広大な国土を誇るすいこくは豊かな水源に恵まれた国である。龍神が皇帝として治めるこの国は、かつては嵐がやまぬ荒れた土地だった。

 困り果てた国を治める百の部族の長たちは、天界の龍神へ会いに行った。

『龍神さま、地上へ降りてこの国を治めてくださいませ。さすれば、私たちの娘、百人をあなたさまの妃として差し出します』

 龍神はその願いをすぐには聞き入れなかった。

『神は地上に降りられぬ。人の持つ欲、よこしまな心、汚いものが、我の身体をむしばむ。やがては邪神となるだろう』

 するとひとりの長が進み出て、龍神に進言した。

『我が部族には人をやす〝すいの手〟を持つ娘がおります。その者をあなたさまの〝宿命の妃〟とし、地上の汚れたものから、お守りすることをお約束いたします』

 龍神はその願いを聞き入れて、地上に降り皇帝となった。

 嵐はやみ、水凱国に平穏が訪れた。

 ――それから三千年がった。


 とっぷりと日が沈んだ夜の寝室。てんがいに囲まれた大きな寝台の上で、銀髪の男が横たわっている。月明かりに清められた心地よい空気の中、静まり返ったこの部屋に、ひたりひたりと近づく三つの足音。

「皇帝陛下、一のお妃さまが参られました」

 扉の向こうからの呼びかけに、男が顔を上げ重い身体を引きずるように起き上がると、扉が開き女官ふたりを従えた細身の女が入室した。

 途端に、ムッとする不快な空気が流れ込む。

 女がまとう甘ったるい花のような香りに、男は眉間にしわを寄せた。

 女官が下がると、一の妃と呼ばれた女は、冷たい床にひざまずく。薄い夜着を身につけてつややかな黒い髪を背中に流し、ほんのりと薄化粧を施している。口もとにうっすらと浮かぶ笑みは慎み深く控えめで、この国で理想とされる女人そのものである。

 しかし、男の心は動かなかった。

「……下がりなさい」

 それだけ告げて、顔を背ける。

 女が美しい顔をわずかにゆがめて、か細い声を出した。

「皇帝陛下、お情けを……」

 控えめで切実な響きを帯びた彼女の呼びかけに、男はれんびんの念を抱く。だが、決断は変わらない。

「私にとぎは必要ない」

「……陛下。体調が思わしくないのではございませんか? 翡翠の手の使い手として、診察をさせてくださいませ」

 女は男を気遣うが、男は首を縦には振らなかった。

「今宵は必要ない。……下がりなさい」

 国の最高権力者からの命令に、女は唇をむが素直に従った。

 はす模様の豪華な木彫りの扉が静かに閉まると、よどんだ空気が少しましになる。

 男はホッと息を吐いた。

 毎夜、入れ替わり訪れる妃たちに罪はないが、心底わずらわしい時間だった。どのように美しい娘が来ようとも、心はじんも動かされない。男が彼女たちに触れることはない。

 女が纏う不快な空気にあてられて、こめかみがズキズキと痛み、男が顔を歪めた時、また外から声がかかる。

「陛下、夜分遅く失礼いたします。よろしいですかな」

「ああ」

 応えると、入室したのは宰相のオウフールーだった。

「皇帝陛下……リュウゲンさま、我が娘に不足がございますかな。お気に召さないところがございましたら改めさせます」

 丁寧な言葉の中に、責めるような響きがにじむ。だいの美人と名高い自らの娘、しかも翡翠の手の使い手であり、一の妃である彼女を下がらせた劉弦への不満を隠そうともしていない。

ファマァン妃には不足ない。今の私に妃は必要ないというだけだ」

 うんざりとして劉弦は言う。もう何度も繰り返した言葉だった。

 黄福律が平伏した。

「皇帝陛下、これも国の繁栄のためにございます。人間のおなでは、龍神さまであられます陛下のお相手として不足があるのは重々承知しております。しかし皆、部族長の娘にござりますれば、決まり事の上では陛下の妃となる資格のある娘たちにございます。……どうかお情けを」

「決まり事か……にしては妃がひとり足りないではないか? 決まり事では、人は私に百人の妃を差し出すことになっている。昨夜ここへ来た女は九十九の妃だったというのに、今宵は一の妃がここへ来た。百の妃はいかがした?」

 劉弦の指摘に、黄福律は一瞬苦々しい表情になる。が、すぐに口を開いた。

おっしゃる通りにございますが、百の妃はまわしきリョク族の娘にございます。陛下の後宮に入れるには差し障りが……」

「私は百の妃を所望する」

 劉弦が彼の言葉を遮ると、黄福律がギリッと奥歯を噛みしめた。

「探し出して連れてこい」

「……御意にございます。ですが、それまでは後宮の慣例通り一の妃からひとりずつ毎夜この部屋へ来させます。むろん、陛下がお気に召された娘がいれば寝所へ呼ぶこともできますゆえ、いつでもお申し付けくださいませ」

「無駄なことだ。この百日の間に気に入った娘はいなかった」

 ため息をつきにべもなく言うと、黄福律は気色ばんだ。

「なれど陛下……! お世継ぎの誕生は国の安定に必要不可欠にございます。龍神さまであられます陛下の血を引くお世継ぎでなくては、この水凱国を治めることはできませぬゆえ……。できることなれば〝宿命の妃〟との間に、お世継ぎが誕生することを、国中の民が望んでおります」

 そう言って黄福律は、ちらりと扉に視線を送る。

 先ほど、劉弦が下がらせた彼の娘、華夢がまだ扉の外に控えているのだろう。彼女は劉弦の一の妃であり、龍神を癒やすことができる翡翠の手の使い手で、劉弦の宿命の妃と言われている。

 宿命の妃との間に世継ぎができれば、その子は国に繁栄をもたらす。

 その言い伝えが真かどうかはともかくとして、目の前の男の望みが民の幸福でないことは確かだった。彼はただ、自分の娘を皇后に立て、自らの地位を盤石にすることのみを望んでいる。本当は後宮の慣例などは無視して毎夜彼女をここへはべらせたいくらいだろう。

 こうかつな視線で自分を見る黄福律から目をらし一喝する。

「もうよい、下がれ」

 彼は一瞬顔を歪めたものの素直に下がっていった。

 深い息を吐いて劉弦は目頭を押さえる。

 目を閉じると浮かぶのは、自らが治める水凱国の広大な国土だ。だが、かすんでよく見えなかった。ここのところこのようなことが続いている。かつては国の守護神龍神として、国土の隅々まで目を配っていられたが、今はじんだいな被害をもたらしそうな水害や干ばつをどうにか回避するのがせいぜいだ。

 劉弦がため息をついて目を開くと、赤い目をした細身の男が姿を現した。側近であり龍神に仕える白蛇のあやかしシラギクだ。

「劉弦さま」

「なんだ?」

「あのたぬき親父に百の妃を探す気などありませんよ。自分の娘を皇后にすることしか頭にないのですから」

 この宮廷内で、唯一信頼しているしもべからの進言に、劉弦は無言で頷いた。

「そして百の妃に会わねば、あなたさまは天界へは戻れません。これが水凱国三千年の歴史の中の天界と地上の決まり事。初代皇帝陛下が地上に降りられたのは、水害に苦しむ人間たちを助けたいと願う部族長たちの純粋な思いに応えたかったからでございましょう。百人の妃につられたわけではないでしょうが、今はその約定があなたさまを縛りつける」

 白菊の言葉に劉弦はあんたんたる思いになる。

「純粋な思いか……。もはや人はその心を失った。今の部族長たちは自らの富を蓄えることにしか興味がない」

 国に平穏が訪れてから三千年あまり。皇帝は劉弦で四代目である。

 はじめは嵐がやんだことに感謝して、助け合い国を発展させてきた人間たちは、富を得て次第に欲深く狡猾になっていった。持つ者と持たざる者との差は広がった。それと共に、劉弦の国土を見渡す目は濁り、頭の痛みはひどくなった。人の放つ汚い心と欲深さが劉弦を弱らせる。

「劉弦さま、このまま地上にて人と共に過ごしては、あなたさまは、いずれ邪神になられてしまいます。翡翠の手を持つ華夢妃の治療も効かないのですから」

 もとより、神は地上にいるべきではないのだ。

 翡翠の手を持つ妃が龍神を守ると約束した部族長の娘は、その言葉の通り初代皇帝を癒やした。宿命の妃と呼ばれ皇帝に愛されたその妃のまつえいが黄一族であり、黄華夢は翡翠の手の持ち主であると、黄福律は言うが……。

「翡翠の手か……もはや人はその力もなくしてしまったのだろう。宿命の妃など存在せぬ」

 劉弦はつぶやいた。

 あるいははじめからそのようなものはなかったか。

 ……いずれにせよ、もうあまり時間がない。

 雲を動かす力を持つ龍神が邪神に成り果てる……その先にどのような悲劇が待っているかは誰にもわからないことだった。

 そうなる前に一刻も早く、劉弦は天界へ戻らねばならない。

 だが、百の妃に会えなくてそれができないでいる。

 本来神は地上にいるか天界にいるのかを自由に選ぶことができる。だが自分の娘を差し出すと申し出た百人の部族長と初代皇帝との約束は、代替わりをしても有効だ。すなわち、すべての部族長の娘に会い、その上で、どの娘も妃にしないと民に向かって宣言した時、天界へゆくことができるのだ。

「緑族の娘か……。白菊、お前が行け。緑族の娘を連れてこい。私は娘に会って天界へ戻る」

 劉弦が命じると、白菊が頭を下げる。

「御意にございます」

 そして薄暗い部屋から跡形もなく消えた。


 古いれんに木の板を渡し布を敷いただけの粗末な寝台。そこにうつ伏せになって横たわる男性の背中に触れると、指先に感じるよくない感触。その部分を少し刺激したら、男性が「うっ」と声をあげた。

「いたた……! 翠鈴そこ、痛いよ」

 情けない声を出す男に、翠鈴はあきれてため息をついた。

「肝の臓が疲れているのよ、おじさん。お酒を控えるって約束守っていないでしょう?」

 小言を言いながら、指先に力を入れて丁寧にほぐしていく。さほど強く押していないのに痛みを感じるのは、それだけその場所が悪くなっているからだ。

「うっ……だけど、翠鈴。わしは酒だけが楽しみなんだよ……」

「なにも私はまったく飲まないようにって言ってるわけじゃないわ。ほどほどにって言ってるの。肝の臓がやられてしまったらもとに戻らないんだから。おじさんが動けなくなったら、おばさん、悲しむわよ」

「う……はい」

 男が素直に頷くと、ふたりの様子を見守っていた村人たちからどっと笑い声が起こった。

「悪いことは言わないから翠鈴の言う通りにするんだね」

「そうそう、翠鈴の見立ては確かなんだから」

 皆、翠鈴の施術を待っている患者たちである。

 ここは、水凱国の南西地方に位置する村、しちこう。周りを山々に囲まれたのどかな村である。ここで生まれ育ち両親を早くに亡くした翠鈴は、医師だった祖父から受け継いだ指圧の技術と知識を活かして、村の外れで診療所を開いている。

 土壁にわらをかぶせただけの粗末な建物に、寝台がひとつ、施術を待つ人のために隣町の居酒屋からもらってきた古いたるが三つ並べてあるだけの、診療所ともいえないものだが、村の人たちからはなにかと頼りにされていて毎日朝早くから患者が列を作る。

「それにしてもコウゼン老師が亡くなられた時はどうなることかと思ったけど、翠鈴ちゃんが診療所を引き継いでくれてよかったよ」

 施術を待つ年配の女性患者が、ため息をついて翠鈴の祖父の名前を口にする。彼女は毎日やってきて同じことを言う。頭痛持ちで、長年祖父のもとへ通っていた患者だった。

「おばさん、私はまだまだよ」

 人の不調を治す方法はいくつかある。祖父は薬の処方と針治療を主な手段として患者の治療にあたっていた。

 翠鈴にもある程度の薬草学の知識を与えた。だが翠鈴には、なぜか針ではなく指圧を主な手段とするよう勧めた。

『お前には、人の不調を癒やす特別な手がある。それを存分に活かすのじゃ』

 その言葉の通り、翠鈴は人の身体に触れると大体の不調の原因がわかるという力があった。触れた指先の感触から、身体のどこが悪いのか、どのツボをどのくらいほぐせばいいかがわかるのだ。

「あー、楽になったありがとう、翠鈴」

 寝台から起き上がった患者が肩を押さえて首を回した。

「これで、もうひと働きできそうだ」

 そう言って笑顔を見せる男に、翠鈴はうれしくなる。不調を感じていた患者が、楽になったと言って帰っていくのが、翠鈴にとってはなによりの喜びなのだ。

「お大事に、おばさんによろしく」

「ああ、また明日」

 患者は答えて、青菜をひと束置いていく。施術代の代わりだ。

 翠鈴のところへ来る村人は、貧しい者がほとんどだ。

 隣町の中心部には役人が運営する立派な建物の診療所があって、都から来ている医師がいる。いつでも最新の治療が受けられるのだ。だが、そこは施術代が高い。だから貧しい人たちは翠鈴のもとへやってくる。

 翠鈴は役人のように高い代金を要求しない。その代わり、患者たちは皆こうやって物を置いていく。米や野菜、果物……。診療所兼翠鈴の住居であるこの粗末な建物の雨漏りを直してくれる者もいる。施術代を請求しなくとも、翠鈴がひとりで暮らすには十分だった。

 中にはそういったさいな施術代さえ置いていけない者もいるけれど、それを理由に翠鈴は施術を拒んだりはしなかった。どうしてか調子の悪い人を見るとそのままにしておけないタチなのだ。申し訳ないからと診療所へ来ない者については、自分から治療に出向くこともあった。

「じゃあ、次はおばさんね。腰の痛みはどう?」

「翠鈴のおかげでずいぶん楽にはなったけど、農作業をするとやっぱりね……」

「おじいちゃん直伝の薬草湿布を作っておいたから、持って帰って寝る前に貼ってね」

 いつもの会話をしながら翠鈴は彼女の身体をほぐしていく。身体の調子が悪くとも皆働かなくては食べていけない。この村では、皆その日暮らしの生活だ。

「ありがとうよ。ああ、私に息子がいたら翠鈴にお嫁さんになってもらうのに」

「ばあさんや、そりゃ翠鈴が可哀想だ。あんたの歳じゃ、息子じゃなくて孫じゃなくちゃ」

 別の患者が口を挟み、またどっと笑いが起こる。ばあさんと言われた患者も「なにを!」と言いながら笑っている。貧しくとも、皆笑って生きている。翠鈴はこの村の人たちが大好きだった。

「とはいっても、私ももう二十だけど」

 翠鈴も笑いながら答える。この辺りでは大抵の娘は十七くらいで嫁にいく。十九を過ぎると行き遅れと言われるくらいだった。結婚に興味がないわけではないけれど、祖父から受け継いだ診療所でひとりでも多くの人の不調を治したいと奮闘するうちに、この年になってしまった。とはいえ、別に悲観しているわけではない。食べていく術があれば、伴侶がいなくとも生きていけるのだから。

「嫁にいくといえば」

 患者のひとりが思い出したように口を開いた。

「俺の娘が嫁にいった隣村のことだが、この間の水害で田畑が水浸しになったようだ。あと少しのところで雨がやみ死人が出なかったのは龍神さまのご加護だろうが、田畑がやられたのでは……」

 その言葉に、皆どこか不安げな表情になった。

 皇帝である龍神の加護で国が成り立っているというのは、この国の者ならば赤ん坊から年寄りまで皆が知っていることだ。でも、その加護がどこか弱まりつつあるのではとも感じていて、集まるとこんな風に話題にのぼる。

 ここのところ、以前はなかったような日照りや嵐、異常気象にたびたび見舞われている。幸いにして甚大な被害が出ているというわけではないけれど……。

「皇帝陛下、お身体の具合でも悪いのだろうか……」

 誰かの呟きにその場の空気が重くなる。国の守り神である龍神の力が弱っているのでは、国の先行きは明るくない。

「まぁ、大丈夫だろう」

 別の男が口を開いた。彼は行商人で遠くの町まで山を越えて仕入れに行く。そこで聞いた世間の情報をいつも村の皆に教えてくれる。

「今年二百歳になられる皇帝陛下のために、先日後宮が開かれた。国中からお妃さまが集められたって話だよ」

 その話は翠鈴も聞いたことがあった。

 龍神の寿命は千年と言われていて、成人する二百歳の年に後宮が開かれる。各地に散らばる部族長たちの娘が妃として嫁入りする慣例だ。寿命が短い人間にとっては、後宮が開かれることなど一生に一度見られるとも限らない貴重な出来事だから、都はお祭り騒ぎだという。

「その中に翡翠の手を持つ黄族の姫君さまもいらっしゃるという話なんだ。龍神さまの具合が悪くとも、癒やしてくださるだろう」

 一同はあんする。

「なら安心だ。少しは国もよくなるだろう。翡翠の手を持つお妃さまは、皇帝陛下の宿命の妃だという話じゃないか。そのお妃さまとの間にお世継ぎができればありがたいねえ」

 誰かがそう話を締めくくり、皆うんうんと頷いた。

 皇帝陛下の後宮の話など、翠鈴にとっては雲より遠い世界の話だが、安心して暮らせるのが一番だ。どうかそのお妃さまが皇帝陛下を癒やしてくださいますように。

 翠鈴は心からそう願った。


 村に役人がやってきたのは、日が暮れる頃だった。

 広場に騎馬で到着した彼らを翠鈴は窓から見ていた。ここは小さな村だから、役人が来ることなんてめったにない。いったいどうしたのだろうと、不安に思っていると、彼らは診療所を目指してやってくる。声もかけずに扉が開き数人の男たちが診療所の中になだれ込んだ。そのまま羽交い締めにされてしまう。

 思いがけない出来事に翠鈴は口もきけず、されるがままだった。ものすごく嫌な予感がする。

「こちらの娘ですか?」

 男たちの中でひときわ異様な空気を放つ赤い目の男が翠鈴をまっすぐに見て、誰ともなく尋ねる。役人のひとりが頷いた。

「そうです。間違いありません」

 翠鈴の背中がぞくりとする。いったいなんのやり取りをしているのかは不明だが、まずい状況なのは確かだった。いくら役人とはいえ、なんの罪もない民をこのようにして捕らえることは、普通なら考えられないことだった。

 しかも赤い目をした男は、翠鈴が見たこともないような豪華なしゅうが施された衣服を身に纏っている。どう考えてもこの辺りの者ではない。おそらく、都から来た高級役人だ。その役人が指揮する一団に捕らえられて、ただで済むとは思えなかった。

 赤い目の男が、床に膝をつく翠鈴の顎に、手にしているせんをあてる。ぐいっと上を向かせて、ジッと見た。冷たい目に、翠鈴の身体がガタガタと震えだした。

「あなたが、緑翠鈴ですね」

 尋ねられてもすぐには答えられなかった。確かに名は翠鈴だが、緑という姓に心あたりがなかったからだ。

 水凱国では、平民には姓はない。各地を治める貴族である部族だけが姓を名乗ることを許されているのだ。

 翠鈴は震えながら首を横に振った。

「ひ、人違いです……、私は……」

「間違いありません、白菊さま。その者が緑族の末裔です」

 役人の言葉に翠鈴はギョッと目をいた。

 各地を治める部族はかつては百だったが、今は九十九になっている。部族のひとつである緑族が、先の皇帝の治世で反逆罪に問われ、都を追われたからだ。

 彼らがどうなったのかは知られていない。散り散りになり、平民に紛れて生きているのか、あるいは途絶えてしまったのか……。いずれにせよ、国では忌み嫌われている一族で、口にするのもはばかられる名だ。その末裔などと言われて、翠鈴は真っ青になる。

「わ、私……ち、違います……! 私は、ただの村娘です」

 あまりにも意味不明な言いがかりに、必死になって否定する。

「いいや、お前は緑族の末裔だ。こんな田舎に、医学の知識がある者がおることをかねてから不自然だと思っておったのだ。記録を辿たどると、昔の役人が逃げてきた緑族をかくまったという記述が出てきた。それがお前の祖先だろう。このたび、皇帝陛下が緑族の末裔を探しておられるという話だ。ならば私はお前を差し出さねばならない。この村のためだ、悪く思うな」

「そ、そんな……」

 翠鈴は絶句する。

 確かに皇帝の命令であれば逆らうことは許されない。でもそもそも翠鈴が緑族の末裔だという確たる証拠はないというのに……。

 白菊と呼ばれた男が診療所を見回した。

「ここは? ……診療所ですか?」

 翠鈴は震える唇を開いた。

「……はい。もとは祖父の診療所でしたが、亡くなった後引き継ぎました」

「どのような施術を?」

「……指圧と、投薬を少し」

「手を見せなさい」

 白菊が命じると腕を押さえていた男たちの力が緩む。翠鈴が、恐る恐る手を差し出すと、彼は目を細めた。

「なるほど、あなたが緑族の娘で間違いなさそうですね」

「え……?」

「連れていきなさい」

 命令と共に、翠鈴は無理やり立たされる。

「え? あの……! 待ってください! 私、本当に違います!」

 必死になって訴えるが、男たちによって診療所の外へ引きずり出された。外には騒ぎに気がついた村人たちが集まっていた。

「翠鈴をどこへ連れていくんだ!」

 昼間の患者が役人に向かって声をあげる。

「そ、その子を連れていくな! 村には必要な娘だ」

 別の村人も抗議するが、役人たちが答えることはなかった。

 そのまま翠鈴は生まれ育った村から無理やり連れ去られた。


 正体不明の役人によって生まれ故郷から連れ出された翠鈴は、そのままかごに乗せられて山をふたつ越えた。

 籠といっても罪人を運ぶ時に使うとうまるかごと呼ばれるものだ。手足こそ縛られてはいないものの、食事もその中でとるように言われ、村で平和に暮らしていた翠鈴にとっては生まれてはじめて受ける屈辱的な扱いだった。

 いったいどこへ向かっているのか、自分はどうなってしまうのか不安でたまらなかった。

 自分が緑族の末裔などという話は、にわかには信じがたい。でも白菊と呼ばれていた役人はなぜか確信があるようだ。そしてどこかへ連れていこうとしている。

 その先が明るいものではないのは確かだった。

 そして三日目の夕刻、籠に揺られ続けてぼんやりとする翠鈴に、馬に乗り並走していた白菊が口を開いた。

「まもなく都に着きます」

「都……」

「あなたはこのまま後宮へ入っていただきます。皇帝陛下の妃として」

「こ、後宮へ……!? 妃として?」

 かすれた声で聞き返して、翠鈴は目を剥いた。

 なんとなく都へ向かっているのは感じていた。歩みを進めるにつれて、道は整備されて、道ゆく人の服装もきちんとしているように思えたからだ。

 おそらく都で罪人の子孫として裁かれるのだろうと思っていた。翠鈴にとっては理不尽すぎる出来事だが、まだそれならば納得だ。

 それがまさか後宮に入るとは!

 百歩譲って女官、いや奴隷として働くならまだわかる。でも妃として迎えられるというのはまったく意味不明だった。

「ど、どうしてですか!?

「あなたが緑族の末裔だからですよ。龍神伝説は知っているでしょう? 人は、龍神さまに国を治めていただく代わりとして、百人の妃を捧げると約束した。それなのに現在後宮には九十九人の妃しかおりません。本来であれば、あなたは皇帝陛下の妃としてとっくの昔に後宮に入っていなくてはならなかったのです」

「そ、そんな……! 後宮なんて……お、お妃さまなんて、私には無理です! そ、それに、緑族は……」

 国中で忌み嫌われている一族だ。そのような一族の娘が後宮に入るなどあり得ないことは、田舎者の翠鈴にもわかる。

 だけどその先は言えなかった。自分の祖先が皇帝に刃向かったなどという言葉は、恐ろしくて口にすることができない。

 白菊が翠鈴をちらりと見て口を開いた。

「人間同士のことなど、私どもにはどうでもいいことにございます。とにかく天界と地上との決まり事を守っていただかなくてはなりません」

「決まり事を……」

『私ども』という言葉と、彼の目が光るのを見て、翠鈴は彼がただの役人ではないと気がついた。おそらくは皇帝である龍神の使いであるあやかし……。

 白菊が目を閉じてため息をついた。

「ご安心ください。妃といってもあなたが皇帝陛下の寵愛を受けることはございません。詳細をお教えするわけにはいきませんが、決まり事として一度だけお会いいただきます。その後は、もといた場所へお帰りいただいて結構です」

「え? そうなんですか……?」

 これまた意外な白菊の言葉に、翠鈴の身体から力が抜ける。

「よかった……」

 つまりは天界と地上との決まり事を守るために、翠鈴は形式上、後宮入りするということだろう。

「あなたは、村人たちにとっては欠かせない人物のようですから、生まれ故郷へお送りいたします」

 今までの扱いから考えれば、意外なほど親切な言葉である。

 翠鈴がホッと息を吐いた時、一行は小高い丘の上を通る。視界が開けて前方に大きな町が見えてきた。夕日に照らされて真っ赤に染まっている。

 白菊が合図すると一行は歩みを止めた。

 目の前に広がる光景は、翠鈴が生まれた村とは比べ物にならないほど栄えた場所だった。ひしめくように建つ頑丈な家々。通りを行く大勢の人々。

 その一番奥、低い山の上に要塞に囲まれた赤い瓦屋根の豪華な宮殿が建っている。

「あれが水凱国の都、ほうさいです。そしてあの建物が、皇帝陛下が鎮座されるこうきんじょう。後宮もあそこにあります」

 白菊の言葉を聞きながら、翠鈴は息をするのも忘れて紅禁城を見つめる。

 荘厳な美しさと誰も寄せつけない厳粛さに、ぶるりと身体を震わせた。

「参りましょう。日が暮れるまでに着かなくては」

 白菊が言うと、一行はまた動きだした。


 一行が紅禁城内にある後宮に着いたのは、とっぷりと日が暮れた後だった。

 さすがに罪人用の籠に入れた者を連れて正門を通るわけにいかないということだろう、着いたのは裏口と思しき場所だった。

 そこで翠鈴はようやく籠から降ろされた。唯一持ってくることを許された着替えが入った包みを持ったまま翠鈴は、うーんと身体を伸ばして、関節をぐるぐる回す。丸三日、寝る時以外は小さく座った格好だったから、あちこちががちがちだ。

 一行を出迎えたのは、でっぷりと太ったとしかさの女官だった。

「白菊さま、いかがなさいました? このような時間に。……この者は?」

「百の妃だ。皇帝陛下の命により連れてきた。部屋を与え世話をするように」

「ひゃっ……、百の妃……!? こ、この者がですか?」

 女官が声をあげてじろじろとしつけに翠鈴を見る。初対面の相手に決して褒められた行為ではないが、無理もなかった。

 翠鈴は捕らえられた時の格好、つまり作務衣を着ている。しかも三日三晩籠に揺られてきて、ろくに身を清めてもいないから、ドロドロである。

 こんななりの女が皇帝の妃というのはとても信じられないのだろう。

「皇帝陛下に会わせられるよう、準備させろ。なるべく早くだ。私は皇帝陛下へ報告をしに行く」

 そう言ってこちらへ背を向ける白菊を、翠鈴は慌てて呼び止めた。

「白菊さま」

 白菊が足を止めて振り返った。

「先ほどのお話、……お約束を守ってくださいますね」

 恐れる気持ちを奮い立たせて尋ねる。

 白菊がやや意外そうな表情になった。おびえて小さくなっていた翠鈴が、念を押したことに驚いているようだ。不快に思われるだろうかという考えが頭を掠めるが、ひるまなかった。

 翠鈴をさらった彼の目的を聞いてから、いつもの自分を少し取り戻しつつあるのを感じている。とりあえず、命を取られることはなさそうだと安心したからだ。

 祖父を亡くしてから、ひとりで診療所を切り盛りして生きてきたのだ。そこらの箱入り娘とはわけが違う。

 赤い目をジッと見つめると、白菊がニヤッと笑う。

「もちろんです。ことが終わればすぐにでも約束を果たしましょう」

 そして音もなく姿を消した。

 翠鈴がホッと息を吐くと、女官が口を開いた。

「あなた、名は?」

「翠鈴です」

「翠鈴……妃さま」

 釈然としない様子で翠鈴の名を繰り返す。翠鈴が妃だということがやはりに落ちないのだろう。しばらくしゅんじゅんしていたが、やがてため息をついて気を取り直したように口を開いた。

「私は、女官長をしておりますムォンと申します。後宮全体の管理をしておりますので、なんなりとお申し付けくださいませ」

 口調は丁寧だが、翠鈴などに仕えるのは不本意だというのがありありとわかる態度だった。

「とにかくこちらへ」

 冷たく言ってきびすを返す。さっさと建物の中に入る背中を、翠鈴は慌てて追った。

 扉の向こうは女官たちの居住区のようだった。ずらりと並ぶ小部屋の中に、それぞれ寝台が四つほど、おそらく休憩中であろう女官たちが思い思いの時を過ごしている。

 廊下を早足で進んでいくふたりに気がついた女官から声がかかる。

「女官長さま、その者は?」

 女官としての新参者だと思ったのだろう。翠鈴を頭のてっぺんから足もとまでをジロジロと見て、眉を寄せている。ドロドロの翠鈴への嫌悪感を隠そうともしていない。

 梓萌が立ち止まり、彼女に答えた。

「百のお妃さま、緑翠鈴妃さまです」

「ひゃっ……!? では、緑族の……?」

 女官は驚くと同時に恐ろしいものを見たという表情になる。他の女官たちも集まってきて、ヒソヒソとなにかを言い合っている。

 彼女たちの反応は納得だ。でもべつの色を浮かべた視線を遠慮なく浴びせられるという状況は、気持ちのいいものではない。

 皇帝に会うまでの辛抱だと翠鈴は自分自身に言い聞かせた。

「ちょうどいいわ、お前たち。今からお妃さま方のお部屋を回り、百のお妃さまが到着したと知らせてきなさい」

 梓萌の指示に、女官たちが頭を下げて去っていった。

「さて」

 梓萌が、翠鈴に向き直った。

「翠鈴妃さま、これからお部屋へご案内いたします。……後宮の仕組みや決まりについてはご存じですか?」

 やや高飛車に言う彼女からの問いかけに、翠鈴は首を横に振った。そんなもの知っているはずがなかった。

「都へ来るのもはじめてです」

 答えると、梓萌がため息をついた。

「ここ、紅禁城は三つに分けられます。まず町に面しているのが、まつりごとを行う宮廷、その後ろにあるのが皇帝陛下がお住まいである宮です。さらにそこから渡り廊下でつながっている場所が、ここ後宮です。広い中庭を囲むようにお妃さま方のお部屋が並んでおりまして、皇帝陛下の宮に一番近い部屋から順に位の高いお妃さまがお住まいになられております。お妃さまの数字は、皇帝陛下の寵愛の深さ、お父上の役職により決まります。翠鈴妃さまは、百番目のお部屋にご案内いたします」

 梓萌は『百番目』というところを強調するように言う。おそらくは妃たちの間では、不名誉なことなのだろう。とはいえ翠鈴はなんとも思わなかった。

 長旅でへとへとだ。何番でもいいから早く部屋へ行って休みたかった。

「その他の決まりは……、まぁおいおいわかるでしょう。では参りましょう」

 そう言って梓萌はまた歩きだす。

 翠鈴は後を追った。


 女官たちの居住区を抜けて、妃たちの居住区へ入ると建物の造作は一変した。

 広くて細長い中庭の両脇を赤いとうろうが下がる長い廊下が続いている。黒い艶々の石作りの床に唐草模様の豪華な窓枠、ずらりと並ぶ繊細な飾りがついた扉は、妃たちの部屋だろう。

 翠鈴が生まれてはじめて目にする豪華けんらんな世界だった。

 その長い廊下を翠鈴は梓萌の後について歩く。色とりどりのひらひらした衣装を身につけた妃と思しき女性たちが、あちらこちらから翠鈴の様子をうかがっている。

「まさかアレが百の妃?」

うそでしょう? いくらなんでもみすぼらしすぎだわ」

「だけど、あの緑族だもの。きっと山の中で落ちぶれた生活をしてたんでしょう」

けがらわしいわね、近寄らないでほしいわ」

 聞こえてくる言葉はひどいものだが、翠鈴はもう傷つかなかった。

 本来は、前向きで気の強い気質なのだ。

 生まれ故郷でも小さい頃は、両親がいないことをされることがあった。

『やーい! 親なし翠鈴』

 そう言われるたびに言い返したものだ。

『そうだよ、だけどそれがいったいなに? 親が早く死んじゃったのは、私のせいじゃないもんね!』

 なにを言われても、大抵はへっちゃらな顔をしていれば、そのうちなにも言われなくなる。そうして生きてきた翠鈴にとっては、このくらいなんてことはなかった。

 それよりも、この異国のような世界を存分に見ておこうと思っていた。後宮なんてめったに見られるものじゃない。七江へ帰った時に村の皆に話せば喜ぶだろう。

 そうして視線を彷徨さまよわせながら歩いていると、梓萌が足を止めた。翠鈴もつられて立ち止まる。

 梓萌が低い声を出した。

「翠鈴妃さま、端に避けてくださいませ。ご自身よりも順位の高いお妃さまとすれ違いになる時は、端に避けて頭を下げる決まりにございます」

 彼女の言葉通り、前方からひときわ美しい女性が歩いてくる。金色の髪飾りを挿した艶々の黒い髪、真っ白な肌と桃色の頬、瞳は濡れたようなしっこくである。

「一のお妃さま、華夢妃さまにございます」

 梓萌が端に避けて頭を下げる。翠鈴もそれにならった。

 華夢は、数人の妃と女官を引き連れて足音も立てずに優雅に歩いてくる。翠鈴の前を通り過ぎようとしたところで、足を止めた。

「梓萌、その方が百のお妃さま?」

 少し高い鼻につくような声だった。

「はい、緑翠鈴さまにございます」

 頭を下げたまま梓萌が答えると、華夢の後ろの妃たちが眉を寄せて嫌そうにする。臭いものを前にした時のように袖を鼻にあてる者までいた。

「翠鈴妃さま」

 呼びかけられて、翠鈴は顔を上げた。

「はい」

「私、黄華夢と申します。なにか困ったことがあったら、おっしゃってくださいね」

「華夢妃さま……!」

 梓萌が目を見開いた。一の妃が、汚いなりの翠鈴に親しげに声をかけたことに驚いたようだ。彼女の後ろの妃たちも戸惑うように顔を見合わせている。

「あら梓萌、ここにいる者は皆、皇帝陛下をお支えする妃。同じ立場よ」

 そう言って、にっこりとほほむ。

「よ、よろしくお願いします」

 翠鈴は慌てて頭を下げた。

「さすがは華夢妃さま、慈悲深いわね。あのような者に親しげに声をかけるなんて」

「皇帝陛下の一のお妃さまなんですもの、私たちとは格が違うわ」

「それにしても今宵も一段とお美しいわねぇ」

 事態を見守っていた他の妃たちが、ヒソヒソとささやき合う声がした。

 そこで翠鈴は故郷の村で耳にした彼女のうわさを思い出す。確か彼女は、翡翠の手の使い手で、皇帝の宿命の妃。近い将来、皇后となるであろう人物だ。妃たちの言う通り、器が違う。

「では、ご機嫌よう」

 そう言って彼女は、滑るようにまた歩きだす。彼女の後ろについていた妃たちも翠鈴をちらちらと見ながら通り過ぎた。

「さ、参りますよ」

 梓萌が立ち上がり、また早足に歩きだす。翠鈴も後に続いた。

 長い廊下を歩きながら、梓萌が口を開いた。

「後宮におられますお妃さま方は、数字とは別に四つの位がございます。まず皇后さま。慣例では翡翠の手を持つ宿命の妃である方が立后されます。今は空位ですが、そう遠くなく華夢妃さまがなられるでしょう」

 翠鈴は頷いた。

「次に、皇貴妃さま四名。こちらは、皇后さま以外に特に家柄のいい方、寵愛が深い方がなられます。次に貴妃さま、こちらは百人いらっしゃるお妃さまのうち五十までの方がなられます。そして残りが貴人と呼ばれる方々です」

 つまり、百人の妃のうち上から五十までが貴妃、五十より下が貴人、その中から寵愛の深さや家柄により皇后と皇貴妃が選ばれるということだ。

 妃たちの順序についての決まりを翠鈴が頭に入れた時、梓萌が足を止める。長い廊下の突きあたり、粗末な扉の前だった。

「こちらが翠鈴妃さまのお部屋にございます」

 扉を開けると中は、湿った少し嫌な匂いがした。寝台と机は置いてある。でも長い間使っていないのだろう、ほこりがかぶっていた。今は物置となっているようだ。掃除道具がある。

「これらは明日運び出させます。今夜はもう遅いですから、このままお休みくださいませ」

 梓萌がそう言った時、大きなまんじゅうと汁物が載った盆を手にした女官がやってきた。

「女官長さま、お食事をお持ちしました」

「そこへ」

 梓萌がそう言うと、女官は埃がかぶったままの机に置く。そして翠鈴をちらちら見ながら部屋を出ていった。

「お夕食です。本日のお妃方のお夕食はもう終わりですので、女官と同じ粗末なものになりますが」

「ありがとうございます。助かります。お腹ぺこぺこだったんです」

 いい香りを漂わせる夕食を見て翠鈴が言うと、梓萌が驚いたように眉を上げた。埃だらけの薄暗い部屋に、女官と同じ食事。妃としては最低の扱いだ。それなのに翠鈴が礼を言ったことが意外だったのだろう。

「食事の後の盆は扉の外へ出しておいてください。それでは私はこれで」

 そう言って、振り返りもせずに部屋を出ていった。

 ようやくひとりになり、翠鈴はホッとして寝台に腰を下ろす。

 そして部屋を見回した。

 埃っぽくはあるものの壁も屋根も頑丈で、七江にある翠鈴の家の二倍ほどの広さだ。なにより広い寝台がある。ちゃんと足を伸ばして寝られそうなのが、ありがたかった。

 粗末なものと梓萌は言ったが、盆の上の食事は翠鈴にとってはごそうに思えた。饅頭はふかふかで、汁物も具だくさんだ。

 手を伸ばして饅頭を手に取ると、翠鈴のお腹がぐーっと鳴る。最後にものを口にしたのは昼間だ。

 白い生地にかぶりついて、目を見開く。饅頭の中味がの肉を炊いたものだったからだ。肉など、七江では祭りの時にしか口にできない。

 皇帝に会うまで何日かかるかは不明だが、それまでの生活もそんなに悪くなさそうだ。そんなことを思いながら翠鈴はあっという間に食事を平らげた。


 長旅でくたくたに疲れていた翠鈴だが、ぜいたくな夕食をとってちゃんとした寝台でぐっすり眠ったことで、朝には元気を取り戻した。

 そして起きてからまず取りかかったのは部屋の掃除である。翠鈴に与えられた部屋は、立派だけれどとにかく埃っぽい。数日でも、なるべくれいなところで気持ちよく過ごしたかった。

 幸いにして、掃除道具はすでにある。まずは窓を覆ってあった黒い幕を取り払い、朝日を部屋の中に取り込む。窓や窓枠、机と椅子を雑巾で拭いていると、梓萌に指示された女官たちが部屋の物を移動させるためにやってきた。朝早くから掃除をしている翠鈴に驚いている。

「ちょうどよかった。寝台の布を取り替えたいから、洗濯が済んだものをいただけないかしら?」

 翠鈴の頼みに目を丸くして頷いた。彼女たちの向こうでは、妃たちが部屋をのぞき込みヒソヒソと話をしている。

 掃除を終えてひと息ついた時、若い女官がやってきた。

「す、翠鈴妃さま、ちょ、朝食を、お、お持ちいたしました……」

 聞き取るのがようやくというほど、細い声だ。手にしている食事を載せた盆がカタカタと揺れている。なにもそんなに、というほど怯えているのが可哀想になるほどだ。

「ありがとう」

 答えると、彼女は恐る恐るといった様子で部屋の中へ入ってきて机の上に盆を置く。今日はちゃんと妃用の食事なのだろう。汁物と白い飯の他に青菜の炒め物や果物など三品ほどの皿が並んでいる。

「朝食は三品なのね」

 覗き込み、翠鈴は呟く。

 朝からたくさん働いた翠鈴のお腹がぐーっと鳴った時、女官がしゃがみ込み床に額をつけた。

「申し訳ございませんっ!」

 突然の出来事に、翠鈴はお腹に手をあてたまま固まった。震える女官の肩を見つめながら口を開いた。

「とりあえず、そんなところにぺったんこになってないで、ちゃんと椅子に座ってちょうだい」

 声をかけると彼女は驚いたように顔を上げる。翠鈴よりも二、三歳若くどこか幼さの残る素朴な娘だった。

 怯える彼女を椅子に座らせ事情を聞く。

 涙を浮かべてつっかえながら答える彼女からようやく聞き出せたのは、持ってきた朝食の品数が他の妃よりも少ないということだ。

 後宮では妃の位によって食事の品数が決まっているのだという。皇后と皇貴妃は十品、貴妃が七品、貴人は五品という具合だ。

 翠鈴は貴人だから本当なら五品持ってこなくてはならなかった。でも今ここにある食事は三品で、そのことについて謝っていたというわけだ。

 彼女は詳細を語らなかったが、事情はなんとなく想像がついた。

 前日の女官と妃たちの反応から、ここでは翠鈴が招かれざる客であるのは明らかだ。進んで世話をしたいと思う女官など皆無だろう。おそらくこの痩せ細った女官は皆に嫌な仕事を押し付けられたのだ。しかも嫌がらせのように、品数が足りない食事を持っていくように言われたところから考えると、他の女官たちからいい扱いを受けていないのだろう。

 可哀想に、と翠鈴は同情する。まだ若い彼女が気の毒だった。

 身をかがめて、うつむく彼女に視線を合わせた。

「あなた、名前は?」

「……ランランです」

「蘭蘭、私が昨日ここへ来たのは、予定外のことだったんでしょう? なにもなくてもおかしくないのに、三品も持ってきてくれるなんて、ありがたいわ」

 そう声をかけると、彼女の目にみるみる涙が溜まってあっという間にあふれ出した。

 涙を拭く手に、長い棒で打ったようなあざを見つけて翠鈴の胸は痛んだ。彼女に罰を与えたのは妃たちだろうか? なんてひどい仕打ちだろう。

 昨夜ここで饅頭を食べた時は、も悪くないと思ったけれど、今は真逆の意見だった。なんて恐ろしい場所なのだ。

 さらに気にかかるのは、彼女の顔色だった。真っ青だ。目の下のくまも気になった。

 蘭蘭が落ち着いたのを見計らって、翠鈴は彼女の手を取った。

「ちょっと診せてね」

「あ、あの……?」

 戸惑う彼女の指先は氷のように冷たい。翠鈴の頭が瞬時に切り替わった。

「蘭蘭、舌を出して」

「え……?」

「こうやって。べー」

「? べー」

 素早く視線を走らせて、まずはホッと息を吐く。

「悪い病があるわけではなさそうね。寝不足と栄養失調かしら。その寝台にうつ伏せに寝てくれる?」

 翠鈴が指示すると、蘭蘭はギョッと目を剥いた。

「そ、そういうわけには……」

「大丈夫、さっき敷布を替えたところだから」

「そ、そうではなくてお妃さまの寝台に私が乗るわけにはいきません。女官長さまに知られたら叱られてしまいます」

 ぶんぶんと首を振っている。

「さっき物は運び終えたから、もう誰も来ないわよ。誰も私の世話をしたくないから、蘭蘭が来たんでしょ」

「で、でも……」

「早くしないと、蘭蘭が妃に従わないって言いつけようかしら?」

 脅かすように言うと、彼女はビクッとして慌てて翠鈴の言う通りにする。痩せた細い背中に翠鈴は手をあてた。

 やはり、取り立てて悪そうな箇所はない。睡眠不足と疲労、栄養が行き届いていないというところだろう。

「あまり寝られていないわね、食事もちゃんと食べていないでしょう。今日の朝ごはんは食べたの?」

「まだです」

 背中から手を離すと彼女は起き上がる。寝台に座った彼女の前に、翠鈴は自分の朝食が載った机を引き寄せた。

「じゃあ、今から食べなさい。普段からあまり食べられていないなら、お腹に優しいものがいいわね。飯に汁をかけてあげようか? 果物は好き?」

 またもや、蘭蘭がギョッとした。

「そ、そんな……! お妃さま用の食事に私が手をつけるわけにはいきません。見つかったら叱られます。女官には女官用の食事が用意されていますから。それにこれは翠鈴妃さまの分ですのに」

「私はこの肉入り饅頭で十分よ。私、この饅頭大好きなの。さっき蘭蘭は、三品しか持ってこられなかったって言ったけど、その中に饅頭があるなら上出来よ」

 そう言って翠鈴は、饅頭にかぶりつく。彼女が気後れしないように先に食べてしまうことにする。もぐもぐする翠鈴を、蘭蘭はぜんとして見ている。

「ほら、私はもうお腹いっぱい。これ以上は食べられないから、蘭蘭が食べないなら、これは食堂に返すことになるけど……」

 そう言うと蘭蘭は、ごくりと喉を鳴らした。箸を彼女に持たせると、翠鈴を窺うように見る。翠鈴がにっこり笑ってうなずくと、思い切ったように飯を口に入れる。あとは夢中で食べだした。

 その姿に、翠鈴はホッとする。とにかく食べられれば、顔色はよくなるはずだ。

 あっという間に食べ終えた彼女を、翠鈴は寝台に寝かせる。

「本当は食べてすぐに横になるのはあまりよくないんだけど、とにかく疲れを取るのが先だわ。今日は一日寝ていなさい」

「そ、そういうわけにはいきません。女官はお妃さまより先に寝てはいけない決まりです」

「蘭蘭、あなた病になる一歩手前よ。病人に妃も女官もないでしょう。大丈夫、蘭蘭には私が難しい仕事を頼んだせいで一日部屋から出られないってことにしておくから。とにかく目をつぶりなさい」

 翠鈴が蘭蘭に布団をかけようとすると、彼女は震える声を出した。

「私、ここへ来てこんなに優しくしてもらったのははじめてです……」

 そのまましくしくと泣いている。

 その姿に翠鈴の胸は痛んだ。七江だって豊かではなかったから、彼女くらいの年齢の者は働かなくては生きていけなかった。でも寝る暇もなくろくに食べさせてもらえていないのに、働かされているような子はいなかった。

「……蘭蘭は、どうしてここで働いてるの?」

 尋ねると鼻をすすって答えた。

「家は貧しいわけではないですが、弟と妹がたくさんいるんです。だから父と母を助けたくて、採用試験を受けました。だけど本当はそんな目的でここへ来てはいけなかったんです」

 蘭蘭は恥じるように言うが、翠鈴には意味がわからなかった。家族の生活を支えるために働いている、それのなにがダメなのだ。

「ほかの女官の方は、行儀見習いのためにお勤めしているんです。後宮女官をしていた経歴があれば、いい縁談が来るとかで……。私みたいに金子目当てでお役目につくのはいやしい考えだと言われました」

 その言葉に翠鈴は眉を寄せる。女官仲間から彼女が不当な扱いを受けていた理由はわかったものの、まったく納得いかなかった。

「私、間違っていたんです。おまけにやることも遅くて……」

「あなたは間違っていないわ、蘭蘭」

 なおも自分をしようとする蘭蘭を、思わず翠鈴は遮った。お腹の中でふつふつと怒りが込み上げる。

「食べていくために働くことのいったいなにが卑しいのかしら? ましてや自分だけでなく家族のためでもあるんだもの。あなたは立派よ、蘭蘭。なにも恥じることはないわ」

 彼女の肩をガシッとつかみ、翠鈴は言い切った。

「それが卑しいことなら、この国は皆卑しい人だらけになるじゃない!」

 蘭蘭が驚いたように目を見開いた。

「そんな風に言ってもらえたのははじめてです……」

 そしてまたハラハラと涙を落としはじめた。

「とにかく寝て。元気にならなきゃ、働けないわ」

 細い身体を震わせて泣く蘭蘭に、翠鈴は言う。彼女がこくんと頷いた時。

「翠鈴妃さま、翠鈴妃さま」

 コンコンと扉がノックされる。蘭蘭がぎくりと肩を震わせた。

「翠鈴妃さま?」

 声からしてどうやら梓萌のようだった。

 蘭蘭が慌てて寝台を出て、床を拭いているふりをする。それを確認して、翠鈴は扉を開けた。

「はい」

 扉の先に立っていたのは、予想通り梓萌だった。

「翠鈴妃さま、お呼びしたらすぐに答えてくださいませ。それがここの決まりです」

 開口一番小言を言う。

「申し訳ありませんでした」

 翠鈴が謝ると、本題に入った。

「今宵、皇帝陛下のお召しがございます。夕刻に、湯殿にご案内しますので、湯に浸かっていただき、失礼のないようきちんと身なりを整えてくださるようお願いいたします」

 そして眉を寄せて翠鈴の頭のてっぺんから足まで、視線を走らせる。翠鈴が汚いと言わんばかりだ。

 確かに、翠鈴の身体は長旅でドロドロだった。皇帝に会えるような状態でないのは確かだ。湯を使わせてもらえるのはありがたい。

「白菊さまよりお召し物は準備するとのお言葉がありましたから、夕刻までには届くでしょう」

「わかりました」

 答えると、梓萌は床掃除をしている蘭蘭に視線を送った。

「皇帝陛下のお召しまでの段取りは蘭蘭が知っています。それでは」

 そう言ってさっさと帰っていった。

 扉を閉めて、翠鈴はドキドキする。白菊には皇帝とは会うだけでいいと言われたが、それでも緊張してしまうのは仕方がないことだった。

 相手は国の頂点に君臨する存在で、しかも龍神だ。本当なら翠鈴など生涯にわたって会うことなどないはずの相手なのだから。

 ふうと息を吐いて振り返ると、蘭蘭が立ち上がり悔しそうに握りこぶしを作っていた。

「蘭蘭? どうかした?」

 不思議に思って尋ねると、彼女は扉をにらんだ。

「お妃さま方が使われる湯殿は、山の温泉から湯を引いてきます。毎日湯を入れ替えて、まだ日が高いうちから、一のお妃さまから順に数名ずつ入っていただく決まりです」

 彼女が口にする湯殿に関する決まり事に、翠鈴は頷いた。毎日新しくしていても当然ながら人が使えば湯は汚れる。位の高い妃が優先されるのが当然だ。

 翠鈴は百番目だから、すべての妃が入った後の夕方に呼びに来ると梓萌は言ったのだろう。

「でも皇帝陛下のお召しがあるお妃さまは別なんです。一番最初に入る決まりになっています。皇帝陛下は龍神さまですから、新しくて綺麗な湯で身体を清めていただかなくてはなりません」

 彼女は、梓萌が決まりを守らずに、翠鈴を最後にしたことに怒っているのだ。

「蘭蘭……」

「翠鈴さまだって、お妃さまなんですから、同じようにしていただかなくてはいけないのに」

 意外な彼女の反応に、翠鈴の胸は温かくなる。

 一方で、梓萌の対応にはそれほど腹は立たなかった。

「私は百の妃。皇帝陛下のお召しがあっても、ご寵愛をお受けすることはないからかもしれないわね」

 白菊との約束を話すわけにいかなくて、あいまいに言うと、蘭蘭が声を張り上げた。

「だけど、それは他のお妃さま方も同じです! 後宮が開かれてお妃さま方が集められてしばらく経ちますが、まだご寵愛をお受けになられたお妃さまはいらっしゃらないんですから!」

 その言葉に、翠鈴は驚いて聞き返した。

「え? まだ誰も?」

「はい」

「だけど一のお妃さまは、確か龍神さまを癒すことができる翡翠の手をお持ちなんでしょう? 宿命の妃だって聞いたわ」

 不安になって翠鈴は問いかける。

 皇帝の不調は、宿命の妃が癒やしてくれると国中が期待している。翠鈴だってそう思って安心していたのだ。

 日照りや水害がどれだけ民を苦しめるか、決して豊かではない村で育った翠鈴はよく知っている。

「華夢妃さまは、翡翠の手の使い手として、診察はされているようですが、ご寵愛は受けておられません。皇帝陛下のお召しがある夜もすぐにお部屋へ戻ってこられますから」

「そう、診察はされているのね」

 蘭蘭の話に、翠鈴はまずは安心する。ならば、体調は大丈夫だろう。翡翠の手の持ち主は、どんな不調も癒やすと言われているのだから。もしかしたら、ご寵愛は体調の回復を待っているのかもしれない。

「よくわかったわ、蘭蘭。ありがとう、湯を使う順番が最後でも、ご寵愛を受ける心配がないなら安心よ」

 気持ちを切り替えて翠鈴が言うと、蘭蘭はまた目を潤ませ、ぐっと口を一文字に結び、机の上の朝食の盆を手に取った。

「私は女官の詰め所へ行って参ります」

 突然の行動に翠鈴は首を傾げる。

「詰め所にって、今日は一日寝てなくちゃ……」

「寝ている暇はありません。翠鈴さまの今宵のお召しの準備を整えなくては!」


 とっぷりと日が暮れて、灯籠の明かりが灯る長い廊下を翠鈴は梓萌に続き歩いている。廊下に並ぶ貴妃たちの部屋から、くすくすという笑い声が聞こえていた。皇帝の夜の寝所へ召されているというのに、翠鈴が普段着の作務衣を着ているからだ。

 夜のお召しまでに翠鈴を美しく着飾らせると気合い十分で女官の詰め所へ行った蘭蘭は、結局、着飾るのに必要な紅も白粉も香も手に入れることはできなかった。

 しょんぼりとして帰ってきた彼女に話を聞くと、他の女官たちに妨害されたのだという。どうにか手に入れられたというせっけんで翠鈴は終い湯に入った。

 さっぱりとして部屋へ戻るとなんと蘭蘭が、しくしくと泣いているではないか。今夜のために白菊から届けられた衣装が泥まみれだったのだという。おそらくは届けられる過程で誰かにわざと汚された、つまり嫌がらせを受けたのだろう。

『蘭蘭、泣かないで。大丈夫、なんとかするから』

 翠鈴はそう言って彼女を慰めた。とはいえ、代わりの衣装を準備できるはずもなく、故郷から持ってきた替えの作務衣を着るしかなかったのである。

 迎えに来た梓萌は、作務衣姿の翠鈴に、一瞬眉を寄せたもののなにも言わなかった。

 そして彼女に続き歩いている翠鈴を見て妃たちが特に驚く様子もなく笑っていることを考えると、衣装が泥まみれだったのは彼女たちの中の誰かの差し金かもしれない。

「よくあんななりで陛下のもとへ行けるわね」

「さすが緑族、恥知らずもいいとこだわ」

 聞こえてくる言葉はひどいものだが、まったく気にならなかった。

 もとより寵愛など望んではいないのだ。着るものなどどうでもいいから、早く皇帝に会って故郷の村に帰りたい。

 長い廊下を梓萌はゆっくり進む。

 もっと早く歩いてくれればいいのに、と翠鈴は内心で思っていた。

 やがて前方に大きな龍が描かれた、巨大な赤い観音開きの扉が見えてくる。その先が後宮と皇帝の寝所を繋ぐ渡り廊下だ。扉のそばの部屋は、ひときわ豪華な扉を持つ一の妃の部屋だった。

 扉の前に華夢が立っている。

 桃色のひらひらとした衣装を身につけて薄化粧を施し、寝る前とは思えないほど美しく着飾っている。まるで彼女が皇帝の夜の寝所へ召されるかのようだった。

 翠鈴たちが彼女の前まで来ると、艶々の唇を開いた。

「こんばんは、翠鈴妃さま」

 梓萌が足を止めた。

「こんばんは……華夢妃さま」

 戸惑いながら翠鈴は答える。声をかけられたことが意外だった。

「声をかけられたわ」

「さすがは華夢妃さま、私たちとは心構えが違うわね」

「なんといっても皇后さまになられる方ですもの」

 妃たちが囁き合う中、華夢は翠鈴のすぐそばまでやってくる。花のような甘い香りが強くなった。

 一瞬、翠鈴は身構える。なにか好意的でない仕打ちを受けるのでは?と思ったからだ。でもそうではなく、彼女は口もとに笑みを浮かべて翠鈴の手を取った。

「そう硬くならなくて大丈夫よ。皇帝陛下はお優しい方ですから」

 その言葉に翠鈴は肩の力を抜く。

 彼女は翠鈴の緊張をほぐそうとしてくれているのだ。

「ありがとうございます、華夢妃さま」

 答えると、華夢妃はにっこりと微笑んで、少し声を落とした。

「ここだけの話、陛下は気分が優れないことがおありです。妃がお伺いしても寵愛する気になれない時は下がるようにおっしゃいます。もしそうなってもあなたが罰を受けることはありませんから、安心して部屋を出てくださいね」

 あらかじめ翠鈴が寵愛を受けなさそうだと予測して、その際の振る舞い方を教えてくれているのだ。さすがは皇后候補と言われるだけのことはある。慈悲深く思慮深い助言に、翠鈴は頷いた。

 同時に内心で不安になる。

 彼女は、妃というだけでなく翡翠の手の使い手なのだ。その彼女の口から『気分が優れないことがある』という言葉が出たからだ。

 皇帝の具合があまりよくないという噂は本当のようだ。皇帝は国の平穏のためになくてはならない存在だというのに、その彼が健やかでないということが心配だった。なにか自分にできることはないだろうかと翠鈴は考えを巡らせる。誰かの不調を耳にした時のくせだった。

 でもすぐに相手は人ではなく龍神なのだと思い出し、落胆する。龍神を癒やすことができるのは、この世にただひとり、翡翠の手を持つ者だけなのだ。

「では参りましょう」

 梓萌がまた歩きだす。翠鈴もそれに従った。

 赤い扉の前まで来ると、ギギギと音を立てて扉は開く。翠鈴はごくりと喉を鳴らした。硬くならなくてよいと華夢に言われたばかりだが、それは無理な話だった。

 真っ暗な廊下を、梓萌が手にしているろうそくの光を頼りにひたりひたりとゆっくり歩く。

 次第に少し不思議な感覚に陥っていく。一歩一歩皇帝に近づくたびに空気がんでいくような、心が清らかになっていくような心地がした。まるでこの暗い廊下の先は天界につながっていて、心の中の汚いものがすべて捨てられていく――そんな感覚だ。

 永遠にも思えるような長い廊下を抜けた先に、今度は深い緑色の大きな扉が見えてくる。梓萌がその前に立ち、足を止めて振り返った。

「この先が皇帝陛下の寝所にございます」

 そして声を低くした。

「よいですか? 先ほどの華夢妃さまのお言葉を忘れないように。皇帝陛下から下がるようにというお言葉をいただいたら、しつこく食い下がったりせずに、すぐに部屋を出るように。私は扉の外に控えておりますから」

 まるでそうなると決まっているかのように彼女は言う。

 翠鈴は頷いた。

「わかりました。すぐに下がります」

 はっきりと答えると、梓萌は安心したように息を吐いて扉の方へ向き直り声を張り上げた。

「百の妃、緑翠鈴妃さま参られました」

 静まり返った廊下に、梓萌の声が響く。

 扉が、音もなくゆっくりと開いた。

 梓萌が一歩下がり翠鈴を見る。ここから先はひとりで行けということだろう。

 大きく息を吸い一旦心を落ち着けてから一歩を踏み出す。中へ入ると背後で扉が閉まった。

 部屋の中は清廉な空気に満ちている。灯籠は中央にひとつだけのはずなのに、天蓋付きの寝台に座る存在をはっきりと見ることができた。

 ――寝台に座る男性は、鋭い目でこちらを見ている。銀の長い髪は冷たい輝きを放ち、漆黒の瞳は見つめているだけで吸い込まれそうな心地がする。たくましいたい、そら恐ろしいほどに整った顔立ち、他者を寄せつけない存在感。彼が現皇帝、劉弦帝で間違いない。

 事前に梓萌から聞いていた作法では、すぐに床に膝をついてこうべを垂れ、彼の言葉を待たなくてはならない。でも翠鈴はそうすることができなかった。

 どうしてか、身体が動かない。

 胸の奥が熱くなって、彼とははじめて会うはずなのに、懐かしいような不思議な感情に支配される。強く心をきつけられるのを感じていた。

 皇帝がいぶかしむように目を細めた。

「そなたが、百の妃か?」

 低い声音で問いかけられる。夜の寝所を訪れた妃が、簡易な服を着ているのを不思議に思ったのだろう。

 とがめるような冷たい視線に、震えながら突っ立ったまま口を開くことができなかった。その翠鈴をジッと見つめて皇帝がゆっくりと立ち上がる。一歩一歩こちらへやってくる。

 心臓が飛び出てしまいそうだった。梓萌や華夢の口ぶりから、寝所に入ってすぐに下がるように言われるものと思い込んでいたのに、まさかそれ以外のやり取りがあるとは想像もしていなかったから、どうしていいかわからない。

 互いの息遣いを感じる距離まで来て、彼はぴたりと足を止める。少し甘い高貴な香りが翠鈴の鼻を掠めた。怖くてたまらないのに、目を逸らすことができなかった。

「そなた……」

 言いかけて口を閉じ、彼は眉間に皺を寄せる。その仕草に、翠鈴はハッとした。彼の体調が優れないという話を思い出す。

「陛下、お加減が……?」

 思わずそう問いかけて、手を伸ばす。彼の頬に指先が触れたその刹那、どくんと鼓動が大きく跳ねて、指先が焼けるように熱くなった。

「あ……」

 あまりの衝撃に目を見開き膝を折ると、崩れ落ちる身体を、皇帝が抱きとめた。そのまま至近距離で見つめ合う。

 すぐ近くにある彼の瞳に、翠鈴の胸の奥底にあるなにかが強く反応する。

 彼の手が頬に触れる。また鼓動が大きな音を立てて、翠鈴は熱い息を吐いた。うねるような衝動が身体中を駆け巡り、息苦しささえ感じるくらいだった。

 頭と心、指先がしびれる感覚にどうにかなってしまいそうだ。これ以上は耐えられない、翠鈴がそう思った時、皇帝の唇が動いた。

「そなたはいったい……」

 その言葉に翠鈴が答えるより先に、逞しい腕に抱き上げられる。

「つっ……!」

 息を呑み、目を閉じて彼の首にしがみついた。

 彼は翠鈴を軽々と腕に抱いたまま、寝室を横切る。目を開くと、大きな寝台に寝かされていた。天蓋を背にした皇帝が翠鈴の両脇に手をついている。

「陛下……」

 皇帝の寝台の上にふたりでいる。予想もしなかった展開に、しゅうを覚えて身をよじる。

「私……」

 その翠鈴の髪をなだめるように大きな手がでた。彼の持つ冷たい空気とは裏腹に、驚くほど優しい手つきだった。

 また視線を絡ませると、不思議な感情に支配される。

 彼とは初対面のはずなのに、こうなることは、生まれた時から決まっていたと感じている。

「怖くはない、大丈夫だ」

 顎に添えられた彼の指先が唇を辿る感覚に、翠鈴の背中が甘く痺れる。

 ゆっくりと近づく彼の唇。目を閉じると同時に、熱く唇を奪われた。