「3年生になって学校はどうだ」

「受験生になったので、先生が進路指導に一生懸命ですね。佳樹たちはまだ、そんなに実感ないですけど」

 少し迷ってから、佳樹は口を開く。

「お兄様。佳樹はツワブキ高校を受験します」

 佳樹がツワブキを志望しているのは知ってたが、ここまでハッキリと言われたことはなかった。俺は髪をとかす手をとめずに、静かにたずねる。

「もう決めたのか」

「はい、先生とも相談して対策を始めました。来年の春は、お兄様とツワブキに通います」

 自信に裏づけられた言葉は、思いのほか力強い。

 じゆは髪をとかされながら、懐かしそうな顔をする。

「……去年のいまごろは、お兄様はお友達がいなくて。佳樹がツワブキに入って、ご一緒できればと思っていました」

 ──ちょうど一年前。学校では用事以外で誰とも口をきかず、担任のあまなつ先生にすら顔を覚えられていなかったあのころ。

 意外といごこちは悪くなかったが、佳樹はどれだけ心配だっただろう。

 気付かないうちに止まっていた俺の手に、佳樹がてのひらをかさねてくる。

「でもいまは違います。尊敬する先輩たちがいるツワブキで、佳樹自身が学びたくて行きたいんです」

「……ああ、素敵だと思うぞ。お兄ちゃんにできることならいつでも言ってくれ」

「はい、お兄様!」

 宣言をして、少し気持ちが軽くなったのだろう。

 佳樹は足をプラプラさせながら、鼻歌を歌いだす。

 俺は再び手を動かすと、ブラシを通し続けた。佳樹の頭をなでるように。


          


 GW5連休の2日目。

 朝から部室に集まった会長と俺、しらたまさんの犯罪者予備軍に向かって、その道の先輩、あさぐもさんが興奮気味の声をかけてくる。

「昨日は色々ありましたが、式場見学は大成功でした!」

 その言葉に、八奈見がジトリと俺を見る。

「……ホント、色々あったよね。誰かさんはしいフランス料理を食べて、それはそれは楽しい時間をすごしたみたいですけどー?」

 昨日、俺とさんは、連絡の取れなくなった八奈見たちを放置して帰宅したのだ。

 ご飯は美味しかったし志喜屋さんはいい匂いがしたので、とても有意義な一日だった。

「こっちはこっちで色々大変だったんだって。さ、朝雲さん話の続きを」

「はい。昨日の情報を整理していきましょう」

 朝雲さんがホワイトボードに描きはじめたのは、建物の見取り図だ。

「受付のすぐ横が親族の更衣室で、そこを通りすぎるとゲストの控え室を兼ねたオープンスペースです。ここにはバーカウンターもあるので、かなり人目をひきますね」

 朝雲さんは赤いマーカーに持ちかえると、お世辞にも上手とはいえない見取り図に矢印を書きこむ。

「ゲストの控えスペースを突っきると、ガーデンに出ます。ここにチャペルがありますが、屋外で披露宴会場からもよく見えるので、人目を避けて移動するのは困難です」

 朝雲さんは2階にがる階段から、チャペルに向かって線を引く。

「幸いにも、2階の新郎新婦の控室からチャペルまでの動線は短いです。なか先生の連れだしに成功すれば、チャペルにたどりつくのは容易でしょう」

 口元に手を当て、考えこんでいた会長が口を開く。

「ただ、途中でゲストの控えスペースを横切ることになる。田中先生が知り合いと顔を合わせるのは、リスクが大きいのでは」

「はい、そう思います。なので次はスケジュールを見てください」

 ペタリ。ホワイドボードに、印刷したスケジュール表を貼り付ける。

「新婦は朝7時半、新郎は朝9時に会場入りです。着替えの後、10時から撮影の打ち合わせと式の打ち合わせになっています」

 ペタリ。その隣にもう1枚、紙を貼る。

「10時半に親族が乗ったバスが到着して、11時からゲストの受付開始。12時から式が始まりますが、ここまでくると人が多くて計画の実行は難しいでしょう」

 貼ったばかりの2枚目の紙に、大きく赤いバツを書くあさぐもさん。

「とはいってもなか先生は9時入りで、1時間後には本物のカメラマンに会うんでしょ? うちらが写真を撮る時間なんて、ほとんどないじゃん」

 の言葉に朝雲さんが真剣な表情でうなずく。

「はい。作戦は9時から10時の間、しかも田中先生が着替えてからの短い時間で決行する必要があります」

 会長が興が乗ったとばかりにニヤリとほほむ。

「時間との勝負だな。面白い、そうでなければ」

 みんなの反応を見て、朝雲さんがスケジュール表にマーカーで書きこみはじめる。

「私の大まかな計画案はこうです。9時半、にせのカメラマンが、カメラテストの名目で新郎の田中先生を呼びだします」

 ペタリ。今度はチャペルの室内写真をホワイトボードに貼りつける。

「そして、チャペルに身を隠していたリコさんが、テスト中に写真に入る──という流れです」

 パチ。朝雲さんがマーカーのフタを閉める。

 ……これまでの情報からすると、他に手はなさそうだ。

 部室を包む沈黙の中、八奈見がカバンからパンを取りだす。

「タイミング的にそこでやるしかないか。具体的な計画を立てないとだね」

 丸ごとのフランスパンをかじりながら、ボソボソとつぶやく八奈見。

 俺的にはいつもの光景なのでスルーしていたが、他の三人はそんな八奈見に視線がくぎづけになっている。

「ん? どうしたのみんな、そんなに私を見て」

 黙る三人を見て、八奈見係の俺が口を開く。

「なんでフランスパンを丸ごと食べてるのかなって」

ぬくみず君だけ、しいフランス料理を食べるなんてズルいじゃん。私だって食べたくなったんですけど?」

 つまり八奈見家的には、これがフランス料理で──いや、間違ってはいないな。うん。

「味付けとかいらないんだ」

「ちゃんと中に梅ジャムとか、あんこを仕込んできたんだよ。トッピングのきな粉も持ってきたし──うわ、外れ引いた。塩辛だ」

 眉をしかめながら食べ続ける八奈見。なぜ自分で食べるパンに外れを仕込むのか、そしてフランス要素が薄くないか──疑問は尽きないが、相手は八奈見だ。

 俺は脳内の八奈見領域を最小化すると、ホワイトボードに注意を戻す。

「みんな話を戻そうか。偽のカメラマンはどうするんだ? 俺たちは田中先生に顔を知られてるし、そもそも式場の人にバレるんじゃないかな。昨日の説明会で、専属のカメラマンがいるって言ってたぞ」

 俺の言葉を予測していたのか。あさぐもさんは一枚の紙片を取りだす。

「お姉さんの結婚式を撮影するカメラマンのめいです。『スタジオ・だもんで』、式場の契約スタジオではありません」

 朝雲さんが視線を送ると、しらたまさんが説明を続ける。

「お姉ちゃんの友達がつとめていて、今回は特別にここのカメラマンを入れてもらうことになってるんです。それとこれが、ようやく届きました」

 白玉さんがテーブルに置いたのは、朝雲さんが手にしているのと同じデザインの名刺だ。

 撮影スタジオの名前は同じだが、カメラマンの名前だけ違っている。

 ……つまりぞう名刺ということか。俺、犯罪現場に立ち会ってる。

 朝雲さんは内容を確認すると、会長に名刺を差しだす。

ほうばる先輩、当日はこれをお持ちください」

「ということは、私がカメラマン役か」

「はい。先輩がカメラマン、ぬくみずさんがそのアシスタントです」

「え、俺も?!

 驚く俺に、当然とばかりにうなずく朝雲さん。

「撮影時、リコさんをカバーする人が必要ですから」

「でも俺、見学会に参加したばかりだぞ!? さすがにバレるって!」

 必死に抵抗する俺の姿に、朝雲さんがクスリと笑う。

「温水さん、さっき校門の前で道を聞かれませんでしたか?」

「……へ?」

 そういえば今朝、ツワブキの前でそんなことがあったな。

 野球帽とマスクをした男の子が、ボドゲカフェを探しているというから──。

「聞かれたけど、なんの関係が」

「あの子、じゆさんですよ」

 はいっ?! いや待て、そんなはずは。

「ウソだよね?! 声だって男の子だったし」

「最初に背後からかけた声は録音したものです。事前に佳樹さんの声を加工し、声変わり前の男子に近付けました」

「でも……その後の声は、あの子が実際に話してたぞ」

「はい。演技をしましたが、それ以上に第一声の印象です。最初に聞いた男の子の声──その印象を、違和感が上回る前に会話を切りあげればいいんです」

 えぇ……俺が佳樹の声を聞き間違えるなんてありえるのか。

 俺はさらに抵抗を続ける。

「マスクはしてたけど、目元も違ったし。本人はもっとパッチリした目だぞ」

「アイプチで一重まぶたにして、肌色を変えるメイクもしてます。髪は野球帽に隠して、収まりきらない部分は死角になるよう工夫しました」

 口を開きかけた俺は、続く反論を見つけきれずにガクリと肩を落とす。

 まさか俺がじゆの変装を見抜けないとは……。

ぬくみず君、シスコンのくせに妹に気付かないんだ? へーえ」

 ニヤニヤニヤ。バカにしたような表情をする

「俺だってちょっとは変だと思ったぞ。だけど見ず知らずの少年に『あなたは俺の妹ではありませんか?』なんて言ったらおかしいだろ?」

「うん、その場にいたら通報するね」

 そう、見抜けなかったのも無理はないし、そもそも俺はシスコンではない。

 あさぐもさんはコホンとせきばらいをすると、説明を再開する。

「私たちはなか先生に顔を知られています。ですが、実際に式場で顔をあわせて違和感を感じたとしても、先生は最初にこう思うでしょう」

 朝雲さんは俺たちを見回す。

「──まさかこんなところで、教え子が他人のフリをしているはずがない、と」

 偽造名刺をピラリとかざす朝雲さん。

「これは正常性バイアスとよばれる心の動きで、誰にでもあるものです。差しだされた『スタジオ・だもんで とらたにツグオ』の名刺を前に、多少の違和感は意味をなしません。違和感が確信に変わらないうちにすべてを終わらせましょう」

 俺は黙って朝雲さんの話を聞く。佳樹の変装を見抜けなかった俺が、なにを言ったところで説得力はないのだ。

 誰からも意見がないのを確認すると、朝雲さんはオデコをキラリと光らす。


「もう話は分かりましたね。今回はみなさんに変装してもらいます!」


 ?! ごめん、分かってなかった。

 戸惑う四人を代表しておずおずと手を上げる。

「ええと、見学会の時はスーツを着たから、あんな感じ?」

「いえ、あのスーツ姿はとてもいただけませんでした」

 朝雲さんはとても悲しそうな顔をする。俺まで悲しくなってきた。

「見学会はお客という立場があるから、多少の違和感も見のがされた可能性があります。ですが今回のお客は田中先生たちです。みなさんに不審点があれば、即座に通報されるでしょう」

 会長は片眉を上げながら、名刺を胸ポケットに入れる。

「この作戦は時間が限られている。少しでも疑われたら、やり直せないな」

「はい、万全の準備で挑みましょう。衣装は私の方で考えますが、まずは当日の担当を確認します」

 あさぐもさんはホワイトボードの空いたスペースに書きこみ始める。


 作戦本部:朝雲はやあん

 カメラマン役:ほうばるひばり

 アシスタント役:ぬくみずかずひこ


 なるほど、当日は俺と会長が潜入して朝雲さんたちが外からサポートをするのか。見学会と同じような感じかな……。

 そんなことを考えている俺の目に、思いがけない文字列が飛びこんできた。


 しらたまリコ役:白玉リコ


「……? 白玉さんが本人役をやるの?」

 思わず口をはさむと、朝雲さんは笑顔で振り返る。

「はいそうです。作戦には会場内部で手引きをする人間が必要です。結婚式当日、会場にいることが不思議じゃない人が、この中に一人だけいますよね」

 みんなの視線を集めた白玉さんが、大きな目を丸くする。

「それが私──ですか?」

「リコさんには会場で、みなさんが無事に移動するサポートをしてもらいます」

 なるほど。ウェディングドレスを着た白玉さんを無事チャペルにそうげいするには、サポート役が必要だ。彼女なら式場にいても不思議じゃないし──。

「待って、白玉さんは一人しかいないだろ」

「じゃあもう一人いればいいんです」

 朝雲さんは、なんでもないとばかりに名前を書きたす。


 白玉リコ役:白玉リコ、温水佳樹


 へ? じゆが白玉さん? どういうこと?

 混乱のあまり固まっていると、朝雲さんが部室の扉を見ながら手をパンパンと叩く。

「さあ、どうぞリコさん

 扉が開いて中に入ってきたのは、一人の小柄なツワブキ女子──というか佳樹だ。

 ツワブキの制服に身を包んだじゆが、俺の前でクルリと回る。

「えへへ、お兄様どうですか?」

「ああ、よく似合ってるけど。ええと、どうやってしらたまさんのフリをするつもりなんだ?」

 あさぐもさんは佳樹の横に立つと、頭頂部にてのひらをポンとあてる。

「佳樹さんは白玉さんにくらべて背が低いですが、引くよりも足すほうが簡単です。靴やウィッグでカバーします。二人とも細いので、見た目の調整は比較的簡単かと」

「佳樹、がんばりますね」

 両手でガッツポーズをする佳樹。わが妹ながらわいい。可愛いが──。

「……ちょっと待って」

 俺は立ちあがると、みんなの顔を見回す。

「今回の作戦、佳樹には降りてもらう」

 驚く朝雲さんを横目に、俺は言葉を続ける。

「本来、今回のことは文芸部の問題だ。朝雲さんや会長を巻きこんだのも反省しているけど、佳樹はツワブキ生じゃない。この問題にかかわるべきじゃない」

 佳樹の抗議の視線を、俺は正面から受けとめる。

「これは文芸部の問題だ。お前は今年受験生だし、こんなことしちゃいけない」

「でも──」

 なにかを言いだそうとする佳樹に、今度は会長が語りかける。

「佳樹君、お兄さんの言うとおりだ。今回は我々に任せてくれないか」

 俺は佳樹の正面に歩み寄ると、頭をポンポンと叩く。

「来年、一緒にツワブキに通うんだろ?」

 しばらく黙っていた佳樹が、小さな声でポツリとつぶやく。

「…………デートです」

「デート?」

「全部終わったら、佳樹とデートしてください」

「ああ分かった。デートだな」

 素直にうなずくと、佳樹がねたような瞳で見上げてくる。

「……一日中ですよ? おはようから、おやすみまでです」

「大丈夫、いうとおりにするよ」

 佳樹はまだ納得しかねる表情をしていたが、ようやくあきらめたのか。部屋のみんなに頭を下げると、静かに部室を出ていく。これは帰ったらフォローが必要だぞ……。

 こっそりためいきをつく俺に向かって、朝雲さんが申し訳なさそうな顔をする。

ぬくみずさん、すいません。はいりよがたりませんでした。この計画に中学生の佳樹さんを巻きこむべきではありませんでした」

「あ、いや、俺こそもっと早く言うべきだったよ。あさぐもさんは──」

 悪くない、と言いかけて口ごもる俺。ごめん、自分にウソはつけないんだ。

 会長が苦笑しながら、朝雲さんの肩に手を置く。

「気付かなかった私も同罪だ。さすがぬくみず君だな、しっかりお兄様をしている」

「いえ、じゆが望んでやったことですから」

 フランスパンを食べきったが、パンパンと手を払いながら首をかしげる。

「でもさ、妹ちゃんがいなくなったら、しらたまちゃんの役はだれがやるの?」

 そう、佳樹がこの計画から降りた以上、代わりの偽玉さんが必要だ。

 と、朝雲さんが八奈見をジッと見つめながら口を開く。

「……八奈見さんは身長がちょうどリコさんと同じくらいですよね。足の長さや顔の大きさも同じくらいなので、身代わりができるかもしれません」

「へ? 私?」

 カバンをゴソゴソ探っていた八奈見が間抜けな声をだす。

 白玉さんの身代わりを八奈見が……?

「でもほら。八奈見さんと白玉さんじゃ体重……じゃなかった、体型が……えっと……」

「……温水君、なにが言いたいの?」

 八奈見のチクチク視線に、俺の言葉が消えていく。

 いたたまれない空気を無視して、朝雲さんが笑顔でスマホを構える。

「では八奈見さんとリコさん、ちょっとそこに立ってもらっていいですか?」

「え、私?」

「はい。二人ともこっちに立ってください」

 こんな時には朝雲さんの空気の読めなさが頼りになる。

 二人の写真を撮った朝雲さんは、ノートパソコンを起動すると、画面を俺たちに向ける。

「みなさん、こちらを見てください」

 そこには撮ったばかりの八奈見さんと白玉さんの全身写真が並んでいる。

 二人とも身長と等身は同じくらいだが、全身のシルエットがなんていうかこう……ジャンルが違う。アニメショップなら、並んでる棚からして別だ。

 朝雲さんがキーを叩くと、八奈見の身体からだが細くなり、反対に白玉さんのが太くなる。

「画像を加工して、二人の体型を近付けてみました。これなら服装とウィッグでごまかせます」

「いや、画像で加工しても、現実はどうしようも──いやその、八奈見さん、悪い意味じゃないからね?」

 なぜこんなに気をつかわなくちゃならんのか。

 俺の苦労にお構いなく、朝雲さんは明るい笑顔で画面を指差す。

「この画像は、リコさんが当日までに体重を2kg増やして、八奈見さんが2kg減らした場合をシミュレートしています。それに現実が追いつけばいいだけです」

 ええとそれはつまり──。

 画面を見ながらジャムの小袋を吸っていたが、コクリと首をかしげる。

「よく分かんないけど……2本目のパンは食べないほうがいいってこと?」

 俺たちは視線を交わしあうと、本日一番の真剣な顔で一斉にうなずいた。


          


 5連休の3日目。結婚式まであと5日。

 文芸部の部室でテーブルを囲む犯行メンバーは四人。俺と会長、あさぐもさんにしらたまさん。

 朝雲さんはストップウォッチのボタンを押すと、少し寄り目で数字を見つめる。

「1分15秒です。もう少し会話を長引かせることはできますか?」

「あまり引きのばすと不自然になるだろう。時間をもたせるにしても、早めに次の話題にうつったほうがいい」

 会長は首を横に振りながら、タイムシートをテーブルに置いた。

 ──今日の俺たちは、当日のシミュレートをおこなっている。

 受付のとつなか先生の連れだしには、どうしても会話は避けられない。入念な準備が必要なのだ。

 頷きながらメモをとっていた朝雲さんの手が止まる。

「……ひとつ不安なのが、新郎と新婦の控室が隣同士なことです。お姉さんが現れたら、計画の危機がおとずれます」

「この時間、お姉ちゃんはメイク中なので大丈夫だと思います。それに当日は、チャペルで初めてドレス姿を見るって演出になっているから……」

 白玉さんは力無く言うと、丸ごとのロールケーキを一口食べる。

 八奈見のダイエットと並行して、白玉さんの2kg増量計画も進んでいるのだ。

「無理はしないほうがいいよ。身体からだこわすぞ」

「みなさんがんばってるんです。私だって、やれることはやらせてください」

 白玉さんは涙目でもう一口かじるが、ロールケーキはちっとも減らない。やっぱ八奈見ってすごいんだな……。

 ひさびさに八奈見を見直してると、ガチャリと音がして部室の扉が開く。

「ちょ、ちょっとインターバル……」

 現れたのはジャージ姿の八奈見。ダイエットで走りこみに出ていたのだ。

 に座りこんだ八奈見がペットボトルを開けようとすると、朝雲さんがそれをとりあげる。

「朝雲ちゃん?」

「これだと糖分が多すぎますね。カロリーひかえめのドリンクを作ってきたので、飲んでください」

 あさぐもさんが水筒を手渡す。

「これ、なに入ってるの?」

「……やせますよ」

「飲む!」

 は一気に水筒の中身をあおる。大丈夫か、そんなモノ飲んで。

 ハラハラしながら見守る俺に向かって、朝雲さんがストップウォッチを差しだしてくる。

「さて、通しで会話のシミュレーションをして、タイムテーブルを詰めましょう。ぬくみずさん、タイムを計ってもらっていいですか」

「ああ、分かった」

 当日の会話は、大半がほうばる会長が担当することになっている。とはいえ、俺はチャペルに潜入するしらたまさんとの連絡役なので、両方に気を配る必要があるのだ。

 ──入館から退館までのシミュレーションをひと通り終えて様子を見ると、八奈見はボンヤリとした瞳で、うつろな視線を宙に泳がしている。

「大丈夫? 脱水症状とかじゃないよね」

「ねえ、食べるってなんだろ……」

 いつもと違う変なことを言いだした。

「大丈夫じゃないよね。おにぎりとか買ってこようか」

 八奈見はフルフルと首を横に振る。

「食欲ってなんだっけ……人ってなんで、命をうばわないと生きていけないのかな……」

 言いながら朝雲ドリンクを一口飲む八奈見。それ、人類には早すぎる飲み物じゃなかろうか。

 だが背に腹は代えられないし、多少のせいはやむをえないか……。

 自分を納得させていると、八奈見がゆっくりと立ち上がる。

「よし、もうひとっ走りしてこよっかな」

「もう少し休んだ方がいいんじゃ」

「不思議といける気がするの。なんならアメリカくらいまで」

 きっと気のせいだが、本人のやる気をそいではいけない。俺は笑顔で八奈見を送りだす。

「……朝雲さん。さっきのやつ、本当に飲んでも大丈夫なやつ? 合法?」

「はい、問題なく合法です。関係法令をちゃんと調べましたので」

 なるほど、合法なら仕方ない。なにしろ合法なので。

 俺は飲みかけのマグカップを手にとると──口をつけずに、そのままテーブルに置いた。

 ……帰ったらじゆのスマホから朝雲さんの連絡先を削除しよう。そう固く誓いながら。


          


 部室での打ち合わせを終えた俺は、とよはし駅の東口にいた。

 駅ビルの書店とアニメショップをはしごすべく、帰宅途中に立ち寄ったのだ。

 壁に貼られたイベントのポスターを見て、俺はなんとなく進路を変更して、南口広場に向かう通路に足を踏み入れた。魔が差した、という他ない。

 当初の予定どおり書店に向かっていたら、出会うことはなかっただろう──立ち食いうどん屋のガラスに貼りつくようにして、中の様子をうかがっているに。

 八奈見は、もっちゃもっちゃとバナナを食べながら、食事中のお客さんを見つめている。

 あん一歩手前だな……気はすすまないけど声をかけるか……。

「八奈見さん、なにやってるの?」

「ああ、ぬくみず君か」

 八奈見は俺をチラリと見ると、バナナをもう一口かじる。

「なんかさっきの私、ちょっとおかしかったよ。少し落ち着こうと思って」

 よかった、ようやく正気に戻ったか。こいつの正気がどうとはいわないが。

「それでここで一休みしてるのか」

「うん、エアうどんを食べてるの」

 ……ん? まだちょっとおかしいのかな。

 八奈見は俺をジロリと見る。

「短期間に体重落とすなら、食事制限は必須でしょ? 私、朝からバナナしか食べてないんだけど」

「それで、ここでバナナを立ち食いするのがエアうどんなのか……?」

「だよ。うどんを食べてる人を見ながらバナナを食べれば、うどんを食べてるようなもんでしょ? 栄養と心が同時に満たされるってわけ」

「心、満たされたんだ」

「……ううん」

 じゃあただの不審者じゃん。

 でも今回の八奈見、ガチでダイエット始めたんだよな。これまではダイエットと称した奇行をくりかえしていたこいつが、本気でダイエットに取りくむとは──。

「急に食事を減らして大丈夫か? その、体調とか」

「安心してよ。こういう時のためにいつもしっかりご飯を食べてるんだし」

 なるほど、ダイエットのための身体からだづくりは万全ということか。

「ま、私も少しくらい先輩らしいところ見せないとね」

「意外だな。八奈見さん、しらたまさんのこと気にしてたんだ」

「だってあの子、ほっといたら、なにしでかすか分かんないよ? 写真撮って納得してくれるんなら、それが一番だって」

 ……否定できない。はバナナを食べ終わると、皮をプラプラとゆらす。

「それにさ、あの子を見てると、一年前の私を見てるみたいで放っておけないんだよ」

「確か去年のいまごろって──」

 クラスにひめみやさんが転入してきて、すべてが動きだした。

 自分がはかまそうすけのヒロインではなく、友人Aだと気付いたそのころ。

「私もあのくらい無茶できたら、なにか違ったのかなって」

 ──しらたまさんの無茶は、ある意味ぼうというやつだ。

 そこまでできなかったのが一年前の八奈見で。

 その気持ちが分かる八奈見がここにいる。

「いまなら分かるよ。草介に告っても振られることが分かってて、それで踏みこめなかったんだって。せめてそのままの関係を続けようとしたんだって」

 八奈見はちようにもとれる笑みを浮かべる。

「勘違いしないでよ? 私は納得してるし、後悔なんてしてないから」

「ああ、分かってるよ」

 なんかしんみりしてるけど、無関係な人のうどん眺めている不審者だよな、俺たち。

 俺はカバンからレジ袋を出すと、八奈見が食べ終えたバナナの皮を回収する。

「今回のこと終わったらさ、ラーメンでも食べいかないか。おごるよ」

「……いいけどさ。ぬくみず君、私を太らせてどうするつもり?」

「いつもの八奈見さんに戻るだけじゃない?」

「ふうん、じゃあ覚悟しといてね。私の本気、見せたげる」

 そう言って悪戯いたずらっぽく笑う。

 俺はぎこちなく笑いながら、自分の発言を早くも後悔し始める。

 八奈見の本気……貯金、おろさないとな。


          


 翌日の昼下がり。5連休の4日目。俺は会長と並んで、部室前の廊下の壁にもたれていた。

 視線の先、扉には『着替え中! 男子禁制!』と書かれた札がかかっている。

 中にいる八奈見と白玉さんが出てくるのを待っていると、会長がフルーツグミの小袋を差しだしてきた。

「温水君、どうだ」

「あ、はい。いただきます」

 袋からグミを一つつまんで口に入れると、みかんの甘酸っぱい味が舌に広がる。

 ……この人、こんなふうにお菓子とか持ち歩いてるんだな。

 なんとなく不思議に思っていると、会長が苦笑気味の表情を浮かべる。

「お菓子は私のイメージにないかな」

「いえ、意外だなって。真面目というか、節制してるイメージがあるので」

「太りにくいのが悩みでね。間食は特に禁じていない」

 そう言うと、グミを口に入れる会長。

 なるほど。しらたまさんといい、そういう女子もいるんだな。

 とばかりいると常識がゆらいでくるから、気をつけないと……。

「意外なのは、むしろ今回のことですよ」

「今回のこと?」

「はい。会長がこんなことに付きあってくれるとか、思ってもなかったです」

「言っただろう。私も人に言えない恋に、身を焦がした経験くらいある」

 会長はジロリと俺を見る。

「君は私が恋愛などしないように見えるのか?」

「え、いや……」

 慌てる俺を見てクックと笑う会長。

「私もこう見えて一人の乙女だ。人並みに結婚やウェディングドレスに憧れもある。似合わないかな?」

「いえ、そうは思いません」

 なんとなく会話が途切れ、俺たちは『男子禁制』と書かれた札をぼんやり眺める。

 それはそうと、この人は中に入っていいのでは……?

 口に出そうか迷っていると、部室の扉がゆっくり開きだした。

 と、すきからニョコリと八奈見が顔を出す。

「二人ともお待たせ、入ってもいいよ」

 ようやく着替えが終わったらしい。俺たちが部室に入ると──。

「ジャーン! 白玉ちゃんのウェディングドレス姿、おひろめです!」

 八奈見のうるさい声で感激が薄れたが、そこには白いウェディングドレスに身を包んだ白玉さんの姿があった。

 肩が見えるドレスの胸元はレースで飾られ、フワリと広がったスカートは、よく見るデザインにくらべてずっと短い。

 身体からだの前側は太ももが見えるくらいの丈で、背中側はふくらはぎの真ん中くらいまで長くなっている。歩きやすさを重視したのか、低いヒールの白い靴。

 妖精のようなれんさ──と口にしようとして、あまりにキモいのでやめた。

「ええと、どうですか……?」

 おずおずと不安そうな上目遣いがとてもわいい。

 脳内でキモくない言葉をセレクトしてる俺の横で、会長は感心したように口を開く。

「ああ、実に可憐だな。このままどこかにさらいたいくらいだ」

 多分このセリフ、俺が言ったら追放される。

 だが、口にしたのは他でもないほうばるひばりだ。しらたまさんは嬉しそうに、はにかんだ笑顔を赤くした。なぜか得意気なが、フフンと胸を張る。

「私がおしようしてみたけど、いい感じだね。白玉ちゃん肌がきれいだし、スイスイのるから途中から楽しくなってきたよ。うん……これが若さか……」

 八奈見、もっと自信を持て。若さだけなら負けてないぞ。

 心の中ではげましていると、会長は真面目な顔でうなずく。

「これで準備はひととおり終わったな。計画の最終版はもうできたのか?」

「明日の放課後、あさぐもさんが部室に持ってくるそうです。会長も来てもらっていいですか」

「もちろんだ。ここまできて仲間外れはさみしいな」

 ……さて、ついにここまできた。GWをつぶしてまで準備をしてきたのだ。

 さいわいにも連休はあと1日残っている。明日は家でのんびりラノベでも読むとしよう。

 目の前の可愛い白玉さんを目に焼きつけていると、部室に朝雲さんが入ってくる。

「あら、リコさんとても素敵です。みなさん、ちょっといいですか」

 サラリとほめると、朝雲さんはテーブルに地図を広げる。

「当日は文芸部の部室で着替えて、タクシーで会場に向かうつもりでした。ですが実際に往復してみると、実にタイトなスケジュールになりそうです」

 俺たちが地図をのぞきこむのも待たずに、話し続ける朝雲さん。

「できれば近くに部屋が欲しいです。ホテルやレンタルルームがあればいいのですが、ちょうどいい場所がなくて」

「それなら私、心当たりがあるけど」

 八奈見が地図を指でトントンと叩く。そこは式場の隣にある県立キリノキ高校だ。

「友達がキリノキ高校の演劇部だから、部室を使わせてもらえるよう頼んでみよっか。変装の衣装も、足りないのは借りられるし」

「それは助かるけど、他校生の俺たちが出入りしてもいいのか?」

 口をはさんだ俺に向かって、会長がなんでもないとばかりにほおをゆるめる。

「では文芸部の取材という形にすればいい。キリノキの先生に知り合いがいるから、話を通しておこう」

 この二人、話が早い。これがコミュ強の力か……。

 早くも電話で連絡を取りはじめた二人をまぶしく眺めていると、白玉さんが俺の服をクイクイと引っ張る。

「……え、なに?」

「部長さんの感想、まだ聞いてなかったなって」

 もちろんわいいの一言に尽きるが、さすがに口に出したらセクハラである。

 例えるなら妖精、天使、子猫ちゃん──うん、セクハラというより単にキモい。

「ええと……ドレスの色がとてもマッチして……しらたまさんの本来持つ、魅力にあたる部分が強調されることにより、見る者にさわやかな高揚感にも似た感情を呼び起こしているのでは……ないでしょうか」

 よし、キモさを排除しつつ、適切にオブラートに包んだホメ言葉を選んだぞ。

 安心している俺に向かって、白玉さんが可愛く首をかしげる。

「ひと言で言うと?」

「ええと、可愛い──と思います」

 白玉さんはフフッと笑うと、スマホを取りだしてパシャリと自撮りをする。

 ……完全に言わされた。

 と、電話を終えたが俺をジロリと見る。

「演劇部の部室、使っても大丈夫だって。さあ、着替えるから男子は外に出てくださーい」

「あ、はい──って、会長は部屋を出なくていいんですよ?」

 部室から出るときにふと視線が合った八奈見は、声を出さずに口をパクパクとさせる。

 どくしんじゆつのできない俺でもさすがに分かる。

 八奈見が無言で言った言葉は……そ・う・い・う・と・こ・だ・よ。


          


 翌日のGW最終日。

 犯行グループの総勢5名は、ツワブキから自転車で15分。県立キリノキ高校の前にいた。

 この学校は1年のうちは全員商業科で、2年生から会計や情報などの専門科に分かれる。

 ITとか正直カッコいいが、怪しいバナーをクリックして家のパソコンを全壊させた経験がある俺は、専門家にまかせると決めている。

 祝日とはいえ部活の生徒がいるし、なんか居心地悪いな……。

 ソワソワしながら校舎前のヘルメス像をながめていると、会長が俺の肩を叩いてくる。

「私は職員室にあいさつに行ってくる。君たちは先に演劇部の部室に向かってくれ」

 会長はせんべいの入った紙袋を下げ、校舎に向かう。

「八奈見さん、俺たちはどこに行けばいいの?」

「奥の実習棟の1階だって。空き教室が演劇部の部室になってるから、そこを使わせてくれるってさ」

 がスマホを見ながらあたりを見回す。

 あたりをチョロチョロしていたあさぐもさんが俺たちを手招きする。

「こっちですよ。私についてきてください」

 好奇心を隠そうともせず、早足で歩きだす朝雲さん。

 八奈見としらたまさんが並んで歩きだしたので、その後をついていく。

「演劇部のお友達とは仲がいいんですか?」

「うん、食べ歩き仲間なの。私の作ったラーメン屋マップと引きかえに、部室を使わせてくれるってさ」

 もれ聞こえてくる二人の会話。

 ……八奈見の食べ歩き仲間か。きっといい人だ。俺なら絶対イヤだし。

 そんなことを考えているうちに、3階建ての古びた校舎につきあたる。

 怖気づく俺をよそに、迷わず入っていく八奈見たち。

 薄暗い校舎の1階に『演劇部』と書かれた教室があった。

「じゃあノックするから──」

「おじゃましまーす!」

 八奈見が問答無用で扉を開ける。こいつ、えんりよとかそういうのないのか。

 最初に気付いたのは、部屋から漂ってくるりようとホコリの匂い。

 教室を流用した広い部屋にはベニヤ板で作られたセットが壁際に並び、小道具がつまった段ボールが散乱している。大量のハンガーラックにかけられた衣装は、俺の一生分くらいはある。

 部屋の奥にはソファがあり、そこに座っていた女子生徒があくびをしながらゆっくりと立ち上がった。

「おー、ヤナミン久しぶりだねー。今日も食べてる?」

「ニーナも久しぶり。私いま、ダイエット中なんだよー」

 八奈見とハグをしているニーナ(?)はどう見ても日本人。

 眠そうな目をした、素朴な感じの人だ。

 二人のあいさつが終わったところを見計らって声をかける。

「ええと……ツワブキ高校文芸部のぬくみずです。今回は部室を使わせて──」

「温水さん? へえ、君なんだー」

 なんかこの人、俺を見てくる。メッチャ見てくる。

「あの……」

「ああ、ごめんね。演劇部副部長のにいだよ。新しいに菜っ葉の菜で、新菜。よろしくー」

 ニーナ改め新菜さんが手を差しだしてくる。

 えーと、初対面の女子を触ってもいいものかな……。

 をチラリと見てから握手をすると、なにか固いものをにぎらされる。

「……鍵?」

「この部屋の鍵だよ。うちら、いつもは体育館で練習してるから、ここって着替えと荷物置きにしか使ってないんだよねー」

 にいさんは最後に俺と八奈見を見くらべると、

「そんじゃ、ヤナミンがんばってねー」

 と、言い残して部屋を出て行った。八奈見かいわいなのに、とてもいい人だな……。

 ほんわかと癒されていると、八奈見が俺の腕をヒジでつついてくる。

「いい子でしょ? 名前に私と同じ『菜』の字がつくから間違いないって」

 まんげに言いつつも、八奈見は床をジッと見つめている。

「どうしたの八奈見さん」

「……床のお菓子、食べかけだけどまだいけるかな」

「やめたほうがいいし、式までに2kgやせるんだろ」

 俺は床の空箱を拾い上げると、ゴミ箱を探して部屋を見回す。

 よく見ると室内は雑然としながらも整理され、黒板に書かれたスケジュールも真新しい。

 活動をちゃんとしていることは明らかで、ここは間違いなく正規の演劇部の部室だ。

 と、しらたまさんと並んで床でノートパソコンをいじっていたあさぐもさんが、不意につぶやく。

「いい感じですね。周辺の電波もクリアです」

「ええと朝雲さん、さっきからなにをしてるの?」

「当日はここが作戦本部になりますからね。いろいろと確認しないとです」

 朝雲さんはオデコを光らせながら、テンション高めに立ち上がる。

「さあリコさん、電波の道を探しに行きましょう。Bluetoothの気持ちになりきるのです!」

「あ、はい。よく分からないけどがんばります!」

 朝雲さんが部室から飛びだしていき、その後をアンテナを持った白玉さんが続く。

 うちの新人に、あんまり変なこと教えないでほしいな……。

 そして八奈見。ゴミ箱に捨てたお菓子を、そんなに見るんじゃありません。


          


 俺はスマホの地図を見ながら、演劇部の部室がある実習棟の裏を歩いていた。

 本番に備えて、周辺の地形を知っておく必要があるのだ。

 八奈見がジョギングに行ったので、一人残されて不安になったのもある。

 演劇部の部室がある実習棟の北側は、キリノキ高校の敷地の端で、フェンスの向こう側は住宅街だ。

 フェンス沿いに西に向かって歩いていると、突きあたりが高いいけがきになっている。

 生垣の向こう側は、結婚式場の玄関のすぐ横だが、通り抜けはできないし──。

「……あれ?」

 スマホから顔を上げた俺は、その光景に目をうたがった。

 2mを優に超える生垣がそびえたっているのだが、目の前にちょうど人がくぐれるほどの穴が開いているのだ。偶然……にしてはできすぎている。

ぬくみずさんも視察ですか?」

 その声に振り向くと、あさぐもさんとしらたまさんの二人の姿。

 この二人、頭や服に葉っぱがついてるな……ひょっとして……。

「……朝雲さん、生垣に穴とかあけてないよね?」

「穴ですか? あら、こんなところに」

 朝雲さんは初めて気付いたように驚いた顔をする。

「つまりこれは──偶然ってこと?」

「はい、もちろん偶然です。ね、リコさん?」

「はい、偶然ですね。朝雲先輩」

 一分の隙もない白玉スマイル。これで評決は2対1。偶然に決まりだ。うん、偶然だ。

 それはそうと朝雲さんは、この作戦が終わり次第、文芸部を出禁にしようと思います。

 重ねた罪を数えていると、背後から足音が聞こえてきた。

 ビクリと震えて振り向くと、そこには会長の姿。

 俺はなんとなく、生垣の穴をふさぐように横にずれる。

「三人ともここにいたのか。知り合いの先生と、少し話しこんでしまってね」

 歩み寄ってきた会長は、一枚の紙を俺たちの前にかざした。

「取材の名目で出入りする許可がでた。これで堂々と行動できるぞ」

 それを見て、朝雲さんが嬉しそうに手を合わせる。

「これで私たちの活動も合法ということですね!」

「やりましたね、朝雲先輩」

 ……いいえ、合法ではありません。

 手を取り合ってはしゃぐ二人を見ながら、俺は力無い笑みを浮かべた。


          


 17時を回り、外も暗くなりはじめている。

 キリノキ高校の下見が終わったあと、俺はツワブキに立ち寄っていた。

 文芸部所蔵の『彼女は俺の想像上の存在かもしれない』、の続きを借りるのだ。

 これは主人公以外、誰も見たことがない少女との日常ラブコメだ。発売当時は次の巻で大炎上したらしく読むのをためらっていたのだが、いまならいける気がする──。

 勢いをつけながら扉を開けると、無人だと思いこんでいた部室には先客がいた。

 しらたまさんだ。小さな白い花をいくつも手に持ち、針金でクルクルと巻いている。

「あれ、いたんだ」

「はい、ブーケを仕上げちゃおうかと。家には持って帰れませんから」

 俺は本棚から本の続きを抜きだすと、少し迷ってから向かいのに座る。

 小さな花は造花だ。キレイなカーブを描くように慎重に角度を決めると、さらに慎重に持ち手にテープを巻いていく。

 しばらくして、満足のいく形に仕上がったのだろう。丸く整った花の部分をギュッとつかんで、はなす。それを数回繰り返す。

「ほら、見てください。ここを外すと広がるようになってるんです。これならかさばらないので、服の中にしまえますから」

「へえ、よくできてるね」

 白玉さんは笑顔で返事をすると、飾り用のリボンで最後の仕上げに入る。

「……安心してください」

 手元に目を落としたまま、静かにつぶやく。

「え? なにが」

「いざとなったら私がいこと言って、みなさんに責任がかからないようにしますから。それだけは安心してください」

 そう言って黙りこむ白玉さん。

 うつむいてブーケを作る彼女の姿に、俺は思わず話しかける。

「……こないだ、白玉さんは自分のことを失うモノがないように言ってたけど」

 多分、これは余計なお世話だ。

 彼女はこんな言葉を求めてはいないし。きっと役にも立ちはしない。

「気付いていないだけで、大事なモノを持ってるかもしれなくて」

 白玉さんの手が止まる。

「……失ってからじゃ遅いから。だから少しだけ自分を──自分が持っているものを、大事にしてあげてくれないか」

 俺の勝手な言葉をジッと聞いていた白玉さんが、目を伏せたまま口を開く。

「……部長さん、昔なにかあったんですか?」

「あった──ってほどじゃないけど」

 視線を壁の本棚に向ける。去年の夏。と友達だったと気付く、その少し前。

 八奈見を拒絶して──傷つけた記憶。

 俺を他人のような目で見るは、確かにその本棚の前にいた。

 もう1年近くがとうとするその日のことを、いまでもたまに思いだす。

「どんなことだっていつかは終わるけど。それがどんな終わりになるか、それをどんな思い出として受け入れるか──しらたまさんはまだ選べると思うからさ。だから自暴自棄にだけはならないでほしい」

 白玉さんは再び手を動かし始める。

「……でも、手放したくなるものだってありますから」

 ほとんどささやくように。

「持っているとつらくなるから、捨てたくなるものだってありますよ。思い出だって、その一つです」

 捨てて。捨てて。全部捨てたその先に行きつくところ。

 それがどんなところか知らないが。そこにいる彼女は笑ってはいない。そんな気がする。

「それでも──」

「できた!」

 俺の言葉をかき消すように、白玉さんは完成したブーケを胸に抱くと、からかうような瞳を向けてくる。

「ふふっ、わいいですか?」

「ああ──すごくキレイだよ」

 自然と口をついた言葉。

 彼女の強がりと。うそと。隠しきれないさみしさと。

 それを前にして、ただ俺は馬鹿みたいに、素直な言葉を口にした。

 彼女は俺の返事に驚いた表情を浮かべ、静かに笑う。


「──ありがとうございます」


 だけど彼女の笑顔は、あの日の八奈見の表情にとても似ていて。

 俺は胸が詰まった。