◇
披露宴会場に繫がる廊下沿いに、扉が四つ並んでいる。
一番奥が新婦の控室で、その次が新郎の控室だ。
俺は少し考えて、新郎の控室から一つ手前のドアノブを回す。
……鍵はかかっていない。俺はそっと扉を開ける。
窓からそそぐ柔らかな光の中──白玉リコの姿があった。
すっと
俺に気付いた彼女の表情は、湖面に立つさざ波のようにわずかにゆらぐ。
「部長さん、着替えたんですね。その格好もお似合いですよ」
俺は部屋に入ると、後ろ手に扉を閉める。
「そんなことより早く着替えないと。式に間にあわないよ」
「……ですね、このままだと間に合わなくなっちゃいますね」
その声色に、俺は踏みだしかけた足をとめた。
白玉さんは鏡のように透明な瞳を俺に向け、
「私、自分がこんなにあきらめが悪いなんて思っていませんでした」
視線を
「ひとつ叶えれば、もうひとつ叶えたくなって。多分それも叶ったら、もうひとつ欲しくなるんです」
白玉さんは顔を上げる。
そこには
「白玉さん……」
「私、こんな女なんです。全部壊して逃げだしたいのに、
意志の力で、唇の端を上げる。
「──部長さんは早く逃げてください」
俺はその場に立ちつくしたまま、胸をおおう感情に揺られていた。
さすがの俺も少しだけ怒っている。
こんな女を俺は知っていたはずだ。
自分勝手で、あきらめが悪くて。
とんでもなく不器用で。やることなすこと無茶苦茶で。
だけど最後は──自分より相手の幸せを考える。そんな女たちを。
そんな女たちにキレイゴトなんて、響かない。
俺はにらみつけるように、そんな女の瞳を見すえる。
「──
その言葉に返そうとした白玉さんは、なにかに気付いたように動きをとめる。
「……私にお兄ちゃんを奪えって、そう言ってるんですか?」
「ああ、そう言ってる」
俺は
「わざわざ田中先生の隣の部屋に、カギもかけずに隠れるってことは──見つけてほしかったんだろ? 偶然でもなんでもいい。人の手を、好きな人の手を借りて全部ぶち壊したい。そう思ってたんじゃないのか?」
「──っ!」
白玉さんが口を開くより早く、俺は言葉を重ねる。
「そんなことしたって、どうせあきらめきれないだろ。これまでずっと隠れて思い続けてきたんだ。それが姉と結婚したくらいで、全部ぶち壊したくらいであきらめるような、君はそんな人じゃない」
俺を
「私は……二人の幸せを壊す気はないんです」
「二人が幸せじゃなくなったら?」
「それは──」
白玉さんが大きく目を見開く。
反論をしようとして、今度こそ
「……部長さんって、こんなに意地悪だったんですね」
「みそこなっただろ」
「いいえ。ちょっとだけ──ゾクゾクしました」
強気な言葉と裏腹に、ブーケが床にパサリと落ちる。
「……待ちますよ、私」
上目遣いに、男の心を見透かすような瞳を向けてくる。
「物心ついてから10年以上、隠してきたんです。この先5年だって10年だって、隠し通してみせます」
「じゃあ、いま君がいるべきところはここじゃない。ちゃんと二人を祝福して、これからもそばにいないと」
「……はい、部長さん」
いつもの口調に戻ると、
「いまから急いで着替えに戻れば式に──」
「んっ……!」
え、なに。急にエッチな声だして。
驚く俺の前で、モジモジと顔を赤くしてうつむく白玉さん。
「いえあの、そういうのではなくて。
そういうのだった。
「ええと、なんでそれが震えてるの?」
「それが、さっきから
……ずっと? たしか1回押すのが進めで、2回が戻れ。
そして4回以上は──全力で撤退。
俺はとっさに扉に走り寄って鍵を閉める。
次の瞬間、ガチャガチャとドアノブが回った。
『あれ、鍵かかってるけど。山下さん鍵持ってる?』
『ちょっと待って、確かここに──』
扉の外から、若い男性の声が聞こえてくる。式場の人がこの部屋に入ろうとしているのだ。
視線を交わすひまもない。部屋の扉は一つ。もう一か所の逃げ場所は──。
俺たちはベランダにつながる窓を開けると、外の様子も見ずに飛びだす。
逃げだすのとほぼ同時。音をたてて、さっきまでいた部屋の扉が開く。
……俺と白玉さんは、窓から見えない位置で、息もひそめて身をかがめる。
部屋に入ってきた若い従業員の声が、窓の外まで聞こえてくる。
『このコートとブーケ、誰の?』
『前の組の忘れ物かな。とりあえず預かっといて』
コート? そういえば白玉さんはドレスの上から長いコートを着ていたはずだ。
息を潜めていると、従業員は開けっ放しの窓を閉め、カチャリと音をたてて鍵をかける。
これで部屋に戻ることはできなくなった。
まさかウェディングドレス姿で、ここから逃げなきゃいけないのか……?
「ここまできたら腹をくくりましょう、部長さん」
俺の心を見透かしたように、耳元で
……確かにここまできたら腹をくくるしかない。
ベランダのガーデン側の壁は腰ほどの高さで、ところどころに柵状の
そしてそれ以上に問題なのは時間だ。俺はスマートウォッチで時間を確認する。
式の開始まで──あと30分。
◇
カララララ……。ベランダを通って建物の反対側、集会室まで移動して窓を開ける。
さっき白玉さんを探しに入った広い部屋だ。
室内に身をすべりこませると、そのまま部屋を横切り、扉に耳をあてる。
……外に人の気配はない。ゆっくり扉を開けると、白玉さんを先導して廊下にでる。
廊下は突きあたりで左に曲がっている。
そこからコッソリ顔をだすと、長い廊下が続いていて、数メートル先に下りの階段。
その先には、さっき俺たちが窓から逃げだした控室の並びがある。
階段を降りれば玄関はすぐそこだ。見られるのを覚悟で、一気に走り抜けられる。
問題は階段の前で、中年女性の一団が
「リコちゃん、ホントに大きくなったわねー」
「まるで別人みたいにたくましくなって。おばさん安心したわ」
……どうやら正体はバレてはいないようだ。と、八奈見と目があう。
その途端、八奈見は視線で俺にメッチャ抗議してくる。こっち見るな。
俺はゆっくりと首を振りながら、自分の背後をチョイチョイと指差す。
──俺の方に向かおうとしていた八奈見が、ピタリと止まる。
状況を分かってくれたのだろう。八奈見は軽く首をかしげるジェスチャーをする。
俺は階段を小さく指差す。しばし、固まる八奈見。
そして八奈見は覚悟を決めるように目を閉じるとそれを開き、
「あの! せっかくなのでお姉ちゃんのドレス姿、見にいきません?!」
よく通る声でそう言った──自分自身の声で。
一瞬、無言になるご婦人たち。
「あら、リコちゃんどうしたの? さっきまでの
「そうね。せっかくツワブキに入ったんだから、もっとかしこそうにしないと」
「でも、みのりちゃんのドレス見たいわねー」
再び盛り上がった一行は、
階段までの逃走経路──クリア。
俺は
幸運にも階段は無人だ。一気に駆けおりると、そのまま玄関に向か──おうとして、俺は足に急ブレーキをかけた。背中にトン、と白玉さんがぶつかる。
「どうしたんですか、見られても一気に突っきりましょう」
「いやでも──」
俺は身を隠しながらチラリと顔を出す。続いて顔を出した白玉さんが、あわてて身を引く。
「お父さん……っ!」
そう、玄関の前で立ち話をしているのは白玉父。事前に写真を見ていなければ危なかった。
よほど驚いたのか、白玉さんは胸に手をあて深呼吸をしている。
「さすがにお父さんに見られるのはマズいって。いなくなるのを待たないと」
「あっ、はい。分かりました」
……待てよ。さっき白玉父が話していたのは式場の支配人だ。見学会で見た覚えがある。
確か新婦って、式で父親と一緒にチャペルに入るんだよな。
式の開始まであと25分。
つまり白玉父が次に向かうのは──2階にある新婦の部屋だ。
話し声が階段に近付いてくる。
固まる俺たちの耳に、2階から別の話し声が聞こえてくる。
聞き覚えのある若い男性たちの声。式場の従業員がこちらに近付いているのだ。
「部長さん!」
白玉さんが顔を青くしながら、俺の服をつかむ。
……これはマズい。せめて逃げるなら2階だが、その後の逃げ場がない。
白玉さんだけでも、どうにか逃がさないと──。
次の瞬間、震える大声が響き渡った。
「す、すいません! ねっ、猫がこの中に逃げこみませんでした、かっ!」