自分でも思う。けれど職業病か、不調な人を見ると尋ねずにはいられないのだ。
「失礼します」
朝にしたように赤い光に手をかざすと、それだけで光は消えてなくなった。やはりどうしてか、彼の赤い光だけは手をかざすだけで消すことができるのだ。
それにしても朝、すべての光を消したはずなのに。うっすらとではあるものの夕方にはまたできているなんて……。
「慢性化していますね、お医者さまから薬湯は処方していただいて……」
言いかける翠鈴の手首を彼が握った。
「きゃっ!」
そのまま鋭い視線を翠鈴の手に走らせる。
「あの……」
そして、翠鈴に視線を戻して口を開いた。
「やはり」
「え?」
「この手こそが、翡翠の手。そなたが、私の宿命の妃だ」
言い切る彼に翠鈴は目を見開く。
「わ、私はただの村娘です……。診療所を開いてはおりましたが、そのような尊い者ではございません。ましてや、宿命の妃などでは……」
首を振り、早口で説明をする。
第一、彼にはすでに華夢という宿命の妃がいる。宿命の妃が何人もいるなんて聞いたことがない。
「いや、この手がどうやっても治らなかった私の頭痛を一瞬で消した。目の曇りを取ったのだ。朝も同じことをしたのだろう」
「そうですが……。それは祖父から教わった指圧の技術があるからではないでしょうか。特別なものではないはずです」
「いや、特別だ。そなたが宿命の妃だということは間違いない。だからこそ、一度の寵愛で子ができたのだろう」
『子ができた』という言葉に、翠鈴は一気に現実に引き戻される。懐妊定めの儀での出来事が頭に浮かんだ。
自分が何者なのかはさておき、皇帝の子を宿したことには間違いないようだ。ならば生まれ育った懐かしい故郷へはもう帰れない。
宮廷内のすべての者が見守る中で懐妊は判明した。ごまかすことはできないだろう。
ここから三日三晩歩いたところにある故郷の村。粗末だけれど生まれ育った懐かしい場所をもう目にすることはできないのだ。
視界がじわりと滲み、あっという間に涙が頬を伝う。
ここへ来てから遭遇した理不尽な扱いも、投げかけられたひどい言葉も、すべていずれは村へ帰れると思っていたからこそ耐えられたのだ。まさか生涯ここで暮らすなど想像してもいなかった。
見知らぬ場所へ連れてこられて、張り詰めていた糸がぷちんと切れてしまったように涙が止まらなかった。
「……いかがした?」
皇帝が眉を寄せて問いかける。
半ばやけになって翠鈴は胸の中にある思いを口にした。
「し、白菊さまは……陛下に会うだけでいいとおっしゃいました。ひと目お会いした後は、む、村へ帰ってよいと……。わ、私はそのつもりだったのです。それなのに……」
翠鈴の言葉を皇帝は黙って聞いている。皇帝相手にこんなことを言うなんて許されないとわかっている。でもどうしても止めることができなかった。
例えばこれで不敬罪に問われたとしてもかまわない。故郷に帰れないなら、ここで人生が終わるとしてもそれでいいという気持ちだった。
「そもそもこんなところへ来たくなかったのに……! む、無理やり連れてこられて、こんなにひどいことってないわ。私、村に帰りたい。帰りたいよう……」
とうとう翠鈴は大きな声で泣きだしてしまう。寂しい気持ちと涙が溢れて止まらなかった。
しゃくりあげて、震える翠鈴の肩を皇帝がやや戸惑うように包み込み、広い胸に引き寄せた。
温かい胸に、顔をうずめて翠鈴は泣き続ける。
大きな手が慰めるように優しく背中を撫で続けていた。
明るい光を感じて翠鈴はゆっくりと目を開く。すぐそばにある皇帝の寝顔に、ギョッとして、一気に意識が
広い寝台で、翠鈴は彼の腕に抱かれぴたりとひっついていた。
閉じた長いまつ毛と、合わせからちらりと覗く裸の胸元に、翠鈴の鼓動が加速する。眠る彼は、龍の姿と同じように美しい。でも龍の時と違うのは、目のやり場に困るということだった。とにかくこの状況は、心の臓によくない。自分を包む腕から抜け出そうと試みる。
それに皇帝が気がついた。
「ん……起きたのか」
腕が解かれたことにホッとして、翠鈴は身体を起こして正座する。
そして頭を整理した。
昨夜は泣きながら彼に縋りつきそのまま寝てしまったようだ。
一夜を共にしたとはいえ、まだよく知らない男性とくっついて寝たことが自分でも信じられない。でもそれよりも驚きなのは、皇帝が自分を抱いたままだったことだ。
「寝てしまって……申し訳ありません」
皇帝が身体を起こし、手を伸ばして翠鈴の頬に触れる。
「かまわない。それより気分はどうだ? 大事ないか?」
唐突に触れられた頬の温もりに、翠鈴の胸が飛び跳ねる。
すぐには答えられなかった。
彼がどのような人物かなど考えたこともなかったが、少なくとも翠鈴のようなただの娘に、優しい言葉をくれるとは想像していなかった。でもよく考えてみれば、昨夜の彼もずいぶんと優しかったのだ。
昨夜翠鈴は、彼に失礼な態度を取った。子の父親である皇帝を前にして、懐妊したことを嘆いたのだから。本当なら、不敬罪に問われて処刑されてもおかしくはない。それなのに咎められることはなかった。
それどころか彼は、翠鈴を抱き寄せて泣きやむまで背中を優しくさすってくれたのだ。それがとにかく意外だった。
今も不快そうな素ぶりは微塵もなく、ただ気遣わしげに眉を寄せ、翠鈴の頬に手をあてて覗き込んでいる。
頬を包む大きな手と優しい色を浮かべたその目に、翠鈴は、なにやら落ち着かない気持ちになる。頬が熱くなるのを感じながら漆黒の瞳から目を逸らした。
「大丈夫です。あの……昨夜は失礼いたしました」
「いや……」
彼はそう言って首を横に振った。そして親指で翠鈴の瞼に優しく触れる。
「
昨夜泣いてしまった翠鈴を気遣ってくれているのだ。少し申し訳なさそうに口を開いた。
「子ができたからには、村に帰してやることはできない。申し訳ないことをした。代わりにはならないだろうが、故郷の村には恩恵を与えよう。そなたのことも、妃として大切にすると約束する」
思いがけない
「皇帝陛下……!」
「それから、これからはふたりだけの時は名で呼べ」
「え? 名で?」
「ああ、私の名は劉弦。私たちは夫婦になるのだから」
「劉弦さま……。夫婦」
これもまた思いがけない言葉だった。神さまを名で呼ぶなど翠鈴の常識ではあり得ない。夫婦になると言われてもまったく実感が湧かなかった。
とはいえこの状況を、昨夜よりは冷静に受け止めている自分がいるのも確かだった。
たくさん泣いて喚いて、寂しくて悲しい気持ちを彼に聞いてもらえたからかもしれない。
いくら泣いたところでもう村には帰れない、ここで生きていくしかないのだ。
幸いにして、夫となる劉弦は思っていたよりも誠実な人物のようだ。
懐妊したとはいえ、百人いる妃のうちのひとりでしかない翠鈴に、このような言葉をくれるのだから。
翠鈴は改めて彼を見る。清らかな朝の光の中の劉弦は美しかった。銀髪が光を反射して輝いている。
「わかりました、劉弦さま」
すると劉弦は瞬きを二回して、翠鈴から目を逸らす。そして掠れた声で呟いた。
「……瞳も澄んでいるのだな」
「え……?」
「いや……。私はそろそろ執務へ行かねばならない。翠鈴はもう少しここで休んでいるがよい。朝食をここへ運ばせることもできるが……」
「わ、私も自分の部屋へ戻りたいと思います。蘭蘭……女官も待っているでしょうし」
慌てて翠鈴は答えた。皇帝の寝所でひとり、のうのうと食事をする度胸はない。それに翠鈴がいなくては蘭蘭は食事にありつけないかもしれない。
ぶんぶんと首を振る翠鈴に、劉弦がふっと笑った。
「そうか、ではまた夜に。女官を呼ぶから、このままここで待っていよ」
そう言って、翠鈴の頭を撫でて部屋を出ていった。
はじめて見る彼の笑顔に、翠鈴は動けなくなってしまう。鼓動がとくとくとくと速度を上げてゆくのを感じていた。
昨夜、翠鈴は絶望の中にいた。この世の終わりのように感じていたというのに、一夜明けてみるとまったく違う世界が広がっているように思えるのが不思議だった。
彼の子を身籠った。
それについてはまだ実感がない。
――それでも新しい思いが自分の中に芽生えるのを感じている。その思いがいったいなんなのか、まだわからないけれど。
玉座の間にて、劉弦は家臣から朝の挨拶を受けている。昨日同様、気分はすっきりとして、目を閉じると国の隅々まで見渡すことができた。
この現象が、昨夜翠鈴と同じ寝台で過ごしたからであることはもう疑う余地はなかった。昨夜、泣く彼女を腕に抱いてそのまま眠りにつき、目覚めたら昨日と同じように身体は軽く視界は澄みきっていた。
家臣の中から黄福律が歩み出て、頭を下げて口を開いた。
「皇帝陛下、本日もご加減麗しゅう存じ上げます。昨日の懐妊定めの儀にて、百のお妃さまのご懐妊が判明いたしましたこと家臣を代表してお喜び申し上げます」
他の家臣たちも神妙に頭を下げてはいるものの、内心ではじくじたる思いを抱いている。それが手に取るようにわかった。
おそらくはこれも、翠鈴がそばにいる効果なのだろう。彼女に会う前の自分なら、彼らから発する澱んだ空気を避けるため顔を背けるのがせいぜいだった。
だが今は、彼らの思惑を受け止めて今後どのようにすべきかを考える余力がある。
「ご寵愛になられるお妃さまをお選びになられましたこと、心よりお喜び申し上げます。なれど、今宵からは別の妃を召されますようお願い申し上げます」
黄福律からの進言に、劉弦は眉を上げた。
「なぜだ」
「翠鈴妃さまは、すでにご懐妊されておられますゆえ、ご無理のできないお身体にございます。この後は後宮にて女官に手厚くお世話させます」
まるで彼女を気遣うように彼は言う。が、言葉通りの理由ではないのは明らかだ。劉弦から彼女を遠ざけて、華夢を寝所に侍らせたいのだろう。
「私は私の気に入った妃を寝所に呼ぶことができる。そう申したのはそなたであろう。……今宵も翠鈴妃を所望する。むろん、無理はさせない」
別に彼女を呼ばないからといって、代わりに別の妃を侍らせなくてはならないわけではない。いつもの通り、ひとりで過ごすことも可能なのだ。それでも劉弦は翠鈴を呼ぶことに迷いはなかった。彼女のいない夜を迎える気にはなれない。
黄福律の狡猾な視線と、正面から対峙して劉弦はもう一度繰り返した。
「私は、翠鈴妃を所望する」
「……御意にございます」
「それから、彼女を私の宮から一番近い部屋へ移すよう」
翠鈴は、なるべくそばに置くべきだと直感で思う。この男が、自分の娘以外の妃が子を産むことを放っておくはずがない。
「部屋替え……にございますか」
確認するように黄福律が言う。後ろで他の家臣たちがざわざわとしだした。
その中のひとりの家臣が遠慮がちに口を開いた。
「なれど陛下。陛下の宮に一番近いお部屋は、一のお妃さまのお部屋にございます。一のお妃さまは、翡翠の手の使い手……陛下の宿命の妃にございます。他のお妃さまと同じにはできませぬ」
その言葉を聞いて、ふと劉弦は黄福律がどこまで本当のことを知っているのだろうと訝しむ。
黄華夢が翡翠の手の使い手であると言い出したのは彼だ。一族に伝わる古文書に黄族こそが翡翠の手を輩出する一族だという記載があったと主張して。華夢が薬草学に長けていることもあり、皆それを信用した。
だがそれは所詮人相手の治療法で、劉弦にはまったくといっていいほど効かなかった。劉弦はそれをただ人間自体の能力が衰えたからだと考えていたが、そうではなかったのだ。
翡翠の手の使い手は、翠鈴だ。
それについては確かだが、ここで暴露してよいのか判断がつかなかった。
先の皇帝の治世で、緑族が反逆を企てたのを阻止したのが黄族だと言われていて、以来彼らは宰相の座をほしいままにしている。
さらに長く続いた劉弦の不調が民と宮廷の家臣を不安にし、目が行き届かないうちに、黄族は絶大な力を持ってしまったのだ。
今となっては緑族の反逆の話も真かどうか怪しいと劉弦は訝しむ。
黄福律をこのままにしておくことはできないが、糾弾する時期を見誤れば、内戦になりかねない。
「……では、二の妃の部屋へ」
今はまだ全面対立は避けるべきだと判断し、劉弦が譲歩すると、張り詰めた空気が少し緩んだ。
「御意にございます」
黄福律が頭を下げる。
劉弦は立ち上がった。
「では皆下がれ」
そして西の殿へと続く廊下を目指して歩き出す。
「陛下、どちらへ?」
福律に呼び止められた。
普段なら、謁見が終わるとすぐに空気の澄んでいる執務室へ向かうのに、反対方向に足を向けた劉弦を不思議に思ったようだ。
「西の殿へ行く」
西の殿は文官がいる建物で、各地の役人から届いた報告書が管理されているが、ここしばらくは体調不良が続いていてほとんど目を通せていなかった。
「さようでございますか……。それは大変ありがたいことでございます」
表向き嬉しそうにする福律を横目に見て、劉弦は玉座の間を後にした。
西の殿まで続く長い廊下を歩いていると、どこからともなく白菊が姿を現した。
「劉弦さま」
劉弦は付き添いの従者に合図をして彼らと距離を取る。
歩きながら白菊の報告を聞く。
「あの娘は、何事もなく後宮へ戻りました」
「体調は、大丈夫そうか?」
昨夜泣きながら眠りについた翠鈴は、朝はずいぶん顔色がよかった。だが、倒れたのは昨日のことなのだ。ましてや身重で慣れない生活とくれば、いつまた体調を崩してもおかしくはない。
劉弦の言葉に白菊が意外そうに聞き返した。
「気になりますか?」
「……昨夜は、故郷に帰りたいとひどく泣いていた。白菊、お前彼女に私に会ったら故郷へ帰してやると約束したそうだな。無理やり連れてこられたとも言っていた」
「はい。劉弦さまは百の妃を連れてこいとだけおっしゃいました。どのような手段を使うか指示はありませんでしたので。用が済めば帰れると言っておけば、おとなしく言うことを聞くだろうと思ったのです。実際、当初の予定通りにことが進めばそうしてやるつもりでしたけど」
悪びれることなくそう言って、彼は上目遣いに劉弦を見る。
劉弦は目を逸らした。
言うまでもなく予定通りにいかなかったのは、劉弦が翠鈴に手を出したからだ。昨夜の彼女の涙は、自分のせいなのだと思うと胸が痛んだ。
「……黄福律の動向に注意しろ。翠鈴になにかしないとも限らん」
「あの男の今までの行動から考えると、子が生まれる前に消そうとするでしょうね。ですが、劉弦さまにとってはかえって都合がいいのでは?」
「どういうことだ?」
思わず足を止めて問いかける。
白菊の赤い目が非情な光を放った。
「たとえ一時の気の迷いだとしても、人が差し出す妃に手を出してしまったあなたさまは、当初の目的のように天界へは行けなくなりました。この国を治める義務に縛られたまま。……寵愛を与えた妃が生きているうちは」
白菊の言いたいことを理解して劉弦は黙り込む。
天界へ帰るためには、翠鈴を亡き者にすればよいということだ。
人に興味のない彼らしい言葉だが、劉弦は受け入れることはできなかった。昨夜腕の中で泣いていた翠鈴の震える細い肩が脳裏に浮かんだ。
「なんでしたら、黄福律がことを起こすのを待たずとも、私が……」
「いや、それは必要ない。私は犠牲を望まない」
きっぱりと言うと彼は目を細めた。
「それはあの娘が、お世継ぎを宿したからにございますか?」
黙り込む劉弦に、白菊は畳みかける。
「この国を末長く治める覚悟をされたということにございますか? 劉弦さま」
その質問にも答えられなかった。
「……緑翠鈴に危害が加わらないようにせよ」
それだけ言ってまた歩きだすと、頭を下げて白菊は消えた。