……はあ、キスですか。

 ラブコメだと最終巻で到達するイベントだ。だが最近は1話目ですませる背徳系も──。

 へっ?! キス?! するの?! いま、ここでっ?!

 俺は自分でも驚くほどの勢いで、後ろに飛びのく。

しらたまさんっ!? 冗談でもそういうのはよくないって!」

「……しないんですか?」

 コクリ。わいらしく首をかしげる。

「あ、はい……しないです」

「なーんだ、しないのか」

 白玉さんは拍子抜けした表情で、のばしかけた腕を下ろす。

 ……えっ、待って。本気でする気だったの? 最終巻?

 あつにとられる俺に背を向け、白玉さんは着替えスペースのカーテンに向かう。

「じゃあ私、着替えますね。いい子で式に出てきます」

「……はあ」

 いやいや、本気になってどうする俺。あれはただの後輩ジョーク。

 真に受けたら、セクハラとか言われて大変なことになるのだ。

 一人でウンウンとうなずいていると、カーテンを開けながら、白玉さんが俺を肩越しに振り向く。

「部長さんって意外と……」

「えっ、なに?!

 思わず声が裏返る俺に向かって、白玉さんはクスリと笑う。

「──意気地なし、ですね」

 そう言うと、カーテンの向こう側に姿を消した。


          


 ポーン……。

 スマホから聞こえた何度目かの電子音で、俺は眠りの浅瀬から引き戻された。

 白玉さんが制服に着替えて姉の結婚式に向かった直後、俺は疲れてソファに倒れこんだ。

 記憶がそこで途切れているから、そのまま眠ってしまったらしい。

 眼をこすりながら身体からだを起こすと、パサリとツワブキ高校のブレザーが床に落ちる。誰かが俺にかけてくれたらしい。俺もブレザーを着てるから、ブレザーオンブレザーか。

 そんなことを思いながらブレザーを拾いあげる。この安心感のあるサイズはだな……。

 スマホを見ると、寝ていたのは1時間にも満たないようだ。画面にあふれる通知を順番に目を通すと、多少のイレギュラーはあったが、作戦は無事終了したようだ。

 あさぐもさんと会長は、周辺に仕掛けた機材の撤収に向かっている。

 よくは分からんが、電波法とかそのへんの問題で、見つかるとヤバいらしい。

 ……えーと、このあとどうなるんだっけ。

 しらたまさんはなか先生への恋心を隠したまま、よい子の義妹でいることを決めた。

 そして彼女がこのまま入部してくれたら、文芸部もあんたいだ。

 立ち上がってのブレザーをラックにかけていると、更衣スペースのカーテンが揺れた。

ぬくみず君、いま一人……?」

「あれ、八奈見さんいたんだ。服、かけてくれてありがと」

 変な独りごととか言わなくてよかったな。

 内心胸をでおろしていると、八奈見が静かに呼びかけてくる。

「……ねえ。ちょっとこっち来て」

 へ? カーテンの中に?

「いや、着替え中に入っちゃダメだろ」

「ちゃんと着てるから大丈夫だってば。早くして」

 ……? じゃあなんで出てこないんだ。

 分からないが逆らうのも面倒くさい。カーテンをめくった俺は、思わず言葉を失った。

 そこにいたのは──白玉さんのウエディングドレスを身にまとった八奈見だ。

 恥ずかしそうに少し顔を伏せ、白い肩が揺れている。

 白玉さんより存在感のある胸元は、ドレスのラインの想定を超えて、こぼれんばかりに主張している。

「えっ、どうしたのその格好──」


「……脱がして」


 っ?! なにこれ、俺は夢でも見てるのか?

 夢といっても悪夢寄りの展開におびえていると、八奈見はゆっくりと顔を上げる。

 その瞳にうっすらと浮かぶ涙。

「いあやの、他をあたって──」

「気になって着てみたら、脱げなくなったの! 温水君、どうにかして!」

 …………はい?

「背中のファスナーがどうやっても下りないんだって! 多分、着たあとでサイズが縮んだんだよ! よくあるから間違いないって!」

 そうか、よくあるのか。悪夢はまだ覚めない。

「分かった。あさぐもさんたちを呼んでくるから、八奈見さんはそこにいてくれ」

「待って、私にこんな生き恥さらせっての?! みんなには知られたくないんだけど!」

 俺ならいいのか。

 はクルリと後ろを向くと、髪をかき上げる。

「早くファスナー下げて。はーやーく」

 えぇ……マジか。

 正直、気はすすまないが断れる雰囲気ではない。こう見えて俺は空気を読むのは得意なのだ。

 左手の指をファスナーの横にそえると、右手でファスナーをゆっくりと下ろ──。

「うわ、パンパンじゃん。ピクリとも動かないって」

「そんなはずないんですけど。ぬくみず君、りきなんじゃない?」

 ……こいつ、見捨てて帰ろうか。

 とはいえ武士の情けだ。力をこめて、ゆっくりとファスナーを下ろす。

 少しずつ増えていく肌色に、俺は微妙に目をそらす。

 と、ファスナーが途中で止まり、その位置からビクとも動かなくなった。

「どうしたの? もっとバーッと下げちゃってよ」

「ちょっと待って。なんか下に着てる青い服に、ファスナーかんじゃって……」

「……青い服?」

 しばらく考えていた八奈見が悲鳴に似た叫びをあげる。

「ちょっ?! それブラ──」

 へっ!? この青いやつ、下着なの? そういやホックみたいなのが見え隠れしてるぞ。

「マズいって。やっぱ誰か人を呼んでくるから」

「違っ──私、下着付けない派だから! ブラと違います!」

 いや、そっちの方が恥ずかしいぞ。

 とはいえ、本人が下着じゃないと言っているのだ。ここで逃げて、意識しすぎだと思われるのもシャクである。俺は覚悟を決めて、悪夢の続きに身を投じる。

「温水君、見ちゃダメだからね! 触るのもダメだよ」

「ああ、俺だって触りたくないし──」

「はっ? ちゃんとせんたくしてますが!? 触ってもいいから早くしてくださーい」

 やだよ。なんで他人の下着なんて触らなきゃいけないんだ。

 だけどこのままじゃ、らちがあかないぞ。

「そうだ八奈見さん。バターかマーガリン、持ってないか」

「へっ、なに? 私を食べるつもり?」

 食べません。俺を八奈見かなんかだと思ってるのか。

「ファスナーに塗って、すべりをよくするんだって。でもさすがにバターなんて──」

「あ、バターならカバンに入ってるよ」

 なんでだ。しかしいまは突っこんでる場合じゃない。

 バターの力を借りて悪夢から覚めたのは、それから間もなくのことだった。


          


 ……疲れた。しらたまさんの件の3倍は疲れた。

 グッタリとソファに身をうずめる俺の横に、制服に着替えた八奈見がボスンと腰を下ろす。

「…………けがされた」

 人聞きが悪い。どちらかというと、汚されたのは俺の方だ。

 八奈見はしばらく胸元のリボンをいじっていたが、ため息交じりに口を開く。

「白玉さんをどうやって説得したの?」

「どうって──」

「あの子、なにかしでかす気だったでしょ? それがあんな素直に引き下がるなんて、なにがあったのよ」

 別になにがあったわけではないが、人に言えるようなことじゃないしな……。

 俺は言葉を選びながら口を開く。

「ええと、強いて言えば──今じゃないって、気付いてもらえたのかな」

「……? 先送りみたいなこと?」

「まあ、そんなとこ」

 ──先送り。結論をだすことだけが解決じゃない。

 いまは出ない答えが出る瞬間。それは来年かもしれないし、明日かもしれない。

 その時がきても気付かないかもしれなくて、そんなころには、いま抱えているものなんて、ただの思い出だったりするのだ。

 俺は今の自分を信じない

 だから今から続く未来に絶望もしないし、期待をしすぎることもない。

 白玉さんはいつかなか先生を寝取るかもしれないし、新しい恋をするかもしれない。

 なるようになるし、なるようにしかならない。

 人が責任を持てるのなんて、目の前の自分だけだ──。

 物思いにふける俺を、なぜか八奈見がジト目で見ている。

「え、なに?」

「……ぬくみず君、雰囲気につけこんで白玉ちゃんに変なことしてないでしょうね」

「そんなこと──」

 言いかけた俺は、白玉さんの深く引き込まれるような瞳を思いだす。


 ──キスしましょうか。


 ほんの気まぐれ。本気にしたら痛い目にあう。それがしらたまリコという女だ。

「やっぱりなんかあったんだ! 手を出したの? マジで?」

「いや出してないって。ちゃんと断わったし──」

「はい?! どういうことそれ?!

 しまった、口をすべらせた。は鬼の形相で俺のネクタイをつかむ。

 マズい、このままじゃ俺は後輩に手を出す悪い男だ。

 なんと言い訳しようか迷っていた俺は、視線を感じて教室の扉に視線を送る。

 そこにはあさぐもさんと会長の二人の姿。あきれながらのニヤニヤ顔で、俺たちをながめている。

「「ごちそうさまです」」

 口をそろえて言う二人に向かって、俺と八奈見は慌てて言いかえす。



「「違うから!」」